H やさしい福音 (1)基礎的教え


日本人への伝道のテクニックとして大切なのは、話の初めには「神」という言葉を避けることです。また、「キリスト教の神」も持ちださないことです。「クリスチャンの神」も、「キリスト教」も、日本の伝統文化を重んじる人には禁句です。それらの言葉を聞くと、多くの場合、彼らそれだけで心を閉ざしてしまいます。これまでに宣教師や牧師がとった排他的な態度、日本の宗教や文化習慣に対する高圧的な態度や敵対的な姿勢が、すでに、たくさんの日本人を躓かせているからです。また、世界の歴史に通じている日本人は、すでに述べたように、キリスト教と言う宗教が世界中で犯してきた重大な犯罪を知っているため、良い結果をもたらしません。

大部分の日本人は、「神」を「信じて」いません。 日本人は多神教だと言われ八百万の神々を信じていると言われますが、それは学者から一般人までが安易に陥っている間違にすぎません。日本人の宗教心と、信じるという言葉の意味、それから日本人の言う「神」の意味をきちっと学ばないまま、うわべだけを観て言っているにすぎません。実際、日本人の大部分が神など信じていないと言います。八百万の神々をはじめ、神社や祠に祭られている神々も信じていません。たとえどのようないわれがあり、歴史があり、逸話があっても、また、神社を建て参拝に行くことがあったとしても、それらを信じてはいないのです。

試しに、大きな神社に参拝に来ている多くの日本人に、尋ねてみるといいでしょう。「あなたは、ここに祀られている神を信じておられますか?」 たぶん、いろいろな曖昧な答えが返ってくることでしょう。でも、ほとんどの場合、実際には信じていないということがわかるでしょう。神を信じていると言って神社に参詣していながら、日本人の多くはその神を信じていないのです。本人は信じていると思い込んでいても、実は信じておらず、ばかばかしいとさえ思っているのです。

そういうわけで、日本人が信じていない、ばかばかしい「神」の話はしてはならないのです。それがたとえキリスト教の神でもです。ましてや、キリスト教の神は、「外国から輸入された宗教の神」であり、かつて邪教として禁止されたことのある宗教の神、何百年にもわたって残虐な植民地主義の背骨となってきた、邪悪な宗教の神にすぎません。普通の日本人にとっては、ますます怪しげな、信じるに足りないものです。


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とはいえ、日本人の大部分は、自分の心の奥底にある宗教心を大切にし、宗教の存在を少しばかりの例外を除いては、悪いものとは考えていません。「私は神を信じていませんが、宗教の悪口は言いません」というのが、一般的な意見です。人間は宗教的な動物であり、霊的な感覚を本質として与えられている唯一の動物ですから、自分の本質的感覚に反してものを言う事はできないのです。

八百万の神々や神社に祀られている神々は信じていない多くの日本人も、天地の創造主に似せて造られたものとして、自分に命を与え、生かし、食べ物や着物や住むところを与えていてくださる、大きく、強く、気高く、恵み深く、聖く、善なる存在を、心の奥深くで本能として「感じている」います。ここが大切なところです。

日本人はこのお方のことを心の奥底で感じながらも、このお方のことを深く考えて言葉で説明したり、このお方の姿を想像して絵や像で表現したりはしませんでした。名前を付けるのさえはばかり、神とも異なる、名前のないお方として畏れ敬まってきました。日本人は、自分の心に感じているこの尊いお方を、あまりにも尊いので、触れずさわらず、語らず呼ばず、多くの場合、そっと崇め、感謝をしてきたのです。

時にはこのお方への感謝の表現として祭りを行い、みんなで一緒に歌い、踊り、喜びを表現してきました。でも、そのときでさえ、一人ひとりの信仰を問うようなことはせず、集団として崇めてきたのです。そのために、このお方は日本人の心に、隠れたお方として住んでこられたのです。しかし隠れたお方であるために、しばしば軽んじられてもきたのです。


❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀  
 
多くの日本人が開国以来、明治政府の方針に反し、キリスト教を西欧の優れた文化の屋台骨であるとみなして、これを受け入れようとしました。でもほとんどは失敗に終わっています。その理由の一つが、キリスト教を運んできた宣教師たちの態度によるものです。

 宣教師たちは、ユダヤ人だけに向けて語られた十戒の教え、特に偶像礼拝禁止の律法を、日本人にも直接そのまま適用し、(出20:1〜5)日本人の宗教と宗教心をまったく学ぼうとしないで、一方的に偶像礼拝と決めつけ、罪であると断じて、日本の宗教と日本人の宗教心を卑しめたのです。本当のところ、西欧のキリスト教徒の絶対多数が、自分たちのことを異邦人であるとは感じていません。むしろ自分たちこそ霊的なイスラエル人、本物のイスラエル人であると思っています。イスラエル人と異邦人との区別ができていないのです。そのために十戒の教えは自分たちに与えられたものであると理解し、そのまま、すべての民族に適用しようとするのです。これが、多くの日本人の心を傷つけることになり、キリスト教とキリスト教の神に躓かせてしまったのです。要するに聖書を良く学んでいない西欧キリスト教の間違いなのです。(異邦人の偶像礼拝の罪はローマ書の一章からかたられるべきです。)

 さらに欧米の、特にイギリスとアメリカの宣教師のほとんどは、自分たちのキリスト教文化こそが最も優れた文化であり、この文化を世界中に行き渡らせることこそ、自分たちの国に与えられた神からの使命であると、とんでもない、手前味噌の誤解をしていました。だから行く先々で、ただ宗教だけではなく、それぞれの国や民族の文化や習慣までも、劣ったもの、醜いものとして、ことごとく破壊し取り除こうとしたのです。彼らはそうすることによって、世界中がより優れた文化と習慣を持つ住みやすいところとなると、真面目に信じていました。そのような世界が出来上がったならば、そこにキリストの再臨があると考えていたために、神に対する忠誠心からそのようなことを行ったのです。しかしこれが、多くの国々で反発を招き、宣教を困難にしたのです。特に日本のように、高度に発展した独自の文化を持つ国においては、激しい嫌悪を招くことになったのです。

 そんなおかしな信仰を持ってしまったのは、教会の権力の及ぶところが神の国であると考えた、古のカトリック神学に始まりますが、近代の科学の発展が人間社会をより良いものにするという、楽観的ヒューマニズムとキリスト教的征服欲があいまった、プロテスタント主流派の千年期後再臨説がもたらしたものでもありました。

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とはいえ、日本人の大部分は、自分の心の奥底にある宗教心を大切にし、宗教の存在を少しばかりの例外を除いては、悪いものとは考えていません。「私は神を信じていませんが、宗教の悪口は言いません」というのが、一般的な意見です。人間は宗教的な動物であり、霊的な感覚を本質として与えられている唯一の動物ですから、自分の本質的感覚に反してものを言う事はできないのです。

八百万の神々や神社に祀られている神々は信じていない多くの日本人も、天地の創造主に似せて造られたものとして、自分に命を与え、生かし、食べ物や着物や住むところを与えていてくださる、大きく、強く、気高く、恵み深く、聖く、善なる存在を、心の奥深くで本能として「感じている」います。ここが大切なところです。

日本人はこのお方のことを心の奥底で感じながらも、このお方のことを深く考えて言葉で説明したり、このお方の姿を想像して絵や像で表現したりはしませんでした。名前を付けるのさえはばかり、神とも異なる、名前のないお方として畏れ敬まってきました。日本人は、自分の心に感じているこの尊いお方を、あまりにも尊いので、触れずさわらず、語らず呼ばず、多くの場合、そっと崇め、感謝をしてきたのです。

時にはこのお方への感謝の表現として祭りを行い、みんなで一緒に歌い、踊り、喜びを表現してきました。でも、そのときでさえ、一人ひとりの信仰を問うようなことはせず、集団として崇めてきたのです。そのために、このお方は日本人の心に、隠れたお方として住んでこられたのです。しかし隠れたお方であるために、しばしば軽んじられてもきたのです。


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多くの日本人が開国以来、明治政府の方針に反し、キリスト教を西欧の優れた文化の屋台骨であるとみなして、これを受け入れようとしました。でもほとんどは失敗に終わっています。その理由の一つが、キリスト教を運んできた宣教師たちの態度によるものです。

 宣教師たちは、ユダヤ人だけに向けて語られた十戒の教え、特に偶像礼拝禁止の律法を、日本人にも直接そのまま適用し、(出20:1〜5)日本人の宗教と宗教心をまったく学ぼうとしないで、一方的に偶像礼拝と決めつけ、罪であると断じて、日本の宗教と日本人の宗教心を卑しめたのです。本当のところ、西欧のキリスト教徒の絶対多数が、自分たちのことを異邦人であるとは感じていません。むしろ自分たちこそ霊的なイスラエル人、本物のイスラエル人であると思っています。イスラエル人と異邦人との区別ができていないのです。そのために十戒の教えは自分たちに与えられたものであると理解し、そのまま、すべての民族に適用しようとするのです。これが、多くの日本人の心を傷つけることになり、キリスト教とキリスト教の神に躓かせてしまったのです。要するに聖書を良く学んでいない西欧キリスト教の間違いなのです。(異邦人の偶像礼拝の罪はローマ書の一章からかたられるべきです。)

 さらに欧米の、特にイギリスとアメリカの宣教師のほとんどは、自分たちのキリスト教文化こそが最も優れた文化であり、この文化を世界中に行き渡らせることこそ、自分たちの国に与えられた神からの使命であると、とんでもない、手前味噌の誤解をしていました。だから行く先々で、ただ宗教だけではなく、それぞれの国や民族の文化や習慣までも、劣ったもの、醜いものとして、ことごとく破壊し取り除こうとしたのです。彼らはそうすることによって、世界中がより優れた文化と習慣を持つ住みやすいところとなると、真面目に信じていました。そのような世界が出来上がったならば、そこにキリストの再臨があると考えていたために、神に対する忠誠心からそのようなことを行ったのです。しかしこれが、多くの国々で反発を招き、宣教を困難にしたのです。特に日本のように、高度に発展した独自の文化を持つ国においては、激しい嫌悪を招くことになったのです。

 そんなおかしな信仰を持ってしまったのは、教会の権力の及ぶところが神の国であると考えた、古のカトリック神学に始まりますが、近代の科学の発展が人間社会をより良いものにするという、楽観的ヒューマニズムとキリスト教的征服欲があいまった、プロテスタント主流派の千年期後再臨説がもたらしたものでもありました。

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やさしい福音 E 基礎的教え(3)


   
基礎的教え(3)


  「理解する」ではなく、「感じる」を大切にする

 頼ることは「理解」することではありません。「理解すること」を前に置くと頼ることができなくなります。ちっぽけで有限の人間の脳みそが、無限のお方を理解することはできません。ただ「感じる」だけです。天地創造のお方に似せて造られた人間は、心で、本能的にそのお方を「感じる」ように造られているからです。だから日本人の宗教感覚では、心の奥深くで感じるお方については、良くわからなくてもよい、無理に説明しなくてもよい、感じるままにして置けばよいと悟っているのです。なにもかも説明しようとする西欧の神学などには、かえってうさん臭さを覚えるのです。私たちはその日本人の、宗教感覚に語り掛けるのです。

天と地をお造りになった無限のお方を、知的に理解しようとするのは、大海の水を杯で測ろうとするより、愚かで冒涜的なことだとすでにお話ししました。私たちは、人間の頭脳の容量が、大海の前の杯よりもはるかに小さなものであることを、しっかりと認めた上で話をしなければなりません。信じるために知ろうという、愚かな欲求を受け入れてはなりません。つまり、教えようとしてはならないのです。私たちはついつい、天地の創造者について知っていることを教えようとしますが、その誘惑に落ちてはなりません。知的には、極めて基本的なことを知らせるだけで良いのです。教えなければならないのは、頼ることの大切さです。

「頼ること」の大部分は心の問題で、知的な事柄として取り扱うことではありません。信頼することは、理解することと同じではありません。確かに正確な知識は信頼の増加を助けますが、知らなくても頼ることができます。理解していなくても信頼することはできます。信仰の問題を知的なことがらとし、哲学と混同してはいけません。信仰は本来、親子関係と同じで、心が通った信頼関係なのです。

 幼子は、母親のことをまだ何にも知らなくても、本能的に信頼します。信頼されると、大抵の母親の愛情は増幅し、信頼に応え、幼子を守ろうとします。そこでまた、幼子の信頼が強まるのです。幼子が、母親のことを理解しなければ、頼ることができないとしたら悲劇です。それでは、いつまでたっても母子の信頼関係は生まれません。すでに説明したように、結婚もまた同じです。相手のことを100パーセント理解して結婚することなど、ありま得ません。少ししか知らなくても、心が先に動いてしまって、「ままよっ」と結婚の決意をするのです。つまり、情緒によって、心によって信頼関係に入ろうとするのです。それは「直観」と言われたり、「ピンときた」と表現されたり、「突然悟った」などとも語られています。悟りなどと言うと、知的理解であるかのように思われがちですが、実際は極めて情緒的な現象です。

天地を創造されたお方は、知的に理解されることよりも、頼られることをとても喜んでくださいます。頼られると、その信頼を裏切りたくないと思われるのです。「窮鳥懐に入れば猟師もこれを撃たず」という諺がありますが、まさにその通りです。猟師に狙われた鳥が逃げ場を失って、こともあろうに猟師の懐に逃げ込んでしまったら、さすがの漁師もこれを殺すことはないのです。人間は信頼されると守ってやりたいと思うのです。この信頼されることを喜ぶ気持ちこそ、創造者に似せて造られた人間の、本来の姿の現れです。

人間の能力で神を理解することはできません。ですから、理解させようとすることが愚かな試みだと、しっかり確認しておきましょう。その一方で、人間には神を感じる心、本能的感覚、宗教心というものが、はじめから備わっていることを、しっかりと認めましょう。わたしたち日本人は、特にその感覚が勝れているのです。だからそこから話を進めるのです。

理解させようとすると必ず失望します。理解させようとする者が理解していないのですから、当然です。しかし信仰を心の問題とし、頼ることであることを教えると、多くの場合、いわゆる、目を開かれる体験、目から鱗の体験をすることになるのです。理解ではなく、悟りです。知的探求で悟りに入る人はいません。それは心の問題なのです。



posted by まさ at 21:49| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

やさしい福音 D 基礎的教え(2)の説明 a


やさしい福音 D 基礎的教え(2)の説明 


基礎的教え(2)の説明


「信じることと信頼すること」

 多くの日本人がキリスト教の神を信じたいと思い、信じようと努力しましたが、とうとう信じられないで終わっています。有名人だけを数えても相当な数に上ります。彼らの間違いは、「信じたい、信じたい」と願ったことです。そこには神は荒唐無稽な存在だという、日本の文化人と自覚する人たちに独特の、無神論的認識が前提としてあるのです。その上、信じるために知ろうとしたことです。彼らは初めから、信じられないものだと決めつけた上で、信じたいと願い、信じられるようになるには知らなければならないと、自己欺瞞の知的努力をくり返したのです。大切なのは信じることではなく、頼ることです。

神を知ることなどはじめから不可能です。人間の知能はあまりにも小さく、無限の神を知的にはかり知ろうとすることは、愚の骨頂です。海の水を杯(さかずき)で量ろうとするようなものです。結局、彼らは考えても、考えても理解できず、理解できないために信じることもできなかったのです。信じるための前提を理解に置いたからです。

 彼らは無限の神の存在を、一所懸命に知的に信じようとしたのです。それはちょうど、東京湾には体長20センチメートルの、世界で一番小さなクジラが生息しているという、荒唐無稽な物語を信じようと努力するのと同じ感覚でした。知的にも、理性的にも無理なことです。聖書が教える「信じる」という心の行為は、そのような知的な行為ではなく、むしろ情緒的で、感情的な行為だからです。物や事柄に信頼するということとも違って、心を持った存在、人格を持った存在を頼るという意味なのです。

それは幼子が母親を頼って生きる姿に通じます。幼子は、母親がはたして信頼に足りる人間かどうか、調べてみようなどとは思いません。母親の本当の姿を知ってしまっては、母親を信頼できなくなることもありますが、幸いなことに、幼子は母親を理解しようなどとは試みず、まず信頼するのです。また、人間同士でも、相手のことを完全に理解することなどあり得ません。小さな人間でさえも、完全に理解するには大き過ぎるのです。ましてや無限の神を理解することなど、初めから無理なのです。確かに天地を造られたお方を正しく理解すればするほど、信頼度は上がります。母親とは違います。でも、この無限のお方を正しく理解することなど不可能であり、理解しようとすることが間違いであり、理解したと思うことはさらに間違いです。キリスト教の神を信じるために、理解しようと努力した多くの日本人には気の毒ですが、しょせん無理なことをしたのです。

 
「信頼にお応えくださる方」

 だから、知的には絶対に把握しきれない無限のお方を、知ろうなどと考えさせないことです。信じようなどとさせないことです。でも、信頼すること、頼ることはできます。信頼すると、つまり、頼るならば、天地を創造され私たちを造ってくださったお方は、その信頼に応えてくださるのです。信頼に応えられると、そこにさらに強い信頼関係が出来上がるのです。私たちは、日本人に信じることではなく、頼ることを勧めてあげましょう。

 まず頼って、頼ってくる者にお応え下さるお方を、体験してもらうのです。そこに生まれる信頼関係こそ、信仰と呼ばれるものなのです。信頼関係ができると、人と人との間でもうれしくなります。それだけで幸せになります。よちよち歩きの幼子が、キャッキャと声を上げながら、母親のかいなに倒れ込む姿を想像してみましょう。無垢な信頼と、それを無条件に受け入れ愛の姿に、ほほえましく感じない人は少ないでしょう。ましてや、天と地をお造りになったお方との信頼関係が出来上がると、私たちの生活は安心と喜びに満ちたものと変わります。恐れや心配がずっと少なくなるのです。毎日、心が平安になり、満足感でいっぱいになり、感謝にあふれて暮らすことができるようになります。そうすると神を体験的に知ることになるのです。


「心の声にしたがって生きる信頼」

信じるというと、ただ心の動きで終わってしまいがちです。ところが、頼ることはもっと行動的です。信頼することも心の動きだけではなく、実際の行為を前提とします。クリスチャンの信仰は行為を伴うものです。私たちの人間生活は、互いに信頼し合うことによって成り立ちます。神を信じることは、単なる理念とか、信念とか、教理の受容とかではなく、神と呼ばれる存在との信頼関係に入ることなのです。そのお方を頼って生き、そのお方に信用されて暮らすことなのです。

 聖書の翻訳が「信仰」と「信じる」となっていることが、私たちの伝道の妨げになっています。もしも、「信頼」と「頼る」となっていたら・・・・日本語の美しさはともかくとして、正しい理解の助けになっていたことでしょう。実際、主イエスの教えにしても聖書全体の教えからしても、信頼すること、頼ることが強調されているのです。

 信頼とはお付き合いです。お付き合いは体験です。良いお付き合いが続き深くなると、体験が重なりより強い信頼関係となります。クリスチャン生活は、天地をお造りになったお方に信頼し、このお方に頼り、このお方に任せて生きることです。すべての物事がこのお方の支配下にあると認めて、あくせくしないで生きることです。どんなにつらいことがあり、不利なことが起こっても、必ず、このお方が正しく裁き、最善にしてくださると信頼して、ずる賢くではなく、正直に正しく生きようとすることです。右の頬を打たれたら、左の頬をも差し出すのです。それが主イエスの教えの真髄です。そのような生き方に、天地をお造りになったお方は、祝福と守りをもってお応えくださるのです。それを体験することが大切なのです。

 聖書を読んだことがない人がほとんどで、キリスト教の知識もない日本人ですから、聖書の教えを守り、教会の教えに従って生きるように勧めることなどできません。この時点で、教会に誘ったり聖書を読むことを勧めたりするのはまだ早すぎます。ここで思い出すべきことは、日本人には、天地をお造りになったお方に似せて造られた人間の本源的な姿が、まだまだ破壊し尽くされずに残っているという事実です。つまり、心に記された神の律法が消去されないままに、留まっているということです。ですから、日本人には「自分の心に記されている律法」によって生きることを、お勧めするのが良いでしょう。「心の声」に従いましょうという言い方が、分かってもらえると思います。


「結婚するのと同じこと」

ここまでお話ししてもまだ、「知らないものを信じるなんて不可能だ」と言い張る人も多いことでしょう。そんな人には、「失礼ですが、結婚をしていらっしゃいますか?」と尋ねてみましょう。そこから次のような説明をするのが良いでしょう。まだ結婚をしていない人でも、この結婚の話で説明するとわかりやすいと思います。

「結婚する前に、相手の方の何もかも、すべてを知ってから結婚されたのですか? たぶん、違うと思いますがいかがですか? 何もかもしっかりと知ってからでないと結婚できないなどと言い出すと、結婚は、まず不可能になってしまいます。すでに説明したように、人間のような小さな存在でも、そのすべてを知るなど不可能だからです。結婚して30年も経ってから、ますます相手のことが分からなくなるなどと言うこともしばしばです。大抵の場合は・・・・特に若いうちは、相手のことを知るとか理解するとかいう前に、心が燃えてしまって『何にも知らないまま、』『何が何でも』結婚してしまうのです。少し理性が発達する年頃になっても、何も分かっていないと分かった上で、『ええい!ままよ!!』と、清水の舞台から飛び降りるような気持ちで、結婚するのです。」

「結婚するとは、信頼関係に入ることです。互いに何も知らない者同士が、信頼し合うという前提で、信じ合うという不文律でまず結婚してしまい、それから小さな失敗と大きな失敗をくり返しながら、互いに知り合い、もっと深く理解し合い、付き合いを重ね、信頼を深め、結婚と言う信頼関係を築き上げるのです」と、まあ、このような説明すれば大抵の人は納得してくれます。「人間ですから、その間、信頼がまったく失われ、離婚に至ることもあるでしょう。でも神が私たちへの信頼を失ってしまうことはありませんし、神が私たちの信頼を裏切ることもないのです。神はあらかじめ、私たちが信頼のおけない弱く小さな人間であることを、充分にご存知の上で私たちの信頼を受け止めてくださるのです。そこが人間と違うところです。ところが多くの人間は、まるで40歳、50歳を過ぎてから、損得すべてを計算してから結婚しようとする人のように、何もかも知ろうとするために、信じるという決断ができないのです。ですから少なくても、結婚している人は、理解不可能な神を信じることができるはずです。」


「頼りにされることをお喜びになる方」

 私たちが信頼している天地の創造者は、ご自分の力と権力を誇示して威張り散らしたいのではありません。いまさら人間の罪と欠点と不完全さと弱さを、容赦なく指摘して、追及しようともしておられません。それはイスラエル民族をご自分の民にふさわしくするために、教え導かれたときの話です。むしろご自分の優しさと包容力で人間を祝福し、人間に幸せに生きてほしいのです。人間がきびしい神を恐れるあまり、律法の細部に至るまで厳しく学び、守り、罰則を設け、ぎすぎすした四角四面の生活をすることは、天地をお造りになった神のお心ではありません。

 むしろ、自分の弱さや欠点を抱えたまま、なにも隠さない姿で、泣きついてくる人を、神はお喜びになるのです。そのような自分をさらけ出した姿は、神に対する信頼の現れなのです。善行を積んだり、大金を奉納したり、難行苦行をしたり、後ろ指をさされない人間になろうとしたり、みな、悪いことではないかもしれませんが、神の愛と善意と情けに対する信頼の薄さの現れです。神は頼られることを何よりも喜ばしいこととして、頼ってくるものを受け入れてくださるのです。



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posted by まさ at 21:46| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

やさしい福音 C  基礎的教え(2)




基礎的教え(2)


「信じる」ことではなく「頼る」ことを勧める

 私たちは普通「信じる」という言葉を使いますが、信仰の対象に対する態度を表す言葉として、これはかなりあいまいです。「信じる」の代わりに「頼る」、あるいは「信頼する」という、具体的でわかりやすい言葉を用いてみましょう。

「信じる」では、「幽霊の存在を信じるか?」とか、「地球以外の天体に生物が存在すると信じるか?」というのと、同じ意味になってしまいがちです。信じても信じなくても、自分たちの現実の生活にはおおよそ関わりなく、興味本位の話、あるいは荒唐無稽な話に終わってしまいます。
 
 それに比べて、「頼る」あるいは「信頼する」は実際の生活に直接関係し、多くの場合は人間関係に用いられます。幼子が母親を信頼する、夫婦が互いに頼り合うという具合です。天地を創造されたお方を信じても、信じなくても、あまり人生に関りがありません。ところが「信頼する」となると話は別です。「頼る」となるといよいよ意味が明白です。悪魔も悪霊も神の存在と力を信じています。しかし彼らは、神もその力も頼りにしていません。

 私たちが勧めるのは信じることではなく、頼ることです。「信仰」という言葉にも、「信じ仰ぐ」という美しい意味がありますが、「信仰を持つ」ことを勧めたり、「信仰する」ように励ましたりすると、聖書が教える意味から離れてぼやけてしまいます。やはり、「頼る」という言葉が最も明瞭です。私たちは天地をお造りになったお方を、荒唐無稽な話として信じるように勧めるのではなく、ちょうど幼子が母親を頼るように、「頼る」ことを勧めるのです。夫が妻を信頼し、妻が夫を頼りにするように、このお方を信頼し、頼って生きるように励ますのです。

 この広大で緻密な天地をお造りになった無限のお方、力においても知識においても限りのないお方、できないことは一つもなく、知らないことも何もないお方に頼って、信頼して、毎日を送るのです。空を飛ぶ小鳥がこのお方に養われ、野に咲く花がこのお方に装ってもらい、明日のことを思い煩わずに生きています。私たち人間は、空の鳥や野の花よりも勝れた者です。天と地をお造りになったお方は、私たちを愛しておられるのですから、このお方が守ってくださることに信頼して、あれこれ思い煩わずに生きるのです。たとえ空を飛ぶ小鳥が地に落ち、花が萎んでしまうことがあっても、このお方の全能のみ手の中での出来事です。私たちは、このお方の手からこぼれ落ちることはないのです。イエス様が教えられた通りです。

 私たちは、日本人が昔から心の奥底で感じ信じてきたお方が、この頼りがいのある、天地を創造されたお方であると信じ、信頼して、思い煩いから解放されて生きています。
  
 そういうわけで、「神様を信じましょう」という表現も、「キリストを信じましょう」という言い方も、私たちの伝道の言葉としては使わないようにしましょう。「天と地を造り、私たちを造り、私たちを愛し、私たちを守って下さっているお方を信頼しましょう」と言いましょう。イエス・キリストのことを充分説明した後ならば、いま生きて私たちを助けてくださる、キリストの愛と力に頼りましょう」と勧めてあげましょう。

posted by まさ at 21:42| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

やさしい福音 B 基礎的教え(1)の説明




基礎的教え(1)の説明


「私たちは同じ日本人です」

 日本で福音を語る場合、最初に問題になることの一つが、「誰を信じるか」あるいは「何を信じるか」です。これを明確にしてあげることが最も大切です。日本人の宗教意識では、ここがいつも曖昧で、話が進まないからです。この場合気を付けるのは、相手に違和感を持たせないで、かえって、「私も同じだ」と感じさせることです。昔から集団生活、共同体伝生活を大切にし、仲良く暮らすことを最も大切だと考える日本人は、「同じ」であることに特別な意味を感じているのです。

「私も同じだ」と感じさせるのに、誤魔化しがあってはなりません。つまり口先だけではなく、私たちクリスチャン自身が、心の底から「同じだ」と信じていなければならないのです。この「同じだ」という感覚が、西欧から入って来たキリスト教には欠けています。「私たちの信仰は皆さんの信仰とは違います。」「皆さんの神は私たちの神とは違います。」「皆さんの神は間違った神で、私たちの神こそ本当の神です」と言って入ってきて、しまいには、「本物の神だけを信じて偽物の神は捨てましょう」とやらかして、日本人の反感と嫌悪を買い、結局、拒絶されてしまったのです。これはまったく間違ったやり方であるだけではなく、日本人の信仰心を全然理解していないことの証拠であり、聖書の教えも正しく学んでいないという事実を、はっきり示すものです。

 クリスチャンである西欧人もクリスチャンでない西欧人も、あるいはクリスチャンである日本人も、クリスチャンではない日本人も、聖書の基本的教えからすると、実は「同じ」なのです。こういうと、福音主義的なクリスチャンたちはすぐに、「私たちはみな罪人であるところが同じだ」と思うことでしょう。そして、私たちはいまや、救われて義とされた罪人だ。あなた達はまだ救われていない罪人だ」と言って、たちまち相違点に飛躍してしまうことでしょう。それは西欧で作られたキリスト教です。聖書が読めていないのです。日本人には、西欧キリスト教の言う「罪意識」などあまりないのですから、罪の話をしても、十字架の物語を伝えてもわかってもらえません。日本人に通じるのは「同じ」ということです。


「どこが同じなのでしょう?」
 
 では私たちクリスチャンと、クリスチャンではない日本人は、どこが同じなのでしょう。それは聖書に明らかに書かれていて、疑う余地もない事実です。聖書は私たちクリスチャンもクリスチャンでない人も、西洋人も東洋人も、ユダヤ人も異邦人も、どのような地位や立場にいる人も、人間と呼ばれるすべての生き物は、神ご自身によって、神の姿に似せて造られていると教えています。神によって造られたという事実と、神に似せて造られたという事実が、人種、民族、言語、文化、国家を超えて、あらゆる人間に共通なのです。(創世記1章26〜27節) つまり人間として「同じ」なのです。

 さらに、すべての民族が神の愛の対象であり、神の祝福の対象であり、神の救いの対象であるということも同じです。(創世記12章3節)すべての人間が神に似せて造られたものであり、神の愛の対象であるということは、ほとんどのクリスチャンが知っている聖書の教えです。大多数の西欧のキリスト教も、この事実を認めています。しかし大多数のクリスチャンは、これがどのような意味を持っているのかに気づいていません。西欧のキリスト教の多くは、これがどういう意義を持っているのか、特に、自分たちの文化圏以外に住む人々、アジア、アフリカ、ラテンアメリカの人々に、いかに重大な意義を持っているのか、深く考えたことがありません。理解していないのです。だからこそ、西欧キリスト教国の多くは、白人以外の人種、異文化、異教国を情け容赦なく侵略し、殺戮と搾取をくり返した歴史を持ち、1965年に国連総会で人種差別撤廃が決議され、1969年から発効しているはずなのに、今でもいたる所で差別が行われています。

 日本人を含めてすべての人間は、神に似せて造られています。そこにはとても説明し切れない、深い意味があることでしょう。ただその中でも、神の基本的な性質が人間に与えられているということだけは、はっきりと、間違いなく言えるのです。すなわち、まず、霊的な本質です。あらゆる動物の中で人間だけが神を感じ、神と交わり神を礼拝したいという、本能的欲求を持つのはそのためです。我が家の猫はもうそうとう長い年月、毎朝家内の長い祈りを聞きながら暮らしていますが、決して祈ろうとはしません。人間以外には、神に似た霊的性質を与えられてないために、神意識がないのです。ところが人間だけは、いつの時代でも、どこの民族でも必ず宗教を持っていました。神を感じ、神を想い、神を祀り、神に語り掛け、神を礼拝しようというのは、決して消え失せることのない、すべての人間に与えられている「同じ」本能だからです。人間とほかの動物との本質的違いはここにあるのです。

 それだけではありません。人間には神に似た聖さ、正しさ、公平さ、あるいは優しさ、思いやり、愛、そして共に痛む同情の心が与えられています。これらは誰に教えられなくても、人間が人間として共有している本能なのです。西欧キリスト教では、人間はみな罪人であり、神の怒りの対象であり、救われなければみな滅びると教えます。それが間違っているわけではありません。しかしそれ以前に、人間は神に似せて造られた本能を持っており、たとえ罪によってそれが捻じ曲げられたり、損なわれたりしているとしても、完全に破壊されてしまったとか、消失してしまったというわけではありません。少なくても聖書は、そのようには教えていません。人間は、自分の罪のために神の国(支配)から追放され、この世と呼ばれる悪魔の支配に陥って、悪戦苦闘しながらもなんとか社会を形成して生きています。ただ、たとえ生きていても、霊的には命の源である神から離れて死んでいるために、やがては肉体的にも霊的にも死んでしまう、滅びの運命に弄(もてあそ)ばれているのです。


「神の救いの計画と選ばれた民族」

 ところが神は、そのような人間をなおも慈しみ、これを救おうとなさり、救い主を送る計画を立て、その救い主を迎えるにふさわしい民族を作ろうとなさいました。そこで白羽の矢を立ててられたのが、イスラエル民族です。神はこのイスラエルに、啓示と言う形で特別にご自分を現し、救いの計画とイスラエル民族の歩むべき正しい道をお示しになりました。その啓示が記されたのが旧約聖書です。旧約聖書は、イスラエル民族を教導するために、イスラエル民族に与えられた神の啓示です。あらゆる民族の中で、神が救い主を送り、救いの働きを完成させる「場」として、また完成された救いを全世界にもたらす祝福の基となるようにと、神が特別にお与えになったのです。イスラエル民族だけが救われるためではなく、彼らを通してすべての民族に「同じ」ように、救いの恵みが行き渡るために、イスラエル民族は選ばれたのです。

 そういうわけでイスラエル民族以外の人々、すなわちすべての異邦人は、この啓示の書である律法を与えられてはいません。したがってこの律法によって、異邦人である私たち日本人が裁かれることはないのです。私たち異邦人も罪のために滅びます。でも私たちに与えられたものではない、律法によって裁かれて滅びるのではありません。聖書が語っている通りに、律法なしに滅びるのです。(ローマ2:12)神の啓示の書である律法を持っていない異邦人は、イスラエル人の様には神に関する知識を持っていません。神のみ心に関する知識もありません。そのためにイスラエル人と同じ裁きを受けることもないのです。


「文字によらない、心に記された律法」

 ところが異邦人も、律法を持たないままで律法の要求を満たす場合があります。それはその異邦人自身が自分の律法であり、その心にも律法が記されているからだと、聖書は教えています。(ローマ2:14〜15) すべての人間は、文字で書かれた律法を持っていなくても、心に記された律法を持っているのです。だからその律法が、それぞれの文化や環境の中で良心として芽吹き、それぞれ独自の法律や規範となっているのです。心に記された、文字によらない律法は、異邦人だけに与えられたのではありません。イスラエル人も人間として、同様に心に記された律法をはじめから持っています。そしてその上に、文字で書かれた律法が与えられたのです。

 心に記された文字によらない律法も、イスラエル人に与えられた文字で書かれた律法も、「同じ」神から出たものなのです。そしてこの心の律法が、時代においても人間としての倫理においても、文字で書かれた律法に先行するのです。心に記された律法は、人間としての基本的な倫理と道徳観と宗教意識を示すものであるのに比べ、文字で書かれた律法は、神の救いの計画と、救いを現実化するために用いられるイスラエル民族の、生き方を示すものでだからです。心に書かれた律法が、文字で書かれた律法に先行し文字で書かれた律法を取捨選択するのです。


「すべての人に共通な心の律法と、異なった良心」

 大切なのは、異邦人である日本人も、この心の律法を持っているという事実です。イスラエル人も、西欧キリスト教諸国の人々も、「同じ」心の律法を持っています。彼らは、心の律法の上に聖書と言う文字で書かれた律法を持っているために、「同じ」心の律法から生じた良心でも、キリスト教的、あるいはイスラエル的に変化した良心を持つことになります。日本人は聖書を持っていませんから、日本文化と日本と言う居住環境の中で育った日本人的な良心を持っています。良心とは、心の律法が文化や環境や教育などの異なった事情の中で芽吹き育ったものです。それぞれの事情の中でかなり異なった様相を帯びることになりますが、その心の奥底にある人間の本質、良心として芽生える前の種は「同じ」なのです。

 その心に書かれた律法、良心という芽になって萌え出す種は、神に似せて造られた人間の本性、本質です。すべての人間がこれを持っているのです。すべての人間が「同じ」なのです。この「同じ」から話を始めるのです。すべての人間の心には、濃くも薄くも、神の意識、神のイメージが残っています。それを呼び起こし、明らかにしてあげるのです。よじれていたらゆっくりよじれを直し、皺(しわ)だらけになっていたら、慌てずに時間をかけて引っ張って伸ばして上げるのです。日本人の心にもわずかに萌え出ている芽から、そのもとになっている種を、埋もれている宝を掘り当てるかのように、探し出してあげるのです。幸いなことに、日本人の神意識は神道的感覚の中で、かなりはっきりとしていると言えます。また、聖さ、正義、愛、優しさといった神の性質も、だいぶ原型をとどめていると考えられます。それが日本人の倫理や道徳観に現れています。だからこそ日本人には、「同じ」という「鍵の言葉」をしっかりと心に刻んで、それをくり返して思い起こし、思い起こさせながら福音の提示をするのです。


「平等の精神の強い日本人」

 この「同じ」という感覚から萌え出す平等の精神は、どこの民族、どこの宗教、どこの国家よりも優れて、日本人の特徴となっていると思えます。もちろん、悲しいことに、日本人の中にも差別はたくさんあります。しかし、日本人は世界の中で、最も差別を嫌う民族なのです。士農工商という身分さが設けられたり、非民と言われて酷い差別を受けたりした人々もいましたが、人類史と言う大きな流れを観ると明らかです。日本人は最も差別を嫌った民族です。1919年にパリで行われた国際連盟発足の会議で、世界の民族と国家に先駆けて、人種差別撤廃の提案をしたのは日本です。このとき、様々な議論が沸き起こり、決を採った結果、11対4の賛成多数だったにもかかわらず、投票には参加しなかった議長の裁定で否決となってしまいました。このとき否決とした議長は、キリスト教国を自任していたアメリカの大統領ウイルソンでした。彼はこのような重要な案件は、全会一致でなければならないと主張したのですが、自国が人種差別をもってなりたっていた国であったことが、本当の理由でした。


「キリスト教の神を信じています」は禁語

 日本人にお話しするとき、「自分はキリスト教の神を信じています」という言い方はやめましょう。キリスト教の神というと、多くの日本人はフランシスコ・ザビエルの荷物箱に詰めて持ち込まれた、西欧の宗教の神だと考えるのです。良くても、アメリカ人宣教師のスーツケースで運んでこられた、外国の神だと感じて、自分たちのものではないと思うのです。さらに世界史をしっかりと学んでいる人は、キリスト教という宗教が何世紀にもわたる長い間、世界中で犯し続けてきた人間性にもとる残虐で極悪非道な犯罪を、良く知っているからです。

 私たちは、多くの日本人たちにこのようなイメージを持たれている、外国の宗教の神を押し付けるのではなく、昔から日本に居て下さり、日本という国土とその中に住む人々を祝福し、守り、恵み、生かし続けてこられたお方についてお話しするのです。このお方をしっかりと知り、きちっと感謝し、当然の畏敬と信頼を寄せるようにお勧めするのです。私たちクリスチャンが崇め頼っているお方は、かすかではあっても、昔から日本人が心の中で感じ、そっと感謝をし、何かにつけ祀り、崇め畏れて来た相手と「同じ」お方なのです。日本人は大昔から、天地を造り、人間を造り、日本を作り、そこに住む人々を祝福し守り、助けてこられたお方を、良くは分からないまま、説明もつかないまま、ただ素朴に感じて来たのです。

 私たち日本のクリスチャンが信頼するようにお勧めするのは、この、昔から日本人が微(かす)かに感じ、密かに崇めて来たお方です。私たちクリスチャンはそのお方について、聖書と言う書物を通してもう少し詳しく知り、ちょっとだけはっきりとした感覚で感謝を捧げ、僅かだけでも明瞭な理解を持って崇め、信頼を強めているだけであって、本来は「同じ」なのです。


「神という言葉も避ける」

 日本人に伝道するときには、神という言葉をできるだけ使わないようにして、注意深くはじめましょう。できるだけ、「イエス・キリスト」も「十字架」も、「罪」も、「悔い改め」も控えましょう。のっけから、日本人になじみのないキリスト教用語や概念を持ち出して、私たちは「違う」んだと思わせるようなことは止めて、日本人にもわかる自然な言葉、通じる話から始め、「同じ」なんだと安心感を持ってもらうのです。

 日本人が昔から心の奥深くに「感じてきた」、大きく強く気高く恵み深いお方、私たちに命を与え、生かし、生きるために必要なものを与えておられるお方について、その名前さえ知らないお方について、畏敬の心を共有しながらお話しして上げましょう。日本人の多くが本能的に「感じている」そのお方こそ、私たちが天地の創造者として礼拝しているお方であると、お話ししましょう。「同じ」を強調するのです。そして「同じ」お方を心に感じている日本人を、尊敬しながら語りましょう。
 
 日本人の多くは、と言うよりほとんどは、たとえ神の存在は否定しても、心の奥深くに感じる、尊い存在、気高い存在、優しく大きく力強く、私たちに命を与え、生かしてくださっている存在を感じてきました。その存在についてあれこれと説明することはできないし、しようとも思いませんが、僅かながらであってもそのような感覚を持ってきました。かすかで消え入りそうな感覚でありながら、決して消えず、拭い去ることも切り捨てることもできないものとして、心の奥深くにあるのです。だからこそ、「自分は神なんてものは信じない」と豪語する人たちも、決して宗教心を否定したり、宗教そのものを軽視したりはしないのです。日本人ほど唯物思想に染まっている人間はいないと言われ、無神論が浸透していると分析されていながら、その実とても宗教的なのです。私たち日本人クリスチャンも、天地を創造されたお方を知って礼拝を始める前は、「同じ」だったはずです

「神の存在を否定する日本人」

 はじめは、「神」という言葉を使わないほうが良いというのは、日本人の多くが、真面目な意味では「神」の存在を否定しているからです。日本語で「神」という場合、どうしても八百万の神々を思い出してしまいます。「かみ」という日本語は、もともと「うえ」という意味で、「神」「守」「頭」「上」その他の漢字があてがわれていますが、普通の人間より何らかの意味で強い者、勝れている者を指した言葉です。

 ですから力を持って上に立つ殿様は「頭もしくは守=かみ」であり、権威のある役所は「お上=おかみ」、宿屋や料亭を仕切るのも「女将=おかみ」、我が家を仕切るのも「うちのかみさん」です。そして、少しでも料理が上手ければ料理の神、釣りが上手ければ釣りの神、野球が上手いならば野球の神、今年(2016年)の流行語大賞は野球でいいプレーをした人を表現して言った「神ってる」でした。日本人は八百万の神々を信じていると言いながら、その実、このような神々は信じていないのです。たとえそのような神々に願いを捧げ、その願いが聞かれたとして、その神々に感謝こそすれ、崇め、礼拝するようなことはごく希にしかないのです。ちょうど盗っ人(と)が何か親切をしてくれた場合は、たとえ相手が盗っ人であると知っていても「ありがとうございます」と言いますが、決して彼を尊敬したり崇めたりはしないのと同じです。

「日本の八百万の神々と、聖書の悪霊やみ使い」

 日本の八百万の神々は、どちらかと言うと聖書の中に登場してくる悪霊やみ使いに近い存在です。唯一の天地の創造主を教えている聖書も、ある時は」「神々」と言う言い方をして他の神的な存在を示唆していますし、人間よりも力が強い天のみ使いや悪霊の存在を、たくさん認めています。ですから、日本の八百万の神々の観念も、必ずしもすべてが間違っているのではありません。ただそれらの存在は、天地をお造りになった無限のお方とは、まったく次元の違う小さな存在だということです。創造主と被造物の間には、絶対無限の違いがあるのです。

 日本人と真面目に信仰の話をするときには、「神」という言葉がまぎらわしくなります。そのような神々はひとまず横に置いて、話を進めるのが賢いと思われます。「神なんていない」という日本人が現れたら、「そうですよね」と相槌を打って、いまの「かみ=うえ」のお話をしてあげると良いでしょう。そのうえで、「私は、そのような神々の話をしようとしているのではありません。そうではなく、日本人の多くが、昔から心の中で大切に崇めて来た、名前も知らないし目にも見えないけれど、気高く大きく、優しく恵み深いお方にちがいないと感じ、ひそかに崇めてきた存在について、お話ししたいと願っているのです」と、続けましょう。


「日本人も、天地の創造者の愛の対象であること」

 さらに私たちは、日本人も、天地を創造されたお方に似せて造られた、大切な存在であり、このお方の愛の対象だという聖書の教えを、一時も忘れずにお話ししましょう。天地を創造し、ご自分に似せて人間をお造り下さったお方は、それから、ひと時も日本を離れたことがないお方であることを、確認しなおしましょう。キリスト教という宗教は西欧から伝えられましたが、その中で教えられている「天地を創造されたお方」は、天地創造のときから現在まで日本に居つづけて下さったお方であり、日本人が心で崇めてきたお方なのです。クリスチャンが天地創造の神として崇めているお方と、日本人が良くは分からないし説明もつかないけれど、心で感じ、崇めて来たお方は「同じ」なのです。

 日本人の宗教は偶像礼拝であるなどという、一方的な西欧キリスト教の物差しで測った裁きの態度、上から目線の優越感から語ることがないようにしましょう。西欧から来たキリスト教宣教師や、彼らに教えられた日本人クリスチャンたちが、そのような態度を取ったために、多くの日本人たちに嫌われ拒絶されたことははっきりしています。かえって、「私たちも同じお方をあがめているのです」と、つねに「同じ」を強調してお話ししましょう。


「日本人の正しい宗教的欲求に語りかける」

 日本人も天地の創造主に似せて造られ、創造主に似た霊的な性質を持たされ
ているからこそ、創造主を礼拝したいという宗教心、あるいは宗教的欲求を本能として抱くのです。その宗教本能に語りかけることから、伝道を始めるのです。そして日本人は、あらゆる民族の中でも、最も真面目にその人間の本源的宗教心を守り通し、創造主の聖い性質や美しい善の性質、あるいは愛と恵みという性質を表現してきたのです。

 日本は世界でも最も安全な国の一つです。日本は最も人間を大切にする国の一つです。日本は正直が尊重され、犯罪が少なく、勤勉が喜ばれ、自然が愛される国です。もちろん例外はそこここにあります。生活・習慣・文化のなにを採っても、日本よりもすぐれているキリスト教国もあるかもしれません。あってほしいと思います。ただたとえあったとしても、彼らは長い年月聖書を持ち、教会を持ち、キリストを崇めてきた上でその程度なのです。日本は聖書を持たず教会を持たずキリストも信じないままで、今の状態になっているのです。だから日本人は、創造主に似せて造られた人間の元来の性質を、最もよく表現している国民だと言えるのです。ただ普通の日本人は、このようなことに気づかないまま、知らないまま、なんとなく神社に詣でていることでしょう。日本人に、自分たちの宗教心の素晴らしさに気づかせてあげることが、日本人の宣教の第一歩、大切な第一歩です。


「日本人の宗教意識の中の、一神教的性格」

 日本人の宗教意識の中で、私たちクリスチャンにとって最も大切と思われるのは、その「一神教的性格」です。一般に日本人は八百万の神々を信じていると言われていますが、それは非常に表面的な観察です。浅薄な分析なのです。日本人の宗教意識を良く観察し分析すると、彼らの感じている尊く大きく強く優しく恵みに富むお方は、一神教に近いというか、聖書が教えている唯一の創造主の感覚に限りなく近いのです。日本にはたくさんの神社があり、多くの神々があると思われていますが、日本人の礼拝する対象は、本当のところ唯一だと判断できるのです。

 多くの日本人は、子供のころから神社の境内で遊び、お参りをし、神道的な感
覚に親しんできました。神道においてはいちいち個人の信仰などを確かめることはせず、その地域に生まれた子供はすべて氏子と認められます。大変おおらかで、信仰に差別を持ち込まないのです。そして、たとえ名前もいわれも違う多くの神社があり、それらを回りながら参詣したとしても、日本人は、それらの神社の違いに気を使って、違う神がいらっしゃるなどとは考えず、あたかも同じ神がいらっしゃるという感覚で礼拝をします。

 日本人は八百万の神々ではなく、むしろ唯一のお方、偏在のお方、(同時にどこにでも居る)良い者にも悪い者にも太陽を昇らせ、雨を降らせてくださるお方を感じているのです。日本人の知的理解はあいまいですが、本能的感覚として、唯一でありながら、同時にどこにでもおられる偏在の神、すなわち聖書が明示しているのと同じ神を認めているのです。このことの意味と意義を、クリスチャンたちがしっかりと理解することが大切です。
   
 そして大変面白いことに、日本人の多くは、どこの神社にも神は存在しないと
も思っているのです。存在するのは、いろいろな名前を付けられてそれぞれの神社に祀られている神々ではなく、それらの背後におられる、もっと大きく強く気高く恵み深く、ありがたいお方であると感じています。神社で手を合わせる日本人の多くも、それらの神社で祀られ神々と呼ばれているものを、礼拝しているのだという意識はあまりなく、むしろ、それらの神々の背後にいらっしゃるに違いない偉大なお方、唯一のお方、名前も姿も知らないけれど、いつでもどこにでも居てくださるお方、つまり目に見えず手で触れることができない、偏在のお方として尊び拝んでいるのです。


「神の存在を象徴し、神を感じられるようにする神社」

 日本人にとって、神社で祀られている神々は、それら自体が実体なのではなく、唯一の大きく強く恵み深く哀れみに富む、目に見えず手で触れることもできないお方の存在、あるいは臨在を、より強く感じられるように想定され、祀られたものだと感じています。例えば、天照大御神(あまてらすおおみのかみ)が祀られている神宮に詣でても、太陽を神格化した天照大御神が神であると信じている人も、太陽自体が神であると信じている人もほとんどいません。ただ太陽に感じる大きさ、温かさ恵み深さ、すべてのものに命を与える力などに、畏敬と感謝の心を表しているに過ぎません。本当はその太陽の背後におられるであろう存在、おられるに違いない存在を崇めているのです。仏僧であった西行が伊勢神宮に詣で、そこには天照大御神が祀られていることを百も承知で、「なにごとのおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」、と詠ったのは、まさにそのような心なのです。神道の神々は、仏教の仏や神の日本における現れだと理解した本地垂迹(ほんじすいじゃく)によれば、天照大御神は大日如来となるのですが、いずれにしろ非常に日本人的な感覚です。

 また神社の境内全体が、目に見えないお方の存在を感じられるように、配慮されて造られています。このお方は自然の中に存在し、自然を通して語り掛けておられると感じるために、多くの場合、神社は自然豊かな中に建てられます。クリスチャンはここで、天地創造のお方が、被造物を通してご自分を現し、ご自分の姿を理解できるようにしておられるという、聖書の教えを思い起こさなければなりません。(ローマ1:19〜20)
  

「偶像ではなく依代(よりしろ)」

 そのように祀られている神々、あるいは神社を日本語では「依代」(よりしろ)と言います。それ自体は実体ではないけれど、目に見えない実体を表現しているもの、あるいは目に見えない実体がそれを通して自分を現しているものです。目に見えず、手で触れることができない実体が、目に見えるものを通して自分を示し、自分の存在を強く現すのです。日本人は、深山に入って荘厳さを感じ、大木や滝にしめ縄を張ります。海に出ては奇岩にしめ縄をめぐらせます。これは非常に偶像に近いのですが偶像ではありません。依代なのです。実はこの依代こそ、目に見えない天地の創造者が、信仰の弱いイスラエル人に対して、ご自分の臨在を示すためにお用いになった手段でもあるのです。

 例えば、荒野で上げられた青銅の蛇を思い出してください。あれは非常に偶像に近いものですが、偶像ではありません。モーセの杖もそうです。幕屋や神殿、聖所や至聖所を考えてみてください。それらは目に見ず手で触れられない、偏在のお方の臨在を示すものですが、偶像ではありません。人間の五感では知覚できない、創造主の臨在を知ることができるように、創造主ご自身が置いてくださった物です。契約の箱とその中に収められた品物も依代です。特に契約の箱は、触れることができない創造主の臨在を、強烈に示しました。聖書の記述を読み直してください。善意であっても不注意にそれに触れた者は、たちまち滅ぼされてしまったのです。(Uサム6:6〜17) 新約聖書では、主の晩餐が依代にされています。私たちは化体説を信じませんが、単なる象徴であると考えるのも退けるべきです。なぜならこれは、主の臨在を強く示し教える「依代」で、象徴以上のものだからです。私たちは主の十字架の犠牲を思い起こすために聖餐を頂き、聖餐に与るとき主の臨在を強烈に感じるのです。


「ご神体は言葉だけの存在」

 特筆すべきは、日本の神社にはほとんどの場合、御神体が無いことです。礼拝の対象となるものがないのです。「ご神体」と言う言葉はよく聞きますが、神社には何もないことが多く、あったとしても鏡だったり、米粒だったり、隕石であったり、何かを象徴しているにすぎません。たとえそれらに手を合わせたとしても、日本人はそれらを神としているのではないのです。あくまでも依代なのです。イスラエルの場合は、青銅で作られた蛇や契約の箱の中に収められた三つのものだったりして、かなり具象的です。日本では昔から「三種の神器」と言われるものが存在すると言われていますが、これを代々引き継いでいる天皇さえ、実際にご覧になったことはないということで、実在の方は確かではありません。
   

「日本人にも聖書にも共通な汎神論的感覚」

 日本人はまた、すべての自然物にこの霊的な存在者が宿っておられると感じています。これは多分に汎神論的な感覚とも言えますが、日本人はむしろ、聖書にも記されている汎神論的な感覚を持っているのだと思われます。聖書の汎神論的性格は、徹底した唯一神がすべてのものに宿っているという、偏在の神の汎神論です。また多神論的な汎神論も、聖書に見られるものです。ただ聖書は神々と言う言葉はほとんど用いずに、悪霊とかみ使いと言う言葉を用いているだけです。日本人の「神」と言う言葉は、唯一絶対の存在者を示すものではなく、犬や猫や蛇やネズミの神々だからです。

 いわゆる憑依と言われる現象も、(狐が憑いたとか蛇が憑いたとか言われる)古代の日本では精神病と混同され、たくさん存在したようですが、聖書は同じような現象を、「悪霊に憑かれる」と表現しています。ここではこれらの現象について深入りはしませんが、大切なのは、私たちの創造主が「すべてのものを超越し、すべてのものを貫き、すべてのもののうちに住み、すべてのものをご自分の内に収めておられるお方であるという、聖書の教えを思い出すことです。(エペソ4:6、使徒17:28)そしてこの創造主は、今もすべてのものを支配しておられるという事実に立つことです。

 さらに私たちの創造主は被造物、すなわち自然物を通して、ご自分を現し、私たちを教えておられるという、大切な事実を確認しなおしましょう。日本人の中には自然自体を神と考える人がいるほど、自然を大切にします。多くの日本人は自然を神と同一視しないまでも、大自然に囲まれると神秘的な何かを感じ、ありがたくなってその何かを拝みたくなるのです。それは聖書の観点からすると、天地の創造主が自然を通してご自分を現していて下さるからであり、私たちがこの創造主に似せて造られ、このお方を感じられるように造られているからなのです。言い方によれば、自然自体が依代となって創造主の臨在を示しており、創造主は大自然の中におられ、大自然は創造主の内に存在するのです。そして、私たちが熱心に探し求めるならば、創造主である神を見出すことができるように、創造主ご自身が整えてくださったのです。(使徒17:27)


「個人的信仰心に欠ける神道的宗教意識」

 とは言え、日本人の神道的宗教意識には、個人の信仰という面に、弱さ、あるいは足りなさがあることも、理解しなければなりません。そしてそのことを優しく教えてあげるのが大切です。神道的宗教意識では、村や町などの居住共同体の行事が、個人の信仰に代わるものであって、個人の信仰は問われません。祭りを行い神輿(みこし)を担ぎ、行列を作って踊り、歌い、参加すればそれでいいのです。いきおい、神道的な宗教感覚では個人の必要に応える存在が、不在となってしまいます。そこで大衆的な神道というか、俗化した神道感覚では神々の登場となり、お百度参りや修験道に現れてくるのですが、本来の日本の神道感覚では、目に見えず手で触れることもできない大きなお方は、ただただ恵みを持って人間を覆ってくださるだけであって、一人一人の人間のささやかな日常の必要に応えて下さり、一人一人と交わりを持ってくださるお方ではないのです。

 これに対して聖書が掲示する天地の創造者は、小さな者、弱い者、虐げられている者、抑圧されている者に、憐みをもって寄り添い、彼らの願いに応えてくださるお方です。確かに旧約聖書は、イスラエルという民族を取り扱っているため、国家、あるいは民族の指導者や王といったものに、焦点が当てられていていますが、それでも、名もない者、弱い者に対する創造主の配慮を、そこここにみることができます。新約聖書に至ると、まさに天地の創造者が一人ひとりの苦悩する人間、小さく弱い存在に心を配っておられることが、前面に出されるようになっています。このあたりを、反発を招かないような話し方で説明してあげると良いでしょう。小さな者のつまらない悩みにも、細やかな配慮をしてくださる創造者を信じるクリスチャン信仰では、日本人の通俗信仰のような、小さな神々、八百万の神々を必要としないのです。


「日本的仏教を作り上げた神道的感覚」

 日本には仏教の影響が非常に強い地域もあります。そのような背景では、今まで述べてきた神道的な日本人の神意識とは、異なった意識、あるいは宗教感覚があるのではないかと思います。ただ筆者は、たとえ仏教的な感覚を強く抱いている日本人であっても、自分の宗教は仏教だと思っている日本人であっても、実はその宗教感覚の最も深いところ、基盤となっている部分は神道的なものだと理解していますので、神道的感覚について語ってきました。

 例えば、日本人独特の「わびさび」の感覚は仏教的なものとして語られますが、筆者はむしろ神道的な日本人の感覚が、日本の仏教の中で姿を現したものと捉えています。色形が不ぞろいな物、壊れかけたように見えるもの、あせてくすんでしまったものなどに、日本人はことさら心を奪われます。そこに落ち着きと親しみと安らぎと調和を見つけ出します。古いお寺や仏像などを訪ねては、「わびさび」の感覚に浸る人たちもいます。でも、仏教寺院も仏像も、もともとは日光の東照宮に観られるように、極彩色に輝いていたものです。「青によし奈良の都は咲く花の・・・」という、奈良の栄華を謳った歌がありますが、これにも、奈良には深緑の色を発する塗料の原料が産出され、寺院などに盛んに塗られたところから、「あおによし」という奈良の発展を表す枕詞となったという説があるほどです。つまり、もともとの仏教建築物は、日本においても、現在の東南アジアで見られるようなけばけばしいものだったのです。

 実は仏教の中にも神々が存在します。歴史的な背景はあまり知りませんが、唯物論に近く、神や仏の存在を否定していた原始仏教が、時の変遷につれて仏の存在を認め、さらに、周辺の神々をたくさん取り込むようになりました。それはアニミズムと呼ぶべき感覚です。それで日本に入って来た時の仏教は、日本的な神感覚を容易に取り込むことができたのです。神道的感覚の通俗的な部分、あるいは低度な部分と、仏教の通俗的な部分が容易に結びついたのです。また日本のおおらかな神道的宗教心も、仏教をとり入れることができ、容易に神仏習合、つまり仏教と神道の混合宗教が成立したのです。ただ神道的感覚の高度な部分、目に見ることも手で触れることもできない普遍的存在に対する感覚は、仏教がもたらした神々にはありません。むしろ阿弥陀仏のなかにそれに近い感覚があるようです。


「福音伝達の基本は同じ」
  
 ともあれ誰に対しても、福音伝達の基本は同じだと思います。相手との違いを見つけ出して、どちらが勝れているかと議論するのではなく、共通点を見出し、共感から話し始めて、自分の信仰について説明すればいいのです。優越感や闘争心から語るのではなく、あくまでも、自分の体験、自分の喜びとして、クリスチャンの信仰について語るのです。

 私たちが基本とするのは、「人間」と言う存在について、聖書が教えていることを正しく理解してもらうことです。聖書によると人間は神に似せて造られていて、はじめから、神を感じる霊的な動物として生かされているのです。また神は、自然を通してご自分を現しておられるということです(ローマ1:19〜20)。そして、人間が真面目にこのお方を追い求めるならば、このお方はご自分を見出すことができるようにしていてくださるということです(使徒1:18-20)。

 それは仏教徒や神道を奉じる人たちを含め、世界中のすべての人間が、創造主を感じる感覚を持っているということであり、創造主は今も自然を通して、かれらにご自分を現しておられるということです。これを、私たちだけが知っている、すべての人間の共通点として意識しながら、「おんなじだ」と語るのです。


「あらためて、『神』という言葉を避ける」

 日本人への伝道のテクニックとして大切なのは、話の初めには「神」という言葉を避けることです。また、「キリスト教の神」も持ちださないことです。「クリスチャンの神」も、「キリスト教」も、日本の伝統文化を重んじる人には禁句です。それらの言葉を聞くと、多くの場合、彼らそれだけで心を閉ざしてしまいます。これまでに宣教師や牧師がとった排他的な態度、日本の宗教や文化習慣に対する高圧的な態度や敵対的な姿勢が、すでに、たくさんの日本人を躓かせているからです。また、世界の歴史に通じている日本人は、すでに述べたように、キリスト教と言う宗教が世界中で犯してきた重大な犯罪を知っているため、良い結果をもたらしません。

 大部分の日本人は、「神」を「信じて」いません。 日本人は多神教だと言われ八百万の神々を信じていると言われますが、それは学者から一般人までが安易に陥っている間違にすぎません。日本人の宗教心と、信じるという言葉の意味、それから日本人の言う「神」の意味をきちっと学ばないまま、うわべだけを観て言っているにすぎません。実際、日本人の大部分が神など信じていないと言います。八百万の神々をはじめ、神社や祠に祭られている神々も信じていません。たとえどのようないわれがあり、歴史があり、逸話があっても、また、神社を建て参拝に行くことがあったとしても、それらを信じてはいないのです。

 試しに、大きな神社に参拝に来ている多くの日本人に、尋ねてみるといいでしょう。「あなたは、ここに祀られている神を信じておられますか?」 たぶん、いろいろな曖昧な答えが返ってくることでしょう。でも、ほとんどの場合、実際には信じていないということがわかるでしょう。神を信じていると言って神社に参詣していながら、日本人の多くはその神を信じていないのです。本人は信じていると思い込んでいても、実は信じておらず、ばかばかしいとさえ思っているのです。

 そういうわけで、日本人が信じていない、ばかばかしい「神」の話はしてはならないのです。それがたとえキリスト教の神でもです。ましてや、キリスト教の神は、「外国から輸入された宗教の神」であり、かつて邪教として禁止されたことのある宗教の神、何百年にもわたって残虐な植民地主義の背骨となってきた、邪悪な宗教の神にすぎません。普通の日本人にとっては、ますます怪しげな、信じるに足りないものです。


「自分が何者かによって生かされていると感じている日本人」

 とはいえ、日本人の大部分は、自分の心の奥底にある宗教心を大切にし、宗教の存在を少しばかりの例外を除いては、悪いものとは考えていません。「私は神を信じていませんが、宗教の悪口は言いません」というのが、一般的な意見です。人間は宗教的な動物であり、霊的な感覚を本質として与えられている唯一の動物ですから、自分の本質的感覚に反してものを言う事はできないのです。

 八百万の神々や神社に祀られている神々は信じていない多くの日本人も、天地の創造主に似せて造られたものとして、自分に命を与え、生かし、食べ物や着物や住むところを与えていてくださる、大きく、強く、気高く、恵み深く、聖く、善なる存在を、心の奥深くで本能として「感じている」います。ここが大切なところです。

 日本人はこのお方のことを心の奥底で感じながらも、このお方のことを深く考えて言葉で説明したり、このお方の姿を想像して絵や像で表現したりはしませんでした。名前を付けるのさえはばかり、神とも異なる、名前のないお方として畏れ敬まってきました。日本人は、自分の心に感じているこの尊いお方を、あまりにも尊いので、触れずさわらず、語らず呼ばず、多くの場合、そっと崇め、感謝をしてきたのです。

 時にはこのお方への感謝の表現として祭りを行い、みんなで一緒に歌い、踊り、喜びを表現してきました。でも、そのときでさえ、一人ひとりの信仰を問うようなことはせず、集団として崇めてきたのです。そのために、このお方は日本人の心に、隠れたお方として住んでこられたのです。しかし隠れたお方であるために、しばしば軽んじられてもきたのです。

 
 
「西欧人宣教師が犯した間違い」

 多くの日本人が開国以来、明治政府の方針に反し、キリスト教を西欧の優れた文化の屋台骨であるとみなして、これを受け入れようとしました。でもほとんどは失敗に終わっています。その理由の一つが、キリスト教を運んできた宣教師たちの態度によるものです。

 宣教師たちは、ユダヤ人だけに向けて語られた十戒の教え、特に偶像礼拝禁止の律法を、日本人にも直接そのまま適用し、(出20:1〜5)日本人の宗教と宗教心をまったく学ぼうとしないで、一方的に偶像礼拝と決めつけ、罪であると断じて、日本の宗教と日本人の宗教心を卑しめたのです。本当のところ、西欧のキリスト教徒の絶対多数が、自分たちのことを異邦人であるとは感じていません。むしろ自分たちこそ霊的なイスラエル人、本物のイスラエル人であると思っています。イスラエル人と異邦人との区別ができていないのです。そのために十戒の教えは自分たちに与えられたものであると理解し、そのまま、すべての民族に適用しようとするのです。これが、多くの日本人の心を傷つけることになり、キリスト教とキリスト教の神に躓かせてしまったのです。要するに聖書を良く学んでいない西欧キリスト教の間違いなのです。(異邦人の偶像礼拝の罪はローマ書の一章から語られるべきです。)

 さらに欧米の、特にイギリスとアメリカの宣教師のほとんどは、自分たちのキリスト教文化こそが最も優れた文化であり、この文化を世界中に行き渡らせることこそ、自分たちの国に与えられた神からの使命であると、とんでもない、手前味噌の誤解をしていました。だから行く先々で、ただ宗教だけではなく、それぞれの国や民族の文化や習慣までも、劣ったもの、醜いものとして、ことごとく破壊し取り除き、自分たちのキリスト教文化なるものと、置き換えようとしたのです。彼らはそうすることによって、世界中がより優れた文化と習慣を持つ住みやすいところとなると、真面目に信じていました。そのような世界が出来上がったならば、そこに王としてのキリストの再臨があると考えていたために、神に対する忠誠心からそのようなことを行ったのです。しかしこれが、多くの国々で反発を招き、宣教を困難にしたのです。特に日本のように、高度に発展した独自の文化を持つ国においては、激しい嫌悪を招くことになったのです。

 そんなおかしな信仰を持ってしまったのは、教会の権力の及ぶところが神の国であると考えた、古代のカトリック神学に始まりますが、近代の科学の発展が人間社会をより良いものにするという、楽観的ヒューマニズムとキリスト教的征服欲があいまった、プロテスタント主流派の千年期後再臨説がもたらしたものでもありました。


「世界が気付き始めた日本文化の崇高さ」

 今や世界中の多くの人々が、日本の文化の崇高さに気づきはじめています。日本人の道徳観、倫理観の高さに驚いています。それは日本人が、創造主に似せて造られた人間の本性を、大切にして生きてきたからです。日本には聖書がなく、キリスト教もありませんでした。しかし、日本人の気高さ、日本文化の崇高さは、キリスト教を国教とし、キリスト教の教えで文化を作り上げたという、西欧のどの国にも劣りません。彼らは聖書とキリスト教をもって、あの程度の文化しか持てなかったのです。日本を訪れる欧米宣教師は、まず、自分たちが作り上げた、程度の低いキリスト教を恥じるべきです。

 そして、聖書もなくキリスト教も盛んではない日本が、どうしてこれほど高度な文化を築き、穏やかな心を持つ人々を生み出してきたのか、真面目に、真剣に考えるべきです。日本人は、西欧キリスト教文化の人々が無視してきた、造り主であるお方に似せて造られた、人間の本性を大切にしてきたのです。使徒パウロが言う、心に記された律法に忠実だったのです。(ローマ2:14−15)


「伝統的キリスト教国のキリスト教離れ」

 このところ、伝統的なキリスト教諸国では急速なキリスト教離れ、教会離れが続いています。多くの人々が伝統的なキリスト教に失望しています。彼らはキリスト教の中にある人間性に反したもの、すなわち「心に記された律法」、神に似せて造られた人間性に背く多くのものを見、また体験して、ひどく失望したのです。文字で書かれた律法を、自分たちに都合よく解釈してきたキリスト教と、その伝統を守り抜こうとする教会よりも、自分の人間性、すなわち「心に記された律法」を大切にし始めたのです。伝統的なキリスト教の教えには、人類に共通すべきものを見出せず、心に記された律法に普遍性を発見したのです。彼らがキリスト教を捨てたときに、残念ながら聖書も一緒に捨ててしまったために、自分たちが大切にする人間性そのものが、実は天地をお造りになったお方から与えられたものであることに、気づかないままになっているのです。
 
posted by まさ at 21:42| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

やさしい福音 A はじめに 基礎的教え(1)


やさしい福音  (これからの日本宣教の為に)

                                         

 はじめに

 これからの日本の宣教の為に、絶対にしなければならないことがいくつかあります。そのうちの一つが、信徒の活躍の場を広くすることです。日本中を見渡せば、牧師の数がどんどん少なくなって、多くの教会が弱りきっているからです。もはや、一人の牧師が一つの教会を世話し、一つの教会が一人の牧師家族を養うことが、できなくなっています。理由はともかくそれが現実です。これからしばらくはそのような流れが続き、信徒の数もかなり少なくなることでしょう。(日本の宗教の衰退はキリスト教だけに限りません。日本全土で、もうすぐ住職がいなくなるお寺が3千以上あると言われ、多くの神社が、世話をする人がいないために朽ち果ててしまうそうです。)

 やっと信徒の出番になりました。信徒の活躍こそ、聖書に記されている教会のもともとの姿、本来のあり方なのです。「使徒の働き」が書かれたころのように、たくさんの信徒が活躍すれば、神学校などで専門の学問を積んだ牧師や伝道者は、ごくわずかいるだけでよくなるのです。信徒が活躍し、福音を語り教会の設立の大きな力となるためには、福音伝道と教会の指導を、誰にでもできるやさしい働きとしなければなりません。

 多くの信徒たちは高度な神学教育を受けた牧師の、専門的で深い説教を聞いて感銘を受け、感動を楽しむことができるようになった一方、自分が聖書の教えを語り、未信者を救いに導くなど、到底思いもよらないほど、高度で困難なことだと思い込むようになったのです。それが、教会の停滞と衰退の原因です。一般の信徒にとって、伝道することはとてもとても、非常に、ものすごく難しい仕事です。だからこそ、福音宣教がますます困難になりつつある今、福音宣教と教会の指導の働きを、もともとのやさしさに戻し、信徒の働き人をたくさん起こすのが、絶対に、しかも緊急に必要なことなのです。そうなってこそ多くの人々が救われ、たくさんの教会が建て上げられていくのです。

 そこで何としても必要になるのは、福音をもっともっと分かりやすく整え、だれにもでも覚えることができ、かんたんに説明できるようにすることです。普通の信徒がなんの困難も感じることがなく、ごく当たり前のこととして、レストランで食事を注文するくらいの気軽さで、福音の大切な部分を説明できるようにしてあげるのです。そこから始めなければ、これからの日本では救われる人がいよいよ少なくなり、キリストのみ体である教会も、構成員である信徒の数も、減少の一途をたどることになるからです。聖霊は、信徒が語る単純な福音を通して人々を救いに導き、教会を誕生させ、成長させてくださるお方です。それが使徒の働きに見る、人々の救いと教会の成長のようすです。

 使徒の働きの時代、伝道も教会の指導も、ほとんどが信徒の働きでした。信徒にもできる働きだったのです。また信徒たちはそのような働きができることに感動し、誰に勧められなくても喜んでそのようにしたのです。当時の世界ではたいていの都市にはユダヤ人の会堂があり、どこでも、ユダヤ人の信じていた天地創造の神についてある程度知っていた者、あるいはその信仰が優れていると知っていた者たちが、多数生活していました。そのような人々に、日常生活の中のおしゃべりを通しながら、キリストの福音へとつなげて行くことは、案外やさしかったと思われます。

 でも、現在の日本はまったく状況が違います。日本にはユダヤ人は数えるほどしかおらず、彼らの信仰については知られていません。普通の日本人は旧約聖書も新約聖書も知りません。キリスト教はまったくの弱小宗教です。伝統的キリスト教国の人々とは宗教意識も神についての理解も感覚も異なっています。そのために日本人を対象として、キリストの福音を理解しやすく、語りやすく、受け入れやすくする必要があるのです。ただしそれは自分勝手にキリストの教えを変えて、日本人に都合よくするのではなく、あくまでも、キリスト教が誤りのない神の言葉として信頼している、聖書に教えを忠実に学ぶことによって行うのです。


 このテキストの用い方

 このテキストの「本文」は、とても易しく、しかも短くまとめてあります。まず、少し「基礎的教え」だけを読み進み、全体を把握してください。この部分をしっかりと覚えて、利用してくださればそれで充分だと思います。

 もっと説明がほしいと思われる場合は、基礎的教えの後に続いて、「説明」の部分にお進みください。基礎的教えに沿って説明が加えられています。






基礎的教え(1)


「私もおんなじ」から始める 
 
 日本人であるならば、たいてい、他人(ひと)と同じであることを好み、同じであることに安心します。反対に、他人とは違っていると何となく不安で、居心地が悪いものです。四方を荒海で囲まれ、他国からの干渉は最小限で、定着性の高い稲作文化を持ち、小さな居住地に一生しばりつけられて来た日本人は、昔から、隣近所に気遣いながら生きてきたのです。良かろうと悪かろうと、「他人と同じように」というのが平均的日本人の感覚です。ですから日本人に福音を語るときは、「おんなじ」から始めましょう。証から始めるのも、「私もおんなじだったのですよ」という、同感、同調、同情によって警戒感を持たせず、安心して聞いてもらうためです。

「私は普通の日本人ではなく、数少ないクリスチャンです。」「あなたとは違う神を信じています。」「あなたとは考え方も生き方も違います。」「私は違う国から来た、外国の宗教を信じています。」「私は進んだ西欧文化の神を拝んでいます。」「私の神様が本当の神様だと思います。」「私の生活のほうが勝れていると思います。」私たちが普段から心掛けている、「証ができる立派なクリスチャン」になると、ついついそういう言い方になってしまいがちです。立派なクリスチャンになってしまってはいけません。それでは、話を聞いてもらえません。

 そこまでは行かないとしても、立派なクリスチャンになってしまうと、普通の日本人とは付き合うことができない、浮世離れした人間となって、証も伝道も困難になってしまいます。初めから、「奴は普通の人間じゃないよ、」「あいつは変わりもんだよ、」「奴は俺たちとは違うのさ」と言われて、心の壁が作られてしまうのです。ですから、立派なクリスチャンが多い立派な教会には、新しいクリスチャンはなかなか生まれてこないのです。

 そうではなく、「私も日本人のひとりとして、他の多くの方々と同じように生きてきました」と始めて、「普通の日本人の一人として、幼いころから親に連れられて、神社やお寺に行っていました」と進むのです。「ですから、そういう環境にあって、普通の日本人とおなじように、心の中に、目には見えない『誰か』、あるいは『何か』を感じていたと思います。

 神様とは少し違うような、それでいて神様と言ってもいいような、良くわからないけれど、大きく、高く、優しいお方です。ときには、・・・うまくは説明できないのですが、このお方に命を授かり、生かしていただいているのだと感じ、そっと感謝したくなったこともありました。太陽を昇らせ、雨を降らせ、作物を実らせ、動物を育ててくださっているのだと、何となく、思ったことがありました。それは、そのように『理解した』というより、そのように『感じた』と言ったほうが良いものです。」

 と、まあ、こんなふうに始めて、「たぶん多くの日本人が、私と同じように感じてこられたのではないかと思います」とまとめると良いでしょう。それからもう一歩進んで、「今、私はクリスチャンと呼ばれていますが、私が信じ頼っているお方は、私が小さなころからずっと心で感じ、感謝してきたそのお方です。外国から持ち込まれた神様ではありません。ですからいま、何か、とても懐かしい気持ちで、このお方に信頼しています。そのお方を『神様』と呼べないこともありませんが、神様と呼ぶと、八百万の神々と間違えられてしまいますので、いまは、「このお方」とお呼びして、分けておきましょう。」

 それからもう一度、「自分はクリスチャンと呼ばれていますが、多くの日本人が昔から心に感じ、ひそかに感謝をし、崇めているそのお方を拝んでいるだけで、他の日本の方々とさほど違っているとは思っていません。ただそのお方を、『私を造って下さったお方』である、『天と地をお造りになったお方』である、『私を愛し守っていて下さるお方』であるとはっきり認めて、崇めているだけです」とお話しします。

「そのようにはっきり認めてこのお方を信頼してから、私の生活は変わりました。別に、立派になったとか、苦しみがなくなったとかいうのではありません。でも毎日、いつでも、どこでも、頼ることができるお方を近くに感じて、安心して生活できるようになりました。これだけは、良かったと思っています」と証をし、「私は外国から持ち込まれた神様を信じているのではなく、もともと日本にいて、日本を祝福してくださっているお方、そして多くの日本人が、昔から心の奥で感じてきたお方を信頼しているのです」と、ダメ押しをしておけば充分です。

「私は神など信じない」という人がいても、「いえ、神は存在します」などと争わないでください。かえって、「そうですか、実は私も神など信じていません」と、同調してください。「クリスチャンなのに『神は信じない』と言うのですか!?」と、驚かれることでしょう。それでいいのです。日本人が「神はいない」と言うときの「神」は、八百万の神々や神社に祀られている「神」であって、私たちクリスチャンが言う「神」とはまったく違うのですから、彼らの言う通り、神などいないのです。「神なんていない」と同調しながら、日本人が本能的に心の奥底で感じている、大きく、優しく、おくゆかしい「お方」について話して行けば良いのです。

 反対に「私は神を信じています」という人がいたら、「そうですか、わたしと同じですね。ところでその神は、どのような神様ですか?」とたずね、その人の答えの中に、クリスチャン信仰と共通するところを見つけ出すのが大切です。真面目に八百万の神々のことが出されたら、聖書にも「神々」という言い方が出てきて、天の使いや悪霊など、人間より少し力の強い者たちの呼び名になっている場合もあることを、お話したらよいでしょう。聖書の世界観も日本人の世界観も、同じようにアニミズムと呼ばれるものであって、いろいろな霊的な存在が人間の住む世界に一緒に住んで活動していると考えられています。ですから、ある意味では多神論でありまた汎神論なのです。そこで、「私たちクリスチャンも、その点は同じなんです」と同意をしながら、その延長として、創造主を信頼すべき唯一のお方であると信じる、クリスチャンの信仰をお話しして行くのです。決して違いを指摘せずに、「同じ」を強調しながら行うのです。


基礎的教え(1)の説明
posted by まさ at 21:33| Comment(0) | 文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月26日

1 人間は創造主に似せて造られた




人間の中にある創造主の本性

 聖書は、人間が創造主である神に似せて造られたと教えています。それは誰にでも分かるように、創世記の初めの部分で強調されています。人間は創造主に似せられているのですから、本質的に美しく、正しく、聖く、優しく、憐み深く、恵みに富む、善なるものです。また人間は創造主に似せられた霊的な存在であり、霊である創造主の存在を感じるだけでなく、創造主の愛を喜びまた自分の愛を捧げて、交わり持つことができるように造られています。これらのことはみな、人間を他の動物とは異なるものにしています。他の多くの動物も、創造主に似ているところはたくさんあることでしょう。しかし、人間は特別に創造主に似たものとして造られたと、あえて明確に強調されていることが重要です。人間の道徳観や倫理観は、他の動物に与えられている行動本能とは異なり、創造主である神の存在を意識する、霊的性格に支えられているのです。単なる仲間同士の行動のパターンを制御する程度の、いわゆる社会的動物の道徳や倫理を超えたものなのです。人間は見えない誰か、畏るべき誰かが、自分の行為行動を常にご覧になっていると感じています。そしてその感覚によって自分の行動を制御しているのです。

人間の堕落した性質と霊的な死

 一方で創世記は、間違いようがないほどはっきりと、人間が罪によって堕落したことも教えています。 罪のためにいのちの源である神との交わりが断たれ、「人間としての命」が損なわれているために、人間は人間としての本来の生き方ができなくなっています。生物学的な命、動物としての命は持っているのですが、霊的な命の源である、創造主との関係が大きく傷つけられているために、創造主からの霊的命を充分に受けることができなくなって、「霊的に死んだ者」となっているのです。せっかく創造主に似せて造られていながら、その美しい本性を思うように発揮できないのです。そのために、人間の世界は醜いもので満ちています。人間のあらゆる不孝は、人間が罪によって堕落したことに始まると、創世記は教えているのです。罪のために、絶対に聖いお方である創造主から隔てられ、歪められ破壊された人間性に翻弄されて生きるようになったのです。

自然界にまで及んだ堕落

 聖書はまた、罪の結果が人間だけではなく、自然界にも及んでいることも教えています。人間は自分の罪のために破壊されて、猛々しくなってしまった自然に苦しみながら、その中で生きることを余儀なくされたのです。現在見るような天変地異の世界、自然災害と病の世界は、すべてが「良い」と、天地創造のとき創造者ご自身が判断された、調和がとれた美しく柔和な世界ではなくなってしまったのです。そこに歪められた本性で醜くなった人間が、さらに様々な破壊と混乱をもたらし、いよいよ荒れた住みにくい自然界となり続けています。

消滅してはいない神の姿

とはいえ大切なのは、人間が霊的にも道徳的にも、また倫理的にまったく堕落しきったのではないことです。私たちの日常生活を見てもわかることです。さらに、自然界も完全に破壊されてしまったのではありません。今でも太陽を昇らせ雨を降らせてくださるのは創造主です。罪によって堕落したとはいえ、人間は創造主によって与えられた性質すなわち創造主に似た本質を、ことごとく失ってしまったのでもありません。それは聖書に明らかに記述されていることです。罪に壊され、歪められ、弱められているのは疑いようもありませんが、人間はまだまだ創造主に似ているのです。どんなに悪い人間でも、必ず良いものを秘めており、反対に、どんなに善良な人間であっても、罪のために破壊されて歪められた本性のために、必ず罪を犯すのです。それが人間です。さらに人間は人間である限り、宗教心をもって何かを礼拝したいという、本能的欲求を持っています。創造主から離されているために、その宗教心は偶像礼拝という誤った形で現れてくることが多いのですが、宗教心だけは消失していないのです。創造主に与えられた創造主の性質を持っていながら、それを生かすことができないという悲劇に、人間は生きているのです。

創造主の自然を通しての自己啓示

 創造主であるお方は聖いお方ですが、このような状態に置かれている人間に対して、怒り狂っておられるのではありません。あるいは無関心になってお忘れになり、放り投げてしまわれたのでもありません。かえって人間が、ご自分に似た本来の性質を生かし、霊的には創造主を認めて礼拝し、道徳的にも気高く聖く、倫理的には善を尊び正しく哀れみ深い生き方をすることを望み、期待しておられるのです。ノアの時代の洪水やソドムとゴモラの滅亡、あるいはニネベへの裁きの宣言も、イスラエル人だけではなく、異邦人たちも自分の中にある創造主の性質を生かして生きることを望んでおられるからこそ、厳しい裁きが下されたのです。それらの裁きは、イスラエル民族に対するものではありません。でも裏を返せば、創造主は彼ら異邦人にも、人間としての道徳的・倫理的責任を問われたのです。たとえ堕落後であったとしても、人間には自分たちの行動に対して責任を問われるだけの、神の姿が残っていたということです。霊的な意味でも、ご自分から離れたところで文化を築き上げ、ご自分のことはすっかり忘れてしまっていたかのような人間に対し、被造物を通して、すなわち自然の中にご自分を現し続け、少なくても人間が、創造主の本質的な姿を理解することを期待し、人間が創造主だけを礼拝するようにお望みになっています。創造主は堕落した人間に霊的な可能性を見、その責任を問うておられるのです。

創造主の自己啓示を理解しなかった人間と偶像礼拝

 ところが人間は、創造主のそのような思いをまったく理解しなかったようです。自然を通してご自分を掲示しておられる、創造主の本質に気付くこともありませんでした。かえって自分の知性を誇り、それに溺れて、人間や鳥や獣や地に這う物を模した偶像を造って、これを拝む偶像礼拝に陥り、ますます創造主から遠ざかってしまいました。そのために創造主は、人間をその愚かさと欲望のおもむくままに、お任せになったのです。創造主の失望の大きさがうかがい知れます。その結果人間はますます罪の奈落に落ち込んでしまいました。現在の私たち人間の醜悪な世界は、単にアダムとエバの罪の結果だけではありません。創造主の自己啓示を無視した、人間の偶像礼拝に対する裁きの結果でもあるのです。  それは第二の堕落とも呼ぶべき重大な出来事でした。自然を通してご自分を掲示しておられる創造主の、まことの姿を理解せず、被造物を礼拝の対象としてしまったのです。

偶像礼拝の罪はすでに裁かれている

 ところで、この人間の偶像礼拝の罪は、すでに裁かれていることに気付かなければなりません。人間が心の欲望のままに汚れに引き渡され、道徳的廃頽と無秩序の中に生活するようになったのは、偶像礼拝の愚行に対する裁きだったのです。ですから私たちは今、偶像礼拝の裁きの中に生まれその中に生きているわけです。人類全体が偶像礼拝の罪のために裁かれたり、裁きを宣告されたりしている聖書の記述は、このローマ書の一カ所だけです。
 聖書が言及している偶像礼拝の罪は、ほとんどが、ユダヤ民族という特異な人々に関わるもので、異邦人、すなわちユダヤ民族以外の人々には関係のないものです。わずかの例外は、偶像礼拝の悪習慣をユダヤ社会に持ち込む危険性があった、近隣に住む異邦人に対するものです。ノアの時の洪水にしても、ソドムとゴモラの滅亡にしても、ニネベへの警告にしても、彼らの偶像礼拝の罪に対する裁きではありません。むしろみな偶像礼拝の罰として、欲望のままに任せられた結果としての、道徳的腐敗、倫理的廃頽が極限に及んだためです。偶像礼拝は創造主が最もお嫌いになる罪ではありますが、一方では人間が神の姿に似せて、霊的な存在として造られている証でもあるのです。目に見えない気高い大きな存在を感じて、何かを礼拝したいと願うのは、まさに霊的存在として造られた人間の本能であって、決して否定されてはならないものです。ただ礼拝の対象が誤っていることが罪なのです。

ユダヤ人に対する偶像礼拝の禁止と裁き

 ユダヤ人の偶像礼拝の罪は、非常に厳しく裁かれています。それはユダヤ民族が、一つの大切な目的のために、創造主によって特別に選び出された人々だったからです。創造主の目的は、罪によってご自分から隔てられ、霊的な命を失ってしまった人類を、ふたたびご自分の許に引き寄せ、新たに命を与えることでした。その人類救済の計画遂行のために、創造主はユダヤ民族を選び出し、それでユダヤ民族には、自然を通して間接的にご自分を啓示なさっただけではなく、直接ご自分を現わし、律法を与え、助け、導き、訓練し、時には厳しい刑罰をあたえ、全人類の救い主を迎え入れるにふさわしい民族に育てようと、あらゆる努力をしてくださったのです。
 中でも特に大切だったのは、天地の創造主、人間をご自分に似せてお造りになった創造主だけを礼拝するという、この一事でした。そのために明白な偶像礼拝禁止令が与えられ、違反者には厳格な裁きが執行されたわけです。でもその厳しい偶像礼拝禁止の命令が、異邦人に適用されることはありませんでした。聖書は、律法のないものは律法なしに滅びると教え、ユダヤ人に与えられた律法(この場合は旧約聖書)が、他の民族に及ぶことはないことを、疑いの余地がないほどはっきりと示しています。ですから、ユダヤ人の先祖でありながらまだユダヤ人とはなっていなかったアブラハムの考え方や行為には、まままだ異教徒の名残がありました。ヤコブが、自分たちのテント集団から偶像を取り除いて廃棄処分にしたのは、アブラハムが召されてからおよそ150年も経ってからのことです。異邦人の偶像礼拝に対する創造主の取り扱いは、意外に忍耐深く寛容であったのが分かります。

 人間をご自分の姿に似せてお造りになった創造主は、いま、偶像礼拝をしている人間を滅ぼそうとしておられるのではありません。むしろ、彼らをもう一度ご自分の許に引き寄せ、新たな命を与えようと望んでおられるのです。そのために救い主を送り、人々の罪を負わせ、磔の刑に処してくださったのです。






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posted by まさ at 13:24| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月10日

思いつきのままに (1)

 思いつきのままに (1)

「イエスを信じる信仰?」

 イエスを信じることが救いの唯一絶対の条件だというのが、正当的キリスト教の教えだけれど、「本当にそうなのかな」と思うようになってきました。1966年以来、牧師や宣教師という働きをし続けて来た小生の、偽らざる心境です。

 「イエス・キリストを信じる信仰だけでいい。他には何もいらない」と強烈に主張したのは、今から2000年近くも前の、ユダヤ主義者がはびこる初代教会を、正しい信仰に導こうとした使徒パウロです。そのパウロの主張をしっかりと受け継いできたのが、伝統的で正当なキリスト教です。パウロは主張の中で、突然それよりも2000年ほども前に生きていた、アブラハムという人物の例を引き出しています。彼はユダヤ人の先祖であり、信仰の父ともいわれる立派な人で、当時のユダヤ人に知らない人はいませんでした。「アブラハムも、ユダヤ主義者が主張しているような「割礼」という儀式を行う前に、信仰によって義とされている、つまり、神によって救われているではないか。私たちが救われるのは、割礼のような行いに拠るのではなく、まったく、信仰によるのである」というのが、パウロの議論です。(ローマ3:21〜4:15、ガラテヤ3:1〜14)

 この議論の中には、パウロが意識しなかった問題が含まれています。パウロはイエス・キリストを信じる信仰について語っていながら、突然、そして何の躊躇もなくきわめて自然に、父なる神を信じる信仰へと、飛躍しているのです。アブラハムはイエス・キリストを知りませんでした。救い主という概念もほとんどなく、十字架や贖いや、罪の悔い改めなどについても知りませんでした。でも彼は義とされたのです。パウロの議論の中では救われたのです。

 アブラハムは、キリストのキの字も知らないまま、キリストを信じることがないまま、どうして救われることができたのでしょう。それは、救いはキリストの十字架の贖いによるものでありながら、キリストの贖いを知る知識によるものではないからです。イエス・キリスト以外に救いはありません。しかし、人間がイエス・キリストを救い主として知り、信じているかどうかは別の話です。

 新約聖書がイエス・キリストを信じることが絶対条件であるかのように表現しているのは、神について、救い主の到来について、罪の悔い改めについて、1000年以上も教え導かれて来たユダヤ人を対象としているからです。あるいは、少なくてもユダヤ教についての相当の知識を持っている者を前提として、語っているからです。ユダヤ教がまだできていなかったアブラハムの時代には、アブラハムがイエス・キリストを信じることが出たはずがありません。知ることさえできなかったのです。

 アブラハムも自分の良い行いによって救われたのではなく、唯一の救い主、イエス・キリストの贖いのゆえです。アブラハムがイエス・キリストを知っていたか、信じていたかは問題ではなく、神がすべてをご存知であったということこそ大切なのです。時間を超越しておられる神にとっては、アブラハムの時に、すでにキリストの贖いの御業は完結していたのです。時間と空間と物質に制限されている、この次元に生きる人間には理解できないことであったとしても、神が知っておられたのです。アブラハムの救いは、アブラハムのイエス・キリストについての知識にも信仰にも関りがなかったのです。神の理解、神の知識に関係したことだったわけです。

 ではアブラハムの救いにとって、大切だったのは何でしょう? それは神に対する信頼です。信じることであり、頼ることです。神は、人間が正しい知識を持つことよりも、神を信頼する、頼り切ることを、もっともっと大切にしておられるのです。アブラハムは神を信頼した。だから神はキリストの救いの衣で、彼をおおってくださったのです。

 そうだとするなら、アブラハムが信じた神に対する、彼の知識はどれほど多く、また確実なものだったのでしょう? アブラハムは多分、メソポタミア文明に生きた人々の、信仰を引き継いでいたことでしょう。その信仰態度をご覧になって、神は彼を選びの民の先祖として、白羽の矢を立てられたのです。ですから、アブラハムの神知識も、今の私たちのような、「神学を学んだ輩」達よりは、ずっと少なかったはずです。まだまだ、異邦人的な信仰感覚、宗教意識を持っていたことが、聖書の記述からも明らかです。

 アブラハムが義とされるのに必要だったのは、アブラハムの神知識ではなく、神に対する信頼でした。神に頼る思い、神にすがる想いが、神に受け入れられたのです。頼る心が知る知識よりも優先されているのです。「窮鳥懐に入れば猟師もこれを撃たず」という諺がありますが、私たちの神は、頭の知識よりも心の信頼を重んじられるお方です。神に似せて造られている私たち人間も、信頼されると無下に拒むことができなくなってしまう、柔らかな心を持っています。よちよち歩きの幼子が、両手を広げてあなたのところに転がり込んできたら、どうしますか? たとえその幼子が、憎らしい人間の子であったとしても、思わず、手を伸ばして支えてやるでしょう。意地悪な人間の私でもそうします。

両手を大きく広げて、倒れ込んでくる者を拒むようなことを、神はなさいません。その知識の深さや広さや大きさも問いません。まず、助けてくださるのが私たちの神です。ですから、神についてもキリストについても何も知らない日本人に、はじめから「イエス・キリストを信じなさい」と語り掛けるのは・・・間違っていますね。




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2016年05月21日

日本人の心に記された律法と日本人の宗教意識


日本人の心に記された律法と日本人の宗教意識

                                     2016年5月17日
                                          佐々木正明

はじめに・神との関わりの中で生きている日本人

 殆どの日本人は、キリスト教徒ではありません。でも、キリスト教の神と関係が無いのでもありません。昔から「仏ほっとけ、神かもうな」と言われて来ましたが、日本人がかまわなくても、神がほっといて下さらないのです。というより、神は日本列島に最初に住み始めた人間から現代人に至るまで、ご自分とご自分に似せてお造りになった特別な存在という、特殊な関係を保ち、深く関わり続けてこられたのです。

 日本人にも、天地をお造りになった神に似せて造られた姿がずっと残っていて、たとえ神を知らないまま、理解しないままに生活していたとしても、決定的に、神との関わりの中で生きています。人間にはすべて、神に似せて造られた姿(創世記1:26〜27)、すなわち心に記された律法が与えられていて(ローマ2:15〜16)、たとえ何も知らずにいても、この律法に従って生きるように造られているのです。その心に記された律法の内、神の姿の良い性質というか、善性についてはすでに述べました。

神に似せて造られた人間の霊性

 すべての人間には、神の善い性質に似せられた、善性とでも呼ぶべきものの他に、神の霊的な性質に似せて造られた霊性も与えられています。この霊性のゆえに、人間は霊であられる神、目で見ることもできず、科学的実験の対象として調べることもできない神を、本能的に感じ、また霊的な世界、目に見えない次元の存在を直感で感じることができるのです。そしてその霊性は、すべての動物たちの中で人間だけに与えられた、得意な能力なのです。ほかの動物には、礼拝するという宗教感覚がありません。とはいえ、神の性質に似たものとして人間に与えられた性質は、すべて、似せて造られただけであって、神と同じに造られたのではありません。あらゆる意味で無限なお方は創造主だけであって、似せて造られたものはすべて、有限の中に収められているのです。

 そのため人間は神を感じ、霊的な世界を感じたとしても、あくまでも有限の能力によって感じ、限られた知力の中で考えることが出来るだけです。神を完全に感じることも知ることもかなわず、霊的世界を説明しきることもできません。わずかに可能なだけです。そのうえ現在の私たちは、罪によって霊的能力が曇らされ、知的能力も曲げられ、神からのコミュニケーションは極めて限られているという、大きなハンディキャップのために、まさに不充分極まりないのです。そのために霊的な事柄を迷信だと笑ったり、何もわからないままに恐れたりするのです。大胆に悪霊を追い出していたイエス様の弟子たちでさえ、こともあろうにイエス様を幽霊と見間違って、恐怖のあまり叫び声をあげたほどです。(マタイ14:26)イエス様の弟子となって働いていたとはいえ、霊的世界のすべてを理解していたのではないからです。

救いのために与えられた文字で書かれた律法

 ただ神は、罪によって心に書かれた律法を読む目が曇らされ、霊的な本能が曖昧になり、神のことが分からなくなってしまった人間に、ご自分の姿を再び明瞭に教え、罪とその結果から救い出そうとしてくださいました。そために、イスラエルというひとつの民族を選び出し、これに、文字で書かれた律法である旧約聖書を与えてくださったのです。この文字で書かれた律法という、神からの新たな啓示によって、私たち人間は今、私たちの心に記された律法だけでは決して知り得ない、神の様々な性質やお心、あるいはご計画について知ることができるようになりました。

 律法は人間の宗教意識が作り上げたものではありません。人間が自分の本能や知識を駆使して考えたものでもありません。それは、神がご自分を示し、ご自分の計画を教え、救い主の到来を伝えるために、一方的に与えてくださったものなのです。特に、人類に対する神の救いのご計画とその遂行については、この文字で書かれた律法と、それに続いて与えられた新約聖書がなくては、まったく知りようがないのです。

 心に書かれた律法、パウロが「自分自身が自分に対する律法です」と言った律法は、人間が造られたとき、神のみ心にかなった生き方ができるようにと与えられた、人間の本質的な姿です。(ローマ2:14) これによって人間は、本能的に、理屈なしに、人間としての生き方をし、人間社会を築いて行けるようにされていたのです。それに対して文字で書かれた律法は、罪を犯して悪魔の支配に陥り、惨めな生活をしながら永遠の滅びを待つようになった人間を、哀れにお思いになった神が、人間の救いのための準備としてお与えになったものです。
 
文字で書かれた律法を知らなかった異邦人

 問題は、私たちのような異邦人が、いまでも、文字で書かれた律法については無知のままだということです。キリストが来てくださった当時、すでに2000年にもわたって神の教導を受け、律法も与えられていたイスラエル人には、救い主、すなわちキリストの到来と教えと働きについては、かなり明瞭に理解できたはずでした。しかし異邦人である日本人は、神についての知識も、そのお心についても、救いのご計画についても何ひとつ知らされないで来たのです。その無知な私たちの同胞が、いま、どのようにして神について知り、その救いのご計画について理解し、無代価で提供されているキリストによる救い、すなわち信仰による救いを、受け取ることが出来るかということなのです。

 その上、現代の私たち日本人は、イスラエル民族を通して与えられた律法、すなわち聖書の教えにはほ、とんど関心を持たずむしろ拒絶しているという、異邦人の中でも特異な民族です。その点について筆者は、すでに様々な文章で取り扱ってきましたので、ここで深入りはしません。ただ、日本人のそのような態度の主な理由は、この教えが、植民地政策を推し進める国の人々によって、伝えられたことによるという点だけは言っておきたいと思います。

 植民地主義者たちの侵略を退けようとして、秀吉や家康は、キリスト教に対する激しい迫害を行いました。キリスト教そのものに憎しみを持ったからではありません。さらに二代将軍はキリスト教禁止令という国策によって、植民地政策を推し進めていた国家から、日本を守ろうとしました。宗門帳や檀家制度などの仏教を利用した弾圧と、5人組などの日本社会の仕組みをたくみに用いた、反キリスト教キャンペーンが功を奏して、日本は中南米諸国やフィリピンのような、カトリック国の植民地にはならずにすみました。しかし250年ほども続いたその陰鬱な弾圧の歴史が、現在に至るまで日本人の心に暗い影を落とし、キリスト教に対して恐れと懐疑を抱かせ、よくても冷淡に近い態度を取り続けさせています。「触らぬ神に祟りなし」なのです。

 その上、イスラエル民族を通して提供された救いを先に知った、西欧のキリスト教徒たちは、そういう暗い影をもった日本人に対して、文字で書かれた律法という日本人のあずかり知らない決め事をもって、日本の文化を偶像文化と糾弾し、日本人を罪人と断じることから、伝道をはじめたのです。彼らの働きを通して救いを得たわずかの日本人たちも、彼らに倣って、自分たちの宗教文化を神の律法に背くものとして見下し、散々卑しめたのです。その結果、彼らの伝道の熱意に反比例して、多くの日本人の反感を増幅させてしまいました。

 西欧から来た宣教師やキリスト教徒たちの美しい貢献は、多くの日本人も認めています。特に教育や福祉に関する事柄で、彼らが成し遂げた立派な働きは誰もが賞賛します。それなのに、キリスト教禁止令によって意図的に作られた、キリスト教に対する疑心暗鬼は、多くの日本人が自覚しないままでありながら、まだ払拭されないままになっているのです。その上、イスラエル人に対する教導として与えられた特異な律法を、そのまま日本人に適用する、致命的間違が日本人を頑なにしてしまいました。日本人の多くは、いまだにキリスト教を面妖な宗教であると感じているのです。

文字で書かれた律法の目的

 モーセの律法、すなわち文字で書かれた律法は、あくまでも、救い主を受け入れるにふさわしい民族とするために、神がイスラエル民族にお与えになった、様々な教えと定め事を記した書物です。さらに、広義で律法と呼ばれている旧約聖書全体には、実に様々なことがいろいろな文体で記されていますが、突き詰めると、やがて救い主が与えられるという約束であり、その約束の実現のためのイスラエルの歴史と、イスラエル人たちの反応と心情が記述されています。その中には、全人類にも適用できる普遍的な教えがあり、最終的には全人類に及ぶべき教えがたくさん含まれていますが、直接的にはイスラエル民族に与えられたのです。そのイスラエル民族に与えられた律法と教導を、いま、天地の創造者についてまったく知らない日本人に、そのまま適用するのは致命的な間違いなのです。

 イギリスにはイギリス人のための法律があり、アメリカにはアメリカ人の法律があります。その中には、全人類にも適用できる普遍性を持った部分もたくさんあることでしょう。あるいは全人類に向けて語られていると、解釈できる部分さえあることでしょう。しかしそれらはあくまでもイギリス人への法律であり、アメリカ人への法律です。他国の人々に適用されてはならないものです。旧約聖書がイギリスやアメリカの法律と異なっているのは、初めから、世界の救いという前提のために書かれている点です。それでも、世界中の人間への法律と解釈してはならないのです。

全人類に共通の律法

 世界中の人々に対する共通の律法は、別にあります。モーセの律法よりもはるか昔に与えられた、「心に記されている律法」であり、「自分自身」と言われているものです。(ローマ2:14〜15) その律法が教えることは、全人類に普遍的に与えられているのです。世界中の人々は、心に記された律法によって、社会生活を営むようにされているのです。

 それは第一に、神を敬い尊び礼拝することです。第二に、人間同士が助け合いながら平和に生きることでした。これは文字で書かれた律法でも、もっとも大切な二つの教え、すなわち神を愛し人を愛することとして定められ、心に記されている律法を明確にし、補佐しているのです。(マタイ22:36〜40) 文字で書かれた律法も心に記された律法も、同じ神から与えられたものだからです。

 この心に記された律法があるため、たとえ罪によって神から隔離され、何代にもわたって神から離れた人間社会をめんめんと形成し、すっかり神のことが分からなくなってしまったとしても、人間は心の奥に本能的に宗教性を抱いているのです。だからこそ、人間の歴史が始まって以来、時や所を問わず、人種や文化にかかわらず、かならず宗教的思いの発露がありました。中には非常に堕落した宗教感覚もありますが、かなり純真な感覚が残っていることもあります。

心に記された律法をより純粋に保持している日本人

 日本人は特にこの純真な感覚に優れた民族の一つだと思います。目に見えず、耳に聞こえず、手で触れることもできないにもかかわらず、気高く尊く大きく優しく力強い存在を感じ、神や神々とは別の存在、別の神、神という言葉では表せない神として、密かに大切にしているのです。日本人の宗教感覚の優れた点は、日本人のこの礼拝対象にあります。日本人は目に見えない存在を目に見えないまま、目に見えないものとして礼拝しています。だから礼拝の対象を絵に描いたり像に刻んだりしません。(ローマ1:18〜32)

 あるいは、自分の礼拝する対象に無限の気高さを感じるために、有限の人間の知恵と言葉で、説明しようともしません。禅宗で不立文字(ふりゅうもんじ)が教えられる前から、日本人の宗教意識の最も奥深いところ、あるいは最も高いところにあった感覚が、まさに不立文字だったのです。すなわち、文字や言葉では表すことができない存在に対する、畏敬と感謝だったのです。日本人は文字で書かれた律法は知りませんが、心に記された律法を大切にして、より純粋な形で保持しているのです。

日本人の精神の土台・神道的感覚

 日本人の宗教は神道と仏教だと言われていますが、本来の日本人の心の故郷は仏教ではなく神道です。神道はまさに日本固有の宗教であり、日本人の宗教感覚の発露です。日本の文化習慣の中で、葬儀と親族関係にまつわることの多くは、仏教に取り仕切られていますが、精神文化全体はやはり神道的な感覚という土台に立つものです。

 この神道は、自分たちの礼拝対象を言葉では説明しないという、実に優れた一面を持ちながら、その美点のために多くの混乱ももたらしています。それは大きな神社に祀られる神々から、道端の小さな祠に祀られている神々に至るまで、あるいは天照大神から犬・猫・蛇の神々まで、さらにはさまざまな化け物や妖怪や魑魅魍魎に至るまで、雑多にまた混然と神あるいは神々という言葉で表現される、多神論的信仰体系となっているのです。ここに仏教が入ってきたとき、日本人は、苦も無くそれを自分たちの信仰の枠組みの中に、取り入れることが出来ました。仏教もまた、神道の要素を取り入れ神仏習合が進んで行きました。

 よく言われる「侘び寂の文化」も、ふつうに言われるような、仏教の背景を色濃く持つ茶の精神というよりも、もっともっと古くからあった日本人の神道的感覚が、そのような場で花開いたものだと考えます。侘び寂は仏教や茶道に固有というより、むしろ、日本人固有の感覚として定着しているからです。たとえば、現存する古い仏像の多くは、侘びとか寂に通じるものと言われていますが、それらの多くの元々の姿は、侘び寂とは程遠く金箔の輝くものでした。現代日本人の多くも、黄金色の眩い仏像よりくすんだ仏像を喜ぶ感覚を持っています。ところが今でも、新しく仏像を造るときには、金箔を貼るのが普通です。仏教そのものは、侘び寂ではないからです。金箔を貼ったり塗料を塗ったりしない自然な木目に、あるいは砂と土をざっくりと練り上げて素朴に焼いた磁器に、飾らない、手を加えない、そのままに残して説明しない、神道に通じる日本人的感覚が通るのです。

より高度な神道的感覚と通俗的な神道的感覚

 このような神道的感覚をきちっと整理して語るのは、困難を極めることでしょう。とは言え、これを大きく二つに分けることが可能だと考えます。ひとつは、見えない存在、聞こえない存在、絵でも像でも言葉でも説明もできない、気高い存在をそのまま崇める感覚です。もう一つは見えないまま、聞こえないまま、説明が出来ないままでは納得できない通俗的な心が、何とかして説明しようと試みて堕落してしまった感覚です。それが、様々な空想や恐れや人間社会の出来事と混ぜ合わされて、神話ができ、堕落した人間の臭気がふんぷんとする神々が、作り出されて行くことになったのです。

 難しいのは、この高い宗教感覚と通俗的宗教感覚が、少しの切れ目もなく、日本人の心の中で渾然と存在していることです。聖書の記述をもとに推察すると、高い神意識は、神をあくまでも目に見えないお方として偶像化しない、神に似せて作られた人間の本性をより強く残している部分です。通俗的神意識は、見えない神を何とかもっと具体的に感じることが出来るように、見える神にしたいという欲求によって、動物や植物、あるいは山や海、木や天体などに変えてしまった部分です。

 高度な神意識は、神を人間の思考や理論を超絶した存在として、言葉では表現できないと認め、何の説明もしないままに残しています。それをあえて説明しようとすると、通俗的な神道感覚になり、陳腐な擬人化された神話の創作が始まり、堕落した人間社会と変わらない神々の世界になってしまうのです。古事記や日本書紀に記された神話は、まさにそのようなものです。

神なんぞ存在しないという神道的感覚

 日本人の多くは、神なんて存在しないと言ってはばかりません。このとき彼らがいう神とは、この通俗的な低い神意識でいう神なのです。神なんていないと公言している同じ人たちが、宗教心を大切にして、決して宗教そのものを嘲笑しないのは、自分の中にある高い神道的神意識を、自覚しないままに感じているためです。日本人の多くは、たとえ唯物論者になったとても、このような高度な宗教感覚を否定しきれませんでした。神に似せて造られた人間には、神に似た霊的な姿が本能として残っていて、その本能が神道的表現として出てくるのです。

 日本人の宗教を多神教だという人たちは、この日本人の宗教感覚を理解していません。八百万の神々という言葉に象徴される多神教は、日本人の低級な宗教意識の反映で、まさに単に人間より強い存在、あるいは何らかの面で上の存在、すなわち何かにおいて優れた能力を持ったものたちの集合にすぎません。「神」とは上を意味する「かみ」から来たのです。それに対して、日本人の高い神意識は、目に見えず、耳に聞こえず、言葉でも表現できない気高い存在を感じて、良くは分からないままにもこの存在を大切にし、この存在に命をいただいている、生かしていただいている、必要なものすべてをいただいていると感じて、密かに感謝しているのです。

 とは言え、日本人の通俗的な神道感覚が、まったくの間違いなのではありません。ただ、「神」という言葉が混乱をもたらしているだけです。日本人は、神に似せて造られた人間としての本能によって、霊的次元を感じ取り、様々な霊的な存在を認めてきました。それらの霊的な存在を、神々という言葉で表現しただけの話で、ご自分を「ありてあるもの」と紹介してくださった神とは、まったく次元の異なった存在なのです。聖書を読むと、日本人が感じて来たこのような霊的世界が、聖書の中でも認められ、キリストも弟子たちも、それを前提として活動しておられたのです。特に、より明確な啓示である新約聖書では、日本人が神々と名付けたり精霊と呼んだりする存在は、悪霊とかみ使いとかいう表現で現わされている通りです。

 聖書を通してご自分を啓示して下さったお方、天地を創造し人間をお造りくださったお方は、本来の日本語では神ではないお方です。日本人が神と呼ばない、名前のないお方、姿も見えず声も聞こえないお方、心で感じ、畏敬の念を持って崇め感謝を捧げて来たお方こそ、聖書でご自分を啓示して下さったお方なのです。

情をお持ちになる方

 日本人はまた、この存在を、短なる宇宙の真理とか力とか定理とかいう、情を持たない冷たいものとして放っておかず、むしろ愛し憎みまた喜び悲しむ、意識と情を持った「お方」と認識したのです。とは言え、その情はべたべたとくっつく情ではなく、遠く離れながら決して離さず、幸せを願いすべての物事を整え、じっと暖かく見守っていてくださる情でした。まさにそれは、罪を犯した人間を追放しながら完全に無縁にならず、ずっと支え続けて救いの道を準備して下さった、天地の創造者であるお方を思わせるものです。一羽の雀が、地に落ちて死ぬこともご存知の上で、許しておられるお方です。

 これは豊かで温和な自然環境に恵まれ、他の民族に蹂躙されることもなかった日本で、多くの人々が普通に思い描く気高い存在です。この優しく包み込む自然は、優しく包み込む気高く尊い存在を想い起こさせたのです。険しく厳しい自然環境の中で、多くの異民族との戦いに継ぐ戦いの中で生き、神の民にふさわしく成長すべく、試練と懲罰とをを受けながら不従順と反抗とをくり返し、長く過酷な星霜を過ごさなければならなかったイスラエル民族には、同じ神が恐ろしく峻厳な神と思われたことでしょう。

 その恐ろしい神のイメージを、「父」という優しい呼び方をもって、表現し直したのがキリストです。多くの日本人には、聖書に記されている父なる神という言い方が、あたかも厳しく恐ろしい神を表現しているかのように思われていますが、実はまったく反対で、「慈父のような神」という、優しさを現わした言葉なのです。有名な放蕩息子の譬えは、まさにそのような神のイメージを際立たせています。(ルカ15:11〜32)

 使徒パウロは、「アバ父」という特異な言い方で、慈愛に富む神を表現しました。(ローマ8:15)これはキリストが用いておられたアラム語の「父」、すなわち「アバ」と、新約聖書が書かれたギリシヤ語の「父」を、重ね合わせた表現です。また「アバ」には堅苦しい父のイメージがなく、日常生活の中で頻繁に使われていたもので、幼児語だったとも言われています。キリストが「父なる神」についてお語りになったとき、たぶん、この「アバ」という言葉をお用いになったのではないかと思われます。

母なる神としての創造者

 昔、ウーマンリブが盛んだったころ、「父なる神」は女性差別だと言われ、「母なる神」と翻訳された、「Mother Bible」なるものが出版されたと、噂で聞いたことがあります。本当にそんな聖書が出されたのかどうか、興味もないので調べたこともありませんが、ひとつはっきりさせておかなければならないのは、神に性別はなく、男でも女でもないということです。むしろ男の特性と女の特性を完全な形で兼ね備えておられるのが、私たちの神です。人間が神に似せて造られたというのは、一人の男が神に似せて造られたのでも、一人の女が神に似せて造られたのでもなく、男と女が一つとされて、神のイメージをよりまどかに現わすものとされたのだと思います。(創世記1:26)

 父のイメージが強く表れている旧約聖書の神にも、母のイメージを被せられた表現も出てきます。旧約聖書の時代から、神の優しさ、愛情の深さは、母のイメージで表現されていたのです。(イザヤ66:12〜13)また、父と母が並列されて、人間に対する神の愛情の深さが語られた場合もあります。(詩27:10) 「たとえ、女が自分の乳飲み子を忘れても、神はお忘れにならない」というよく知られた表現でも、神の中の母のイメージが強調されています。(イザヤ49:15)

 優しく穏やかな恵み深い自然に囲まれ、その中に神的なものを認めて来た日本人は、たしかにその自然と重ね合わせた神感覚を抱いています。母なる大地という言葉と母なる神という感覚が重なるのです。しかし、もしも私たちが、聖書にご自分を啓示しておられるお方を正しく認識するならば、このお方こそ、まさに母なる神でもあられるのです。

日本人が求めている神・聖書の神

 日本人は情緒的な民族です。もちろん法律も契約も存在しますし、それら高く掲げてもいます。日本は法治国家だからです。それでいながら、情による超法的な判断や判決も受け入れられています。特に日常的な事柄においては、法だとか正義だとかいうものを前面に出し、振り回し、杓子定規に考える人間を軽蔑する傾向があります。三方一両損のような大岡裁きに人気があるのです。日本人の特徴はその情にあります。情の分からない人間は人間として未熟です。酸いも甘いも嚙み分けるのが、大人の人間だと考えられるのです。

 その点、西欧から来たキリスト教の神は、日本人の肌に合わないのです。なんでも白黒で決着をつけたがるからです。正義が重んじられ、正直が尊ばれ、嘘が憎まれます。「ハイはハイ。イイエはイイエ」というキリストの教えが、おかしく理解されて適用されています。間違って貼り付けられた旧約聖書の父なる神のイメージが、日本人に嫌われるのです。ところが、聖書の神は西欧から来たキリスト教の神とは、別の顔を持っています。

 聖書の神は、「犠牲よりも憐れみ」を好まれる神です。(マタイ12:7) 厳格な律法の適用よりも、情けを大切にされるのです。西欧的キリスト教徒は認めたくないと思いますが、神は、嘘さえお用いになっています。聖書の中には、嘘をついた人間がその嘘のために神から祝福を受けた例が、いくつも記されていまし、キリストも嘘をついています。父なる神ご自身が、罪を犯した人間は必ず死ぬと宣言されても、その人が悔い改めるならば生きるとおっしゃり、嘘をひとつのレトリックとして用いておられるのです。その嘘を単なる嘘としてではなく、神の愛の情の発露として用いておられるのです。

 贖いのみ業自体が、愛という情のために起こった出来事です。正義を貫くだけならば、十字架は不要です。正義を犠牲にしないで、愛を貫くために贖いが遂行されたのです。放蕩息子の父親は、正義を執行しなかったばかりか、正義の正論を吐いた長男をたしなめています。姦淫の場で捕えられた女を、イエス様は石打ちにすることを望まれませんでした。大岡裁きは三方一両損ですが、神の裁きは、神だけが大損をするキリストの十字架の死でした。

 日本人に福音を語るとき、日本人が知らない文字で書かれた律法を通して語るのではなく、日本人の心にも書かれている律法を通して語るべきです。日本人を偶像礼拝の罪人と見るのではなく、見えない神を見えないままに礼拝している人々と理解して、私たちもまた、見えない神を見えないままに礼拝している、同じ人間であることを語るべきです。確かに、日本人も偶像礼拝の要素をたくさん持っています。しかしそれらの偶像のほとんどは、見えない神、真実の神を偶像化したものではなく、「神々」という全く異なる次元のものの、可視化に過ぎないことを知らなければなりません。

偶像と依代(よりしろ)

 日本人は神社を建て、ご神体と呼ばれるものを祀り、それらに向かって礼拝(らいはい)します。表面的に見るとこれは偶像礼拝だと思われます。しかし、日本人が神社に参拝するとき、決して偶像を拝んでいるのではないのです。伊勢神宮に参拝した西行法師が礼拝したのは、神宮が祀る天照大神でも、その偶像でもありません。神宮に偶像はないのです。また彼は真言宗の僧侶でしたが、ここで彼が感じ拝んだのは、仏でもなかったわけです。彼は、「どのような方か分からないお方」を、「なにごとのおはしますかはしらねども」と言って、礼拝しているのです。

 殆どの日本の神社には、ご神体という言葉はあっても、ご神体は実在しません。何かが置かれていたとしても、それはご神体ではありません。それは依代にすぎないのです。また神社自体が大きな依代なのです。依代という言葉がもうあまり使われなくなっていますので、説明が必要かもしれません。普通は霊的なものが宿るものという意味ですが、ここでは、「目に見えない、手で触れることもできない、言葉でも説明できない実体を象徴し、その象徴を通して実態を実感できるようにしたもの」という意味で用います。きわめて偶像に近い、類似した存在ですが、偶像にはなっていないのです。

 たいへん興味深いことに、徹底的に偶像礼拝を禁止したモーセの律法の中に、この依代が取り入れられ、定められているのです。それらの依代は神の臨在を示すものですが、神は遍在のお方であり、いつでも、どこにでもいらっしゃるお方ですから、私はここにいるなどと言わなくても良いお方のはずです。しかし、人間の弱さなどの要因に配慮して、神はご自分の臨在を示す依代をお与えになったのです。それはまず、会見の幕屋といわれる天幕であり、それが固定化した神殿です。ソロモンは神殿を建て終わったときに、「神はこのような建物にはお住みにならない」と、まるで神殿の価値を損なうようなことを言っています。しかし、神殿は神の臨在を象徴し、人間にそれを思い起こさせる役割を果たしたのです。同時にまた、神は罪人と距離を置かれるということも示していました。

 神がお与えになった依代の、さらに顕著な例は、会見の幕屋の中でより強く神の臨在を示すといわれた聖所であり、その一部でさらに聖いといわれた至聖所であり、そこに安置されていた契約の箱です。契約の箱は神の箱とも呼ばれ、神の臨在を非常に強く示すものであり、不用意に取り扱うとたちまち死が待ち受けていました。(Uサムエル6:2〜11) その箱の中に収められていた三つの物、アロンの杖とマナと十戒が刻まれた石板も、神の臨在を強烈に示していました。モーセが「ありてある」お方にお会いした、あの燃える柴のあった土地も、燃える柴自体も、依代だったと考えられます。(出エジプト3:〜6)

 モーセの律法で認められ、イスラエルの歴史の中で重要な役割を果たしたこれらの依代は、偶像ではありませんでした。イスラエル人たちは、これらの依代に向かって礼拝をしたのですが、偶像ではなかったのです。ではなぜ、日本人の見えないお方に対する信仰心の表現である依代が、偶像として非難されなければならないのでしょう。むしろ、非難されてはならないものであり、大切にされるべきものではないでしょうか。

 私たちは、神社やその中に収められていることもある依代を糾弾するのではなく、むしろ、それらを通して見えないお方、「ありてある」と仰せられるお方について、お話しすることが出来るはずです。幕屋、聖所、至聖所、そしてそこに安置された契約の箱と、その中に収められた三つのものという、モーセの律法で定められた依代と、神道の依代に共通性を見て、そこから天地を創造されたお方について、話ができるのです。日本人は文字で書かれた律法を持たず、心に記された律法だけで、ここまでたどり着き、これほど真摯に見えないお方を崇めているのです。

万物に潜む唯一のお方

 日本人は、すべての自然物に、目に見えない霊的な存在が潜んでいると、感じています。被造物を通してご自分を現わしておられる、目に見えないお方を目に見えないままに感じて、目に見えないままに礼拝しているのです。(ローマ1:19〜20) それが低俗な信仰心になると、精霊や魑魅魍魎の類になってしまいますが、高度な信仰心では、目に見えない、大きく、気高いお方が、潜んでおられると感じています。しかも、いろいろな日本人と話してみると、この目に見えない気高いお方はたくさんいらっしゃるのではなく、お一人に違いないと感じている人が多いのです。この感覚をきちっと説明できる人に出会ったことはありませんが、多くの日本人はたくさんの神々ではなく、唯一の神を感じていると言って、間違いなさそうです。

 では、名だたる神社に祀られている有名な神々を、日本人はどのように理解しているのでしょう。これも定かな答えを得ることはできませんが、どうやら、それらの神々は唯一の神の象徴、あるいは権化(仏教の言葉ですが)、垂迹(本地垂迹の垂迹、仏が日本では神道の神として、仮の姿をとったという考え方の仮の姿)仮の姿、見えない存在者のある面を現わしたものなどと考えているようです。太陽を擬人化した天照大神は女神であって、まさに母なる神ですが、それは、あらゆる命と恵みの源である、見えない存在の性質を現わしたものです。日本人はあたかも太陽を礼拝しているように見えますが、それは物質としての太陽ではなく、太陽に現わされている見えないお方を礼拝しているのです。

 日本には八百万と言われる神々が存在します。しかし、それらは単なる「うえ」の存在であるという「かみ」に過ぎず、礼拝の対象ではありません。礼拝の対象は、目に見えない、気高く、尊く、恵みに溢れた、力強いお方であり、あらゆる命の源であられるお方なのです。ただ日本人は、ギリシヤ思考に影響された西欧のキリスト教徒たちとは違って、このお方を説明しようなどと思わず、神学を構築しようなどとも考えません。そのために、きわめて曖昧な意識に留まって、自分でも良く分からないまま、心に記された律法に頼って、感覚で礼拝をしているのです。

 日本人の礼拝を偶像礼拝だと言って非難せずに、むしろ日本人は、文字で書かれた律法で、改めて自己啓示をしてくださった天地創造の神を、心に記された律法に従って礼拝しているのであると、考えるのが良いと思います。私たちクリスチャンと同じ神を礼拝していると、理解するのです。もちろん、心に記された律法は文字で書かれた律法のような知的なものではありません。むしろ本能的感覚です。その中には、罪のために捻じ曲げられたり、壊れたりした部分もあることでしょう。理解不足のための間違いもあれば、欠陥もあることでしょう。しかし糾弾するのではなく、同調と同情を持って、日本人の信仰を受け入れてあげることができます。アテネの偶像礼拝者たちを前にして、パウロが取ったと同じアプローチをするのです。

 あとは、日本人が知らないで礼拝しているお方、本能で崇めているお方が、天地の創造者であると教えて上げるだけでいいのです。この天地の創造者が、万物を超越し、万物を貫き、万物の内に住み、万物を内に収めておられる方であると教えてあげるのです。(エペソ4:6、使途17:28)

罪と恥

 ルース・ベネディクトというアメリカの人文学者は、戦後まもなく出版した著書「菊と刀」の中で、人間関係をもっとも重要視している日本人は、恥の意識は強く持っているけれども、絶対者を信じていないために、罪の意識には欠けているというようなことを言っているそうです。日本に足を踏み入れたこともない人が、よくもここまで、日本文化と日本人の意識について分析できたものだと感心します。ただしこの分析は、キリスト教文化圏にいる人が、キリスト教的な判断をしただけで、正しいとは思えません。

 確かに日本人は、長い間、非常に強い定着文化の中に生きていたために、密接な人間関係の中で倫理観を育てて来ました。そこで互いの目を気にし合って、恥の感覚を増したことは充分に考えられます。それで、その人間関係の縛りが弱まると、「旅の恥はかき捨て」などということになるのも自然です。しかし日本人にも、強い罪意識があることを知らなければなりません。キリスト教文化の罪意識とは幾分異なっているとはいえ、罪意識がないというのは極めて乱暴です。

 アメリカの日曜学校で神様の絵を描かせたところ、子供の一人が、全身がたくさんの目で覆われている、翼を持った人間の姿を描いたという話を聞いたことがあります。神様の姿を描かせること自体が愚の骨頂ですが、キリスト教文化の罪意識は、いつでもどこでも見張っておられる、怖い神様の刑罰が恐ろしいという罪意識です。この神が定められた律法に違反してはならないのに、自分はどこかで違反してしまっているかもしれないという疑念です。

 ところが多くの日本人の罪意識は、怖い絶対者に対する恐れではありません。むしろ、自分自身に対する恥です。他人の目を恥じるよりも、自分自身に恥じるのです。自分自身の心に書かれている律法に恥じているのです。これを日本人は普通、良心に恥じると言います。これはとりもなおさず、心に記されている律法に照らし合わせて、自分は足りない、不足しているという感覚なのです。

 その感覚は、目に見えない気高く尊いお方を怖がることには、直接つながりません。日本人が感じているこの至高のお方は、罰するお方ではなくお赦しになるお方だと、感じられているからです。それでいながら日本人は、この目に見えないお方の前に出ることを恥じるのです。それは自分がこのお方にはふさわしくない、何かが不足している、欠けている、申し訳ないと本能的に感じるからです。自分の良心に、気高い方の姿を重ねているのです。

 だから、具体的にどのような罪があるから、どんな悪いことをしたからというよりも、自分はこのお方の前に出るにはふさわしくない、穢れた存在だと感じているのです。罪意識というよりは、穢れの意識と言うほうがよいかもしれません。これは律法を破ったからという恐れの罪意識よりも、ずっと深い罪意識です。

日本人の罪意識の高さ

 日本人の罪意識の高さは、その倫理観の高さに現れています。もちろん、悪い人間はどこにでもいます。日本も例外ではありません。それでも、落とした財布がかえって来る確立が、非常に高い国が日本です。犯罪率が異常に低い国が日本です。筆者はちゃらんぽらんな人間ですから、車のドアに鍵をかけることはまずありません。でも、盗難に遭ったことはありません。長く住んでいた「キリスト教国」を自認する国では、どんなに鍵をかけていても、幾度も盗難に遭いました。

 敗戦後、大陸から引き揚げてくる大勢の日本人たちを、船で運ぶ任務に就いたアメリカ兵たちは、極限状態の中でも老若男女が規律正しく行動する姿を見て、一様に驚嘆しまた賞賛しています。それと同じ精神が、東日本大震災のときにも、熊本大震災のときにも現れていました。同じような天災に傷つけられた国々に見られた、暴動や略奪はまったくなかったのです。警察どころか軍隊まで出動して、自動小銃を持って警護していても、あまりに多い暴徒や略奪者を前にして、何もすることができない海外の様子が、幾度も報道されていました。

 これは法律だとか刑罰の問題ではありません。人間としての行動の問題です。人間を尊び合い、愛し合い、助け合うという、心に記された律法に従っているのです。この事実を私たちが認め、日本人の中にしっかりと残っている、神の姿を認めて上げることが肝要です。

 聖書が教える罪を理解してもらう

 もちろん、すべての日本人にこのような感覚があるというのではありません。また、その感覚が恥の感覚よりも強いというのでもありません。ただ、日本人の罪意識は一般に、キリスト教文化の中で育った人たちの罪意識よりも強く、深いところにあるということです。なじみのない文字で書かれた律法をもってではなく、まず、心に書かれた律法という、全人類に共通の律法をもって接触するならば、日本人にも聖書の教えを理解してもらえるはずです。日本人の穢れの意識、あるいはふさわしくないという怖れの意識から、聖書が教える罪の自覚に導くのが、より効果的だと思います。

 日本人は強い穢れの意識をもっているために、神社の境内には必ずと言ってよいほど、清めのための水が置かれています。しかもその水が自分の穢れを完全に洗い流すとは感じられず、怖れとおののきをもって礼拝するのです。とはいえ、その穢れや罪の意識が希薄な日本人もたくさんいます。自分が犯した犯罪に対してきちっとした謝罪も償いもしないまま、勝手に禊(みそぎ)をすませ、水に流してしまうところは、大いに糾弾されるべきだと考えます。日本人には強い罪意識と共に、人間は罪を糾弾し尽くすのではなく、赦すことも知らなければならないという温和な集団主義と、恵み深い母なる神は赦してくださるにちがいないという、甘えがあるのです。その甘えを通して、徹頭徹尾お赦しになる神について語ることも可能です。

 ただ少なからず心配なのは、聖書が教える罪についての教えを、浅くしか理解していないクリスチャンが多いことです。教える宣教師や牧師の理解が、アメリカの日曜学校レベルなのかも知れません。それでは、到底、正しい罪の自覚に導くことはできません。神はイスラエル人に罪の自覚を持たせようと、ずいぶん苦労されました。キリストもユダヤ人たちに罪の自覚を持たせよとして、逆に憎まれています。日本人に罪の自覚を持たせるのは、それほど難しいとは思えません。

恩知らず・不孝と不義理

 日本人は、恵み深い母なる神を感じながら生きて来ました。しかしその神意識が、あまりにも薄くぼんやりとしているために、果たしてその恵みに充分な感謝を捧げてきただろうかと、不安に思うところもあります。

 人の恩に報いなければ、恩知らずと罵られます。苦労して育ててくれた親に感謝して大切にしなければ、親不孝と叱られます。日ごろの親切にお返しをしなければ、不義理を重ねていると批判されます。現代では少しずつ薄れているかもしれませんが、まだまだ多くの日本人に残っている大切な感覚です。

 では私たちは、目に見えない恵み深いお方に、その恵みと祝福にふさわしい感謝を捧げ、きちっとお礼をしてきたでしょうか。このお方のことが良く分からないこととあいまって、感謝もお礼もおろそかにしてきたというのが実感です。目に見えなく気高く恵み深いお方に対して、恩知らずな態度をとって、不孝や不義理を続けているという事実に気づいてもらい、申し訳ないという気持ちを強くしてもらうと、罪というものを律法と違反の関係としてではなく、神と人との間の問題、人間関係と同じ「道義の問題」として理解してもらえるはずです。

 罪というのは、本来、律法に対する違反ではなく、人間関係の道義に反することなのです。その道義に反することを具体的に表わしたのが律法です。まだまだ律法にはされていなくても、道義に反することはたくさんあります。時々間違って、法律に反していないから罪ではないと主張する人が・・・特に政治家たちの間にたくさんいます。たしかに法律に違反していないから、法律上は犯罪ではありませんが、道義に反しているならば罪なのです。

 気高く尊く恵みあふれるお方に対して、道義に反したことをしていたならば、文字で書かれた律法には明文化されていなくても、罪なのです。神の聖く正しい性質と愛の性質、そして感謝と礼拝を求める至高の性質に反しているならば、それは罪なのです。そのことは、たとえ文字では書かれていなくても、心に書かれた律法が教えてくれます。こうして罪の自覚に到達すると、当然、このような自分が、どうして聖く気高いお方に近づくことができるか、正しくふさわしい礼拝を捧げることができるかという、重要な問題に行き当たるのです。

救い主

 ここに至ってはじめて、神の赦しのご計画、救いのみ業について、意義深く話すことが出来るようになります。救い主の話も、十字架の話も、信仰による義も、悔い改めも、神が罪人を赦し、ご自分のみ許に引き寄せるためのものであると、感動的な愛の福音として語ることができるのです。造り主であるお方に対する感謝に溢れ、自分の罪意識がはっきりして、初めて十字架が感動的な愛の物語となるのです。文字で書かれた律法によって育てられていない日本人には、永遠の滅びの脅しと共に十字架を語っても、受け入れられることはまずありません。スポルジョンという稀代の名説教家は、「地獄の火の裁きの恐ろしさに、震え上がるような説教をせよ」と語ったそうですが、イギリスでの効果を日本で期待しても無理な話です。

 文字で書かれた律法によって救い主の到来を約束され、何世紀にもわたって待ち続けていたユダヤ人にとって、救い主への信仰は当然の条件でした。また、この律法に続く新約聖書によって救い主キリストの到来と働き、さらにその働きの結果である代価なしの救い、すなわち、信仰による救いを教えられていた、プロテスタント・キリスト教文化の人々にとっては、キリストの贖いの働きに対する信仰が要求されるのも、自然のことです。

 そしてここで言われる信仰とは、むしろ「信頼」と言った方が良い、あるいは分かりやすい心の状態です。人々は単純にキリストに信頼することによって、救いを得ることが出来たのです。それこそパウロが徹底して主張した信仰による義であり、普遍的な福音、つまり、全世界の人々への福音でした。

 しかし、救い主について何の予備知識もない人々、文字で書かれた律法もそれに続く新約聖書も与えられていない日本人にとって、キリストへの信仰あるいは信頼は、非常につかみどころのないものです。日本人に福音を語るとき、キリストと十字架を最初に持ち出して、神の愛と救いから始めようとすると、大変困難なことになってしまいます。

 キリストの救いは行いによらないもの、代価によらないものです。ですからキリストの救いは、キリストの救いの神学を理解するという、「非常に困難な行い」によらないでも、得ることが出来るものであるはずです。そのような困難な行いを必要とさせないために、キリストは贖いを完成して下さったはずです。キリストの十字架による救いは、キリストの十字架による救いを知らなくても、理解できなくても得ることができるように、完遂されたものなのです。それでこそ、救い主です。

アブラハムの信仰

 パウロは、キリストへの信仰による救いを論証しているとき、突然、アブラハムが信仰によって義とされたという創世記の記述を持ち出して、自分の神学の正当性を主張しました。(ローマ4:1〜13、ガラテヤ3:6) パウロは、何の困難も感じないで、キリストへの信仰を、神への信仰に変えてしまったのです。キリストの出現よりも20世紀も前に生きたアブラハムは、キリストのキの字も知りませんでした。十字架についてもまったく無知でした。しかし、彼もキリストの贖いのみ業のゆえに、義とされることが出来たのです。アブラハムだけではなく、モーセやダビデをはじめとする旧訳時代の義人たちは、みな、キリストを知らないまま、キリストの十字架のゆえに救われているのです。彼らはキリストではなく、神に対する信頼によって、キリストの救いを獲得したのです。

 では私たち、律法を持たない日本人はどうでしょう。キリストすなわち救い主について、何の予備知識も与えられていないまま、キリストを信じなさいと言われても、無理な話です。日本人は、キリストを信じる前に、天地の創造者であるお方を、はっきりと認識する必要があるのです。そしてそのお方をしっかりと認め、そのお方を信頼することによって、日本人もアブラハムやダビデのように、そのお方が準備して下さったキリストの救いを得ることが出来るはずです。

いつ救われるのか

 アブラハムが義とされたと記述されている出来事には、アブラハムの罪の悔い改めも、罪の告白も、信仰告白さえもありませんでした。義とされた信仰自体が、救いに対する信仰ではありません。救いなどという言葉は、アブラハムには何の意味もありませんでした。アブラハムの信仰は、単なる、そして純真な意味での神への信頼です。神がおっしゃる通り、自分は年老いていても世継ぎの子供を持ち、その子供から子孫が増えて夜空の星の数ほどになる、神がそのように約束して下さるなら、そのようになると信じただけです。

 しかもその信仰は、堅く揺るぎのないものではありませんでした。神の約束の成就を待ちきれず、妻サライの言葉に乗って、エジプト人の召使との間に、子供をもうけてしまった通りです。それでも、パウロはアブラハムの信仰を強調し、その信仰は「堅く、 弱らなかった」と言っています。(ローマ4:18〜22) またへブル人への手紙の著者は、アブラハムだけではなく、妻サライの信仰さえ模範として引き出しています。(へブル11:11) 神はそれほど不確実な信仰さえ、義とするのに充分だと認めてくださり、パウロに「堅く、弱らなかった」とあえて言わせてくださったのです。そして、実際にアブラハムは信じ続けたのです。ただその信仰は、現代のプロテスタント信仰を教えられた私たちが見ると、はなはだ不確実なところもあったということです。それだけ、プロテスタント信仰は厳しいということです。

 アブラハムの信仰には波がありました。強くなったときも、弱くなったときもあったのです。しかもアブラハムが信仰を認められたのは、子供を与えるとおっしゃった神を信じた時、その瞬間ではありませんでした。アブラハムの信仰は、相続地を目指して旅を始めた時から、ずっと継続していたのであって、(へブル11:7〜12)「義と認められた」と言われたときは、彼の信仰態度がそこで改めて確認されたに過ぎないのです。ですから、ヤコブは信仰には行動が伴うことを強調して、アブラハムが義とされたのはイサクを捧げた時であると言えたのです。(ヤコブ2:21〜24) 厳格な聖書釈義によると、アブラハムは二度も義とされたことになってしまいます。

 私たちは、キリストの十字架の贖いを信じて罪を告白した時に救われるという、西欧プロテスタントの福音主義的伝統から脱却しなければなりません。いつ救われるのかというのは、人間が判断することではありません。信仰は一瞬の出来事であると同時に、継続的な心の変化でもあるのです。どこかの一瞬に凝縮される表現があったとしても、それだけを強調してはならないものです。

 私たちは、文字で書かれた律法を持たない日本人が、救われるにふさわしい信仰を持つにいたる道のりは、西欧キリスト教国の人々よりかなり長くなることを知っています。また、義と認められる瞬間がどこにあるか、充分に説明することはできません。天と地をお造りになったお方を認めて、そのお方に感謝し信頼を寄せたとき、つまり、アブラハムのような信仰を持ったときか、あるいは自分たちの感謝が足りず、不孝・不義理の罪を犯していたと気づき、お詫びを申し上げたときか、はたまた、キリストを通しての神の救いのご計画を知り、キリストが成し遂げてくださった十字架の贖いの御業を知り、感謝と悔い改めをもってキリストを救い主として信じたときか、大いに考える余地のあるところです。

誰を信じるのか

 ところが現実には、ほとんど何の考察も議論もないまま、キリストを信じる信仰が強調され、キリストを最初に語らなければ、正しい伝道ではないかのような感覚があるのです。筆者は、日本人が救われるために必要なのは、アブラハムのような信仰で良いのだと考えています。私たちがキリストを信じているか、十字架の贖いを理解しているかは問われないのです。そういうことが問われなくても良いように、キリストの完全な贖いのみ業が成し遂げられたのです。問われるのは、天地を創造し、人間を造り、生かし養っていてくださる神を信頼するかどうかです。その神は、キリストを通しての贖いを計画し、十字架をもってそのご計画を完遂して下さったほど、私たちを愛してくださるお方なのです。

 乳房にむしゃぶりつこうとする赤子に対して、自分の命を危険に晒して出産した母親が、自分の苦労と苦しみと決断の美しい話を理解しなければ、乳を与えないなどと言うことはありません。そんなことは、本来、子供が知らなくてもいいのです。子供は乳を飲み、愛を感じ、感謝と喜びを持って生きればそれで良いのです。母親は子供の知識に応えるのではなく、子供の信頼に応えるのです。信頼を得るだけで母親は満足なのです。もちろん、理解力ができてから母親の出産にまつわる話を聞けば、感謝と愛とがますます強くなり、母子の絆はいよいよ強くなることでしょう。

 文字で書かれた律法を持っていたイスラエル人が、キリストに対する信仰を問われたのは当然です。でもイスラエル民族の父であったアブラハムは、まだ律法を与えられていなかったとき、すなわち、異邦人と同じ立場にあったとき、天地創造の神だけを信頼して義とされたのです。しかもアブラハムは、天地創造の神が唯一絶対の神だとは、まだ理解していなかったように思われます。多くの神々の中で、最も力ある神であり、また信頼に足りる神であることを感じて、・・・学問的に比較宗教のリサーチをして理解したのではなく、体験を通して実感して、信頼したのです。

おわりに・日本人には日本人に適した福音の伝え方を

 私たちは、異邦人である日本人に対して、イスラエル人に対するような福音の伝え方をしてきました。また、西欧キリスト教文化に生まれ育った人たちに対する、伝統的な伝道の仕方を真似て、長い間くり返してきました。現在も、懲りずにくり返しています。まったく事情の異なる諸外国からの、成功した伝道者や牧師を招いて、一所懸命に彼らから学ぼうとしています。その努力は認めますが、何かが欠けています。

 高カロリーの食べ物でも、幼児には幼児にふさわしい調理をして与えます。老人には老人に喜んでもらえ、食べやすく消化しやすく、しかも栄養過多にならないように、料理に気を配ります。聖書を学び神学を学ぶことは大切です。しかし、その知識をどのように伝えるかによって、その学びを生かしも殺します。どのように伝えるべきかは、伝える相手を理解しなければ、知ることが出来ません。

 私たちは、私たちが福音を伝える相手、私たちの同胞、異邦人である日本人を理解しているでしょうか。その宗教性、信仰の感覚、霊的本能とその発露を、理解しようとして来たでしょうか。私たちは日本人だから、日本人を知っていると思い込んではいないでしょうか。あるいは、日本人も西欧人もアジア人もみな同じ人間だ、同じ罪人だと、大雑把に、いわゆる十把一絡げで対処して来たのではないでしょうか。

 そのような伝道方法でも、通用した民族もたくさんあります。日本人も、カトリックが入ってきたときの精神状態は、まだそれでもある程度通用したと思われます。またその時のカトリックの伝道は、主にイエズス会の融和的な伝道方法であったことも、大いに関係があるでしょう。しかし、現在はその時代と違います。カトリックの侵入に対して、仏教を用いた防御対策が国策として採られ、明治の開国時には、国家神道によって、新旧キリスト教に対する防御政策が敷かれました。その影響は、知ると知らないにかかわらず、現代の日本人の心にも色濃く沁み込んでいます。

 第二次世界大戦の後、マッカーサーによって実行されたアメリカの支配によって、キリスト教への期待、あるいは好感度はかなり上昇し、一時的に伝道がしやすい時期が訪れました。しかしその好感度は、ベトナム戦争におけるアメリカの理不尽さを見せられ、下降し続けています。さらにコミュニケーションや情報が格段に容易になって、アメリカをはじめとする西欧キリスト教文化にある国々の、身勝手さや醜さを知ることが出来るようになった現在、昭和20年代、あるいは30年代の伝道のしやすさは、もう日本にはないのです。

 いま私たちに必要なことは、福音を語る対象をしっかり学び、その対象にふさわしく福音を語ることです。日本人が福音だと感じるように、福音を語らなければなりません。その時に必要なのは、文字で書かれた律法を通して福音を語るのではなく、心に書かれた普遍的な律法を用いて、充分に天地の造り主、「ありてある」とおっしゃるお方を知ってもらい、そのお方に対する信頼を築けるようにしてあげることです。そのあとに、キリストの十字架をお話ししてあげるならば、文字で書かれた律法を持たない異邦人の日本人にも、福音が福音として伝わるのではないかと考えるのです。

 筆者はここ10年以上、このようなことを考え続け、折に触れて文章でも著して来ました。そして1年半ほど前から、実際に、このような方法で個人伝道を試みる機会がありました。その結果、80歳ほどの老夫婦が、困難な理屈のつまずきを体験することなく、素直に神を信じ、贖い主であるキリストを信じることができ、昨年の暮れには二人そろって洗礼を受けました。年齢のために、滴礼でしたが、私が薦めたのではなく、本人たちが強く望んだのです。夫はそれからわずか3ヶ月で、平安のうちに召されて行きました。

 この伝道法で救われた女性がもう一人います。不治の病のために入退院をくり返し、傍目から見ると悲惨な状態ですが、彼女も週一回、数ヶ月の短い訪問の結果、自分が幼いときから感じてきた、目に見えない尊いお方が天地を創造された神であると認め、「天地をお造りになった神様」と祈るようになりました。それから自分の恩知らず、不孝・不義理の罪を認め、悔い改め、救い主イエスの十字架に感謝するようになるまでは、ほんのわずかの期間でした。彼女への伝道の記録は、「私の個人伝道」という文章で、ブログ上で紹介していますので、お読みくだされば幸いです。






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2016年04月17日

心に書かれた律法と文字で書かれた律法

心に書かれた律法と文字で書かれた律法


                    2016年4月17日
                                   佐々木正明


 多くの動物には本能があります。誰も教えていないのに、生まれながらに持っている様々な能力や知識です。小さな鳥や昆虫が集団で何千キロメートルも危険な旅をして、間違いなく越冬地や繁殖地に到着するのも不思議です。小さな蝶がまだ幼虫の時には蟻の巣に運ばれ、蟻に餌をもらって蟻の好む甘い汁を出すことによって共生し、蟻に食べられてしまう危険がある成虫になる瞬間は、上手に蟻から離れて羽化するところなど、その賢さにおどろかされます。これ以外にも、多くの昆虫や生物は、生存し続けるための驚くような知恵を蓄え、とても人間の及ぶところではありません。その本能がなかったら、彼らは一瞬たりとも生き延びることはできません。

 この本能は動物たちが生きて行くためには絶対に必要なものとして、それぞれに、神がお与えになったものです。万物の創造神を信じることが出来ない進化論の説明では、決して納得が行くものではありません。何世代にもわたって修得するなどと言うことは、あり得ないと昔から証明されているからです。

 人間にも本能が与えられています。動物的な本能というか、他の動物が持っているものと同じ性質のものもあります。たとえば、哺乳動物として生まれてすぐに、誰にも教えられなくても母親の乳首をさがし、それを口に含みます。乳の吸い方も、誰に倣う必要もありません。お腹がいっぱいになると眠ります。

 高等動物になるほど、本能的な知識が少なくなり、後天的な習得による知識や能力が多くなります。狼もトラも、親から餌を確保する知恵と技術を学ばなければなりません。最も高等な動物である人間には、生きて行くための基本的な本能はごくわずかで、必要な多くのことは、後天的な経験や教育で修得されて行きます。

 神様は人間をお造りになるとき、特別に、人間だけに、神様に似た性質を与えてくださいました。それが人間の本能的部分の多くを形成して、人間を他の動物たちとは異なった生き物にしています。この人間に与えられた、他の動物には与えられていない本能、人間の人間たる基本的姿ともいうべきものが、パウロの言う「心に書かれている律法」です。(ロマ2:14〜15) 文字で書かれたてイスラエル民族に与えられた律法、すなわち旧約聖書ではない律法で、旧訳聖書を持たない人々にも与えられている律法です。これは人間が造られたときに与えられたもので、人間がどのように生きるべきかと言うことを、理屈ではなく、本能として与えられているもので、イスラエル人に与えられた律法よりも、ずっと先に与えられたものです。

 この心の律法には、人間が造り主である神を感じ、神を敬い、神と語らう祈りの気持ちが与えられています。それから、神に似たあらゆる良い性質が与えられています。愛、思いやり、情け、正義、平等、平和、聖さ、正直など、凡そ思いつくすべての良い性質が本能として与えられ、人間はこれらの本能を心の律法として駆使して、共に生きるべきでした。

 モーセを通してイスラエルに与えられた、文字で書かれた律法は、罪を犯して神から離れ、悪魔の支配する世界で滅びの生活し、やがては望みのない完全な滅びに陥らなければならない、過酷な宿命にある人間を憐れみ、神様が救いの道を教えるためにお与えになったものです。心の律法は、人間が人間として人間らしく生きるための本能であって、神様の美しい性質が写し与えられています。しかし、モーセを通して文字で書かれて与えられた律法は、滅びに陥った人間、悪魔に捕えられた人間を、悪魔から解放し、滅びから救い出すための、神の計画と実行が記されています。

 文字で書かれた律法も心に書かれた律法も、同じ神から与えられたものであり、本質は同じです。しかし、目的が明らかに違うのです。モーセの律法は、人類を滅亡から救うために、その器としてあるいは手段としてお選びになった、イスラエルという民族に与えられたのです。彼らがより良く神を理解し、神の御心とご計画を知り、神がやがてお送りになる救い主を迎え入れるために、そして救い主がその救いの働きをやり遂げるために、ふさわしい民族となるための、教育の書物、指導の書物だからです。

 くり返し神を裏切る堕落しきった民族を、神の器である民族に教導するために、旧訳聖書には、特殊な教えや特殊な取り扱いがたくさん書かれています。それは、同じ神がお与えになった心の律法とは、随分異なっているようにさえ思えます。普段は優しい父親が、悪いことをしてもそれを認めず、謝りもしない子供に対して、正しく教導するために非常に厳しく接するようなものです。父親が変わったのではなく、状況が変わったのです。

 すべての異邦人は、モーセを通して与えられた、文字で記された律法こそ所持していませんが、生活のための律法である心に書かれた律法は持っています。そしてこの心の律法の方が、文字で記された律法より先に与えられ、効力を発揮していました。モーセの律法さえ、この心の律法の選択にかかっていた、その判断にゆだねられていたのです。心の律法がなくては、モーセの律法さえ機能しないと言うことです。心に記された律法は人間が生きるべき基本を教えるものであり、文字で書かれた律法は、罪のために滅びに陥った人間が、いかにして救いを得ることが出来るかと言うことを教えたもので、機能、目的が違うのです。

 モーセの律法はしばしば、心の律法に訴えています。心の律法が機能していないのでは、モーセの律法も意味を持たないからです。心の律法の大切さについては、パウロも言及して語っています。「兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と呼ばれること、賞賛にあたいすることがあるならば、そのようなことに心を止めなさい」。(ピリピ4:8)パウロはイスラエル人以外の人々のあいだでも、さまざまな素晴らしい徳があることを認めて、それらを心にとめることを勧めました。

 キリストの教えの特徴、はその天真爛漫さにあると言った人がいますが、そのキリストの天真爛漫な教えの元は、モーセの律法に根差すと言うよりは、人間性の奥底に根付かせられている原則的な律法によるもとのと言えます。「空の鳥を見なさい。野の花を見なさ」などは、その最たるものです。

 私たちは心に記された律法と文字で記された律法の違い、目的と性質をはっきりと理解し、共に尊重しなければなりません。人間として人間らしく生きる原則は、本来モーセによる律法で学ぶべきではありません。モーセの律法の目的は、人類の救いです。しかしその中に、廃頽した人間の本性を矯正するような、補強の律法もふくまれているのです。モーセの律法でも最も大切な戒めとされている、神を愛し、他人を愛することなどは、まさにその例の一つです。イスラエル民族が、救い主を迎えるために、道徳的にも倫理的にもそれにふさわしい民族になるように、心に書かれた全人類に共通な律法が、改めて強調されたのです。

 しかし一方では、堕落した人類の中からイスラエルと言う民族を選び、これを教育指導していく働きは、困難を極めました。そういう特殊状況の中で、ときには、心に記された律法に反することも、行われなければなりませんでした。他民族との結婚が禁じられ、戦争が正当化され、場合によっては殺人も許されています。これは本来の人間性に反すること、すなわち、心に記された律法に反することです。しかし実際問題として、堕落して罪に縛られた人間たちが、民族を造り、国家を建てて隣接して生きなければならない中では、避け得ないのが実情です。

 問題はこのような特殊性を取り上げて、神は戦争を許している、殺人も許容していると言い出すことです。クリスチャンと言われる人たちの多くも、戦争や殺人は、本来許されるべきではないと考えていますが、実際は、神も許しておられるではないかと、自分たちの戦争や殺人を正当化しています。そして他宗教を迫害したり、弱い民族や国家に侵略したりしながら、植民地化を推し進め搾取と大量虐殺を続けていました。

 そのような西欧のキリスト教の流れの中で、「それは違うのじゃないか、間違っているのではないか」と、考え始めるクリスチャンたちがいました。彼らは、聖書の中に、特にキリストの天真爛漫な教えの中にある、基本的な人間性を大切にする教え、いわゆる、ヒューマニスティックな部分、人道主義的な部分に共感しました。自分たちの中にある心に記された律法に共鳴することを見つけ出したのです。当然と言えば当然なのですが、それらのクリスチャンの多くは、聖書が誤りのない神の言葉であることに、疑問を挟む傾向にありました。旧約聖書の特殊性を理解しなかった彼らは、聖書さえ、心の律法で取捨選択されるべきだと感じたのです。

 ところが、聖書は一点一画も誤りのない神の言葉だと信じる人々は、どちらかと言うと、心の律法、あるいはそこから派生する良心の叫びに耳を傾けるよりは、聖書の記述が神の言葉であり、その中にこそ、神の御心が明らかに示されていると考えました。すると、特定の状況の中では戦争も正当化され、殺人も許されることになってしまいます。そして悪いことに、その特定の状況を、自分たちに都合が良いように拡大して考えるようになって行くのです。古くは神の名によって行われた十字軍が良い例です。記憶にまだ新しいのは、神の名によって正当化されたベトナム戦争です。

 日本人は文字で書かれた律法を持っていません。心に記された律法を持っているだけです。日本人もたくさんの戦(いくさ)をくり返し、他民族との戦争も経験してきました。その中には多くの我田引水、自分勝手、我欲、その他の悪が紛れ混んでいたのも事実です。しかし、四つの海を国境としていた日本は、他民族との戦争をほとんど経験していないせいか、西欧キリスト教諸国のような、好戦的な民族、あるいは国家とはなりませんでした。彼らのような魂胆を持って他民族や国家を侵略し、その富を奪い、人種的差別を前面に押し立てて、虐殺をほしいままにするようなことは、滅多に行っていないのです。

 例外と思われる中国への侵略さえも、西欧キリスト教諸国の植民地政策に、後れを取ってはならないと始めたもので、実際のところ、バスに乗り遅れたのであり、日本軍の残虐行為と責められているものも、ほとんどは軍として組織的に行ったものではなく、規律を外れた散発的なものであり、戦争にはありがちなことでした。戦後のマッカーサーの支配の下で、勝者による勝者のための偏向教育を受け、残虐非道な日本というイメージを植え付けられて来た私たちも、そろそろ真実に気づくべきときだと思います。私たちは、アメリカに都合が良い日本になるように、作り上げられた歴史を教えられてきたのです。

 そのようなキリスト教国を嫌い、また恐れて、徳川幕府はキリスト教を弾圧し、外国との交渉を禁止しました。それから250年ほどもたって明治に入るときも、植民地政策の鼻息をますます荒くして、日本に接近してきた西欧キリスト教諸国を日本は嫌いました。嫌ったけれどもその力に抗しきれず、日本はついに国を開き、続いてこれも力に屈して信教の自由を認め、さらに続いてキリスト教の自由も認めました。ただ、日本の為政者たちは、流血や虐殺をいとわず武力で制覇する、西欧植民地主義の精神的支柱であるキリスト教だけは、何としても阻止しようと考えたのです。

 そのためにやったことが、血なまぐさいキリスト教に代えて、日本の精神的支柱になり得ると判断した国家神道を取り入れることでした。キリスト教の布教は、列強の圧迫によって許さざるを得なかったけれど、なんとかキリスト教の侵入は阻止しようと試みたのです。国家神道を、仏教とキリスト教の上にある「宗教ではない宗教」として祀りこれに国体を守るための祭儀を執り行わせ、キリスト教の勢いを抑えながら富国強兵を勧め、西欧キリスト教列強国と肩を並べようとしたのです。

 このころ、日本の指導者たちのキリスト教に対する思いには、相反するものがありました。一つは、西欧植民地主義国家の血塗られた宗教と言う好ましくない一面、もう一つは進んだ西欧諸国家の美しい精神文化という一面です。実際キリスト教の中にあった博愛、平等、教育、医療などについては、多くの有能な日本人たちが強い憧憬を寄せ、キリスト教を積極的に取り入れようとさえしました。

 確かにキリスト教には、この二つの相反するものが共に強く混在しています。どちらもキリスト教なのです。そのキリスト教を、いま筆者が語っている、文字で書かれた律法と心で書かれた律法という視点で見ると、だいぶ見渡しが良くなると思います。旧約聖書、つまり文字で書かれた律法を強調し、これをイスラエル民族という特殊な民族の特異な必要性のために与えられたものと理解せずに、全人類に適用しようとすると、血なまぐさく好戦的な侵略者国家の宗教となり、心に記された文字によらない律法を強く意識して聖書を理解している人は、愛と、憐れみに満ち、平等を好み、平和を愛し、争いを憎むキリスト教徒になると言うことです。

 すでに触れましたが、心に記された神の律法を強く意識しているクリスチャンは、どうしても、聖書をそのまま神の言葉として受け入れることが出来ない、人道主義的傾向に陥ります。旧約聖書の教えが、自分の心の倫理と合わない、自分の心の宗教と合わないと感じて、聖書の記述や教えを素直に神からのものと受け取ることが出来ないのです。それは、いま筆者が論じている、文字で書かれた律法と心に記されている律法について、考えてもみなかったためでもあります。

 このようなクリスチャンが、今、西欧ではどんどん増えて、結果として教会離れ、あるいは世俗化と言われる現象が、雪崩のように起こっていると言われています。そして、その人たちは容易に、世界中の良心的な人たち、あるいは自分の心の奥深くの要求、つまり神の姿の写しである麗しい本能の要求に敏感な人たちと心を繋ぎ、行動を共にすることが出来るようになっているのです。この世界中の良心的な人々は、決して、「心に記されている律法」という聖書の教えに気づいているわけではありません。ただ、自分の本能の欲求、あるいは人間性の要求に反応しているだけで、ヒューマニズムなのです。

 この心の欲求、本能的な要求の強弱は異なりますが、無神論者にも、共産主義者にも、回教徒にも、仏教徒にも、神道を奉じる人にも、どんな宗教を奉じる人にも必ず存在します。ところが、これらの人々が自分の麗しい本能の声に従い、一致して美しいことをやり遂げることは非常に難しいと言うより、事実上不可能です。それは、人間は自分の本能的感覚あるいは声に従って行動するより、自分の良心に従うことが多いためです。

 神に与えられた人間の本性は、生のままで、あるいはそのままで表現されることはまずありません。必ず、文化と言う環境に育てられ、影響されて、具体的に姿を現すのです。たとえ本質的な性質は同じでも、それぞれの文化土壌で発芽し形を現わすのです。それで、日本文化の中では日本的な良心が形成され、イタリヤではイタリヤ的な良心となります。キリスト教文化と言う中で生まれ育つと、キリスト教文化的な良心を抱き、回教徒の中で成長すると、回教徒としての良心をもって行動するようになります。そして環境に影響されたそれらの良心は、互いに異なった判断となり、異なった行動となります。

 その異なった良心は、自分たちの良心の判断で、人間性が犠牲にされたと感じると怒り、不平等に扱われていると思うと憤るのです。その怒りや憤りの度合いや、それをどう表現するかもまた文化によって異なります。その怒りや憤りを受けた人たちの反応もまた、それぞれずいぶん異なります。何の憐れみも示さず、数百万人、数千万人の人々を滅ぼした植民地主義者にも良心があり、善悪の判断がありました。自国の拡大と繁栄を願って覇権主義を続けている人たちにも、いままさに、非人道的で残酷なことを当然のように行っているISの人々にも、彼らの良心と善悪の判断があるのです。泥棒を生業にしている家族の中に生まれた子供は、泥棒の良心と倫理を持ち、正義を尊び追求する人々の中で教育を受けた人はまた、それなりの良心を持ちます。(パウロも、心に書かれた律法との関係で良心に言及していますが、残念ながら、理論は発展させられていません。)

 ともあれ、人間としての基本的な善性と言うものは共通ですが、それが表現されるときは、かなり異なったものとして、時にはあいするものとして出てくるために、人間はなかなか一つ思いになって協力したり、助け合ったりすることが出来ないのです。それにもかかわらず、宗教や哲学的信念、あるいは政治的な信念と言うものを取り除くと、より多くの共通概念が現れてきます。いわゆる原理主義とか根本主義とか言われる、極端な理念に囚われている人たちはその理念を大切にするあまり、人間としての本性を否定しがちなのです。

 半面、そのような理念を持ち合わせていない人々、あるいは薄い人たちは、案外容易に仲良くなり、協力しあうことも可能ですが、理念が弱いためにすぐに変化してしまったり、冷めてしまったりすることも多くなります。その上、神の姿に似せて造られているとはいえ、人間性は罪のために破壊され、ねじ曲げられ、弱体化しているために、良いことを大規模に遂行して行く力にはなり得ないのです。

 私たち日本人クリスチャンは、自分たちの同胞が文字で書かれた律法を持っていなくても、心に記されている律法を持っていることを、しっかりと理解しましょう。彼らが自分の心の律法に、かなり一生懸命であり、知らないながらも、神に似せて造られた姿を素直に顕そうとしていることも、知りましょう。さらにその上に、日本人の宗教意識が、この心の律法にかなり忠実なものであることに気づくのが大切です。この点については次の文章に譲ります。




posted by まさ at 09:59| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月08日

日本人宣教にむけて


(日本人宣教に向けて)

   2016年4月8日
                             西九州伝道所 佐々木正明

始めに

 私たち日本人が、自由に聖書が読めるようになって、150年以上になります。たとえ政府が和魂洋才のスローガンで、密かにキリスト教を阻止しようとしたことがあったとしても、西欧諸国からのプレッシャーも手伝って、明治以降のキリスト教は、かなり自由に宣教活動を進めることが出来ました。

 ところが、日本のキリスト教の勢いは非常に弱く、その発展は微々たるもので、諸外国の様相とはまったく異なっています。私たちの、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの交わりを例に挙げても、創立102年になる、今年2016年の日曜礼拝会への出席者総数は、世界全体で6500万人をかなり超えると言うことです。発展途上国が多く、たとえ主催者発表のデモ参加者のような数字であったとしても、これは大変なものです。その中で、日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の数は、わずか、1万人を少し超えるだけです。日本と言う国を、あまり特殊なものとして扱うことには異論がありますが、こと、キリスト教の進展と言うことでは、まさに特殊と言わざるを得ません。

 今までも、キリスト教界内外の実に多くの人たちが、この問題を論じてきましたが、実際に日本の宣教に携わる一人の伝道者として、筆者が心底から納得できるような論には、まだ、お目にかかっておりません。これまでも筆者はこの問題に関していろいろなことを言って参りました。その論点の殆どは、他の人たちが取り上げていない、あるいは気づいてもおられない、いわばユニークなものだと思っております。日本の宣教を論じておられる方たちの多くは、日本人も外国人も、西欧の尺度を持って日本を測り、西欧の学問をもって日本を論じておられるために、ヤードとフィートの巻き尺をもって、日本の家屋を測っているようなことになっています。筆者はそれらのすべてが間違っているとは考えませんが、大きな誤りがあるとも感じています。

 そこで今回も、たぶん、今までどなたも語ったことが無く、誰も論じたことのない視点から、お話ししたいと考えています。それは、異邦人である日本人には、異邦人の神学をもって福音を語らなければならないと言うことです。パウロが聖霊の導きによって打ち立てた信仰による救いと言う、普遍的福音の神学をさらに進めて、異邦人の立場から福音を見直し、異邦人にわかり易くまた受け入れ易く、福音を語る努力をしなければならないからです。

 戦後、キリスト教宣教は発展期とも言える20数年を経験しました。いま私の住む地方都市にあるいくつかの教会も、1960年代には100人を超える礼拝会を持っていました。それが今は、軒並みに20人、30人の礼拝会となっています。宣教の波が引いてしまったのです。その理由は色々ありますが、もっとも大きいのは、敗戦後に見たアメリカという「キリスト教国」のすばらしさが、幻滅に終わってしまったことだと思います。

 敗戦後、鬼畜米英と叫んでいた多くの日本人は、アメリカの民主主義、人道主義のすばらしさに感服したのです。そしてその、精神的土台であったキリスト教に憧れ、たくさんの人が教会を訪れたのです。

 ところが、その日本人の憧れは、ベトナム戦争によって粉砕されてしまいました。あの戦争で、日本人の多くはアメリカの欺瞞と偽善を見たのです。そしてその偽善と欺瞞は、単にベトナム戦争だけではなく、その前後の様々な紛争の中にも、見て取ることが出来るようになりました。そのうちに、アメリカだけではなく、西欧キリスト教諸国の欺瞞や独善性を、歴史の中にも現在の世界情勢の中にも、たくさん見つけ出すようになったのです。

 あれほど美しく見えたアメリカが薄汚れて見えるようになりました。あれほどかぐわしく感じていた西欧キリスト教諸国の臭いが、鼻につくようになってきたのです。戦後の私たちは、日本は戦争犯罪者の集団であり、劣等国であるかのように教え込まれてきました。でもそれは、戦勝者が自分たちに都合良く書いた歴史であったことに、少しずつ気づいて来たのです。

 今の日本にも、アメリカが大好きな人たちは大勢いますし、アメリカには、素晴らしいところがまだまだたくさんあります。あらゆる面を総合的に判断するならば、アメリカは今でも最も良い国の一つに違いありません。しかし今、アメリカに倫理的気高さを認め、憧憬をもって見上げる日本人はあまりなく、キリスト教を尊敬する人もずっと少なくなりました。かえって、キリスト教が無くてもここまでやってきた日本に満足し、自分たちにはキリスト教なんて不要だと思う人が増えて来たのです。

 キリスト教にも、素晴らしいところはまだまだたくさんあります。しかしこれからも、しばらくの間は、キリスト教のイメージは悪化し続けることでしょう。自分たちの良さを売りにするパリサイ人のような、「私たちを見てください」という上から目線の伝道をしていたのでは、いよいよ行き詰まることでしょう。キリスト教は西欧先進国の宗教で、良い宗教なのだなどと思い込んではなりません。私たちは福音を正しく理解し、その正しい福音を、キリストのように「仕える者」の心になって、伝えて行かなければならないのです。私たちが伝えるのはキリスト教ではなく、福音でなければなりません。 




創造と堕落 救いの約束

 神の救いの歴史は、天地創造以前から始まっています。神には、人間のような過去・現在・未来がありませんが、私たち人間が論じるときは、どうしても時系列に沿わなければなりません。神の救いの御計画は、天地創造以前に建てられていました。その後、計画に従って、神は全人類の救いを実現しようとなさったのです。神の永遠の救いの御計画は、罪を犯した直後のアダムに対して、神がお語りになったお言葉の中に示されています。 (創世記3:15)
 
 神がお造りになったものは、人間を含めてすべて、非常に良いものでしたが、(創世記1:31)人間の罪のために、すべてが変わってしまいました。神は人間に完全な自由意思を与え、自由意思を持って神に従う道を選ばせることによって、人間の創造の完成とされたようですが、人間はその自由意思を間違って用いてしまいました。そういう意味においては、人間の創造はまだ完成されていないとも言えるわけです。その人間の失敗の回復があって、創造の完結となるわけです。




罪の結果

 人間の罪の結果、神がお造りになったものの美しい秩序は、乱れてしまいました。罪の結果はただ人間と人間社会だけにではなく、自然の世界にも及びました。人間の心は罪によって破壊され、捻じ曲げられてしまい、自然の世界は病と自然災害によって、住みにくいところとなったのです。

 人間の罪の最も深刻な結果は、神との離別でした。神は罪を犯した人間を追放なさったのです。これは罪に対する刑罰のように考えられがちですが、むしろ罪を犯した人間を救おうとなさる、神の取り計らいと受け取った方が、良いように思われます。罪を犯した人間が、絶対に聖い神の近くに留まる訳にはいかないからです。神の聖さは、まさに焼き尽くす火のような性質を持っていて、穢れたものを焼き尽くし、滅ぼし尽くしてしまうからです。神は人間をお救いになるために、ご自分から遠ざけられたのです。

 神から遠ざけられた人間は、神を離れたところで家族を作り、社会を形成していきました。そのようにして作られたのが、今の世界です。この世界は、神から離れた人間が作り上げたものであり、神の恵みから切り離され、罪にまみれ、罪に支配されています。それはまさにキリストが言われた通り、悪魔の支配の下にある世界であり、悪魔を君といただく世界です。

 人間は自分が犯した罪のために、命の源である神から切り離され、生物学的には生きていても霊的には死んでしまって、滅びの世界に入ったのです。人間はやがて滅ぼされるのではなく、すでにこの世に生まれた時から、神の恵みを失った滅びの中に生まれ出たのです。人間は最初から罪の中に生まれ、罪の力に縛られて、生まれながらに罪人なのです。人間が罪人なのは、人間の血管の中にあるいは遺伝子の中に、罪の性質が宿っているために、罪を犯さずにはおれない罪人だというのではなく、罪が支配する世界、悪魔を君といただく世界に生まれ、罪を犯さずには生きて行けないために、罪人なのです。




罪の中に残る神の恵み

 しかしこのような滅びの中でも、神は人間を恵み、良いものを与え続けてくださいました。人間からすべての祝福を奪ってしまわれたのではないのです。破壊されたとはいえ、自然はまだ基本的な秩序を保っていて、良い人間にも悪い人間にも太陽は昇り、雨も降るのです。罪に支配されているとはいえ、人間のすべてが破壊されてしまったのでもありません。人間には、壊され捻じ曲げられてしまったとはいえ、神に似せて造られた性質、人間の本性が、いまだにしっかりと残っているのです。

 人間は悪魔の支配を受け、罪に牛耳られているとはいえ、まだまだ神に与えられた神に似た性質をもって、人間らしく生きようと戦っているのです。たとえ、すでに神が見えなくなり、誤ったものを神として拝むような事態に陥っていたとしても、神を感じ、神を拝み、神を畏れ、神を敬う心そのものを、失ってしまったのではありません。

 何が正しいか何が悪いのか、判断さえできない有様に落ちぶれていたとしても、正しさを求め悪を憎む心は、本能として残っています。罪によって凶暴な気持ちが湧き上がってくるようなことがあったとしても、人間にはまだ、ひとを慈しみ、公平を喜び、愛し合う心が残っています。

 世界はそのような、神に与えられた人間の基本的な性質、人間の本性によって保たれているのです。異邦人たちを救いようのない罪人として、一くくりに断罪してしまってはならないのです。しかもこの世界が悪魔の支配に陥ったとしても、この世界から神がいなくなってしまったのでも、神が完全に手を引いてしまわれた訳でもありません。神は今も、その絶対の権威ですべての存在物を支配し、人間の住むこの世界にも、悪魔の支配を破って介入し、救いを完遂しようとしておられるのです。悪魔のこの世の支配は、神の救いの計画で定められている、わずかな期間だけに限られているのです。

 とは言え、罪のために神から遠ざけられた人間が形成した社会は、非常に深刻な事態に陥りました。人間の本質の一つである霊的な性質は、たとえ神から離れていても、神を感じ霊的な世界を想い、何かを礼拝しないではおれないという、本能を保たせたままです。ところが人間は、神を離れて世代を重ねるうちに、創造者である神についての知識をどんどん失い、礼拝したい気持ちだけが本能として残ったのです。




偶像礼拝と第二の堕落

 そこで、とんでもないことが起こりました。人間は礼拝すべき天地の創造者を見失い、代わりに偶像を拝むようになったのです。パウロの記述によると、神は人間の堕落の後にも、人間がご自分を正しく理解し、きちっとした礼拝ができるように、自然物を通して、ご自分を明らかに現わしておられたのです。人間は、自然物を通しての神の自己顕現、あるいは自己啓示によって、礼拝のために充分な神知識を得ることが、出来たはずでした。それにもかかわらず人間は、栄光の神に代えて滅ぶべき人間や、鳥や、獣や、這うものの像を造り、これらを礼拝し始めたのです。

 この偶像礼拝に対して、神の怒りが激しく燃え上がりました。神は、罪のために傷つけられ捻じ曲げられた人間性を、そのまま放置してしまわれたのです。「神は、人間をその心の欲望のままに汚れに引き渡されました」とパウロは言い、「神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました」とくり返しています。その結果人間は、まず、造られた人間の本来のあり方に背いた、同性愛という恥ずべき関係に陥ったと説明し、さらにありとあらゆる罪に捕えられてしまったと、21にも及ぶ具体的な罪を列挙しています。(ロマ1:18〜32)

 これはまさに、人類の第二の堕落とも呼べる出来事です。人間の深刻な罪の現状は、ただ単に、アダムとエバの罪の直接の結果だけではなく、神の明らかな自己啓示を無視した愚かな偶像礼拝のために、神が刑罰として、人間を欲望のままに任せられた結果だったのです。このような人間のあまりにも堕落しきった姿は、ノアの洪水という裁きの出来事で、一つの頂点を迎えました。このときの神の悲しみと痛みは、非常に大きなものでした。一人が滅びるのも望んでおられない神が、ノアの家族だけを残して、すべてを滅ぼし尽くされたのです。

 最初の罪の堕落の結果、人間は神を離れてしまったとはいえ、人間は神からの自己顕現を得ていたのです。正しい神、天地の創造者を認識し、礼拝することが出来るようにされていたのです。それなのに人間は、神を神と認めず、被造物を神として拝みだしてしまったのです。その結果人間は、あらゆる汚れに突き落とされ、今見るような姿になってしまったのです。




イスラエルの選びと律法の賦与・救いの準備

 ところが神は、このように堕落し果てた人間を、何とか救い出そうと心を砕き、救いの道を備えてくださいました。その救いは、救い主、つまりキリストの贖いを通しての救いでした。その贖いによる救い以外に、救いはあり得ないのです。

 このキリストの出現に至るまで、神はまず、キリストを迎えるにふさわしい人々を作ろうと、イスラエル民族に白羽の矢をお立てになりました。神は、ノアの洪水のあとの様々な人間たちの中から、アブラハムと言う一人の人物を選び、その子孫であるイスラエル民族に、救い主が生まれるように計画されたのです。その計画の実行のため、救い主が救いの働きをまっとうできるように、まずイスラエルが、救い主を迎えるにふさわしい民族になる必要がありました。彼らは堕落した人類の中で、天地創造の神をしっかりと知り、偶像礼拝を止め、この神だけを礼拝する民族になるべきでした。倫理的にも整えられて、義が広く及ぶ社会になるべきでした。そして、神の救いの計画も理解し、救い主を迎える準備がされるべきだったのです。

 そのイスラエル民族の、教育と訓練と指導のために与えられたのが、ときには律法とも呼ばれている旧訳聖書でした。旧約聖書は、全人類の救いを目的として選ばれた、イスラエル民族に与えられた指導書だったのです。間接的には全人類のために与えられたと言うこともでき、その教えの中の普遍的な性質を持った部分は、全人類に適用できますが、直接的には、あくまでもイスラエル民族への指導書であることを、知らなければなりません。パウロは、救いが全民族に平等に与えられていても、イスラエル民族には律法を与えられているという特質があり、これが、彼らを他の民族とは異なった、特別なものにしているのだと言っています。(ロマ3:1〜2)

 そういうわけで、この罪の世界で悪魔の支配に苦しめられている人間、命の源である神から切り離されて、滅びてしまっている人間も、望みのないままに打ち捨てられているのではありません。神が救いを準備して下さっているのです。罪に陥り、悪魔に支配されている人間は、たとえどのように努力したところで、自分の知恵や力で自分自身を救うことはできません。ただ、人間を造りすべての物事を支配しておられる神だけが、人間を救うことが出来るのです。

 ですから、いま私たちが生きているこの滅びの世界には、まだ希望が残されています。救われる道が準備されているからです。しかし、この救いの道を逃してしまうならば、もう、望みは残されていません。そのために、新約聖書は今を恵みの時と呼び、(Uコリント6:2)救われる希望の光のあるうちに、光を信じるようにと勧めているのです。(ヨハネ12:36)



罪人の裁き
 
 聖書は、人が一度死ぬことと、死んだ後、裁きを受けることが定められていると教えています。罪の世に生を受けたすべての人間は、霊的に死んだ者となっただけではなく、肉体的な、生物学的な死も定められています。その死の後に、すべての人間が、神の公正な裁きを受けるのです。おのおの、今の世界で生きた生き方によって、その行いに応じて裁かれるのです。

 その裁きの時、この世界で罪の力に縛られて生きていた人、悪魔の支配を受けて生きていた人たちは、すべて、滅びの中に入れられるのです。この滅びは、今の滅びの世界の継続ではありますが、もう救われる望みが残されていない滅びです。そのために、神は救い主を送って救いの道を完成し、人々がこの滅びから逃れることが出来るように、いまの恵みの時に恵みを受け入れ、光のあるうちに光を信じるようにと勧めておられるのです。

 この滅びが一体どのようなものであるか、聖書は詳しくは教えていません。とはいえ、旧約聖書が与えられていたイスラエル人、すなわち、天地の創造者である神について、単に被造物を通してだけではなく、旧訳聖書を通して、格段に明らかな自己啓示と自己紹介を受けていた、イスラエル人の裁きについては、断片的ですが、いろいろと教えられています。文字で書かれた律法によって神のみ心が教えられ、何が正しく何が罪なのかを教えられていた、イスラエル人に対する神の刑罰は、キリストの教えや新約聖書の教えによって、ある程度知ることが出来ます。一言でいうと、非常に厳しい裁きです。

 ところが、旧訳聖書が与えられていなかった異邦人の裁きと滅びについては、聖書はあまり語っていません。パウロは、律法(旧約聖書)を持っていない異邦人は、律法なしに滅びると語っていますので、律法を与えられていない異邦人が、律法を持っていなかったからと言って、裁きと滅びから免除されるわけではありません。あくまでも、罪を犯した者として滅びるのです。しかし、イスラエル人と同じ刑罰を受けるのではありません。

 異邦人伝道において、私たちが犯してきた深刻な誤りの一つは、イスラエル人に与えられた厳しい裁きの警告を、異邦人にもそのままに適用して、語り続けてきたことです。その結果、異邦人に属する多くの人々は、キリスト教の神は非常に偏った不公平な神だ、一方的に自分の正義を押し付け、人間が置かれている苦難の状況に、一片の配慮もしない神だと感じ、受け入れることが出来ないのです。異邦人も、正義と公平の神の性質を写し与えられているために、正義と公平をおろそかにする神は、認めることができないのです。

 では、異邦人の裁きは何を根拠にして行われるのでしょう。パウロによると、「心に記されている律法である」と理解できます。(ロマ2:12〜16)その心に記されている律法とは・・・・あくまでも聖書の記述をもとに考えると・・・神が人間にお与えになった人間の本性、神に似せて造られた性質であると言えます。

 たとえ、神のより高度な自己掲示である聖書が与えられていなくても、人間は本能的に何が正しいか、何が正しくないかを理解しているのです。それは神の麗しい性質に似せて造られた性質が、人間の本性として与えられているためです。罪に堕落したとはいえ、人間の本性は完全に失われてしまったのではないからです。人間は本能的に善を求め、正義を追求し、愛を重んじるのです。神はその人間の本性を基準とし、心に記された律法として、人間の行為をお裁きになるのです。

 ですから異邦人の裁きと滅びは、キリストがイスラエル人に向かって、描写されたようなものとは異なります。キリストはあくまでも、神の高度な自己掲示であり指導書である、旧約聖書を与えられていたユダヤ人を対象にして、お語りになったのです。それを異邦人全体に、そのまま適用することはできません。それはまた、黙示録に記されているような裁きとも異なっているでしょう。黙示録も、あくまでもユダヤ教の背景を色濃く残した、初期のクリスチャンたちに語られている、ユダヤ的なものだからです。

 ただこの裁きは、あくまでも滅びる者たちの、滅びの段階、あるいは滅びの状態を定める裁きだと言うことを、理解しなければなりません。それぞれの行いに応じて裁かれるのです。神が与えてくださった神に似た性質に素直に従い、公平を愛し、正義を求め、優しさに生きた人は、その生き方にふさわしく裁かれ、怒りと、裏切りと、策略と暴虐をほしいままにした人は、その悪行に応じた裁きと刑罰を受けるのです。誰もかれもが同じ刑罰を受け、同じ滅びに落とされるのではないのです。

 とは言え、どのような裁きを受けることになったにせよ、滅びは滅びであって、救いではありません。そこには神の準備した完全な世界はなく、人間性の完全な復元もないのです。神との完全な和解もなく、隔たりのない交わりもないのです。そこには救いの望みもないために、救いを目的とした神の介入も期待できません。それは救いではないのです。




救い 

 神が、キリストの贖いを通して準備された救いは、善良な生活をした人は死後の裁きで、良い報いを受けると言う程度で、終わるのではありません。全く次元が異なるのです。それは完全な救い、神との交わりの完全な回復です。

 聖書は、今のこの世界が罪のために破壊され、捻じ曲げられたものであり、本来のあるべき姿からは、遠く隔たったものであることだけではなく、悪魔の支配と罪の拘束を受けた人間は、本来の人間に与えられた、生きるべき生き方が出来なくなって、やがて望みのない滅びに陥れられると教えていますが、神の救いは、これらすべての面に及ぶものです。

 まず、いまこの世の君、あるいはこの世の神として、この罪の世界を支配している悪魔が完全に滅ぼされ、二度と再び、人間と自然界に悪を行うことが出来ないようにされます。次に、今の破壊された自然界がまったく造り変えられます。神は現在のこの世界を滅ぼし、まったく新しい世界を造ってくださいます。それは完全な秩序の中の麗しい世界で、天変地異はもちろんのこと、病もありません。そして神は、この完全な世界に私たちを入れてくださるのです。

 しかし、その完全な世界に、いまの私たちのような不完全な者が、そのまま入れられることはありません。不完全なものは完全なものを受けることが出来ず、壊れたものが完全な世界に入ることはできないのです。どのように完全な世界でも、不完全な人間がそのまま入れられたのでは、不完全な世界になってしまいます。

 そこで、今あらゆる意味で不完全な私たちは、まず、すべての面で完全な者とされなければならないのです。その完全さは、大きく二つの面に分けることが出来ます。一つは、私たちの肉体が完全にされることです。救われた者は、病気も、怪我も、生まれながらの弱さも、不完全さもまったく取り除かれて、完全な肉体を与えられるのです。それは、現在の肉体と全く同じものとは言えませんが、現在の私たちがいただく肉体なのです。次に、私たちの霊、あるいは心が、まったく完全なものに造り変えられます。完全な自然環境の中で完全な肉体を与えられて、互いに憎み、嫌い、争い、戦いながら生きたのでは、救いにはなりません。(参照Tコリント15章)

 その上、私たちに与えられる完全な救いは、神との交わりの完全な回復です。罪のために断ち切られた神との交わり、そのために失われた人間としての命の、完全な回復です。人間の本来の幸せは、単に完全な世界で完全な健康を楽しみ、人間同士の完全な愛の世界を楽しむことではありません。人間の幸せは、造り主である神との豊かで完全な交わりの中にあるのです。そのように人間は造られているのです。そのために、神から離れたままでは、人間はどのような環境にあっても、本当の幸せ、本当の満足を得ることが出来ないのです。その本当の幸せ、満足を喜ぶことが出来るのが救いなのです。




救い主の出現・キリスト

 救い主は、神が旧約聖書を与え、知識の上でも倫理道徳の上でも信仰生活の上でも、教育と訓練を与えて救い主を迎える準備をさせられた、イスラエル民族にお生まれになりました。イスラエルの人々はすでに神の聖さ、人間の罪、神の裁きと救いの必要性、そして救い主の出現について教えられていたのです。

 キリストの教えと模範は、直接的にはこのような背景を持ったイスラエル人に与えられたものです。しかしそれは、あくまでも普遍的な福音、つまり世界の全人類に向けて与えられる救いの一段階として、まず、イスラルに向けられたのです。当時のイスラエル人たちは旧約聖書を通して教えられた教えを正しく理解せず、救いはイスラエル人に与えられるものだと考えました。異邦人は例外的に、特別な条件を満たしてイスラエル人になることによって、初めて、この救いに与ることが出来ると教えられていたのです。
 



パウロの貢献・普遍的福音の理解の確立

 キリストがお与えになる救いは、全人類を対象にしているという福音の普遍性の真理は、キリストの教えと活動の中にすでに示唆されていたのですが、神学的にしっかりと論じてこれを確立し、異邦人のための使徒となったのがパウロでした。とは言えパウロは、実際の異邦人伝道の経験は、さほど深くはありませんでした。彼の宣教は確かに異邦人の土地で行われたのですが、それは主に大都市のユダヤ(イスラエル)人の会堂の中でのことです。そこにいた異邦人は、すでにユダヤ教に改宗していたか、深く興味を持ち、同情し、同調していた敬虔な人たち、つまり、宗教的にも文化的にもユダヤ化した人たちでした。

 パウロの宣教の経験では、彼が完全な異邦人に直接伝道した例は、ごくわずかです。使徒の働きの記録から見ると、アテネのアレオパゴスでの説教が唯一ですが、難船して、一冬滞在することになったマルタ島でも、間違いなく伝道したはずです。パウロが何も語らずに、一冬過ごすなどと言うことはあり得ないからです。でもここでは、一人の改宗者も出なかったようです。出ていたならば、ルカが書き漏らすこともなかったはずです。

 異邦人の使徒パウロ、華々しい伝道の成果を上げたパウロも、マルタ島のような僻地に住む、完全な異邦人を救いに導くことは、困難を極めたのでしょう。その他、エペソやコリントでも、まったくの異邦人に直接伝道したことがあったかも知れませんが、記録に残すほどの成果を上げていません。




パウロの神学の限界

 つまりパウロは、普遍的な福音の神学を打ち立てたということでは、異邦人への偉大な使徒でしたが、実際の異邦人伝道という面では経験も少なく、深い理解を持っていなかったと言えるのです。現在の日本のような完全な異邦人を相手にした、長期間にわたる伝道は、パウロにとって未経験であり、その問題について深く考えることもなかったと思われます。もしも彼が、マルタ島のような土地で、少なくても数年間の伝道経験を積んでいたならば、事情はずいぶん異なっていたことでしょう。

 パウロは信仰による義という神学を打ち立て、福音の普遍性を明確にしました。しかし異邦人伝道の経験が少なかった彼は、あくまでもユダヤ人の視点から、福音は異邦人にも及ぶと言うことを語ったものです。救いが初めか、人類全体に向けて準備されたものであり、イスラエルはその目的の遂行のために、用いられたに過ぎないとう前提で、つまり、異邦人の視点から福音について語ることは、ほとんどなかったのです。それがパウロの神学の限界でした。




パウロの神学に留まっている西欧神学

 私たちが継承して来た神学は、このパウロの神学でした。パウロが据えた「普遍的救いの神学」の土台の上には、まだ「異邦人の神学」が築かれていないのです。異邦人全体が取り扱われておらず、論じられていないのです。まだまだイスラエル人に語られたこと、イスラエル人に与えられた律法を、直接異邦人に当てはめているのだけで、しばしば的外れのことを言っているのです。

 例えば、人間に与えられた神に似た姿という、基本的な性質から発する宗教本能を軽んじ、異邦人の中にある宗教心を罪悪視して糾弾する間違いです。偶像礼拝は間違っています。しかし、神を礼拝したいという本能の欲求は、罪ではないばかりか、人間が人間であることを証明するものなのです。また、神の特別な自己啓示を受け、天地創造の神と言う存在を明確に教えられ、偶像礼拝を禁じられているイスラエル人が、それでも偶像礼拝をする罪と、神の自己啓示は自然を通してだけという、異邦人の偶像礼拝の罪を同等に扱うのは、非常に不公平です。当然、キリスト教以外の宗教に対する私たちの態度も、改められなければなりません。

 異邦人の神学が築かれてこなかった理由の一つは、西欧キリスト教の歴史の中で、キリスト教徒たちが、常に、自分たちこそ霊的なイスラエルであり、本物のイスラエル人であると考えて来たことです。学問的には、彼らも異邦人であることを認めたかもしれませんが、そのような自覚はほとんど持っていませんでした。イエスを十字架につけた時、「その罪は、我々と我々の子孫の上にかかってもいい」と言い放ったユダヤ人たちは、神の祝福から除かれて、自分たちクリスチャンが本物のユダヤ人になったのだと考え、それがいつの間にか、「キリスト教文化」に生きるほとんどの人々にまで、及んでしまったのです。

 自分たちを異邦人であると認識しなかった、西欧「キリスト教文化」に生きた人々は、当然、旧訳聖書も新約聖書も直接自分たちに与えられたものと単純に思い込み、そのように読み、そのように解釈しました。そして、旧訳聖書を与えられ、神と罪と救い主について知っていた、イスラエル人に向けて語られたキリストの言葉を、そのまま自分たちの伝道の対象にも語ったのです。それでも、「キリスト教文化」にいた人たちは、その伝道を受け入れることが出来ました。特に、近代プロテスタントの伝道には、それが顕著であったと思われます。今の私たちの伝道の模範と言うか、走りとなったウエスレーの悔い改めを迫る大衆伝道などに、それが見事に現れています。




さすがのパウロ神学

 ただしパウロの神学には、異邦人に関しても、さすがと思わされるところがあります。例えば、この文章でも取り上げたロマ書1章の偶像礼拝は、イスラエル民族の偶像礼拝とは異なる、全人類の偶像礼拝の問題だという点を、パウロは述べているのです。イスラエルが偶像礼拝をする罪と、イスラエル以外の人々が偶像礼拝をする罪は、同様の問題でありながらまったく異なっていることを語っています。イスラエル人の偶像礼拝の罪は、モーセの律法を破る罪ですが、異邦人の偶像礼拝の罪は、モーセの律法を破る罪ではないのです。パウロは、「律法の言うことはみな、律法の下にある人々に言われていることを知っています」と語って、モーセの律法が異邦人に適用されてはならないことを示しています。(ロマ3:19)

 また、律法を与えられていない異邦人は、律法なしに滅びるということも語られています。たとえ異邦人がモーセの律法を持っていなくても、心に記された律法を持っていて、それが裁きの基準になるのです。(ロマ2:12〜15)これは異邦人宣教をする上では強調しすぎることが無いほど、重要な点です。この問題をしっかりと理解するならば、私たちの異邦人伝道の方法、異邦人へのアプローチはずいぶん異なったものになるはずです。

 モーセの律法と心の律法は、同じ神から与えられたものであり、原則的にこの二つの間に矛盾はないはずです。ところが、実際に見える部分は随分異なっています。それはモーセの律法が、神の救いの計画を示すものであり、その救いのために特別に選ばれた、特殊な民族の特異な必要のために与えられたものであるのに対し、心に書かれた律法は、人類全体の一般生活のために与えられているからです。どちらがより原則的なものであるかは明白であり、どちらが異邦人にとって大切かも論を待ちません。そのような点が、西欧神学ではまったく論じられないままになっているのです。




異邦人の躓き

 多くの日本人は、旧訳聖書を読むとそのむごたらしさに眉をひそめます。人間の本当の姿があからさまに描き出されていることには、納得し、感動さえすることもありますが、あまりにも残虐であり、血が流され過ぎるのです。聖書を持たず、心の律法によって行動している日本人には、聖書の教えはあまりにも峻厳であり残酷です。その物語は人間性に反すると思われるのです。これは日本人だけではなく、多くの平和を好む異邦人が同様に感じるものなのです。

 現在、西欧諸国の教会がどんどん弱小化し、人道主義的な動き、平和だとか、愛だとか、平等だとか、基本的人権と言うような事柄に、一致を見つけて行動している人々がたくさんいます。彼らは、「キリスト教文化」に育ちながら、自分の心が命じることと聖書の教えは、合致しないと感じています。世俗主義が強まり、「キリスト教文化」が弱くなった西欧では、多くの若者たちは、もはや自分たちを霊的ユダヤ人などと見ることを止めて、異邦人の感覚を持ち始めているからです。そういう彼らは、聖書の教えではなく、自分たちの中にある心の律法、心の叫びに耳を傾けるのです。

 多くの日本人も、そのような人々と分かり合い、行動を共にできるのですが、福音派のクリスチャンや原理主義のクリスチャンとは、分かり合えないのです。福音派や原理主義のクリスチャンは、いまでも旧訳聖書を含む聖書全体を、自分たちに与えられた尊い神の言葉と信じて、その教えや律法をそのまま大切に守ろうとするためです。律法と呼ばれる旧約聖書は、特殊な目的のために選出されたイスラエル民族の、特殊な必要性のために与えられたものであり、その中に記されている多くの教えや出来事は、一般化されてはならないものです。つまり、イスラエル人以外の人々に適用されてはならないものです。その中にある、普遍的な性質を帯びたものだけが、だれにでも用いられるべきなのです。




特殊な国日本

 ではどうして、日本だけがクリスチャンの少ないままで、留まっているのでしょう? 日本以外の多くの国々、特に、西欧諸国を除いたいわゆる開発途上国では、異邦人でありながら、圧倒的にキリスト教に宗旨替えしている人々が多いのです。統計上は、回教徒の増加速度の方が早いことになっていますが、それは出生率にも関わっているためです。

 本当のところ、回教などの特定の宗教を国教としたり、それらの宗教以外の布教を禁止したりしている国々でも、日本と比較すると、急速にクリスチャンの数が増え続けている例が幾つもあります。ほとんど完全な信教の自由と、宗教活動の自由を与えられていながら、伸び悩んでいるのは日本のキリスト教だけです。いったいどうしてでしょう?

 そこにはいくつかの理由が考えられますが、一般的に言って、開発途上国が容易にキリスト教を受け入れている背景には、その国や民族の国家意識あるいは民族意識が低く、武力も弱かったこと、次に、キリスト教に対抗するだけ発達した強い宗教が無く、キリスト教の神学や哲学の浸透に、抗しきれなかったことが挙げられます。




カトリックの宣教

 まず、カトリックが国教または準国教扱いになっている国々の多くは、いわゆる大航海時代に、カトリックの太国であったポルトガルやスペインによって征服され、武力で改宗させられたものです。カトリックの宣教は、国家権力と武力を後ろ盾としたものでした。中南米の国々はみなそのようにして征服されました。アフリカにもそのような国があります。アジアではフィリピンがその例に入ります。

 それらの国々は、まだ国家としてのまとまりがなく、侵略してくる大国と戦う武力も持っていなかっただけでなく、カトリックに対抗できるだけ整った宗教もありませんでした。そのために、侵略者の宗教を一も二もなく受け入れてしまったのです。とはいえ、宗教と言うものは非常に根強いもので、武力の支配や体裁の取り換えだけでは、覆すことができないものです。そのため、カトリックが征服したのはうわべだけで、その内部は、いまだに土着の宗教のままと言うのがほとんどです。

 ちなみに、中南米やフィリピンのカトリック信仰を、本物のカトリック信仰と認めていない、カトリックの神学者がたくさんいます。土着の信仰がカトリックの衣をまとっただけであると、彼らは考えています。また、それがカトリックであると、冷めた考え方をしている神学者もいると言うことです。

 そのような中途半端なカトリック信仰の国々で、いま、私たちのようなペンテコステ信仰が、非常な勢いで伸びているというのは、とても面白い現象です。国家と結びついて腐敗した、古い権威主義の宗教に失望した人々が、新しく語られ始めた聖書の教えに耳を傾けているのです。彼らは、自分たちの国家と宗教文化に失望しているのです。




プロテスタントの宣教

 大航海時代のカトリックの宣教から数百年遅れて、プロテスタントの宣教が始まりました。予定説に強く影響されていたプロテスタントは、当初、カトリックほどの宣教の情熱をもっていませんでしたし、国家権力と武力を公に後ろ盾して、強制的に改宗させることもありませんでした。それでも、宣教の情熱を持った少数の個人や宣教団体が現れ、徐々に、近代のプロテスタントの宣教が盛んになってきたのです。

 このときのプロテスタント宣教は、西欧キリスト教諸国の植民地政策と結びついていました。公に国家の武力を後ろ盾とはしていなくても、勢力を付けて来たプロテスタント諸国が力を入れていた、植民地政策による侵略に便乗して宣教が行われたのです。とくに、侵略した地域の経済支配のためにヨーロッパ列強が設立した、東インド会社が大いに利用されました。当時インドとは、ヨーロッパと地中海沿岸以外の地域を指す言葉で、次々と植民地化したこれらの地域で経済活動をするために、特許会社として設立したのが東西のインド会社です。アジアはで活動したのは東インド会社、南北アメリカで活動したのは西インド会社ですが、東インド会社の方が強大でした。

 このような植民地政策に乗った宣教に対抗できたのは、ある程度国家や民族としての統一が出来、強い武力を蓄え、発展した宗教による精神的な一体感があった人々です。ただそのような国家や民族は、ごくわずかと言うより、ほとんど存在しなかったのです。たとえば、中国はある程度の武力を持ち、宗教的にもそれなりに深いものを持っていましたが、アヘン戦争で圧倒的なイギリスの力に屈してしまいました。もう一つの例はタイでした。タイは強い武力を持っていたわけではありませんし、国家の統一も不完全でしたが、すでにかなりのまとまりを持っていましたので、イギリスとフランスと言う対立する植民地主義国家の力を、うまく利用して独立を保つことができました。その上、強く民衆を支配していた仏教が後ろ盾となっていました。

 プロテスタント諸国に植民地とされた国々では、プロテスタント教会の宣教が行われましたが、カトリックほどの強大な武力による強制はなかったために、中南米のような状態にはなりませんでした。特にアジアの国々には、回教と仏教と儒教があり、かなり高度な哲学があって、キリスト教が容易に入り込む隙間が無かったのです。(フィリピンがカトリック化したのは、まだ小さな部族が多くの島々に住む雑多な集合にすぎず、国家としてのまとまりがなかった時代、仏教も回教も儒教も浸透していなかった、大航海時代に植民地とされたためです。)




日本の反キリスト教意識

 大航海時代のポルトガルとスペインの力を背景に、カトリックが侵入してこようとしていた戦国時代末期の日本は、混乱の中にありながらも、他の国々では考えられないほど、民族としての統一意識と強い武力を持っていました。日本の為政者はカトリックを侵略者の手先として排除したのです。プロテスタントの植民地主義国家と対峙した日本も、明治時代を目前にした黎明期であったとはいえ、他の国々や民族とは比較にならないほどの、国家意識と武力を備え、宗教的にも哲学的にも、固い基盤を備えていました。

 大航海時代のカトリックの侵略を防いだ日本には、強力な反キリスト教文化が作り上げられていました。明治直前からのプロテスタントの宣教は、この反キリスト教文化によって妨げられたのです。カトリックを侵略の手先と見た日本の為政者の感覚は、250年後のプロテスタントの宣教の背後にも、植民地主義者の意図を嗅ぎとったのです。アヘン戦争で事実上中国を植民地とし、続いて日本を支配しようとしたイギリスの策略は、本国と日本での様々な要因が複雑に絡み合っていたとはいえ、日の目を見ないままに終わりました。ドイツも、フランスも、ロシアも、オランダも、アメリカも、それぞれ自国周辺の事情も絡み、日本を植民地にすることはできませんでした。キリスト教の宣教師も大挙して押し寄せましたが、あらたに国家神道を据え、和魂漢才に代えて和魂洋才を掲げた、日本の国家意識を打ち破ることも、精神文化を切り崩すこともできなかったのです。

 このような国民的伝統は、戦後の一時期のアメリカに対する憧れによって壊されかけたものの、現在の日本でもしっかりと引き継がれています。それが、他の多くの国々と日本が異なっているところです。多くの日本人にとってキリスト教は、教育や福祉などの分野では数々の貢献をした良い宗教でありながら、日本と言う国家を侵略しようとした西欧諸国の手先であり、日本の奥深い宗教と文化を敵視し、和の文化を根底から壊そうとする、好ましくない宗教なのです。

 ちなみにお隣の韓国は、日本とよく似ていると言われますが、こと、キリスト教に関してはまったく事情が違います。中国と日本に治められ、ロシアの侵略を受けそうにもなりましたが、韓国は、キリスト教国の侵略を受けたことがありません。韓国人にとってキリスト教は、自分たちを助けてくれたアメリカの良い宗教であり、進んだ西洋諸国の美しい宗教なのです。そのために、実質は別として、韓国にはキリスト教徒と呼ばれる人々が多いのです。




日本人の疑惑と怖れを助長する伝道方法

 徳川幕府は、ありとあらゆる手段をもってカトリックを阻止しようとしました。そのために仏教が大いに利用されました。幕府の策にまんまと嵌まった民衆は、ただいたずらにキリスト教を恐れ、排除しようとしました。一方、明治の直前に、植民地政策を進めながら日本に近づいて来た国々は、行く先々、侵略するところすべてで、人道にもとる残虐な行為を、神が自分たちに与えた当然の権利であるかのように、執拗にくり返していました。その残虐性の精神的土台がキリスト教だということを、明治の為政者たちは学び取ったのです。徳川幕府が採った鎖国と迫害の政策をくり返すことはできませんでしたが、キリスト教を排除しながら、植民地政策国家の精神土台に対抗できるものとして、和魂洋才を掲げ、国家神道を置くことにしたのです。日本人は、神が人間に与えてくださった心の律法である、人間性に反することを平気で行うキリスト教を恐れ、疑惑を持ち続けてきたのです。その疑惑がわずかながら薄れたのが、戦後の民主主義に乗って入ってきたキリスト教に対してだったのです。

 キリスト教の伝道は、優越感と共に行われてきたことも、忘れられてはなりません。宣教師たちは、武力、経済力、科学知識など、ほとんどあらゆる分野で先を行っていた、西欧諸国から来ていました。その上に、白人としての人種的優越感を公然と持っていました。白人以外を人間と認めないのが一般的であった彼らの母国から、あえて有色の人々を人間と認め、福音の対象として認識して、危険を冒してまでも旅をして来たことは大いに賞賛すべきですが、宣教師たちの優越感は、伝道される側からすると非常に屈辱的でした。

 その上、「キリスト教文化」至上主義をもって、日本の文化を遅れたもの、劣ったものと断じて、これを排除し、自分たちの文化を押し付けようとしました。さらに、本来イスラエル人に向けて与えられた、聖書の教えを直接日本人に適用して、すべての宗教を邪教と断じ、忌むべきものとして糾弾し、日本人は偶像礼拝者である、罪人であると叫び続けました。異邦人に対する配慮は少しもなく、自分たちも異邦人であるという認識にも欠けていました。このようなキリスト教に対し、日本人の多くは、徳川時代の初めころからキリスト教を恐れて来たのは、正しかったと思ったのです。

 そのような日本人の感覚は、戦後の民主主義国家アメリカの美しい宗教、キリスト教をもってしても拭い去ることが出来ませんでした。ですから、いくらか良くなりかけたキリスト教のイメージも、ベトナム戦争を境にたちまち色あせて来たのです。マッカーサーの情報操作と偏向教育(ある人たち洗脳と呼ぶ)を受けて育った戦後世代の私たちは、西欧諸国は麗しい国々であると教えられてきました。その支柱となっているキリスト教は、素敵な宗教であると思い込まされてきました。マッカーサーは、日本をアメリカに都合の良い国に仕立てあげようと、あらゆる手を尽くし、キリスト教も利用したのです。彼は3000人とも5000人とも言われる宣教師を呼び寄せ、日本中の教会をアメリカかの救援物資の分配所にして、キリスト教を浸透させようとさえしました。

 それでも、ユダヤ主義から脱却していないキリスト教精神、選民意識のキリスト教信仰は、日本人が取り入れるべき良いものとは、みなされませんでした。ただ、戦後の教育を素直に受け、アメリカやキリスト教に好感を抱くことが出来た人たちの中から、ごく少数の者たちがキリスト教を受容しました。そしてこの短い期間が、日本の宣教の絶頂期だったと言われるのです。




私たちがやるべき伝道

 日本人である私たちが日本人に福音を語るとき、キリスト教ではなく、福音を伝えることが最も大切です。キリスト教の素晴らしさを語り、キリスト教の魅力で納得させようとするのではなく、純粋に福音を伝えることに集中すべきです。クリスチャンがどんなに素晴らしい人種であり、どんなに偉大なことをやってきたかという、我田引水の話もやめましょう。西洋美術、西欧音楽、西欧文学、西欧文明が、キリスト教を土台にしているなどと言って、西欧コンプレックスの、日本人の興味を引こうとしてもなりません。たとえキリスト教が、多くの良いことをしてきたことを認めたとしても、心の律法に照らし合わせると、犯し続けた悪事の方がよほど大きいことでしょう。

 歴史を直視すると、キリスト教と呼ばれる宗教は、他のどの宗教よりも血塗られた宗教であることが分かります。今やマッカーサーの偏向教育、思想統制教育から解かれた日本人たちが、それに気づき始めているのです。伝道とは、キリスト教を伝えることではなく、福音を伝えることであると、しっかりと確認し直しましょう。




福音とは何かを理解し直す

「イエスキリストが、私たちの罪の刑罰を身代わりに受けて、十字架で死んでくださったことを信じるならば、たとえだれであっても、何の行いもなしに救われることが出来る。」これが、私たちプロテスタントのクリスチャンが金科玉条として来た、福音の真髄です。でもこれは、聖書の教えから大きく外れています。

 第一は、これは「何の行いもなしに」と、一応無代価の救い、行いによらない信仰による救いをうたってはいますが、その実、「私たちの罪の刑罰を身代わりに受けて、十字架で死ぬ」という、とても難しい神学を理解しなければならない、とても困難な「行為を」前提とするからです。そんなことは一切理解しなくても、まったく知らなくても救われるのが、「行いなしに」救われることであるはずです。キリストの十字架は、十字架の理解なしにも救われるためにあったはずです。

 第二は、このような信条や神学を信じて救われるのは、キリストの福音ではないと言うことです。信じるべきは、教理でも信条でも神学でも、もっと極端にいうなら、聖書の細々とした教えでもなく、キリストと言うお方、人格(神格)を持ったお方なのです。人格を持ったお方を信じると言った場合、そのお方についての情報を信じると言う意味でもありません。そのお方に信頼する、頼ると言う意味です。「信じる」の意味が違います。

 第三に、このキリストと呼ばれるお方が、かつて、私たちのためにどんなことをしてくださったかを知り、それに感動して、感謝して、お礼を言って信じることでもありません。それもまた、知識という、困難な行為を前提とすることだからです。かつてこのお方が、私たちのために何をしてくださったかと言うことを知らなくても、このお方に信頼すればよいはずです。

 第四に、私たちの伝道対象である日本人は、旧訳聖書を与えられておらず、キリストと言うお方を知りませんので、キリストを信じると言うことが意味不明になります。キリストはあくまでも、旧訳聖書で救い主の出現を約束されていた、ユダヤ人に対する約束の成就の福音であって、異邦人である日本人には福音になりません。




日本人にとっての福音

 私たちが語る福音は、あくまでも、旧新約聖書を通して私たちに啓示された、福音でなければなりません。福音は、あくまでも、キリストを通して成し遂げられた贖いのみ業です。十字架の身代わりの死によって完遂された、神の救いの働きであり、復活によって可能にされた、聖霊による新しい命です。

 とはいえ、それらの福音の内容は、異邦人である普通の日本人には、まったく馴染のない宗教的な話、形而上学的な学問にすぎません。よほど特殊な人以外には、興味を持てないものです。頭痛薬を買いに来た人に、頭痛についての知識、その薬に含まれているいろいろな成分の知識と含有量についての知識、さらにその薬が開発されるに至った経路、それに関わった人たちなどを、いちいち説明していたのでは、買う方も売る方も疲れてしまいます。最低の知識でいいのです。

 日本人の救いのために、最低限必要な知識はどこまでなのでしょう。頭痛薬を買う人には、少なくても、頭痛に効く薬があるという情報が必要で、薬屋に行けば買えるくらいの知識が必要です。それから、頭痛にはいろいろな種類があり、薬もそれによって違うし、服用の仕方も異なっていることくらい、知らなければならないでしょう。それ以上の知識も大切ですが、いま頭痛で困っているとき必要なのは、僅かの知識です。

 私たちは聖書の福音を語ります。しかし、日本人にわかり易く、日本人に受け入れられやすくするために、まずは最低限の知識を与えるだけで良いのです。深い福音の真髄、高度な神学的理解は後に譲りましょう。頭痛薬の説明は、頭痛が薄らいでからで良いと言うことです。福音は、日本人にとっても福音とならなければ、福音ではないのです。




日本人の本能的宗教感覚に語り掛ける

 日本人福音を語るとき、キリストの話から始めるのは、頭が痛いからと頭痛薬を買いに
来た人に、アセテルサリチル酸(アスピリンのことです)やヒドロタルサイトについて、講
釈するようなものです。これでは現実の必要に対応できないのです。せいぜい、何か特殊な
頭痛ではないことを確認して、間違いが起こらないようにするくらいが普通です。

 日本人にも、神の姿に似せて造られた人間の本性があります。その人間の本性に語り掛ける伝道が大切です。旧新約聖書に啓示されている福音を、旧新約聖書が与えられていない日本人に、わかり易く、受け入れやすく語るためには、旧新約聖書の教えをそのまま語るのでは、薬についてまったく知識が無い人に、アセテルサリチル酸について一所懸命に説くようなものです。常識でわかる程度の説明で良いのです。

 ごく普通の、日本人の宗教意識に語り掛ける伝道が大切なのです。神に似せて造られた日本人は、神を感じ、認識する力を本能として持っています。しかもその本能は、多くの異邦人ほどには、栄光の神の姿を朽ちる偶像に代えてはいません。日本人には、多くの民族にありがちな偶像礼拝が、非常に少ないのです。そのために、日本人には高度な神感覚が残っているのです。




日本人の宗教感覚

 クリスチャンたちの間で行われている、日本人の宗教意識についての学びは、西欧キリスト教的な先入観による分析や、一方的な断罪が多くて、公平な学びが少ないように思われます。特に、日本人本来の宗教感覚を、もっともしっかりと保っている神道については、非常に浅い学びしかできていません。神道が理屈を嫌う宗教であって、神学を持っていないために、学問的な取り扱いができないことも影響しているのでしょう。

 日本人の宗教感覚は、実にややこしく絡み合って、容易に説明できるようなものではありませんが、ここではとりあえず、本来の人間に与えられている神知識に近い、より高度な宗教感覚と、そこから徐々に堕落して来た感覚に、分けて考えてみましょう。




高度な神意識

 日本人の中には、「神はいない」と言い切る人が少なくありません。彼らが普通に言うところの神、あるいは神々を信じていないのは、彼らに宗教意識が無いからではなく、むしろ、彼らが高度な宗教意識を持っているからだと言うことが、少なくありません。日本語でいう「神」、あるいは「神々」と言うものが、あまりにも愚かで、自分のうちにある高度な宗教意識では、そのようなものを崇め、敬い、礼拝することが出来ない、認めることが出来ないと感じるからです。お付き合いや礼儀で宗教行事に参加したりすることはありますが、普段は無宗教のようにふるまい、偶像礼拝とも無縁です。

 彼らの多くは、自分には礼拝すべきものなどないと、唯物論的な無神論を主張しているのではありません。むしろ自分は、絵でも像でも言葉でも表現できない大きな存在に、命を与えられている、生かされている、見守られていると強く感じながら暮らしています。その大きな存在が、日本語で言う神や神々のような、ちっぽけな存在ではあり得ない、あってはならないと感じているのです。

 また日本人は、その大きな崇高なお方について、理解しようとなどは思いません。むしろ、知ろうとすることなど恐れ多く、説明しようなどとはおこがましいと感じているのです。ギリシヤの知的興味から発展した、神に対する畏れを欠いた西欧神学など、言葉による偶像なのです。そのお方は、不注意に近寄ってはならないお方、名前をもって呼ぼうなどと考えてはならないお方なのです。そのお方のことを想うと、何故かしら、自分は小さく弱く穢れた存在だと感じてしまうのです。人間の理解も理屈も想像も空想さえ及ばない、不可思議なお方だと、本能的に心得ているのです。

 このような日本人こそ、聖書に啓示されている天地の創造者であるお方を、感覚として理解できる人たちです。そしてこのような日本人は決して少数者ではありません。実際のところ、程度の低い八百万の神々を認めている日本人たちも、同時に、このような高度な宗教意識を持っていることがよくあるのです。ですから、彼らの高度な宗教意識を引き出すようにして話し合うならば、容易に、創造者を認めることができるのです。彼らは唯一の存在者や、時間と空間を超越した存在者、あるいは、良い者にも悪い者にも太陽を昇らせ、雨を降らせてくださる恵み深いお方を、認めることができるのです。

 気高く尊い唯一の存在者を感じる、高度な宗教心を持ちながら、この存在者はまたすべての自然物に潜んでいる、あるいは宿っていると信じている人たち、唯一神論的汎神論感覚の人たちもいます。これもまた、聖書に啓示されている神と矛盾するものではありません。聖書の神はすべてのものを創造された神ですが、同時に、すべてのものを超越し、すべてのものを貫き、すべてのものの中に存在し、すべてのものを内に収めておられる方だからです。したがって、このような神感覚を持っている日本人には、比較的容易に、聖書にご自分を啓示された神を紹介することが出来るのです。




中程度の神意識

 唯一の存在者を感じ、その方を崇めようという感覚は、ちょっとした油断で、すぐに廃頽してしまいます。その廃頽の途上にあるのが、神宮とか大社などと呼ばれるような大きな神社、あるいは歴史と由緒のある神社に祀られている、神を拝む感覚です。これは絵でも像でも言葉でも表現できない高貴な存在者を、特定の神の名をかぶせて礼拝するものです。見えない栄光の存在者を、何とか見えるものにしたいという欲求の表現です。

 それでもこの場合、神社に祀られている神、あるいは神々は、まだ目に見えない存在のままです。神社の中に祀られているのは、偶像ではなく、見えない存在を表現する象徴的なものです。いわゆる、依代となるものです。それはちょうど、イスラエル民族にとっての契約の箱や、その中に収められていたもの、あるいは幕屋や神殿全体と同じです。それらは神の臨在を象徴していました。イスラエル人たちは、偶像礼拝はしませんでしたが、それらのものを依代として、見えない神を礼拝していたのです。

 厳密に考えると、日本の神社などの依代としての役割は、偶像礼拝に陥って行く過程のひとつと思われ、イスラエルの神殿礼拝とまったく同じと言い切れませんが、見えない神を身近に感じさせる依代であると言うことに、違いはありません。日本人は、春日神社に行こうが八幡神社に行こうが、まったく同じ気持ちで礼拝(らいはい)します。天照大御神を祀った神宮に詣でても、大黒様を祀った大社に参拝しても、同じ感覚です。小さな社や祠に手を合わせても、同じ気持ちです。多くの場合、それらの表面に現れた神々は、その背後におられる大きく気高い、唯一の存在者の依代だと感じているため、そこに、神の像が無くてもいいのです。ご神体などと呼ばれるものも、実際は神の姿を刻んだものではなく、象徴するもの、依代となるだけのものがほとんどです。

 例えば日本の主神と言われる天照大御神は、太陽を神とするものだと説明され、多くの日本人が太陽に手を合わせています。ご来光などと言って、高い山に登って、昇り来る太陽に手を合わせます。しかし、太陽を神そのもとして礼拝している人はあまりいません。すべての命の源になっていると思われる太陽ではありますが、神とはしないであくまでも神を象徴するもの、依代として拝んでいるのです。




低度の神意識

 汎神論的な神を信じる宗教感覚には、もう一段低い、少しばかり堕落した感覚もあります。
すべての自然物には、多くの霊、あるいは神々が宿っているという感覚です。多神論的汎神論とも言える神感覚です。これは容易に多神教に移っていきます。

 すべてのものを恵みによって照らし、生かしていてくださるお方の依代として、天照大御神を祀りご来光を拝むのは、まだ高度な神意識を表現しているとはいえ、そのような神意識を持っている日本人は、同時にまた、八百万の神々も認めていることが多いのです。そこに、明白な自覚も区切りも境界線もありません。そのために混乱してしまうのです。そこに、日本人は自分が持っている高度な神意識を、説明しようと思わないことも加わって、ますます混乱してしまうのです。 

 一般の日本人の低度な宗教感覚では、宗教の対象にさえなりにくい、お化けや妖怪、幽霊や物の怪から始まり、仏教的な感覚も混入して、前世や死後の世界、地獄や天国、さらには死後に仏になるとか、生まれ変わるとかいう概念までも併せ持っています。さらに、神道的な感覚と仏教的な感覚が入り混じって、様々な神々の偶像を拝んでいる場合さえあります。ただしこれらの神々は、助けを求める対象にはなり得ても、崇め敬い礼拝する対象にはならないのが普通です。例えば、子宝に恵まれたい女性が、男根に似た鍾乳石に祈願する宗教的風習があります。そして子供が生まれたときには、感謝の捧げものをするのは普通です。しかし、その石を崇め敬い礼拝することはまずないのです。

 このような混乱した感覚は、普通、アニミズムという未発達で低級な宗教観とみなされます。クリスチャンたちは、これを堕落した偶像礼拝と断じて、糾弾します。しかし私たちは、このような宗教観、あるいはある種の世界観は、聖書の宗教観、世界観と相通じるものと見るべきなのです。聖書が用いている用語は、ヘブル語やギリシヤ語で、日本語とは異なった意味合いを含みますが、要するに、この世界は見える物質の世界だけではなく、見えない霊的な世界とつながり、一緒に存在していると感じているのです。

 日本では、怨霊が徘徊し、死霊がさまよい、魑魅魍魎がばっこしています。狐の霊が悪さをしたり、蛇の霊が憑いたりもします。聖書の世界では悪霊が病気を起こしたり、汚れた霊が害を与えたりする一方、み使いがいて人間を守ってくださることもあります。聖書の世界も、アニミズムの世界なのです。この世界は第三次元だけではなく、み使いの世界も、悪霊の世界も、死後の世界も、良いことをして死んだ人が行く世界も、悪いことをして死んだ人の行く世界も含めて、たくさんの次元からできています。

 日本語の「神」と言う言葉は、本来「うえ」と言う意味です。人間より力のある存在はみな人間より上、つまり神とみなされて神々となり得るのです。したがって、人間にはできないこともすることができる悪霊もみ使いも、日本語的な表現をするならばみな「神」なのです。子供が出来ない女性にとっては、ネズミさえ神になり得るのです。沢山の子を産む力を持っているからです。聖書の世界の悪霊も汚れた霊も、み使いたちも悪魔でさえも、日本語では神なのです。しかも、そのような言葉の使い方は、聖書でさえ、悪魔を「神」と呼んでいるほどで、日本語だけの特徴ではないのです。

 ですから私たちクリスチャンは、日本の宗教土壌や日本人の宗教意識を、ことさら軽蔑したり、安易に断罪したり糾弾したりするべきではないのです。むしろ、そのような霊的状態に憐れみを持って接し、混沌の中から人間の本性に通じる高度な神意識を探し出し、それに触れ、それを通して、天地の創造者であるお方について理解してもらうのが良いのです。




信仰による救いを徹底する伝道  

 このような異邦人の特徴を持っている日本人には、信仰による救いの神学を深く理解し、それを徹底して伝道を進めて行くのが良いと思います。パウロはユダヤ人も異邦人も同じ原則によって救われるという、普遍的な福音の神学を確立しました。行いを必要としない救いが真髄です。その神学をただの学問上の問題に止めず、伝道の働きの上でも実践していくのです。

 パウロが、信仰による救いと言う普遍的な福音の神学を論証し、人々を説得するときに用いたのは、アブラハムが神を信じて義とされたと言う、創世記の記述です。パウロは「キリストを信じて義とされる」と言う議論を、何の説明もしないまま、突然、アブラハムが「神を信じて義とされた」という議論に、飛躍させています。旧約聖書の救い主の預言から、キリストへの信仰に至った「パウロにとって、「神を信じる」ことと「キリストを信じる」こととは、まったく同じであって、飛躍でもなんでもなかったのですが、私たち日本人にはとんでもない飛躍です。

 多くの神学者が何の言及もしないまま、通り過ぎているこの点こそ、私たち異邦人にとっては大切なのです。なぜなら、このときのアブラハムは、すでに選ばれ召しだされてはいても、まだ律法を与えられていない状態にあったからです。いわば、まだ異邦人と同じ立場にいたと言えるのです。

 律法を与えられていなかったアブラハムは、後になって、イスラエルに対して律法によって自己啓示をしてくださった神については、知りませんでした。神についての知的理解はまだまだ不十分だったのです。救い主についても、罪についても、十字架についても、代償の死についても、悔い改めについても知りませんでした。彼の神知識は、基本的に、異邦人の神知識であり、神に似せて造られた人間としての、本能的な神知識、本能的な神感覚によるものであり、彼個人の信仰生活を通して培われたものです。

 その「神を信じた」という彼の信仰は、現在のクリスチャンたちがいう信仰とは、かなり性質が違うものでした。それは「信仰」というより、「信頼」と言った方が良いものです。アブラハムは、神学を信じたのではありません。教理を信奉したのでもありません。理屈を受け入れたのでもなく、教えを受容したのでもないのです。彼は、神と言うお方を信頼したのです。彼に現れてくださったお方に頼ったのです。その信頼を神は受け入れ、その信頼のゆえに、彼を義としてくださった、つまり彼を受け入れ救いに入れてくださったのです。




イエス・キリストによる救い

 アブラハムも、イエス・キリストの贖いの業、十字架の死と復活を通して完成された、救いの御業によって救われました。キリストよりも、2000年ほども早く生まれたアブラハムは、キリストを知らず、キリストを信じてはいなかったのに、キリストによってすくわれたのです。罪人の救いは、キリストによる以外にないのです。

 ではアブラハムと同じ、律法のない状態で生きて来た日本人は、天地の創造者であるお方に信頼することによって、キリストの救いを頂くことはできないのでしょうか。聖書を調べる限り、できないと言う結論はどこからも出てきません。天地の造り主であるお方を信じる信仰は、ウエスレーの大衆伝道で見ることが出来たような、信仰告白と悔い改めによる明らかな救い、何月何日にどこでどのようにしてと言う、明白な救いの経験にはならないことでしょう。

 義とされたアブラハムの経験もまた、いつどこでどのようにしてというものではありませんでした。一応、聖書の記述は、「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」となっていますが、そのアブラハムの信仰は、何もないところから突然湧き起こったものではなく、長い間の神とのお付き合いの中で培われ、育て上げられたものです。カナンの地に行きなさいと言われてそれに従った時から、アブラハムの信仰はすでに行動を伴って発揮されていたのです。アブラハムはずっと主を信じていたのです。その信仰が、自分に正妻による子が与えられるという、不可能なことを信じる心になって現れ、それを覧になった神は、彼にキリストの義を着せてくださったのです。

 異邦人である日本人が義とされる信仰もまた、アブラハムのように神との長いお付き合いの中で、培われ、育てられるべきものです。その長いお付き合いの中のどこかで、キリストの義を着せられる瞬間があるのです。義としてくださるのは、まったく一方的に神の御業であり、神の権威に属することですから、人間の側から、いつどのようなときに義とされものか、特定することはできません。

 イエス様を信じたユダヤ人の多くは、予備知識を持っていたために、信じる決意をした瞬間について語ることが出来たかもしれません。キリスト教文化の中で育った人たちも、そのような瞬間を持てたことでしょう。イエス様を信じるに至った異邦人たちにも、たしかに、このときと思う瞬間があったかもしれませんが、長い神様とのお付き合いの中で積み重ねられた信仰経験の、一つの頂点としてそのような経験を持ったはずです。




全能者に対する信仰

 日本人はどこまで、全能者について知らなければならないのでしょう。全能者であると知る必要はあるのでしょうか。アブラハムは、私たちが言う「全能者」を理解していたでしょうか。天地の創造者と言う理解だけではだめでしょうか。自分を造り、生かしてくださっているお方では、いけないでしょうか。そのような理解とそれに対する信仰は、段々と固くなっていくものです。「いつどこで」は、神様にお任せすべきなのです。神が決定してくださることだからです。

 私たちにできるのは、日本人の神意識を頼りに、聖書が教えている神について語り、その神を信頼するように勧めることです。文字で書かれた律法を持っていなくても、心に書かれた律法で生きている日本人の、信仰観、神意識を大切にして、そこに語り掛けて行くべきです。私たちが伝える福音は、イエス・キリストが、日本人のためにも十字架にかかって死んでくださった事実です。そしてその事実を信じて、今も生きておられる復活のキリストを信頼してもらうことです。しかしそれより先に、天地を造り、人間を造り、命を与え、食べ物を与え、必要なものすべてを備え、生かしてくださっている、恵みの神をはっきりと示し、そのお方に信頼して生きることを勧めるものでなければなりません。

 その神は西欧の植民地主義者たちが日本に持ち込もうとした、血なまぐさい神ではなく、アメリカに都合が良い日本を作ろうとしてマッカーサーが広めた、キリスト教の神でもなく、昔から、日本人が密かに心の奥深くで感じていた、大きく、優しく、気高く、恵み深いお方であること、良い者にも悪い者にも太陽を昇らせ、雨を降らせてくださるお方であることを、なんとかお教えすることでなければなりません。

 天地を造り私たちを愛し、すべての必要を備えてくださるお方を信頼し、このお方がお望みになるような生き方を教えるべきです。そして、この方の素晴らしさを、人生の様々な局面で体験してもらい、さらに強く、このお方に信頼する生き方を勧めて行くべきです。このお方が人間に求め、期待しておられる生き方は明白です。

 その第一は、神を愛することです。愛するという言葉を絶対の存在者に向けて使うことには、いくばくかの躊躇を感じるので、むしろ敬う、敬愛するという表現にしましょう。すべてを造り支配しておられる気高いお方を敬い、ほめたたえて生きることです。太陽を見ても、月を見ても、星を見ても、海を見ても山を見ても、それらをお造りになった神を尊び、敬って、礼拝の心を持つことです。美味しい物を食べるとき、おいしいと感動するだけでなく、芳しい花にうっとりとするだけでなく、小鳥のさえずりに耳を傾けるだけでなく、それらをお造りくださった神をたたえるのです。そして、ありがとうございますと語り掛けるのです。

 第二は、神が特別に心を込めて、ご自分に似せてお造りになった、人間を愛することです。それは、自分以外の人たちも、神に愛されている存在であることを認め、何事においてもその人たちの幸せを願い、そのために努力することです。自分の益のためだけでなく、他の人たちの益も考えて生きることです。人間は神の愛の対象です。ですから、他人を愛することは神を愛することでもあるのです。

 この、他人を愛することは、自分の力だけで努力してもうまく行きません。かならず、神の助けを求めながら努力することを教えましょう。すると、その努力の中に神の働きかけ、神の力を感じることが出来るようになるのです。すると神に頼ると言うことが、単に平安な心をもったり、優しい気持ちを持ったりするための、心理作用を期待することではなく、実際に神の力を体験し、神の助けと愛を体験することであることがわかるのです。

 そのようにして、まず大きく恵み深い神を体験し、その愛と力を実感してもらうならば、キリストの話も、躓くことなく聞いてもらえるようになります。十字架の贖いの教えも、感動と喜びをもって受け入れてもらえます。神の御心に沿わない生活をしていた罪人であることも素直に認めてもらえます。だから、本物の悔い改めも期待できるのです。このとき、キリストによる救いが、理解されるのです。

 福音伝道で最も大切なことは、実際に祈らせることです。祈りはたとえ弱くても、信仰の表現、信頼の言葉です。その祈りのとき、「どこのどなたか存じませんが」と言う、西行の歌のようにではなく、「天と地をお造りになったお方に、申しあげます」と、祈りの対象、祈りを聞いてくださるお方を、はっきりと特定することが大切です。西欧式の伝道では、神は唯一と信じなければならないようですが、そんなことはどうでもいいのです。私が信じ、尊び、崇め、感謝し、祈るのは、このお方だと定めればいいのです。唯一神信仰は、聖書が救いのために必要であると言っていることではないからです。それは、後になって理解すればいいことです。




私たちがやってきた伝道

 ここまで私は、なんだかだと七面倒くさいことを言い続けてきました。でもこれは、実は私たちの伝道の場では、時々やってきたことにすぎません。何十年もの長い間、奥さんに教会に誘われても、あれこれ理由をつけては拒絶し続け、キリストの話なんぞ聞きたくないと、新聞を読むふりをして逃げ出して来た夫が、まさに死の直前、「俺も、お前とおんなじ神様を信じるよ」と言ったとしたらどうでしょう。奥様は、「うちの主人がとうとう救われたんです。信仰の告白をしたんです」と、大喜びするでしょう。牧師も神様の恵みだと、あわてて病床洗礼をと言い出し、奇跡が起こったとキリスト教式の葬儀の準備を始めることでしょう。

 でも、そんなあやふやな言葉で、その男性が救われたと断言できるのでしょうか。主イエスが、自分の罪の刑罰を身代わりに負って、十字架で死んでくださったと信じなければ、救われないのではないでしょうか。いいえ、私たちは、神様の大きな憐れみに信頼しているのです。たとえ、イエス・キリストとその働きを知らなくても、天地創造の神を信頼するならば、神は、その信頼を受け入れ、キリストの十字架の功績のゆえに、お救い下さるのです。


posted by まさ at 07:57| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

私の個人伝道

私の個人伝道
                                 


    2016年4月8日
                                         佐々木正明

始めに
 
 昔はよく個人伝道をやったものです。高校一年で救われて、すぐに個人伝道と言う大切な働きを教えられ、所かまわず、誰彼の見境もなく、ただやみくもに、「イエス・キリストはあなたの罪のために死んでくださいました」と、語りかけたものです。その結果、どういう弾みか、それがきっかけで信仰を持ち、のちには牧師になった人まで現れました。結構有名になって、本まで出しています。でもそれは、私の個人伝道が成功したのではなく、たまたま彼の精神状態が、ちょっとしたきっかけで信仰を持つ状態になっていたに過ぎません。

 だから、そんなことがいつも起こるわけではありません。かえってほとんどの試みは、見るところ何の収穫もない失敗に終わり、むなしさでいっぱいになったものです。だからといって、クリスチャンになりたての時に教わった、「個人伝道の大切さのトラウマ」は、そんなことで消し去ることが出来るほど、生易しいものではありませんでした。失敗に失敗を重ねてついに疲労困憊し、やっと思い切って投げ出すことが出来るまでには、10年近くもかかりました。われながら、学びの遅い人間だと思います。

 ただ、牧師になり宣教師になると、もっぱら説教だとか伝道方策だとかに忙しく、いつの間にか、以前のように、一人の人間の魂の大切さを考えることも少なくなり、個人伝道のトラウマも残滓となって、頭の片隅の奥の方にこびりついているだけになり、めったに思い起こすこともなくなったのが、精神衛生上は良かったと思います。

 ところが、それから40年近くもたった昨年、私はまた個人伝道の機会に遭遇したのです。しかも今度は、並行して3人です。私はすでに、「神・罪・救い」という道順をたどる、あの伝統的な伝道法には別れを告げていました。「イエス・キリストが、私たちの罪のために十字架にかかって、死んでくださいました。このキリストを信じるだけで、他に何もしないままでも救われるのです」と、しょっぱなから語りだすあの福音伝達法は、語る方にも聞く方にもあまりにも難しく、「絶対に成功しない」と思うようになっていました。少なくても、失敗をくり返した悟ったことです。

 そこで今回は、宣教師の働きに区切りをつけて、日本に帰って来てから改めて日本の文化、日本人の宗教観、神観、信仰観を学び直し、思い至った個人伝道法を試してみることにしました。それがどのようになったか、できるだけ簡潔に、しかも内容は正確に・・・と言っても簡潔にしたり、会話を文章化したりしながら・・・、今も個人伝道に情熱を燃やしておられるクリスチャンたち、あるいは、私のように個人伝道に失望して匙を投げてしまいそうになっている方たちに、お話ししたいと思います。いくばくかの示唆になれば幸いです。3人が3人とも同じような経過をたどり、キリストを救い主と信じる信仰に到達したのは感謝ですが、今回は、1人の女性の伝道記録を紹介いたします。




賢子さんへの個人伝道


 賢子さんは50を少し超えたと見える方でした。10年以上も前から膠原病を患っていましたが、今回ここに入院しているのは、どこかの有名病院でやってもらった、臓器の手術が失敗して治る見込みがなく、自分が住んでいる市に移ることになったからだということでした。非常に衰弱していて、話どころか、息をするのも苦しそうでした。一週間に一度の訪問でも、何も話すことが出来ずに、お祈りだけをして帰ることも一度や二度ではありません。話すことが出来たとしても、たいてい五分か十分程度で、三十分以上話せたのは数回だけです。

 彼女を訪問するようになったのは、私が牧会する小さな教会の、女性信徒の一人が紹介してくださったからです。保険の外交員をしているこの信徒は、顧客の一人だった賢子さんが、病院で悲惨な状況に陥っているのを見て、何とかして彼女に希望を持ってほしいと、私に「訪問して福音を伝えてください」と言ってきたのです。自分で福音を語ることが出来ない信徒に、もどかしさを感じながら、私は賢子さんを訪ねました。教会では、わかり易く福音を伝える手順を幾度も教えていたつもりなのに、この「わが教会では優秀な信徒」には、まだまだそれができないでいたのです。
 



訪問第1回目

 賢子さんは、見るからに憔悴していました。

「あなたがお入りになっている保険の外交員が、私が牧師をしている教会に出席していまして・・・・、あなたのためにお祈りくださいとリクエストを出されました。それから私にも、あなたを訪ねてお話ししてくださいと、おっしゃるので、失礼も省みずこうしてお訪ねいたしました。」

「そのことにつきましては、伺っております・・・・。」

 ベッドの上で目も開かないままに、消え入るように答える彼女を見て、一瞬、私は、彼女の命があまり長くはないと感じました。それで、前後関係の説明も省略して永遠の命のお話をすることにしました。

「私が信頼している天と地の造り主であり、人間をもお造りになって生かしてくださっているお方は、信頼してくる人には誰にでも、永遠の命を与えてくださいます。その上、この永遠の命は、単に無限に生き続けるというだけではなく、完全な肉体と完全な心を与えられて、痛みも悲しみも叫びも涙もなく永遠に生きる、素晴らしい命です。」

 賢子さんには何の反応もなく、ただ懸命に痛みに耐えていることだけが見て取れました。

「今日は初めてお会いしましたが、あまり具合が良いようにはお見受けしませんので、長いお話はいたしません。ただ、何も分からなくても結構ですから、このお方に頼ってごらんなさい。かならず、あなたにも素晴らしい人生が訪れますよ。『天と地をお造りになったお方にお願いします』と語り掛け、自分の願いをなんでもお話ししてください。」

 痛々しい彼女の姿に、なかば個人伝道をあきらめながら、私は彼女の痛みを和らげてくださるように、また永遠の命を与えてくださるように祈り、別れを告げました。

 この最初の訪問の日から、私は、筋道をつけて語る話の内容とは別に、訪ねるたびに、挨拶がわりに永遠の命についてお話ししました。死んでも生きることができるのだとお話しして、彼女を励ます努力を続けたものです。十字架の上で、今はの際の死刑囚の薄氷のような信仰に、救いをもってお応えになった、イエス様の憐れみを思い出し、何も知らない彼女のなかにもイエス様の憐れみに触れる、小さな信仰が生まれることを期待したからです。




訪問第2回目

「いいえ。私は、神様についてお話に来たのではありません。」

「キリスト教の神様についてのお話ですか?」

 弱々しく尋ねる賢子さんに、私は答えました。

「日本人にとって、神様と言うのは八百万の神々や、神話に出てくる神々、それから、いろいろな神社に祀られている神々ですが、私は、そのような神々のお話をしようとして、来たのではありません。そのような神々の中に、外国から連れてこられた、キリスト教の神を加えるお話など、賢子さんには何の益にもならないと思います。」

 ちょっといぶかしげな顔の賢子さんに、私は続けました。

「私がお話ししたいのは、賢子さんが日本人の一人として、たぶん、小さいころから心の中に感じてこられたのではないかと思う、大切なお方についてです。どう説明したら良いのか分からないし、なんてお呼びしたらいいのかさえ分からないのに、心の奥深くで、かすかに、しかも確かに感じてきた、大きく、優しく、力強く、気高く、恵み深いお方についてです。」

 目を閉じたままの賢子さんの顔に、聞いている微かなしるし見ながら、続けました。

「私はキリスト教の牧師ですが、私が信じ頼っているお方は、賢子さんだけでなく、多くの日本人が、昔から、心の奥でかすかにそしてたしかに感じて、良くはわからないままにも、崇めてきたお方だと考えています。ですから私は、まったく知らない神様を賢子さんに紹介して、この神様を信じるように、宗教を変えるようにと、勧めようとしているのではありません。」

 このとき賢子さんは目を開け、黙って不思議そうに私を見つめるだけでした。

「賢子さんも日本人の一人として、いろいろな神々を知っておられたはずですし、そのような神々に願掛けをしたことも、お祈りをしたこともあるかも知れませんね。でも、理性で考えても、そのような神々を、自分が崇め、敬い、礼拝するべき対象であるとは、考えてもみなかったことと思います。たとえ願掛けが叶い、祈りが聞かれても、『ありがとうございます』と言いはしても、尊敬と憧れをもって、礼拝を捧げることはなかったことでしょう。」

 再び目を閉じられた賢子さんの表情に、素直に聞いてくださっていることを感じて、さらに続けました。

「それが多くの日本人の感覚です。日本人はよく、八百万の神々を信じていると言われていますが、それは、日本人の宗教観のきわめて表層的で浅い理解、あるいは通俗的な表現にすぎないと思います。私がお話ししたいのは、そのような神々ではなく、賢子さんも大多数の日本人と同じように、「ふとまじめになったとき」に、かすかではあっても確かに感じてこられた、目に見えない大きなお方についてです。太陽を昇らせ、雨を降らせ、緑の山を与え、青い海を備え、その中に多くの植物や獣や鳥、そして魚や貝などを生かし、私たちに与えてくださっている、恵み深いお方についてです。」

 明らかに、私の話に興味を持っておられるように、 賢子さんは目を閉じたまま、黙って聞いておられました。

「この、目に見えない、大きな恵みにあふれたお方が、私たちを造り、命を与え、食べ物を与え、生かし続けてくださったのです。私たち日本人は、昔から、たとえおぼろげではあっても、そのお方を心の奥深くで感じて、よくは分からないままにも、感謝をささげ、自分たちのやり方で崇めてきたのです。」

 賢子さんの様子に、疲れがにじみ出て来たのを見て、私は話を切り上げ、彼女の祝福と永遠の命のために祈って、別れを告げました。

「どうぞ、来週の訪問の時まで、彼女を生かしておいてください。」

 そう祈りながら、エレベーターに乗ったものです。




  訪問第3回目

 病室が変わった彼女を探すのに手間取って、やっと見つけたところが就寝中でした。妻が持って行った花を、看護師にいただいたコップにさして、そっと置いてきました。




  訪問第4回目 

 「退院されましたよ」

 看護師の言葉にがっかり・・・。でも、しょうがありません。

「紹介してくれた泰子さんに住所を訊いて、近いうちに訪ねることにしよう・・・・。」
雨が激しく、病院の大きなガラスを叩きつけていました。




  訪問第5回目

「あの、青い壁の家だよ。きっと・・・・。」

 カーナビの付いていない車で見当はずれをくり返したあと、とうとう見つけました。

「呼び鈴を鳴らしたんですけど・・・・、だれもいらっしゃらないみたい・・・・。」

 だいぶ長い間玄関前にたたずんでいた妻が、戻ってきました。

「たぶん休んでおられるか、聞こえていても、玄関まで出てくることが出来ないのかもしれないね。」

「今度は、ご主人が仕事から帰ってきたころを見計らって、来てみましょう。」

 子供がいないと聞いていましたので、賢子さんが独りで休んでいては、お会いするのは難しいと判断して、妻と私は次の訪問先に向かいました。




  訪問6回目

 呼び鈴を押しても、何の応えもなく、携帯で呼んでみても返事がありません。

「ご主人が、仕事から戻って来ている頃合いだとは思うのだけど・・・・。」

 諦めて帰ることにしました。




  訪問7回目

 妻が押した呼び鈴に、髪の毛こそだいぶ後退していましたが、逞しく日焼けした男性がそっと顔をのぞかせました。訪問の事情を話すと、奥様の賢子さんはずっと具合が良くなく、『寝たっきりです』と小声で話してくださいました。

「普段は毎日2時間ほど介護の方が来て、身の回りの世話をしてくれるので、自分は毎晩7時過ぎまで仕事です。佐々木とおっしゃる牧師が、いつも病院を訪ねてくださり、いろいろな話を聞かせて励ましてくださっていると、家内から良く伺っています。本当にありがとうございます。体の具合さえもう少し良ければ、私が教会に連れて行けるのですが・・・・・。」

 夕闇の中で、ご主人はとても丁寧に挨拶をしてくださいましたが、賢子さんにお会いすることはできませんでした。ただ、ご主人が私たちのことを聞いていて、迷惑とは思っておられないことを喜びながら、お暇しました。




 訪問第8回目

「大変でしたね。まだ痛みますか?」
 
 以前と同じ病院の、違う病棟に賢子さんを訪ねて、開口一番に訊きました。そして、我ながらまずい訊き方をしたものだと、心の中で悔んだものです。彼女の顔には、痛みがありありと現れていたからです。

「昨日、お宅までお伺いしたところ、近所の方から、賢子さんが転んで大腿部を骨折して、前と同じ病院に入院されたと聞いたものですから、驚いてやってまいりました。」

「骨折の痛みは、鎮痛剤が利いていて今は痛くないのですが、以前からの痛みがどうしても取れません。でも、もっと詳しくお話を伺いたいと思っておりましたので、今日は、どうか・・・お聞かせください。」

 その言葉に少しほっとして、励ましをと慰めの言葉をかけてから、本題に入りました。

「前回は、私が信頼し、お祈りをしているお方は、たぶん、日本人の一人として、賢子さんも昔から心の奥でかすかに感じ、良くは分からないままにも、崇め、感謝を捧げて来たお方だとお話ししましたね。私が話していることに、納得していただけるでしょうか? 賢子さんは、心の奥深くで、良くは分からなくても、また、かすかではあっても、日本語で言う神様とは何か違う、もっと気高く、大きく、優しく、恵み深いお方を、感じて来られなかったでしょうか?」

「はい。そういえば、私も、普通の日本人として、八百万の神々や、たくさんある神社や祠にいると言われる神様に、お願いごとをしたことはあります。でも、そのような神々と、私の心の奥深くで、かすかに感じているお方は、別の存在のようにも感じます。私はこんな体ですから、かえって、生きている事に、いえ、むしろ、誰かに生かされていることに、感動することがあります。そんな時、思わず手を合わせて感謝をしたのも、一度ならずありますが、それは、八百万の神々や神社の神様にではなく、なんて表現していいのか良くわからないのですが、私の心が密かに感じている・・・・・あえて言えば、気高く、尊く、情け深く、恵み深く・・・・大きなお方。何の根拠もなく、説明もできないのですが、私の心がおぼろげに知っている・・・・・そんなお方に、手を合わせていたのだと思います。」

「そうでしたか。賢子さんもやはり心のどこかで、そのような尊いお方を感じながら、生きて来られたのですね。たとえば日本人は、大抵、食事の前には『いただきます』と言いますが、あれは食事を出してくださった方、あるいは作ってくださった方や、作物を作ってくださった農家の方々に言っているだけではなく、その背後で作物を育て、私たちに食べさせてくださっている、大きな力を持っておられるどなたかに、感謝の心を表現しているのだと、思われませんか? 私は、多くの日本人が同じような感覚を持ち、同じような体験をしているのではないかと思います。ただ、その、かすかに心に感じるお方が一体誰なのか、なぜ感じるのか、どうしてあまりにもうっすらとしか感じられないのか、何もかも良く分からないために、ついつい、目に見える姿を持つ八百万の神々や神社に祀られている神々に、お祈りしてしまうこともありますね。それでいながら、心のどこかで、なんて言うか、本能的に、『これは違う・・・。本物じゃない』などと感じてきたわけです。」

「私も、結構、宗教的なところがあって、子供のころからお宮参りをしていました。でも、八百万の神々を本物の神様だと思ったことは一度もありません。神社に祀られている神々が、本当の神様だと思ったこともありません。でも、そこに祀られているいろいろな神々の背後に、真実の神様と言うか、気高く大きなお方がいらっしゃるのではないかと感じて・・・・、そうです、感じてです。決して、考えた結論ではなく、そのように感じて、思って、手を合わせてきました。」

「日本人って、とても面白いですね。確かに神社に行って、そこに祀られている神様に祈るのですが、その神様がどんな神様であるかには、ほとんど関心がありませんね。どこの神社にお参りをしても、まったく同じ気持ちで手を合わせます。厄除けの神様だ、受験の神様だ、縁結びの神様だと、特別な役割を持たされている神様もあるようですが、参詣する多くの人たちにとっては、そこに祀られている神様が大切なのではなく、その背後に隠れておられるお方、その後ろに潜んでおられるお方こそ、尊く、大きく、私たちが手を合わせるべきお方だと、なんとなく、感じているのです。」

「私は、あまり考えたこともなかったのですが、確かに自分はたくさんの神々にではなく、いつも心の中に感じている、優しく、大きなお方に手を合わせてきたと思います。そのお方を『神様』とお呼びするのにも、少し抵抗があります。」

「日本人の宗教感覚、あるいは宗教意識と言うべきものからすれば、そのあたりはとにかく曖昧ですね。多くの神々を信じていると言われながら、本人はおしなべて、神々と言われるものなど、信じていないのではと思われます。例えば深い山に入り、見事な大木を見ると、そこにしめ縄が張ってあったり、淡い光の中に流れ落ちる滝のわきには鳥居があったり、苔むす岩々に触れてふと脇を見ると、そこに祠が置かれていたりします。多くの日本人は、それらの中になにか神々しいものを感じます。でも、それらのものを神様と言うのは、あまりにも安易で通俗的な気がします。それらのものの背後に、あるいはそれらのものの内に、気高く、尊く、大きく、優しく、強いお方の存在を感じていると言った方が、納得できます。」

「確かにそうですね。私も、そのような場所でしめ縄が張られていたり、小さな社が建てられていたりすると、たいてい、手を合わせてきました。大木や滝や山や川が神様だと思ったことはないのですが、そのようなものの中に、大切で、尊い、どなたかが潜んでおられると、感じていたからだと思います。」

「そうですね。日本人の多くは、そのような感覚をもって生きていると思います。あらゆる自然物に気高い存在が宿っておられると、本能的に感じているわけです。ただ、それを上手に説明することはできません。それで、安易に、すべての自然物を神々に仕立ててしまうこともあるわけです。でも賢子さんは、すべての自然物に多くの神々が宿っておられると、感じていたのではないようですね。むしろ、良くは理解できておらず、説明しようなどとは、お考えになったこともないだろうと想像するのですが、いま、考えてみると、いかがでしょう。賢子さんは、多くの自然物に宿っている、多くの神々を感じていたと思いますか? それとも、すべての自然物に宿っておられる、一人のお方を感じていたと思いますか? もしかしたら、大多数の日本人が心に感じている大きなお方は、たくさんの神々ではなく、唯一のお方、ただ一人のお方なのかもしれませんね。」

 賢子さんは少し目を開き、思いをめぐらせるように、天井の一点をみつめながらお答えになりました。

「一人のお方というか、同じお方と言うべきかわかりませんが、たくさんの神々ではなくて、むしろ、ただ一人のお方、同じお方が、すべての自然物に宿っておられる・・・・・と感じていたと思います。」

 期待していた答えを聞いて、励まされたように感じた私は、さらに続けました。

「そこが大切ですね。私たちが持っている高度な宗教感覚では、お一人のお方、同じお方が、すべてのものに宿り、すべてのものの背後にいらっしゃると感じるのですが、その同じ私たちが、すこし世俗化というか、安易な宗教心に流れて、自分が感じているお方について説明しようとすると、たちまち、多くの神々という言い方になってしまうわけです。日本中いや世界中に、時間と空間とを超えて存在するなど、人間の常識と体験を超えていて、心で感じたとしても、理屈では説明できないからです。そこから、人間社会と同じような、神々の世界が想像され、おどろおどろとした神話が生み出されたりもします。」

「たしかに、ほとんどの日本人は、おっしゃるようにこの二つの宗教心というか、高度な宗教感覚と安易な宗教理解を持っていて、なにか、使い分けているようなところもありますね。」

「そうですね。だから同じ人が、ある時は何々の神様と言われる神様に願掛けをしていながら、同じ口で、『神なんて存在しない』と平気で言えるわけですね。そのようなものは神様ではない、自分が尊んでいるのは、もっと気高く、優しく、自分を生かしてくださっている、良く分からない大きなお方なのだと、心の奥底では感じていながら、日常の中では、いろいろな神々を認めているところもあるわけです。

「神と言う言葉が、とても曖昧ですね。」

「その通りです。心で感じている目に見えない大きなお方は、人間の理解力をはるかに超えたお方ですので、そのお方について語ろうとすると、限られた理解力でも説明できる『たくさんの神々』になってしまうのかも知れませんね。ですから私も、個人的に、『神様』という言葉をあまり用いたくないところがあります。『神』と言う言葉は小さな、小さな、人間の頭が想像することが出来る程度のものだからです。私たちが信頼しているお方は、天と地をお造りになった大きな力あるお方で、人間の想像力をはるかに超えたお方だからです。そのため、このお方を『神様』とお呼びするには、少なからず抵抗があるわけです。『神』という日本語は、もともと『うえ』という意味で、普通の人間よりいくらかでも力があったり、能力があったりするものをなんでも、人間より上と言う意味で『かみ』と呼ぶからです。料理がうまければ料理の神、野球がうまければ野球の神という具合ですね。最近はスケートの神様だとか、神対応などと言う言葉も流行っていますね。昔は、人の上に立つと思われていた役所は、『おかみ』と呼ばれていましたし、お殿様は『・・・の頭』、あるいは『・・・の守』と呼ばれていました。人の上ですから『かみ』なのです。頭に生える毛は上の毛ですから『髪の毛』、うちの奥さんは偉い人ですから、『おかみさん』です。

「ええ!? そういう意味なんですか・・・?」

 ちょっと驚く賢子さんの笑顔に、私は続けました。

「ですからたとえば小さな動物でも、何らかの面で人間よりも優れた力があると考えられれば、神様になれるわけです。子供のできない女性からすると、子だくさんの犬やネズミは神様になれるのです。でもそのような神々を、私たちの心で感じて来た、あの気高く、大きく、強く、恵みにあふれたお方と、一緒にすることはできません。私が信頼している、『天と地の造り主』と同じレベルと言うか、同じ次元で語られても困ります。」

 仰向けに寝たまま、私の話を促すかのように、わずかに頷きながら聞いておられる賢子さんに安心して、更に続けました。

「私は、日本人が昔からかすかながらも感じて来た、尊く、気高く、大きく、優しい、目に見えないお方こそ、キリスト教の牧師である私が信頼している、「天地をお造りになったお方」だと信じています。ただ、日本人はこのお方を理解しているわけではありません。本能的に感じて来たのです。賢子さんもおっしゃったように、本当に、感じて来ただけです。また日本人は、無理してそのお方のことを理解しようとも、考えなかったようです。このお方が、あまりにも気高く、大きく、人知を超絶していると感じるために、考えることを諦め、ただ崇め、尊んで、感謝を捧げて来たという一面があるのです。大きな尊いお方を、理屈で説明できるとか、言葉で理解してもらえると考えるほど、日本人は愚かではなかったということでもあります。あるいは、ギリシヤ的な思考に慣らされた西欧人のように、とことん理屈で詰めて行くことが苦手で、あきらめが早いともいえるかも知れませんね。とにかく大多数の日本人は、自分たちが心で感じている、高く、深く、広いお方を、学問で究めようなどと、大それたことは考えもしなかったのです。そんなことは、思い上がりもはなはだしいと、感覚的に悟っていたと思われます。」

「そのような気高い方を心に感じているのは、日本人だけでしょうか? 他の国人たちというか、他の民族というか、日本人ではない方たちは、私たちのようには感じていないのでしょうか?」

「決して日本人だけではないと思いますよ。人間であればだれでも、感じるのではないかと思います。ただ、いろいろな理由で、日本人は特にその感覚に優れていると思われるのです。」

 私は、ここで非常に重要な事柄に踏み込むことにしました。

「天と地をお造りになったお方が、私たち人間に与えてくださった聖書と言う書物には、このお方が人間をお造りになったとき、人間だけを、ご自分に似せてお造りになったと書かれています。このお方は霊的な存在者で、あらゆる意味で無限のお方ですから、有限な人間の目には見えません。ですから、ここに記されている「似せて」と言う言葉は、顔かたちや姿のことではありません。このお方の本質的な性質である、霊的なあり方です。つまり私たち人間は、この第三次元の世界に生かされている有限なものですが、唯一、霊的な次元、別の次元を感じ、ある程度それを理解できる能力というか、性質を与えられているということです。ところで突然ですが、賢子さんは、猫がお祈りしているのを見たことがありますか?

 「え、猫ですか? 見たことがありません。」

 賢子さんは、わずかに白い歯を見せながら答えてくださいました。

「そうですよね。猫や犬がお祈りすることはありません。あらゆる動物の中で、人間だけがお祈りをします。人間だけが、第三次元以外の次元のことを感じ、自分をお造りになった目に見えない大きなお方を、本能的に感じるようにされているからです。感じる能力が、与えられているのです。ただその能力が、今は旨く機能していないために、自分を作ってくださった恵み深いお方のことが、ほとんど分からなくなってしまったのです。でもこのお方を礼拝したいという気持ち、このお方に感謝を捧げなければならないという心は、本能として残っているために、世界中のどの時代のどの文化の人にも宗教心があるわけです。でも、このお方のことがよく分からなくなってしまって、このお方の代わりに、おかしな神様を作り出して拝んだり、幽霊だとかお化けだとか妖怪だとかを空想して恐れたりしています。幽霊がいるのではと怖がるのは、人間だけですよね。猫が幽霊を怖がっていては夜遊びが出来なくなりますね。」

「前に、うちで飼っていた猫は、夜遊びが大好きで困りました。毎日朝帰りで、日中は寝てばかり・・・・。」

「いま我が家にいる猫も、夜遊びが大好きです。幽霊などを想定して、気味が悪いし怖いから夜は出歩けないなどと言うのは人間だけです。霊的な性質を持っていながら、すっかり迷いの中に落ち込んで、様々な霊的現象を空想しては怖がり、恐れているためですね。」

「そういえば、私の父も、とても強いしっかりとした人間だと思っていましたが、可笑しなことに、幽霊が怖くて、夜は一人で寝られなかったんです・・・・。」

「世界中のすべての人間が、人間である以上、たとえ非常に希薄で曖昧ではあっても、日本人と同じように、自分を創造して下さったお方のイメージを持っていて、そのお方を礼拝したいという気持ちを持っています。でも、大方の人々の意識はあまりにも希薄で、曖昧模糊としているために、自分勝手な神々を作り出し、様々な偶像を作成して拝んでしまうのでしょうね。その傍らでは、幽霊や悪霊、死霊や背後霊などと訳の分からないことを言って、一方では弄び、もう一方では勝手に恐れています。たいていは、『幽霊の正体見たり枯れ尾花』となるわけです。」

「人間すべてに、そして人間だけに、霊的な性質が与えられ、私たちをお造りになった天地の造り主を、感ずる能力があることが分かりました。」

「ただし、これは単に感ずる能力だけではありません。これは、造り主と交わる、あるいはお話をする、意思を通じる能力があるということなのです。だから、人間は祈り、造り主はその祈りに応えてくださるのです。」

 ここで賢子さんは、おずおずと切り出しました。

「さきほど、日本人は特に、造り主である方を感じる能力に、優れているというようなことをお話になりましたが、それはどういうことでしょか? どうしてそのようなことが言えるのでしょう。」

 話が順調に進み、賢子さんもしっかりと聞いて、的を射た受け答えになっていることを喜んで、更に話を続けようとしましたが・・・。

「○○さぁ〜ん。診察のお時間でぇ〜す。診察室に行く準備をしてくださぁ〜い。」

 突然、看護師の声がかかって、今日はこれまでとなりました。急いで、

「どうかいつも、天と地をお造りになったお方にお祈りし、感謝と願いと賛美を捧げながら生活してください。天と地をお造りになったお方は、必ず賢子さんのお祈りに応えてくださいますから。」

 と、私。

「ええ。この頃は毎日、朝晩にお祈りしています。私自身、自分の中に大きな変化を感じています」

 看護師さんの気配を後ろに感じながら、短くお祈りをしてお別れしました。




  訪問9回目

 賢子さんは、大きなリハビリ専門病院の、個室に入っていました。骨折後のリハビリと言うことで、病院を移られたようです。ただ実際のところ、素人目にも、もう立って歩くことなど、思いもよらないという状態なのですが・・・・。どうやってリハビリをするのか・・・・・?

「こんにちは。ここは個室なので、落ち着いてお話ができますね。」

 窓の向こうの明るい梢から、ゆっくりと目をはなして、賢子さんは弱々しく口を開きました。

「ええ。いつもありがとうございます。ここですと、他の患者さんに気兼ねせずにすみます。」

「それに、今日は顔色も良いようですが・・・・。」

 ほんとうは、特に顔色が良かったわけでもなかった・・・・のかも知れません。ただ、窓からの光が部屋を明るくして、一瞬、彼女の顔をさわやかに見せたのです。

「はい。今日はゆっくりお話が聞けそうです。」

「前回はたしか、日本人は天地をお造りになったお方を感じる感覚に、特に、優れているのではないかと言うところで、中断していましたね。そこからお話ししましょうか。

 少なくても、調子が悪くてお話しできない賢子さんではなかったことを、感謝しながらお祈りを済ませ、「個人伝道」を再開しました。

「世界中の民族や国々の人を、みな調べてのお話ではありませんが、元宣教師として、様々な国のいろいろな民族の代表者たちと、ずいぶんお話しする機会がありました。様々な文献に目を通すこともできました。それで言えるのですが、日本人の心には、日本人自身が気づかないままですが、天地をお造りになったお方の性質が、特別に強く残されていると思います。それは日本人の倫理観や道徳観となって現れて、世界でもまれな、最も進んだキリスト教諸国にも引けを取らないほど、平穏な落ち着いた社会を作り上げています。多くの国々の人たちが、口をそろえて賞賛しているほどです。」

「そのような話は、テレビや雑誌の報道を観ても、良く取り上げられていますね。」

「もちろんいろいろな反論も、例外的な出来事もたくさんあります。私が見ていても、おかしな日本人感覚、絶対に納得できない日本人独特の考え方、日本人らしい醜さもあります。海外で長い間活動して来た私などには、『もう嫌だ! 日本人なんかと付き合いたくない』と思うことさえあるんですよ。それでも日本人の倫理感、道徳観の高さは、世界の人々が認めていると言えるでしょう。ずいぶん昔のこと、そうですね1970年代の初めだったと思いますが、イギリスのある調査機関が、「世界のクリスチャン度」と言うものを発表したことがあります。それによると、世界で一番クリスチャン的な国は、日本だというのです。クリスチャンの数という点では日本はもっとも低いのですが、社会の平穏さ、人々のものの考え方、判断基準、価値観、倫理観など、あらゆる角度から総合的に評価すると、いちばん聖書の教えに近い生き方をしているのは、日本人だということです。ふつう最も進んだキリスト教国と言われる北欧の国々でも、イギリスでも、ドイツでも、アメリカでも、イタリアでもなく、神道と仏教の国、日本だというのです。」

「詳しいことは知りませんが、確かに、大航海時代に植民地にされて、カトリック化された中南米の国々や、アジアではフィリピンに行くときでも、治安が悪いから、強盗や万引きが多いから気を付けるようにと言われますね。それだけでなく、ヨーロッパのキリスト教の国々に行くときも、アメリカに行くときも、日本のように無防備で歩かないように言われますね。安全とか倫理と言う面では、日本は特別なのですね。江戸時代の日本では、女性が独りでかなりの遠出をしていましたが、同じころのイギリスでは、せいぜい2キロくらいが限度だったそうです。長いあいだ病院生活をしている私は、そこまでさえも出歩けないものですから、テレビや雑誌ばかり観ていて、雑学が増えました。」

「どこの国にも、素晴らしい人格を持っている人はいます。親切で心優しい人はどの文化にも存在します。安全な社会もどこかにあるでしょうね。ただ、日本は特別なようです。そこが大切です。」

「どうして、そんなことになっているのでしょうか?」

「それは、とても良い、そして大切な質問だと思います。日本人の宗教観、倫理観、社会の治安などからの推論に、聖書の教えからの推論を重ねると、そのように言うことが出来ると思います。推論ですから、絶対の確証があるわけではありません。物理や数学の世界ではありませんので、確実な証明は不可能です。でも私は、かなり高い確率でその推論が正しいと考えています。」

 ときおり、痛みに顔をしかめることがあっても、とても熱心に耳を傾けてくださっている賢子さんの様子に励まされて、さらに続けました。

「キリスト教の世界では、聖書を神様からの律法(戒め)と理解して、その戒めに反することは罪と考えます。ところが、その聖書の戒めはユダヤ人とキリスト教徒に与えられたものであって、それ以外の人たちに与えられたものではありません。その聖書の中に・・・・、ここが大切なところなのですが、ユダヤ人やキリスト教徒以外の人たちにも、天地を創造されたお方からの、基本的な律法が与えられていると教えられています。それが今まで話してきた、私たちの心の奥にある、目に見えないお方に対する恐れと尊敬の念です。造り主である方に似せて造られた性質です。これが、基本的な、あるいは原則的な律法となって、キリスト教社会以外の社会でも、良い秩序が保たれ、良心的で安全な生活が営まれるようになっているわけです。いわば聖書のように、文字で書かれた律法ではなく、心に書き記されている律法です。」

「日本人のように、ユダヤ人でもキリスト教の信徒でもない人々にも、聖書ではない戒め、文字で書かれた戒めではない、心に書かれた戒めが与えられていると、文字で書かれた戒めである聖書に教えられているのですか? なにかとてもややこしい言い方になりましたが・・・。」

 賢子さんは、とても頭の良い人なんだと、改めて思いながら続けました。

「その通りです。多くのクリスチャンたちは気づいていませんし、気づいていてもその大切さを理解していませんが、そのように聖書に教えられているのです。」

「・・・クリスチャンではなかった私たちにも、同じ天地の造り主から律法が与えられていて、私たち日本人は、その心に書き記された律法を大切に守っていると言うことですね。たぶん、多くのキリスト教諸国の人々が、聖書の教えを守ろうとする以上に・・・。」

「そういうことです。文字で書かれた律法、つまり聖書の大切さは、まず、心に記された律法ではよく分からない、天地を創造されたお方のことが、詳しく教えられているところです。次に、そのお方が人間のために準備して下さった救いの御計画と、その遂行について詳しく記されていることです。その文字で書かれた律法によりますと、人間の道徳的腐敗には二つの理由があります。第一はクリスチャンならば誰でも知っていますが、アダムとエバという人類の祖先の罪によって、人間が造り主である神から離れ、悪魔の支配に陥り、罪に縛られて生きるようになり、行き着く先が死になってしまったという物語です。いわばこれが第一の堕落で、基本的なものです。

「アダムとエバのお話は、ほとんどおとぎ話のように、多くの人たちに知られていますが、あれを本当のお話とお考えなのですか?」

 ちょっと驚いた反応をした賢子さんにお答えしました。

「アダムとエバの話は、今から3千数百年も昔に、難しい本質的なことをその当時の人々にわかり易く語り伝えようとしたもので、現代人の語り方、あるいは教え方とは違うかもしれませんが、本質を正しく伝えているものと考えています。」

「そんなに昔に書かれたお話だったんですか!」

「そうです、そんなに昔に、当時の人たちにわかり易い語り方で、理解されやすい方法で書かれているのですから、現代人が不注意に読むと、おとぎ話だと思ってしまうことがあるわけですね。・・・それで、もとにもどって・・・。」

「はい。ごめんなさい。話の腰を折ってしまいました。」

「第二は、第一の堕落から派生して来た、偶像礼拝の問題です。たとえ、第一の堕落によって造り主を離れしまっていても、造り主のことがまったく分からなくなったのではありません。事実、造り主は、ご自分のことを知らせようと、自然を通して絶えず人間にそのお姿を現してくださったと、聖書は教えています。それにも拘らず、人間はその栄光に富んだ造り主の姿、目に見えない永遠の姿を、目に見える人間や鳥や獣や地を這うものの姿に変えて、偶像を造り、それを拝むようになってしまったのです。」

「人間が、誰かを礼拝したいという本能ですね。本能はあっても、礼拝の対象と言うか、礼拝すべきお方がよく分からなくなっていた・・・・ということですね。」

「そういうことです。ただ、人間をお造りになったお方は、人間が、少なくても見えない造り主を崇めるべきだとお考えになり、それがわかるように、ご自分を現わしてくださっていたと、聖書には書かれています。それなのに、それにも拘らず・・・ですよ。人間は様々な形の偶像を作り出して、これを礼拝したのです。そこで造り主である神は、この愚かでかたくなな偶像礼拝者たちを、自分たちの汚れた欲望のままにお任せになったというのです。これがいわば第二の堕落です。

「第一の堕落の結果は、悪魔の支配にくだり、神を離れた社会を作り、罪の力に縛られるようになって、死を目指して生きるようになったということのように思いますが、第二の堕落の結果はなんでしょう?。」

「これは時間的には、第一の堕落の後、あまり時が経過しないうちに起こったことと思いますが、偶像礼拝のために、自分たちの欲望のままに任せられた結果は、聖書によると、まず性的な混乱、同性愛が挙げられています。それから続いて、多くの醜い罪が21も列挙されています。日本人の優れた倫理観、あるいは平穏な社会などは、ここに関係していると思います。

「第二の堕落、つまり偶像礼拝に関係しているということですか?」

「そうだと思います。実はとても大切なことなのですが、日本人が心に感じているあの大きなお方に関して言えば、偶像と言うものが存在しないのです。日本人の高度な宗教意識は、このお方の偶像を認めないのです。高度な宗教意識を無理やりに説明しようとすると、神々になったり幽霊やお化けや妖怪になったりしてしまいます。神々の偶像が巷に転がり、漫画のネタがあふれています。先にお話ししたように、ほとんどの日本人にとって、それらは「かみがみ」であったり、霊界の存在であったりするだけで、崇めたり敬愛したり、礼拝したりする、崇高なものではありません。かえって、「神なんぞ存在しない」と言わせるもとになっているものです。」

「でも、偶像がまったくないという訳でもありませんね。例えばお隣の佐賀県では、街々に恵比寿様の偶像を見かけますよね。」

「そうですね、恵比寿様のような神々は、通俗的に神話化されたものですね。そのような偶像は、日本中いたるところにかなりあります。人間はやはり、目に見えないものでは満足できず、何とか見えるものにしたいのですね。日本では、特に仏教が入って来て、古来の日本人の神道的感覚と混じり合った後は、偶像が増えたようですね。」

「日本の神々は、仏様をお守りしているのだと、説明がされたこともありましたね。」

「それにも拘らず、日本人古来の宗教的感覚は変わらずに、日本人の多くの心を支配していたと言えます。神道が仏教化した部分より、仏教が神道化した部分の方が多いようにさえ思います。だから、日本の仏教は他の仏教国の仏教とは随分異なっているわけです。よく仏教的な感覚として語られる『わび・さび』にしても、私は本来神道的なものだと思います。他の国の仏教には、そのようなものはありませんから・・・。」

「日本って、神道と仏教の国と言われていますが、仏教は、死に関わる事柄だけを扱うみたいですね。しかも、死についての仏教の教えはとても曖昧で、いまはもう、死んだときだけに関わる宗教と言う感じで・・・・。」

「死んだときだけに関わるというのは、少し言い過ぎかもしれませんが、死者をまつることを中心に、日本の家族や親族の繋がりを保つことによって、社会の基盤を据えている役割があると思います。仏教各派の教えは互いにひどく異なっていて、それを統一するとか調整することは不可能ですが、この死者に関わり、家族と親族の繋がりを保つという、神道にはない役割を果たしていると言えます。」

「仏教は良い宗教でもあるわけですね。」

「良いところもたくさんあると言うべきでしょうか。人間に救いをもたらさないという事では、良い宗教とは言えないでしょう。しかし、日本と言う国において、それなりの役割を果たし、日本の社会の安定化に貢献してきたことは事実だと思います。仏教徒たちにも、人間をお造りになったお方の性質がしっかりと宿っていて、彼らを治める原則的な力として働いていることに、変わりはありません。」

「すべての人間が、造り主から与えられているその基本的な人間性を大切にしていたら、宗教や思想を超えて、もう少し手をつなぐことが出来そうですね。」

「そうですね、『人類に共通な善』を無視して、自分たちの民族や国家や文化あるいは宗教の優位性だけを主張する「原理主義」に走ると、例えば大航海時代に始まったカトリックの植民地主義、その後に力を持ち出したプロテスタント諸国の、植民地政策のような残虐行為も許してしまいます。ISやアルカイダなどに代表される、現代のイスラム原理主義も同様ですね。

「アメリカなども、原理主義的傾向が強いキリスト教が、大きな政治的影響力を持っていると言われていますね。」

「そうですね。しっかりと聖書の教えに立つのは良いことだと思いますが、独善的な聖書解釈によって自分たちの優位性を主張するようになると、恐ろしいですね。それが民族的、文化的、国家的、思想的優越感になり、戦争や植民地化までも許して美化してしまうわけです。アメリカの独善性と言うか欺瞞は、ベトナム戦争を境に、だれの目にもはっきりしてきましたね。アメリカは素晴らしいキリスト教国だと思っていた人は、あれで裏切られ、さらに次々と暴かれるアメリカの国家的犯罪に、失望しているわけです。」

「ヨーロッパなどの伝統的キリスト教諸国でも、近年、若者たちのキリスト教離れが急速に進んでいますね。」

「あれなども、伝統的なキリスト教至上主義の教えが、一人の人間としての自分の人間性から出てくる『良心の叫び』とは、相容れないと感じ始めているからだと思いますね。私が前に、「キリスト教の神についてお話に来たのではない」と申し上げたことは、覚えていらっしゃるでしょうか?」

「ええ。不思議なことを言う牧師だなぁ・・・と思いました。」

「そうですか。覚えていてくださり、ありがとうございます。私は独りよがりの欧米キリスト教が嫌いなのです。私が好きなのは、聖書で教えられている教え。そこに現わされている天地を創造されたお方。また救い主としてこの世界に来てくださった、イエス・キリストであって、ヨーロッパ人の作り上げたキリスト教ではありません。私は、多くの西欧のクリスチャンたちと同じように、聖書に書かれていることを、神からの誤りのない教えであると信じていますが、その理解の仕方が違うのですね。欧米人が理解した聖書の教えでは、キリスト教以外の宗教はすべて悪であって、神の怒りと裁きの対象ですが、私が理解する聖書の教えでは、すべての人間には、造り主であるお方の麗しい性質が与えられていて、それが、人間としての基本的な律法となり、それぞれの文化の中で倫理観となり、道徳律に発展していると言うことです。キリスト教信者やユダヤ人以外の人々は、聖書の教えによって裁かれたり良し悪しを言われたりするのではなく、この、心に記された基本的律法に照らして裁かれるのです。聖書の律法は、ユダヤ人とキリスト教信者に与えられたものであって、他の人たちに与えられたものではありません。ですから、それによって裁かれることがあってはならないのです。」

「それでは、先生の教えておられる教えは、聖書に根差していると言えるかもしれませんが、欧米から教えられたキリスト教の教えとは、だいぶ違うところがあると言うことになりますね。」

「残念ながら、その通りです。特に他の宗教に対する考え方が違います。西欧から輸入されたキリスト教では、キリスト教以外はみな偶像礼拝の邪教、神が憎まれるものですが、私は、すべての宗教は造り主に似せて造られた人間の、本能的欲求の現れ、あるいは表現だと考えています。誰かを礼拝したいというのは、霊的性質を与えられて造られた人間の本能であって、それ自体は悪ではないのです。」

「私も、キリスト教は他のすべての宗教を、憎むべきものと教えていると思っていました。」

「ふつうの日本人にも、そのように理解されているのは、とても残念なことです。それは西欧キリスト教の受け売りであり、間違った聖書の読み方から来る誤った理解です。何かを礼拝したいというのは、人間に与えられた本能であり、赤ちゃんがおっぱいに吸い付くのと同じです。この本能が無ければ赤ちゃんは死んでしまいます。お腹を空かせた赤ちゃんは、おっぱいの代わりに親指に吸い付いたりもします。その行為を罪だと言って叱ってもはじまりません。おっぱいを与えてやればいいのです。」

「知らないのだから、分からずにいるのだから、教えて上げたらいいわけですね。」

「そうです。知らない人をしかりつけて裁きを宣告するだけで、教えて上げないのが悪いのですね。日本人は、天地をお造りになったお方を知らなかったために、そのお方を礼拝することが出来なかったり、そのお方を礼拝するにも、正しく礼拝できなかったりしているのです。ただ、気を付けて理解しなければならないのは、日本人の基本的宗教心の表現である神道には、いわゆる偶像が無いのです。通俗化したり、無理に理屈をつけたりした場合は、偶像の侵入も許すようですが、本来の神道には偶像が無いのです。賢子さんは、神社で神様の像を見たことがありますか? 無いですね? 純粋に神道の神社ならば、どこにも神様の像は置いていません。いわゆるご神体と言うものも、神そのものの像ではなく、神を象徴するものにすぎません。

「たしかに、神社には神様の像と言われるものを置いていないようですね。少なくても、私は見たことも聞いたこともありません。」

「日本人は、心で感じている気高く大きなお方を、非常に崇高なお方と感じていますので、このお方を言葉でも絵でも像でも、表現できるなどとは考えないようです。思いもよらないことなのですね。だから神道には、神様をあれこれと説明するキリスト教のような神学がありません。同じように、絵もなく像もありません。ユダヤ人のようにいくたびもくり返して、偶像礼拝を禁じられる必要もありませんでした。」

「日本人は、自分が直感的に感じている気高いお方と言いますか、本能的に感じている大きなお方を、自覚をしないままではありますが、とても大切にしていると言うことですね。」

「だから、『神なんていない』などと平気で言いながら、自分の宗教心を非常に大切にしていて、宗教の悪口は許さないわけです。この偶像を許さない日本人の宗教心は、神から突き放されて自分の欲望のままに任せられたという、第二の堕落をかなり止めているところがあるのではないかと、私は考えています。日本人の偶像礼拝の少なさは、日本人に対する神の怒りを少なくし、日本人の倫理観の高さ、日本社会の治安の良さにつながっているのだと思います。それが日本人を、多くの西欧キリスト教諸国の人々よりも、クリスチャン的な人間にしているのだと思います。聖書の律法も心に記されている律法も、もとはと言えば、同じ天地の造り主から与えられているものですから。」 

 ここで突然、賢子さんにひどく疲れた様子が現れました。先ほどまではなかった汗が、薄く額に浮いてきたように見えたのです。

「賢子さん。今日はずいぶん長くお話ししましたから、だいぶお疲れになったことでしょう。ですから、あとひとつのことだけお話しして終わりましょうね。」

「すみません。やはり、疲れたようです・・・・。」

「賢子さんが、今までずっと感じてこられた、目に見えない、大きく優しいお方は、私が信頼している、天と地をお造りになったお方だと思います。つまり、普通、クリスチャンたちが神様と言って、礼拝していたお方です。私は先にも言いましたように、個人的に、神様と言うのに少し躊躇するのですが、他に適当な言葉がないために、とりあえず、神様とお呼びしましょう。実は、聖書で教えている天と地をお造りになったお方を、なんという日本語に翻訳したら良いか、翻訳者たちはずいぶん迷ったようですが、結局、プロテスタント教会では神様と言う言葉に落ち着いたようなのです。このことについての詳しいお話は後に回して、便宜上、神様とお呼びしておきましょう。」

 賢さんは、黙って頷いて下さました。

「どうか、いままで賢子さんが感じて来た優しく大きなお方が、天地をお造りになりお方だ、感謝を捧げるべきお方だと、はっきりと認めてお祈りをしてください。『天地をお造りになり、私をお造りくださり、生かしてくださっている神様。ありがとうございます。今まで私は、あなたのことをあまりよく知らないまま、あまり感謝も尊敬もしないままに来てしまいました。まことに申し訳ありませんでした。これからは、あなたこそ、私の感謝と賛美を受けるにふさわしいお方だと定めて、あなただけを礼拝し、あなただけに信頼し、あなたに私をお任せして生きて行きます。どうか、私を守り、祝福してくださいますように、お願い申しあげます。』」

賢子さんの汗が少し濃くなっているのを見ながら、私は締めくくりに言いました。

「細かい言葉遣いなど、気にしなくてかまいません。天と地をお造りになった神様は、言葉がうまい下手ではなく、心を読み取ってくださるお方です。素直に感謝し、ほめたたえ、お願いをしてください。そして、神様の恵みと守りを体験してください。賢子さんのお祈りに、天と地を造り、賢子さんを造ってくださったお方は、必ず答えてくださいますから。」

 目を閉じたまま、ほとんど無表情になった賢子さんのために、最後に短くお祈りをして、別れを告げました。




 訪問第10回目

 賢さんは珍しく、ベッドの背を立てて体を起こしておられました。残暑にクーラーの涼風をわずかに感じながら、お祈りをささげて、お話を始めました。

「この前は、『神様』という言葉について、お話ししましたね。日本人が普通『神様』と呼ぶものと、私たちが本当に心に感じ、敬ったり尊敬したりしている大切なお方とは、別の存在であるということですね。私がお話ししようとしている方は、賢子さんも日本人の一人として、心の奥深くで感じて来られたに違いない、ありがたく、優しく、大きく、恵み豊かなお方についてだということです。実は、私たちも普通は、この方のことを『神様』とお呼びしていますが、それはあくまでも、日本語に適当な言葉がないので、とりあえず、翻訳として借用しているだけだということです。ここまでは、分かっていただけたでしょうか?」

 「はい。とてもよく分かりました。私も、ずいぶん曖昧にというか、なんとなく『神様』という言葉を使ってきましたが、私が本当に大切にしてきたのは、自分の心で、かすかに感じて来た、大きく、強く、恵み深いお方であり、このお方が、聖書が教えている天と地をお造りになったお方で、クリスチャンたちが、『天の父なる神様』とお呼びになっているお方だと分かりました。

「そして、このお方こそ、私たちに命を与え、生かし、すべての必要を与えていてくださるお方です。この方は優しく恵み深いために、良い人たちにも、悪い人たちにも、太陽を昇らせ、雨を降らせてくださっているのです。」

「静かに、まじめに、自分の人生を考えてみると、本当にありがたいことだと思います。今はこんな病気になっていますし、時には、『神も仏もあるものか』などと、悪態をついたこともありましたが、不平や文句などは、言ってはおれないですよね。」

「不思議ですね。健康で、好き勝手なことをしていながら、不平不満ばかり言っている人もいるかと思えば、賢子さんのように、ベッドの上に寝たきりなのに、『ありがたい』と感じながら、生きて行ける人がいるのですから。・・・・でも、賢子さんは私たちとお会いするまで、その心に感じてこられたお方に向けて、はっきりと、感謝を捧げたことはありますか? ありがとうございますという気持ちを、あきらかに表現したことはありますか?」

「そのように言われますと・・・・、あまりありませんでした・・・・。なかったと思います。」

「命を与えられ、必要なものすべてを与えられ・・・・思いめぐらせると、とても、とても、大きな恵みをいただいて来たのに、きちっと感謝もしていなかったということになりますね。」

「確かに、感謝の気持ちはありましたけれど・・・・・誰に向かって、どのようにしたらよいのか・・・・心の中で感じていた恵み深いお方の・・・・なんといいますか・・・そのイメージといいますか、お姿と言えばいいのでしょうか、感覚がぼやけていたものですから・・・・とにかく、はっきりしていなかったために、感謝の気持ちを、きちっと現わしては・・・・・来なかったのだと思います。」

 ゆっくりと、考えるように、賢子さんは言葉をつないでいました。

「あれほど大きな恵みと祝福をいただきながら、私たちの多くは、ほとんど感謝らしい感謝もせず、『ありがとうございます』とも言わなかったのは、たしかに、私たちの心に感じる天と地をお造りになったお方のイメージが、とても薄く、ぼやけていたからだと思いますが・・・・、やはり、これは『恩知らず』と言われても、言い訳が出来ませんね。あれほどよくしていただいたのに、『義理を欠いている』とも言えますね。あるいは、『親不孝』という言葉がありますが、私たちは天地をお造りくださったお方に『不孝』を重ねて来たのではないでしょうか。それなのに、まだ、このお方は忍耐深く、私たちから恵みを取り去ってはおられません。」

「そのように言われると、その通りですね。私たちは恩知らずで、不義理で、不孝を重ねていますね。でも、どうしたら良いのか分かりません。」

「そうですね。このような不義理、つまり、天地の創造者である方に本来するべき感謝をしてこなかった、本来、するべき礼拝も賛美もせず、きちっと敬意を払ってこなかったということは、やはり、大きな間違いだったと思います。これを、私たちはふつう、「罪」と言う言葉で表現します。私たちは天と地をお造りになったお方に、罪を犯してきたということです。」

「ああ・・、やっと分かりました。それが、キリスト教で言う罪なのですね。学生のころ、友人の一人が教会に通っていて、よく、『罪、罪』と言っていました。でも罪っていうと、私たちが考えるのは泥棒だとか人殺しですから、私には関係がないと・・・・。まったく無関心でした。」

「泥棒や殺人も罪には変わりませんが、それはどちらかと言うと、犯罪で、いま取り扱っているのは、それらの犯罪の根に当たる罪のことです。それは、自分をお造りになり、生かしてくださっていたお方を無視して、感謝もせず礼拝もせず、またそのお方が人間をお造りになった目的にも、少しの感心も示さず、勝手に生きて来たということなのです。親不孝、不義理、親の心子知らずというのと、同類ですね。」

 今日の賢子さんは、しっかりと目を開いて、きちっと受け答えをしておられます。

「ですから、いま、私たちにできることが二つ、いや、三つあります。一つは、不義理と不孝、恩知らずだったことをお詫びすることです。もう一つは、今日これから、このお方の素晴らしさを称え、感謝しながら生きることです。美しい花を観たら、『きれいだな〜』だけで終わらずに、『こんなにきれいなお花を造ってくださった神様。ありがとうございます』と、神様に感謝をすることです。さらにその上、私たちにも神様に似た性質を与えて、神様がお造りになった美しいものを、美しいと感じる感覚を与えてくださったことも感謝しましょう。そのような素敵な神様をほめ称え、賛美することです。美味しいものを食べた時も同じです。感動することがあったときも同じです。太陽が昇り、朝露が輝くとき、感謝しましょう。縁側で鳴く鈴虫にも、小枝を飛び交う目白にも、感動するだけでなく神様をほめたたえて、感謝しましょう。」

「すべての美しいもの、すべての善いもののために、神様に感謝し、ほめたたえるわけですね?」

「その通りです。そうしていると、しだいに、美しいものや良いものにだけではなく、美しくないもの、悪いものにさえ、感謝ができるようになるのです。それは、感謝し、賛美する心を神様が祝福して下さり、私たちの心を変えてくださるからです。でも、まずは美しいもの、おいしいもの、良いものをたくさん思い出し、ひとつひとつ感謝し、賛美していきましょう。沢山ありますね。とてもとても、たくさんありますね。今日は日差しがさわやかです。緑が輝いています。白い雲もすがすがしく、雀のさえずりさえ楽しく聞こえます。さわやかに感じる心を感謝しましょう。輝く緑を見ることが出来る目を感謝しましょう。心地よく雀のさえずりを聞くことが出来る耳を感謝しましょう。」

「よく分かりました。どうせ、ベッドの上で何もできない私ですから、いろいろな美しいもの、おいしいもの、楽しかったこと、嬉しかったことを、たくさん思い出すことが出来ると思います。」

「それをひとつひとつ感謝して行って・・・・。」

 私たちは同時に同じことを言いました。そして、笑いました。賢子さんが朗らかに笑う姿を始めて見ました。

「もう一つのことは、神様がお喜びになる生き方をすることです。それは、人間同士が互いに愛し合い助け合い、みんなが幸せになるように願いながら生きることです。」

「『互いに愛し合いなさい』と言うのが、キリスト教の基本的な教えだとは、どこかで聞きかじっていました。『罪、罪』と言っていた友人からだったかも知れません。」

「そうです。神様が人間に求めておられる大切なことの一つは、人間同士が愛し合い、助け合い、仲良く平和に生きることです。賢子さんは今、ベッドから起き上がるのも『やっと』の状態ですから、他の人のために何かをしてあげるなどと言うことは、無理かも知れませんね。でも、本当はとても大切なことが出来るんですよ。たとえば、他の人たちのために、お祈りをしてあげることです。自分に良くしてくださった方たち、親切だった方たちの顔を思い出しながら、その方たちの幸せのために、健康のために、家庭のために、人間関係のためにお祈りをしてあげるのです。それから、自分に不親切だった人たち、迷惑をかけられた人たち、嫌いな人たちのことも思い出し、その人たちの幸せのためにも祈ってあげるのです。いやかもしれませんが、その人たちのために祈ってあげていると、不思議にその人たちを赦すことが出来、いやな思い出も良い思い出と変わってきます。それは、神様が祝福してくださるからです。それから、病院の人たち、お医者さんのために、看護師の方々のために、掃除に来てくださる方たちのためにもお祈りしましょう。そして、できるだけ笑顔で、・・・・・ちょっと辛い時も、できるだけ笑顔で、あいさつし、『ありがとうございます』と言ってあげましょう。それだけでも、みんな明るい気持ちになれるんですよ。その明るい気持ちが、さらに伝染して行くわけです。」

 真剣に聞いておられる賢子さんに励まされて、私は続けました。

「あんな嫌な人のために、お祈りなどできないと思うこともあるでしょう。でも、『敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい』と言うのがキリストの教えであり、神様がお喜びになることなのです。その出来ないことをしてみるのです。『あんたなんか大嫌い! あっちに行って!!』と叫びたいところを、『いつもありがとうございます』と言ってみるのです。そのとき、自分の意志の力ではなく、神様に、『そのように言える心と勇気を与えてください』と祈りながら、言ってみるのです。すると、神様が助けてくださって、ほんとうに言えるようになります。そして、あなたの心が変えられ、やがて嫌いな人の心も変えられ、新しい人間関係が出来てくるのです。それが神様に喜ばれることです。決して自分の力でやろうとはせず、神様に祈りながら、助けられながらやることです。それが神様に対する信頼で、普通『信仰』と呼ばれるものです。自分の力だけでやろうとすると、必ず失敗します。神様に信頼して、つまり信仰を持って、やろうとすることです。神様が最もお喜びになるのは、人間に信頼されることだからです。」

「おっしゃる通りにしてみます。」

 賢子さんが約束して下さったのを聞いて、祈りの手本になるように、感謝と賛美と願いの祈りをしてお別れしました。




 訪問11回目

 一転して、賢子さんの顔色がよくありません。このところリハビリ病院で、明るく応答し、かなり話が進んだのですが、今日はお祈りをしただけで・・・・・、帰りました。帰り際にプレゼントですと、千代紙をたくさん折ってまとめた、大きなぼんぼりのようなものを持たされました。気分のいい時に、私たちに対する感謝の気持ちとして、何日もかけて作ったのだそうです。バックミラーのところに掛けてみましたが、大きすぎて運転の邪魔になるので、家に飾ることにしました。




 訪問12回目 

 またも賢子さんの容態が思わしくなく、病室の前でお祈りをしたまま、会わずに戻りました。




 訪問13回目

 リハビリ病院は、明るい色彩でまとめられていました。薬の副作用か、顔が丸く大きく腫れているようには見えましたが、元気な様子にほっとしながらお話ししました。

「この前は、ずっと昔から賢子さんが心の中で感じていた、気高く尊いお方に、感謝と賛美を捧げ、きちっとお礼をしてこなかったことを、お詫びすることについてお話ししましたね。それから、そのお方を褒め称え、信頼して生活すること、隣人を愛して行くことについても、お話ししました。しかも、それを自分の力でするのではなく、その気高いお方、つまりクリスチャンが天地の造り主として信頼しているお方にお祈りして、そのお方の力によって、そのようにさせてもらうということもお話ししました。いかがでしたか、やってみましたか?」

 賢子さんは、ゆっくりと、落ち着いて、言葉を選ぶように話し出しました。

「はい。やってみました。毎日お祈りして・・・・、天地の造り主である神様を褒め称えました。感謝しなければならないことをたくさん思い出して、今まできちっと感謝をしてこなかったことをお詫びし、ひとつひとつ『ありがとうございます』と申し上げました。それで、ずいぶん自分が変わりました。たぶん、祈りに応えられたのだと思います。」

「それは良かったですね。今までは、ただ、なんとなく心に感じていた神様でしたが、今は、祈りに応えてくださる、身近な神様となりましたね。」

「ええ。それから、教えられた通り、お祈りして神様の助けをお願いしながら、他人に親切にできるように心がけてみました。」

「その結果、どうなりましたか?」

「はっきりとは言えませんが、まず、私の気持ちが変わったみたいです。それから、心なしか、私に接する人たちの様子と言うか、態度が変わったようにも思えます。」

「そうですか。確かに変化してきているのだと思いますよ。もっとそれがはっきりと現れてくるように、続けて行きましょうね。」

「なんだか、私はいま、とっても幸せな気持ちになっています。私は、大きく強く気高いお方に守られているんだなって、感じます。誰にも知られないで苦しんできたのではなく、このお方がすべてご存じだったと思えて、・・・・病気のことも、手術の失敗のことも、何もかも神様がご存知なのだと思うと、深く安堵したというか、安心できるようになったんです。」

「それは良かったですね。少しずつですが、賢子さんは神様の力を体験しておられるのだと思います。天と地をお造りになったお方は、また、小さな雀までみ手のなかでお守りくださる神様だと、聖書に教えられています。そしてこの神様は、いわゆる、西洋から連れてこられた、キリスト教の神様ではありません。フランシスコ・ザビエルのスーツケースの中に入れられて、日本に運び込まれた神様ではありません。昔から、大昔から、天地創造の時から、日本にいてくださり、日本を祝福していてくださっていた神様です。多くの日本人が、賢子さんが感じておられたように、心の奥で感じて、良くは分からないままにも、崇め、崇拝して来た神様です。」

「そうですよね。私も、何か、とても懐かしい気持ちで、昔から知っていた優しいお方の、懐に飛び込んだような・・・・そんな感じがします。」

「キリストは、この神様を『天の父なる神様』とお呼びしましたが、まさに、長い間離れ離れになっていた、優しく強く大きな父親に再会して、その胸に飛び込むような心持が、神様を信頼することで、神様がお喜びになることなのです。聖書には、『神を愛する』ことが、人間として最も大切なことだと、教えられています。日本語では『愛する』と翻訳されていますが、なにか上から目線の表現に感じます。むしろ、『神様をお慕いする』と言った方が、日本語としてふさわしいでしょうね。『お慕いする』には、敬い、愛し、信頼するなどの深い意味がありますね。神様は、恐れたり、怖がったりするべきお方ではありません。恐れたり怖がったりするのは、神様のお心に反した生活をしているのではないかと、これも、ほとんど本能的に感じるからですね。」

「本当のところ、私も心の中で本能的に敬っていたように思うのですが、一方では、やはり本能的に恐れていたと思います。」

「そうですね。神を畏れ敬うという言葉があるくらいですから。やはり恐怖感もあったはずです。」

「どうしてでしょう? 神様は優しいお方のはずなのですが・・・。」

「これも今言いましたように、ほとんど、本能的な感覚でしょうね。優しいお方、恵み深いお方と感じていながら、一方では恐ろしいお方、怖いお方、近づきがたいお方と感じているのは、私たちに、自分ごときはこの気高いお方にはふさわしくない、自分は穢れている、汚いと感じているからではないでしょうか。キリスト教の信者に、頭ごなしに罪人呼ばわりされれば、『何を!俺は犯罪人ではないぞ!!』と腹も立ちますが、静かに自分を省みると、心の奥で感じている気高いお方の前に出るには、いささか汚らわしいと・・・・思うところもあるわけです。そんな日本人の心が、神社の手水舎(ちょうずや/てみずや)などに表現されているように思います。お参りする前に手を洗い口を漱いで、自分の穢れを洗い流すという意識だと思います。あるいは、流し雛などにも表わされているのだと思います。」

「流し雛って、今のお雛様の原型となった習慣ですよね。聞いたことがあります。」

「どのように聞いておられましたか?」

「たしか昔、日本人は、自分の身代わりとなる人形、つまり雛を作って、それに自分の穢れを乗せて、水に流したということだったと思います。」

「実際に雛が穢れを負って流れてくれたかどうかは別にして、日本人には、そのような強い穢れの感覚があったというわけですね。」

「そういえば、・・・私、大学時代の授業で、日本人には『恥』の意識はあっても、『罪』の意識はないと教えられたことがありましたが・・・・。あれはどうでしょう?」

「大変なことを思いだされましたね。それはたぶん、ルース・ベネディクトというアメリカの女性によって書かれ、戦後まもなく出版された『菊と刀』という、日本文化の研究書に書かれている事だと思いますね。アメリカ人による最初の日本文化の研究と言うことで、長い間、古典的な取り扱いを受けて来たものです。なかなか面白い分析で、たしか・・・人間関係を最も大切にして形成されている日本には、『恥』の意識は生まれても、絶対者の存在を前提としていないために、『罪』の意識は生じないというようなことを言っていたと思いますが・・・・。」

「でも・・・、キリスト教の神と言う絶対者の存在を前提としている欧米人が、その絶対者をどれだけ強く意識して生活しているか、はなはだ疑問にも思うのですが・・・。」

「そうですよね。多くの日本人は、キリスト教が言うような『絶対の神』の存在は知らなくても、気高く強く大きく正しい存在を、かすかにではあっても、心の中で、消すことが出来ない本能的な感覚として意識していていますね。だから、『誰が見ていなくても、だれに知られなくても、正しく生きよう』という、強烈な信念を抱くことも少なくありません。賢子さんは三浦綾子が書いた『氷点』という小説をご存知ですか?」

「ええ。人に勧められて読んだことはあります。三浦綾子は、クリスチャンでしたよね。」

「そうです。当時としては破格の賞金1千万円をかけて、朝日新聞が1963年に募集した小説です。私がクリスチャンになって間もなくのことであり、この小説の舞台が、私が暮らしたことのある村の隣村と言うことで、朝日新聞の連載を楽しみに読んだものです。この小説の中で、主人公の陽子が、継母から酷い虐待を受けながら、『石にかじり付いても』・・・・しがみついても・・・だったですかね・・・『正しく生きよう』と健気な決意をするところがあるのですが、まさに、そのような決意をさせたのが、天地の造り主である神の性質を与えられている人間の、本源的な、まさにマグマのように底の底から押し上げてくる衝動であり、その押し上げ突き上げてくるところが、日本人の魂の文化であると言うことが出来ると思います。

「実は、私もあの場面をよく覚えています。『石にかじりついても』だったと思います。」

「そうですよね。『石にかじりついて』が正しい日本語ですよね。罪の文化を持たなと言われる日本人の方が、陽子のように、非常に高度な倫理を固持し、その理念に従って行動をする場合が多いですね。たとえば、東日本大震災の時、あれだけたくさんの人たちが、あんなに大きな被害を受けながら、大変秩序のある行動をしていましたね。お店に暴徒が押し寄せて略奪するなどと言うことは、ありませんでした。あのような事態が起こると、キリスト教国と言われている国々でも、とんでもない略奪騒ぎになっていますね。警察だけでは足りなくて軍隊が出て来ても、あまりにも暴徒の人数が多過ぎて、何もできないというニュースをテレビや新聞で観てきましたね。」

「そういうときの、日本人って、とてもふしぎですね・・・・。何も東日本大震災の時だけではなく、そのような日本人の行動はいろいろな時に見られたと聞きました。戦後の満州からの引き上げの時の行動にもあったそうです。引き揚げ作業を管理していたアメリカ軍が、感嘆した話を読んだことがあります。」

「良くご存知ですね。私もその話は、何かで読んだことがあります。日本人は、いつも、絶対に聖く正しいお方が見ておられると、心の奥に感じていて、その感覚をぬぐうことが出来ないのだと思います。そして、そのお方の前に、自分は正しい行動をするのだという意識がとても強い・・・。」

「そういう点から考えると、罪意識はないと言われた日本人の方が、よほど強い罪意識を持っているのではないかと思いますよね。」

「だから日本人は、心に感じている気高く聖く正しいお方の前に出るには、自分はふさわしくないと感じています。それが日本人の罪意識でしょうね。あるいは穢れの感覚と言った方が良いかも知れませんね。日本人が本能的に感じているのは、罪よりも穢れでしょうね。日本語では、罪と言うのは表層的で、穢れと言うのは、もっと深くに存在する者のように感じますね。」 

「でも、ちょっと不思議に思うのですが・・・・。お聞きしてよろしいでしょうか?」

 賢子さんは、「勇気を出して」と、自分に言い聞かせるように切り出しました。

「いままで私はずっとお話を伺い、教えられた通りに、自分の心で感じていた気高く大きなお方が、天と地をお造りになった神様だと信じるようになりました。そして、おっしゃる通りに、この神様を崇め、感謝をし、お祈りを捧げてきました。その結果、この神様が自分を祝福して下さっているというか、自分を守ってくださっていると実感でき、私の精神状態がずいぶん変わってきたと思います。それが、病院という小さな社会でのことですが、私の人間関係も変わってきたと思います。それには、また、私には永遠の命が与えられているのだということが、現実的に、信じられるようになってきたことも、大きく関係していると思います。」

「そのことは、私も、お訪ねするごとに感じていましたよ。」

「でも・・・、私はそのお方を、聖く正しく、私など恐れ多くて近づけないお方であるとも感じて来ました。そして、その感覚は正しいものであるように伺ったように思いますが・・・・・。それならどうして、ただ、優しく恵み深く、人間の幸せを願い、祈りを聞き入れ、助けてくださるお方として、この恐れ多いお方に遠慮なく近づき、身勝手な祈りを捧げることが出来たのでしょうか。こんなことで、よろしいのでしょうか。どうして、私のようなものが、天と地をお造りになった大きなお方に、図々しく近づけたのでしょうか。懐かしい方に迎えられたような気持になれたのでしょうか?」

「賢子さん。あなたの疑問は、とてもとても大切なポイントというか、まさに、キリスト教の神髄ともいうべき点に、関わっています。キリスト教の『キリスト』という言葉は救い主と言う意味です。天と地をお造りになった神と言うだけならば、他の宗教、例えば、イスラム教やユダヤ教も同じように信じていますし、他にも、そのような宗教があるかもしれません。でもキリストすなわち救い主が、その神から遣わされて来てくださったと信じているのは、キリスト教だけです。

「キリストがキリスト教の特異性と言うことですね。」

「その通りです。このキリストと言う言葉は、キリストがこの世界に来てくださった当時、世界の共通語だったギリシヤ語ですが、キリストがお生まれになる前に書かれた旧約聖書では、主にヘブル語が使用されていて、『メシヤ』と呼ばれていました。『やがて救い主がおいでになりますよ』と言う励ましの言葉、あるいは予言の言葉として『メシヤ』が用いられ、人々の期待を集めていました。

「そういえば、世界メシヤ教という宗教もありますね。」

「あっ、あれは岡田茂吉と言う人が興した日本の新興宗教で、名前を借用しただけでキリスト教とは関係がありません。」

「そうでしょうね。なにか、私も違和感を持っていました。」

「それでは、このキリスト、あるいはメシヤ、・・・発音のしかたの問題で『メサイヤ』と呼ばれることもありますが・・・・」

「あっ。あのメサイヤという曲はそういう意味だったのですか!」

「よくご存じですね。ヘンデルが作曲した名曲ですね。メサイヤすなわちメシヤ、救い主、キリストです。では、この救い主についてお話をしたいと思います。それから賢子さんが、どうして何にもしないまま、そのままというか、ありのままの姿で、聖い生活をしたり徳や金銭を積んだりしないままで、気高く聖いお方に近づくことが出来たのかも、お話ししましょう。・・・でも、今日はもうだいぶ長くお話をしていますから、お疲れになったと思います。キリストのお話は、またこの次ということにしましょう。今までと同じように、天と地を造ってくださった、大きく強く優しく気高いお方を賛美し、慕い、信頼して、お祈りを続けていてください。この素晴らしい造り主の祝福を感じながら、生活してください。」

「分かりましたそのようにいたします。」

 賢子さんは珍しく手を振って、見送ってくださいました。




 第14回目

 リハビリ病院では、きちっとした治療が出来ないということで、賢子さんは元の病院に戻っておられました。幸い個室に入ることが出来たようですが、以前に比べるとずっと狭く窮屈でした。それでも、周囲に気兼ねせず話しあえ、お祈りもできるのでほっとしました。

「今日は、救い主のお話をすることになっていましたね。キリスト教がなぜキリスト教と呼ばれているのかと言うことですね。」

「はい。キリスト教が、なぜキリスト教と呼ばれるようになったかです。それから、なぜ、私のような人間が、出家もせず、功徳も積まずに、天地をお造りになった気高く聖いお方に、近づくことが出来たかを教えていただくことになっています。」

 賢子さんは、私が何を話そうと思っていたかを、すでに良く知っておられたようで、その言葉には期待さえ感じました。」

「それから、今日は特別に、もう一人の方に来ていただきました。私たちの教会に来ておられる重子さんです。たぶん、賢子さんと同じくらいのお歳だと思いますから、共通の話題も多いことでしょう。それから重子さんはベテランの看護師さんです。看護婦と言われていた時からの看護師さんです。牧師の私からだけ話を聞くのではなく、普通の信徒の方から聞くのも役に立つと思いますよ。」
 
 そう言い残して病室を離れ、30分ほど談話室で読書をしてから戻ってみました。二人の女性の会話は弾んでいるようでした。

「賢子さん。今日は重子さんと楽しくお話が出来たようですね。でも、お疲れになったでしょう? 救い主についてのお話は、またこの次にしましょうか。賢子さんは、救い主についてはまだあまりご存じなくても、神様をきちっと信頼しておられるのですから、心配はありません。神様は賢子さんの知識によって、お救いになるのではなく、神様を信頼する信仰をご覧になって、お救いになるのですから、安心してください。

「分かりました。今日は重子さんをお連れくださり、本当にありがとうございます。牧師ではなく、信徒と言う立場でのお話も、とても励ましになりました。キリストのお話は、この次に期待いたします。」

「これまでと同じように、神様を賛美し、お祈りを続けてください。神様の祝福をもっともっと体験してください。」

 賢子さんの明るい声に励まされて、私たちは病室を後にしました。証をすることによって逆に励まされた重子さんが、とても感動している様子が新鮮でした。

 訪問15回目

 前回、重子さんを連れて行って、思いのほか良い結果が得られたように思った私は、今度は、若いフィリピン人の女性を連れて行きました。明るく可愛いというより、美人系の彼女は、母国で良い大学を出た後、こちらで英語の教師をしていると言うことですが、何よりも、クリスチャン経験がしっかりしているので、賢子さんの励ましになると判断したのです。

「ハァ〜イ! ナイストゥミーチユウ!!」

 明るいあいさつの後、なんのためらいもなく、横たわる賢子さんの上に覆いかぶさるようにハグした彼女に、賢子さんはとても驚いたようですが、くったくのない片言の日本語に心を開いたのか、機嫌よく迎えてくださいました。握手した手をそのまま激しく振る美人さんに、いささか心配しながらも、はにかんだ賢子さんの笑顔に励まされて、私は福音の中心主題に入って行くことが出来ました。

 神の愛と聖さから始めて、救いの御計画、キリストの誕生とお働き、十字架の贖いと甦り、そして昇天と再臨、更には新天新地についてまで、神の救いの歴史について、ゆっくりと話すことが出来ました。何も心配せずに、人間の罪と堕落、神様に敵対した文化とその中に生きる人間、罪による悪魔の支配についても、語ることが出来ました。それから、人間に対する神のこよなき愛と、無代価の救い、すなわち信仰による救いと罪と悪魔からの解放と永遠の命について、充分に説明しました。賢子さんは、そのすべてを、素直に、そして真剣に聞いておられました。とくに、キリストの贖いに現わされた神の愛について聞いているときは、とても感動していることが分かりました。

「よく分かりました。」

 長い話を聞き終えて、賢子さんは、はっきりとおっしゃいました。

「私は今日まで、天と地をお造りになった大きな神様について伺い、その神様を信じるようになってきました。その神様は、私がずっと前から、心の中で感じていた神様であることも分かりました。人間は神様に似せて造られているために、本能的に神様を感じ、礼拝したいという願いを持つことも理解しました。だから日本人も、大昔から神様を心に感じ、良くは分からないままにも崇め、祀ってきたのだということも納得できました。そしてその神様が、私たちを祝福し、必要なすべてのものを与えてくださっていることも、よく分かり、感謝をしてきました。太陽を見ても感謝、風を感じても感謝、花に触れても果物を手にしても感謝出来る人間になりました。」

「賢子さんの様子を拝見して来ましたが、今おっしゃったことがその通りなのだと、私も感じています。本当に良かったですね。」

「でも今日は、その神様が準備して下さった救いについて、まったく新しい分野について、教えていただきました。まるで、見えなかった目が開かれるように、とてもよく分かりました。救い主の誕生とお働き、特に十字架の身代わりの死についても、なぜそれが必要だったのか、とても良く理解できました。その救い主を通して現わされた、神様の比べようもない大きな愛については、ただ、感謝することしかできません。神様の救いが無代価でなければならないことも、その通りだと思います。お金で買うべきものでも、功徳と交換すべきものでもないことにも、納得ができました。本当に、こんなに尊い救いに、私たちは何を持っても充分な支払いはできません。ただ、感謝をもって受け取る以外はありません。」

「その通りです。きっと納得していただけると思って、お話ししましたが、・・・・・ほかに、何か分からないところはありますか?」

「いいえ。お聞きしたことはどれもこれも、みんな、腑に落ちると言うべきでしょうか、よく分かります。何の疑問もありません。神様がどれほど私たちを愛していらっしゃるのか、とても言葉では言い表せないと思います。私たちは造られて、愛されて、守られていると思うだけで、感謝がいっぱい溢れてきますが、救い主を通して現わされた愛について知ると、ただただ、もう、何も言えなくなります。『ありがとうございます』と言っても、『もったいないことでございます』と言っても不充分です。

「分かっていただいて、私もとても嬉しく思います。それでは賢子さん、これからは、自分の本能的な神感覚に頼るだけではなく、もっとはっきりと神様について、救い主について、人間の生き方について教えられている、聖書に導かれる生き方をしましょうね。人間は神様の本性を写し与えられていますが、その本性は人間の堕落によってずいぶん曖昧になっています。ですから本性だけでは、神様を正しく理解することも、正しい信仰生活をすることもできません。それに対して聖書は、神様がご自分について、救いについて、人間の生活について、はっきりとお教えるため与えてくださったものです。今まで私は、この聖書によってお話しをしてきましたが、これからも、そのようにします。賢子さんも聖書を手に入れて、ご自分で読んでみましょうね。神様について、救い主について、もっともっとたくさん、しっかりと学んでいきましょう。そしてますます、神さまに信頼する生き方をして参りましょう。

「はい。どうぞよろしくご指導くださいますように、お願いいたします。」

 私と家内は、仰向けになったまま組んだ賢子さんの手を取って、一緒に感謝の祈りを捧げました。「アーメン」と言って目を開けると、喜びと平安に包まれた賢子さんの笑顔がありました。




終わりに

 賢子さんに始めてお会いしてから、もう1年半ほどにもなります。とてもしっかりとした信仰告白をしてからも、彼女はずいぶんひどい目に遭いました。法律が変わったとかで、長期間の入院が出来なくなり、2度退院させられました。自宅に戻った彼女を幾度も尋ねましたが、寝たきりのために、窓越しにお話しできたのが一度だけです。その2度の退院中に2度の骨折をしました。お会いしてから、合計3回の骨折です。さらに点滴中に細菌に感染したのか、骨折の時の傷口から感染したとかよく分かりませんが、左足に壊死がはじまり、切断しなければならないかもしれないなどとも言われました。壊死は骨まで達していましたが、幸い、今のところそれ以上進行せずに、切り取ったところに肉が盛り上がって来ています。あまりの痛さに、面会できないことも幾度かありました。

 でも今週お会いした時は、イエス・キリストを通して神が準備して下さった救いについて、1時間ほども、組織立ててお話が出来ました。お別れの前に、彼女は無理してベッドに起き上がり、私たち夫婦にプレゼントをくださいました。私たちそれぞれの誕生石と真っ赤なバラが入った、飾りの置物です。石はイミテーションですが、バラは本物を特別な方法で保存しているものでした。わざわざご主人に頼んで、買ってもらったそうです。

 次の日曜日には、教会に持って行って、信徒たちに見せたいと考えています。交わりには一度も来ることが出来ないままですが、信徒たちは名前を挙げて祈っているからです。私たちの教会の一員と理解されているのです。








posted by まさ at 07:27| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月09日

異邦人への福音・日本人の救いのために


          
 2014年12月
                                       西九州伝道所
                                        佐々木正明
                               


 使徒パウロは、異邦人への使徒と呼ばれるにふさわしい仕事をしました。ユダヤの民族主義の虜になっていた福音理解を開放して、すべての民族に対する福音、普遍的福音の理解に変えたのは、まさに聖霊に導かれた彼の働きでした。私たち異邦人クリスチャンは、彼の働きに大いに感謝をしなければなりません。

 とは言え、異邦人への使徒と呼ばれるパウロの働きは、主に神学的側面にあり、実際の伝道の働きによるものではありません。確かに彼はパレスチナに留まらず、異邦人の土地を広く行き巡りましたが、実際に彼の福音を聞いてそれを信じた大部分は、宗教的にも文化的にもすでにユダヤ化した人々でした。彼は伝道戦略として、行く先の町々でまずユダヤ人の会堂を訪れ、そこにいた人たちに語ったのです。会堂にいたのはユダヤ人とユダヤ教に改宗した人々、そして改宗にまでは至らなくても、すでに、ユダヤ教を敬い、ユダヤの文化の多くを受け入れていた人たちでした。

✩ ✩ ✩ ✩

 使徒の働きとパウロの書簡を読む限り、パウロが純粋な異邦人、すなわちユダヤの文化をまったく知らない人々に語ったのは、ごくわずかです。たとえ、キプロス島のセルギオ・パウロやピリピの獄吏のように、ユダヤ文化にあまり馴染みがなかったと思われるような人物でも、神の奇跡の働きを目の当たりにして、パウロの信じる神に畏れを感じ、聞く準備も受け入れる用意もできていた者です。

パウロが完全な異邦人の聴衆に向けて語ったのは、ルステラとアテネのことです。ルステラでは、自分たちが神ではないことを告げることで精一杯のようでした。アテネではほんのわずかではありますが、改宗者を得ることができました。アテネでの説教などは、さすがに異邦人への使徒だと唸らせるものがあります。とは言え、アテネでの彼の説教は、異邦人に対するものとしては、まだまだ準備不足なところがあります。彼が比較的長期間留まったコリントでの働きには、多数の異邦人が混じっていた会衆を相手に、随分苦労をした様子が見て取れます。彼がコリントのクリスチャンたちに宛てて書いた手紙に、それが良く現れています。

 パウロが実際の異邦人伝道では、あまり大きな働きをすることができなかったことは、マルタ島でのひと冬が物語っています。難船してマルタ島に上陸したパウロは、火にあたっていて、暖気で出てきたマムシに噛まれてしまいますが、まったく害を受けませんでした。それを見ていた人たちは驚いて、彼を神だと言い出します。それだけでなく、パウロは多くの病人を癒してとても尊敬され、島を離れる時には必要な品々を贈られてさえいます。ところが、そこにクリスチャンになった人が出たとか、会衆が生まれたなどという記述はありません。当然パウロは、そこで過ごした三ヶ月間、熱心に伝道したはずですが、記述するだけの実を得ることができなかったと思われます。まったくの異邦人、ユダヤ文化の影響が少しもない、しかも田舎に生きる粗野な人々の中では、ユダヤ教の影響の強い人々の中で得たようには、実を得ることができなかったのです。

 パウロは確かに異邦人のための神学では大きな貢献をしました。しかし実際の異邦人伝道ではまだ力不足でした。それだけでなく、大きな貢献をしたと言われる彼の異邦人の神学も、まだまだ基礎が据えられただけ、土台が敷かれただけで、その上に家は建てられていません。未完成というか、十分には開花していないのです。この、マルタ島で得るべき実を得ることができなかった、パウロの未発達な異邦人の神学では、現代の日本人に対応することができません。マルタ島の人々が、ユダヤ文化から遠かったよりも、遥かに遠い異邦人文化に生き、それを独自に発展させて、特異な精神文化と宗教心を育み、自分たちのアイデンティティを作り上げ、それを誇りとしてきたのが日本人です。たとえ、異邦人への使徒パウロがやって来たとしても、簡単に外来の信仰を受け入れるとは考えられません。

 私たちは今、パウロが基礎を据えた異邦人への福音をさらに発展させ、異邦人のための神学を築き上げなければなりません。遅すぎたといえば遅すぎたのですが、これからでも、絶対にやらなければならないことです。それができていないことが、日本の宣教が滞っている、大きな理由の一つだからです。



T. 聖書はだれに向けて書かれたか

「女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。」(Tテモテ2:11〜12、参照・Tコリ14:34)

 これは、聖書に記されている使徒パウロの言葉であり、霊感された神の言葉です。今でもこの言葉をそのまま受け取り、女性が教会で語ることを禁止している団体も少なくありません。この言葉をとって、女性差別にあたる考えを正当化しているクリスチャンも、たくさんいます。そのような教会やクリスチャンが、「だんだん少なくなっているかな」と思える傾向にあるのは、幸いです。

 この言葉は確かに霊感を受けた言葉、神の権威の下に書かれた言葉ですが、直接的には私たちに向けてではなく、第一世紀に生きていた人々に語られたものです。また、強いユダヤ文化の影響を受けて生きていた人々への言葉です。そのような特殊な事情を考察した上で、二十一世紀の現代日本に生きる私たちに適用しなければなりません。

 以上のことは常識的であり、ほとんどの日本人クリスチャンたちも良く心得ています。聖書は、誰に向けて書かれたかを知っていなければ、正しく理解することも、間違いなく現代の私たちに適用することもできないのです。聖書には、時代や文化や人種、階級、性別などを超えた、完全な普遍的教えは記されていません。みな時間的、文化的な制約の中で書かれているのです。あえて例外というならば、イエス様によって最も大切な戒めと言われた、「神を愛する」という命令(マタイ22:37)が、極めて普遍的に近いものでしょう。でも、それでさえ、ユダヤ人に向けて、ユダヤ人の言葉で書かれているという事実があり、正しく理解するためには、当時のユダヤ人が用いていた「愛する」という言葉の意味を、よく知る必要があります。ただ、ユダヤ人という制約があり、3千数百年前という背景と言語の問題があったとしても、「神を愛する」という戒めは、誰にでも適用できる普遍性を帯びているということです。

 イエス様に第二の戒めと言われた、「隣人を愛する」こと(マタイ22:39)は、もっと注意深い適用が必要です。なぜならここで言われる隣人とは、書かれた当時は、ユダヤ人のことだったからです。それを今、自分以外のすべての人と解釈するには、かなりの思索が必要です。この程度のことは、しっかりと学んだクリスチャンや伝道者、あるいは牧師にはよく知られていることです。とは言え、実際上はしばしば忘れられ、疎かにされていることです。

 それ以上に困ったことは、旧約聖書が、直接的にはすべてユダヤ人に向けて書かれているという事実が、軽く見られていることです。用いられた言葉もユダヤ人の言葉です。本当のところ新約聖書の大部分も、ユダヤ人か、ユダヤの宗教文化を持った、異邦人クリスチャンたちに向けて書かれたものです。新約時代のクリスチャンは、たとえユダヤ人ではなくても、非常に強いユダヤ的宗教文化の影響を受けていたのです。そのような聖書を、あたかも、現代に生きている日本人である「自分に」、直接宛てて書かれたかのように読むのは、正しくありません。必ず、適用ということを考えなければならないのです。

   ある教えは、大渓谷を橋渡しするような適用が必要であり、ある戒めはわずかの溝を埋めるだけの適用で済むかもしれませんが、適用をしなければならないという点においては、同じです。それで、まったくの未信者である日本人に、ただ聖書を手渡して読んでもらったとしても、なかなか理解できないのです。普通は橋渡しをしそこなって、自分には何ら関係のない古代の読み物として、片付けてしまいます。反対に、聖書を「神様からの手紙」として、まるで、直接自分に向けて書かれたものであるかのように、時代背景も文化も無視して読んでしまい、主観的な解釈に陥っているクリスチャンたちもいます。

 実はこのような誤りは、ごく普通に見られることです。日本に来た宣教師たちも同じであり、西欧のクリスチャンや神学者たちにも変わりはありません。誰もが、聖書があたかも直接、自分たちに向けて書かれているかのように読んでいますが、それがどれほど大きな誤りであり、宣教の上で躓きになっているか考えたこともないようです。

 この誤りの中で最も深刻で、広範囲に悪影響を与えているのが、「罪」の問題です。聖書はまさに全巻を通して、罪の問題をとり扱っています。聖書に記されている大部分の罪は、律法に違反する罪です。つまり、旧約聖書に記された律法を破る罪です。旧約聖書は、既に触れたように、ユダヤ人に与えられたものです。旧約聖書の中でも普遍的な事柄を扱っている部分は、すべての人々に適応できますが、こと律法に関しては、律法を与えられているものと、律法を与えられていないものが、明確に隔てられています。旧約聖書の律法に拘束されるのは、律法を付与されたユダヤ人だけなのです。(ローマ2:12) その律法に違反することが罪であり、律法の違反により明らかな罪の自覚を持ち、救い主の贖いを感謝して受け取ることができるのです。そういう意味で律法は救いに導くものであり、「養育係」であるとパウロはいうのです。(ガラテヤ3:24)

 では律法を与えられていない者に、罪は存在しないのでしょうか。そうではありません。「律法なしに罪を犯した人は律法なしに滅びる」と言われている通り、律法なしでも罪はあるのです。(ローマ2:12) ところがパウロは続けて、律法を与えられていない人でも、生まれつきのままで律法の命じる行いをする場合は、その人自身が自分に対する律法なのだと語り、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていると教えています。(2:12〜15) 旧約聖書を与えられていない異邦人も、旧約聖書の律法とは別の律法を与えられていて、所有しているのです。従って異邦人は、旧約聖書の律法によって裁かれるべきではありません。旧約聖書の律法を与えられていない者は、旧約聖書の律法によってではなく、「心に書かれている律法」によって裁かれるのです。

 残念ながら、異邦人への使徒パウロの、異邦人のための神学は、先に触れたように、土台が敷かれただけで終わっています。彼の実際の宣教の働きが、まったくの異邦人だけを相手にしたことは少なかったために、まったくの異邦人を取り扱う神学の必要性を、あまり感じることがなかったのでしょう。そのため、異邦人の神学はそれ以上発展させられていないのです。ですから異邦人の神学にとっても、異邦人への宣教にとっても非常に重要な、異邦人に与えられている「聖書とは別の律法」についての言及も、これで終わっています。

 それでも私たちが、まったくの異邦人であり、未信者である日本人に向かって語るとき、旧約聖書の律法をもって、彼らを罪人扱いにすることはできないことが、ここで明らかにされています。旧約聖書はもちろん、新約聖書の教えをもっても、日本人の罪を云々言ってはいけないのです。旧約聖書の厳しい倫理的教えを持ち出して、罪人と決め付ける猛々しいやり方は、イエス様がユダヤ人に対して行ったものですが、同じことを私たちが日本人に行うのは間違いなのです。異邦人である日本人は、日本人の「心に記されている律法の要求」によって、あるいは「律法である自分自身」に裁かれることによって、罪人であるという自覚を持てるように、教え導かれなければならないのです。(ローマ2:14〜15)

 ではパウロが言う、「自分自身が自分に対する律法である」とは、どういうことでしょう。「心に記されている律法の要求」とは何のことでしょう。聖書には、この件に関して他に言及がありません。従って、この数節から神学を打ち立てることはかなり困難です。とはいえ、全く不可能なのではありません。聖書の一箇所の言及を用いて、他の聖書の教えと相反するような主張をするのは間違っていますが、その言及で、聖書の他の多くの記述と調和する考え方を持つことができれば、それはかなりの確率で、正当な神学と考えられるからです。

 パウロが言う、「心に記されている律法の要求」、「あるいは自分に対する律法である自分」とは、人間の本源的善性のことではないかと考えられます。これは、人間が普遍的に持っているものとして語られていますから、誰かに教えられて持つようになった後天的なものではなく、人間としてあらかじめ持っていたもの、先天的なものと考えて良いでしょう。つまり人間としての本源的な姿です。人間の本源的姿は、「神に似せて造られた」という、創世記の記述に、明らかに示されています。(創世記1:27〜27) 人間が創造されたとき、人間には神に似た姿が人間の本質、あるいは本源的善性として与えられ、それが律法として残っているのです。その善性を持っている人間が、人間自身の律法の役割を果たしているのです。

 プロテスタント神学の中には、人間の堕落と罪深さを強調し、神の救いの恵みを高々と謳い上げるために、人間の中の善い性質はアダムとエバの堕落によって完全に失われ、まったく残っていないかのような言い方をするものもありますが、聖書は、堕落の後にも人間には善性が残っていることを、前提にして書かれています。パウロが「私の内には善が住んでいない」と言っているのは、彼の主観的な信仰体験としての罪の自覚であって、人間全般の性質を語ったものではありません。(ローマ7:18)

 神に似せて造られた人間は、本源的にまた本能的に、いくつかの性質また能力を持っています。それは当然、すべて神に似たすばらしいものです。もっとも基本的なのは霊的な性質です。これがあるために人間はあらゆる動物と異なって、霊的な感覚と能力を持っています。そのために神を始め、霊的な存在を感じることができます。また、聖い性質です。それはあらゆる汚れを嫌うもので、善や正義という性質に関わってきます。正しいことを理解しそれを行う能力です。それから愛の性質です。人間は愛するものとして造られました。互いに愛し合うことが人間の生き方です。もっとゆっくり考えたなら、まだ他にも大切なものがたくさん出てくることでしょう。とにかく神に似せて造られたそれらの人間の性質が、重なり合い溶け合って本来の人間の性格、本源的人間性を作り上げています。

 神に似せて造られた人間の本性は、たとえ堕落によって破壊され捻じ曲げられているとは言え、あるいは悪魔の支配のもとで抑制されているとは言え、すべての正常で健康な人間に備わっているものです。それは文化を超えたものです。これこそが、「自分に対する律法である自分」だと理解できます。パウロはまた同じ文脈で、「良心」について語っています。(V15) 短い言及の中でただ一回しか出てこない言葉ですので、あまり確固としたことは言えないのですが、これは神に与えられた神に似た本性が、文化や状況の中で、それぞれ形を変えながら個々の人間の中に形成していく、倫理観と考えて良いように思います。

 同じ愛するという本能を持っていても、文化によってその愛の表現は変わります。また、ひとつの物事に対する価値判断も変わります。家族や親族という人間関係、というより血族関係を最も大切に考える、フィリピンのような文化では、極端に言えば、家族を助けるために泥棒をすることさえ、「善である」と判断されることがあります。ところが、人間関係の重要性は認めながらも、一人ひとりの尊厳がそれ以上に謳われる日本のような文化では、愛はすべての人に向けられるべきだという理念が出来上がり、家族のために泥棒するなどということは論外となります。

 自己の確立と言うことを重んじるアメリカの個人主義文化では、三〇歳にもなって親のスネをかじって生きるなどということは、普通ありえません。それは恥であり、良心が痛むことだからです。一方、集団主義で頼り合うことを大切にする日本の文化では、良心に痛みを感じることなどありません。親が子どもを助けるのは当たり前だからです。

 そのように、良心とは、人間の本性が、文化という環境によって形成された感覚であって、万国共通ではない、つまり普遍的ではないのです。それでいて、人間の本性から出てきたものとして、かなりの共通性を持ちます。それらを掘り下げていくと、普遍的な、本源的人間性に到達するのです。

 さて、聖書が基本的にユダヤ文化に生きていた人たち、あるいは、かなりの程度でユダヤ文化を受け入れていた人々に与えられたものであって、日本人のような異邦人に向けて書かれたのではなかったという、原則的事実に立ち返って考えてみましょう。

 聖書は、すべての人が罪を犯したと断言しています。この場合のすべての人はユダヤ人も異邦人も含めて、文字通りすべての人という意味です。ただし、ユダヤ人の罪は律法によって裁かれるべき罪であり、異邦人の罪は、律法によっては裁かれない罪です。そしてキリストが来たのは、罪人を救うためであって、そこにユダヤ人と異邦人の差はありません。すべての罪人です。

 人がキリストをキリストと認めるには、つまり自分の救い主であると認めるためには、罪の自覚が必要です。しかし、ユダヤ人が罪人と定められるのは聖書である律法によってですが、異邦人が罪に定められるのは律法によってではなく、心に記された律法によってです。言い換えると、異邦人が罪を自覚させられるのは、ユダヤ人に与えられた律法によってではなく、心に記されている律法、人間の本性、本能的感覚、人間に与えられた神に似せられている部分によるのです。ですから、異邦人である日本人に、旧約聖書の律法や新約聖書の倫理を持ち出して、罪を自覚させようとするのは間違いです。そのような伝道の方法は誤っています。どれほど多くの日本人が、このような伝道に躓き、クリスチャンにならない決心をしてしまったことでしょう。日本人には日本人の本性に訴え、日本人の良心に語りかけなければなりません。

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 多くのクリスチャンは、牧師や宣教師を始め一般のクリスチャンたちも、聖書の教えを持ち出して、日本人の倫理的な低さ、曖昧さ、脆弱さを指摘します。日本人は多くの西欧の国の人々と違って、聖書を持っていなかったという事実を無視しています。西欧人は長いキリスト教の歴史の背景をもって、キリスト教的な、旧約聖書と新約聖書を背景とした倫理を持っています。本来彼らの殆ども異邦人だったのですが、まるで、直接自分たちに付与されたかのような感覚で、聖書を読んでいます。そして、聖書を全然知らなかった日本人を、聖書をもって裁く間違いを犯しています。そのような西欧人に教えられた日本人クリスチャンは、彼らと同じように聖書をもって同胞を裁き、断罪するのです。

くり返しますが、聖書をもって日本人を裁いてはなりません。フランスの法律を持ち込んで、日本人を捌いてはならず、ロシアの良心をもって日本人をとやかく論(あげつら)ってはならないのと同じです。日本人だけでなく、聖書を持たなかった人々を、聖書で裁く間違いを犯してはならないのです。繰り返しますが、聖書を持たない人間は心に記されている律法、人間に与えられている神に似せて造られた本性に照らし合わせて、裁かれるべきなのです。しかもその時は、「良心」との絡みの上で判断されなければなりません。

 ですから、律法を持たず、心に律法を書き記されている日本人に、聖書が教えている真理を説き、福音を伝えようとする場合、聖書の知識を持っている人に対するように、語ってはならないのです。そうではなく、神に似せて造られた人間の本性に語りかけ、心に記されている律法を呼び覚ますように、語りかけるべきなのです。見えない神の永遠の本性が理解できるように、被造物を通して語るべきです。なぜなら、被造物は神によって造られ、神の性質を宿すだけでなく、神ご自身がその内に潜んで居られるからです。(エペソ4:6)この被造物をもって、神はご自分について知り得ることを明らかにしてくださったのです。神の目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性を、明らかに示しておられるのです。(ローマ1:19)
 
U. 日本人に罪を自覚しもらう

 救われるためには、日本人も罪の自覚を持たなければなりません。罪の自覚なしには罪の悔い改めがなく、罪の悔い改めなくしては、新約聖書的な罪の赦しはないからです。少なくても私たち福音主義的神学を継承する者は、そのように教えられてきました。

 では、日本人が罪の自覚を持てるようにするには、どのように話を始めるのが良いでしょうか。聖書の教えを振り回し、「罪だ、罪だ」と言って、子供の頃、母親の財布から100円玉をくすねたことを思い出させても、それで日本人に罪の自覚を生じさせることはほとんどありません。本物の罪の自覚は「絶対に聖い存在」の前に出て、初めて生じるものだからです。

 私たち、西欧のキリスト教神学に教えられて来たクリスチャンは、西欧のキリスト教神学の目でもって、日本人を見てきました。それで、日本人は、「絶対に聖い存在」を知らないと断定してきました。日本人は聖書を持たず、天地創造の神、絶対者の知識を持たないからです。たしかに日本人は、西欧のクリスチャンたちが持っているような、神についての「知的理解」はほとんど持ち合わせておりません。しかし、知的理解だけが理解ではありません。日本人は聖書が与える知識とは別に、「感覚的に絶対者を理解している」と、言うことができるのです。

 西欧のキリスト教を学んだ人たち、あるいは普通の日本人でも、理性的で知的な考え方を大切にする人たちならば、いわゆる八百万の神々を愚かなものとして退けます。八百万の神々は、本来の日本人の信仰形態である汎神論が、通俗化したものと考えられますが、理性に受け入れられるのは困難です。それらの神々は、願いや欲求を届ける対象であり、願いが叶い欲求が満たされた時には、感謝の対象にはなり得ても、畏敬と礼拝の対象にはなり得ません。ですから大多数の日本人は、たとえ八百万の神々の一つに願掛けをしたとしても、畏敬と礼拝の対象としては、それらを否定するのです。そのようなものが、万物の霊長たる人間の敬愛と礼拝を受けるものとしては、ふさわしくないからです。

 ところが自分は無宗教だ、何も信仰はしていないと公言する日本人も、信仰そのものを悪く言うことはなく、何の矛盾も感じないで神社に参詣します。そればかりか、どのように小さな祠でも、大きな神社でも、真摯な心持ちになって、何かに向かって手を合わせます。その時、多くの日本人が心に浮かべるイメージは、なんとも不確かな、よくわからない存在です。それでいて、自分が感謝すべき存在、自分がへりくだり、礼拝すべき存在、その前に出ると、自分の罪穢れが思い出され、自分は礼拝するにもふさわしくなく汚れた者であると、感じさせられる存在なのです。

 しかも、小さな祠から大社に至るまで、日本人は同じ気持ちで参詣します。神社にはそれぞれ祀られている神々があると言われながら、実際は、参詣した神社に祀られている神が、一体どのような神であるかなどということには、まったく関心はありません。どの祠にもどの大社にも、同じ気持ちでお参りし、あたかも同じ方を礼拝するかのように、頭(こうべ)を垂れて柏手を打ちます。多くの神々を信じていると言われる日本人ですが、その心には    強烈な一神教的感覚があるのです。

 日本人の多くはこのような存在を「感じて」来ました。そしてこの存在が単なる「存在」なのか「存在者」なのかさえも良くは分からないまま、また大自然とこの存在とが、同一なのか異なるものなのかさえもわかないまま、この存在が自分に命を与え、育み、食べ物や着物をはじめとする、すべての必要を与え続けてくださっている、大きく力強く慈悲に富み、優しく大らかで、人の営みを見て喜んでおられると感じて、かしこんで崇拝して来ました。その存在の前に出ると、理屈も何にもなく、ただ、「ありがたい」「かたじけない」と感謝をするだけなのです。

 昔、西行法師が神宮(伊勢神宮の正式な名前)に詣でたとき、神宮が天照大神を祀る神社であることを承知の上で、「何事のおわしますかはしらねども、かたじけなさに涙こぼるる」と歌いました。それは、まさに多くの日本人の気持を表現したものです。仮に天照大神と呼ばれ、太陽の女神と言われて、そのために大社が建てられていたとしても、実体はその背後にあって、人間の英知や思考の及ばない高いお方であり、目に見えない存在であると感じていたわけです。

 日本人は偶像というものを造らない、目に見えない神を目に見えないままに礼拝する民族です。また西欧人のように、神についてくどくどと説明することもない民族です。不完全な言葉と思考で無限の神を言い表すことは、偶像を刻んで神を表現することに近い、愚かなことで、神を軽々しく扱うことであると感じるからでしょう。神道のように偶像を造らない宗教が、世界にはまだ他にあるのかどうか定かではありませんが、とにかく、日本古来の宗教であり、日本人の精神的支柱である神道は、偶像を造らない宗教です。仏教が到来してからはその影響を受けて、通俗信仰として、まれに偶像を造ることもないとは言い切れませんが、あくまでも例外に留まっています。この偶像を作らないというのは、非常に特異なことなのです。

 また、仏教が到来してからは、これと集合して形を変え通俗的な神道が発生する一方、神道の擁護し、神道的な国家の保存を願って様々な神話が作られました。それらの神話は記紀に述べられています。しかし見えない神を物語で表現しようとする試みは、やはり偶像礼拝に近づくものです。目に見えない栄光の神が、まったく人間と変わらない、というより、むしろ人間に劣る、愚かな存在としてしか描かれていないのです。幸い神道では、これらの神話を「いわれ」として保存していますが、その物語に信ぴょう性は認めていませんし、そこに登場する神々を刻んで、偶像として礼拝することもありません。

 異邦人の宗教について述べたとき、パウロも基本的に異邦人の宗教が偶像礼拝であると言って、激しく責め、断罪しています。(ローマ1:18〜32) ただしパウロは、異邦人の偶像礼拝を責めたとき、現代の多くのクリスチャンたちがやるように、十戒の第一戒を持ち出すことはしていません。彼は十戒がユダヤ人だけに与えられた、特殊な戒めであることをよく心得ていたと考えられます。ユダヤ人に与えられた律法で、異邦人を裁くようなことをしてはならないのです。パウロはモーセの律法で異邦人を裁くことをせず、異邦人にも与えられている律法で、異邦人を裁いています。

 ところが、日本人の宗教である神道は、パウロが語る異邦人の偶像拝には、合致しないところがあるのです。日本人はすべての自然物に神が潜んでいることを認め、自然物を大切にしますが、自然物そのものを神とすることはほとんどないのです。神性を宿していると見られ、神を象徴するものとされることはあっても、神そのものとはされず、礼拝の対象にはならないのです。ご来光を拝むなどといって、太陽に手を合わせる人も、太陽そのものを神であると思っている人はまずいません。太陽が神々しく、あらゆる命の源となっているという事実から、神を象徴するものと捉えているのです。太陽を礼拝しているように見えながら、その背後におられる、大きく気高く、力と哀れみに満ちた存在、すべてのものに命を与えて生かしておられる存在を感じて、あえていうならば宇宙のあらゆるものの道筋である、「御天道さま」に感謝を捧げるのです。

 日本人はあらゆる被造物、つまり自然を通して、「神の目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性を知り」、認めています。(V20)そればかりでなく、「不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、這うものの形に似たものと代えて」しまうことはなかったのです。(V23)仏教的感覚が混じってしまったことにより、日本人の心に偶像がまったくないとは言えない状態になっていますが、いにしえからの日本人の精神的土台、あるいは支柱である神道には、偶像はないのです。

 このように日本人は、「神道」とひと括りにされている、極めて高い宗教意識、あるいは神意識を持っています。私たちはこのような日本人に対し、聖書の倫理をもって罪人扱いするのではなく、日本人の宗教意識とそれに関わる倫理観に訴えて、罪の自覚を持ってもらうべきなのです。

 日本人の倫理観の高さは、世界中の人たちを驚かせています。それは、多くのキリスト教国を自認している国の人々に、引けを取らないばかりか、しばしば彼らよりも高いと評価されています。それは単なる公衆道徳の域を出て、大災害などの折に見せる日本人の公徳心、更には戦争等の、いわば異常事態に於ける行動にまで及んでいます。

 日本の戦争責任を責め、日本人の残虐性を激しく責め立てる論調もありますが、それらの多くは、戦勝国(アメリカを主とした連合国)に都合よく書かれた歴史と、政治的プロパガンダであるということがわかってきました。戦勝国側がいかに経済封鎖をして、日本を開戦にまで追い込んだのか、その経緯もだんだん明らかになっています。大航海時代からつい最近に至るまで、いかに多くの西欧キリスト教国が植民地政策を推し進め、激しい人種差別をもって、どれほど多くのアジア人、アフリカ人、アメリカ人(先住民)、すなわち西欧キリスト教国以外の人々を苦境に陥れ、さらには殺戮したかも、徐々に多くの人たちの知るところとなっています。これらを見ると、日本の戦争犯罪さえも霞んでしまいそうです。(日本の戦争犯罪を軽々しく見るわけではありません。あくまでも比較の上のことです) 聖書を持たない日本人、神の律法を持たない日本人がどうして、聖書を持っている国々の人々と肩を並べるほどの倫理、あるいは彼らよりもむしろ高い道徳を維持してきたのでしょうか。

 パウロの説明を読むと、世界中の人々の道徳的な廃頽は、ただアダムとエバの罪によるものだけではないことがわかります。人々の偶像礼拝の罪が、神の憤りを買ったためです。(ローマ2:24〜32) 偶像礼拝の罪は、まさに「第二の堕落」とも呼ぶべきものです。人々の偶像礼拝の罪のために、神は彼らを、心の欲望のままに汚れに引き渡されたからです。その結果、はっきり記されているように、人間は性的敗退を始め、あらゆる汚れと罪に陥ったのです。

 日本が、他の多くの国々のような道徳的廃頽に陥らなかったのは、ひとえに神の哀れみと恵みによるものと考えますが、その背後の理由は、日本人が偶像礼拝の愚行に走らず、目に見えない栄光の神を、目に見えないままに礼拝し、人知を超え言葉では表現できない無限の神を、言葉で説明せずに、ただ怖れかしこんで感謝と礼拝を捧げてきたからだと、考えられ
ます。そういう意味から言うと、ギリシャ哲学の背景を持つ、西欧キリスト教の神論など、まさに偶像に等しいところがあります。神に対する畏れを欠き、神を言葉で切り刻むような冒涜を犯しているからです。

 私たちは、日本人のこのような宗教心、あるいは神観というものを認め、それを基盤として語らなければなりません。多くの日本人は、自分たちがどれほど高度な神観を持っているかに、気づいていません。クリスチャンたちも気づかないまま、西欧的キリスト教の感覚で、一方的に神道的感覚を低級と決めつけ、嘲笑して来ました。まず、わたしたちクリスチャンが日本人の優れた神感覚に気づき、それを多くの日本人に気づかせて上げることです。そして彼らの心にある崇高な神意識、宗教観に目覚めさせ、そこから話していくべきです。

 この大きな、目に見えない、哀れみと力に富む存在、生きとし生けるものに命を与え、生かしてくださっている存在を、私たちクリスチャンは、「天地の創造者」と呼び「私たちの神」として礼拝していることをお話してあげましょう。それから、私たち人間はこのお方の恵みによって生かされ、支えられ、あらゆる良いもので恵まれてきたにも拘らず、余りにも感謝の心が少なかったことを思い起こさせてあげましょう。そのような恵みにまったく応えてこなかったことに、思いを馳せてもらいましょう。

私たち日本人は、たくさん恵みを頂いて生かされて来ました。養われ守られて来ました。それに対して私たちは、十分に感謝をしてこなかったことに気づきます。この目に見えないお方に、きちっと向かって、「有難うございます」とお礼を言ってこなかったことに思い当たります。私たちは見えないお方に不義理を重ねてきたのです。その不義理は、いつか、どこかで、どのようにしてか、お詫びしなければならないと感じます。

 散々お世話になり、迷惑のかけっぱなしで、電話の一本も入れないまま、とうとう親の死に目にも会えなかったバカ息子が、歳を重ねてから両親のお墓の前で泣き崩れて、親不孝を詫びたという話を聞いたことがあります。私たち日本人は、親不孝ならぬ神不孝を続けてきたことを認めることになります。親不孝を詫びるように、神に不孝を詫びることが、神との正しい関係を持つには重要であることに気づきます。また誰に言われなくても、日本人はそのようなことを薄々感じていたために、春に秋に、感謝の祭りを行い、奉納行事を続けてきたのです。

 日本人には、「罪」という何やらわからないものを「悔い改める」よりも、創造者である神に対する不義理と不孝をお詫びすることのほうが、分かりやすいと思います。そのほうがまた、罪の本質に触れているのです。さらにクリスチャン信仰を、西欧プロテスタント神学のような教理の知的受容としてではなく、神との正しい関係を持つこととして、心の通う人間関係のように、神と心を通わせることとして示してあげるのです。

V. アブラハムのように

 異邦人への使徒であったパウロは、信仰による救いの教えを語ったとき、ユダヤ人の先祖であるアブラハムを模範に引き出しました。パウロはユダヤ人も異邦人も同じように、行いによってではなく、信仰によって救われるという真実を弁証するために、「アブラハムは神を信じた。神はそれを義と認められた」という、創世記の記述を用いたのです。アブラハムは、なにか良い行いをしたから義と認められたのではありません。ただ神を信じただけです。神にすがっただけです。神の約束を信頼して神に頼っただけです。

 ところでパウロは、このアブラハムの信仰に言及したとき、「アブラハムは悔い改めた」とは語っていません。「アブラハムはキリストを信じた」とも、「キリストの十字架が自分の罪のためだ」と信じたとも語っていません。もちろんアブラハムは、キリストよりも2千年も前に生きた人ですから、キリストについて知りようがなかったのです。律法を与えられていなかったために、律法によって罪を教えられてもおらず、悔い改めも知りませんでした。神の独り子がすべての罪人のために、十字架で贖いの死を遂げてくださったなどということをまったく知らないで、ただ、神を信じて義とされたのです。キリストを信じてではなく、神を信じて義とされたのです。

 異邦人にとってというか、キリストを知らない者にとって、ここでパウロが用いているロジックはとても大切です。パウロは通常、ユダヤ的論調、すなわち旧約の律法を前提とし、キリストの贖いを前提として、キリストを信じる信仰によって救われると主張しているのですが、その信じるだけで救われるという論証のために、引き合いに出したアブラハムの信仰は、キリストを信じる信仰ではなく、神を信じる信仰なのです。パウロにとっては、キリストは神でした。旧約の主、すなわちヤァヴエは、新約の主であり、キリストなのです。パウロは、何の矛盾も感じないまま、説明の必要性さえ感じないで、キリストを信じる信仰と、神を信じる信仰を同一のものとしているのです。

 使徒パウロをはじめとする、初代のクリスチャンたちの中にあったユダヤ人的信仰の形態は、与えられた律法につちかわれ、律法に捕らわれたものでした。そのような信仰形態からは、当然、律法で預言され約束されたキリスト、律法の成就として贖いを成し遂げたキリストを信じる信仰が、いかに大切であるかを語ります。それがそのまま、西欧キリスト教諸国の人々の信仰観となって、世界中に広められました。本来、西欧キリスト教諸国の人々も異邦人であるはずなのですが、彼らには、自分たちは異邦人であるという自覚はあまりありません。その信仰観がそのまま日本にも伝えられたのです。

 ただ偉大な異邦人への使徒パウロは、ローマ人への手紙を書いた時だけは、キリストへの信仰よりも、神に対する信仰を強調していますが、先に述べたように、パウロはキリストと神を同一視して、論が曖昧になったままに残しています。このあたりで私たちは、パウロの異邦人の神学にとどまり続けるのではなく、それを発展させる必要があります。パウロの異邦人の神学を土台として、その上に家を建てていかなければ、完全な異邦人である日本人に福音を受け入れてもらうのは困難です。

 パウロの救済論によると、アブラハムはキリストを知る必要も、理解する必要もありませんでした。罪についても、悔い改めについても、贖いの働きについても、知らなくても良かったのです。たとえアブラハムが知らなくても、神がすべてをご存知だったからです。

 救いは、アブラハムが何についてどれだけ知っていたかという、「知的行い」によるのではなく、神がキリストを通して成し遂げようと決めておられた、贖いの働きによるのです。救いは理解によるのではなく、神に対する単純な信頼によるのです。信頼は知性の働きよりも、情の働きです。厚い情の持ち主であられる神は、ご自分が知的に理解されることよりも、信頼されることをずっと喜んで下さり、何よりも喜んでくださるのです。信仰による救いとは、信頼関係による救いなのです。

 誤解してはなりません。アブラハムの救いにキリストが必要ではなかったと言っているのではありません。アブラハムの救いは、キリストの十字架の贖いのゆえに可能だったのです。とは言え、アブラハムの時代、キリストのことはただ神のみがご存知でした。アブラハムは、まったく知らなかったキリストの贖いのゆえに、そして神を信頼したがゆえに義とされ、救いにあずかったのです。

 アブラハムと同じように律法を持たず、キリストについても知らない日本人の救いは、どうなるのでしょう。まだ、律法を与えられた人に対する伝道のように、「キリストを信じなさい、罪を悔い改めなさい」と、言い続けなければならないのでしょうか。それとも、まず、天地の創造者であるお方について語るべきでしょうか。

 キリストを知らなくても救われるならば、最初からキリストについて語り、罪と悔い改めと贖いについて語る必要はありません。神に頼れば良いのです。日本人が普通「神」と呼ぶ、八百万の神々ではなく、ふと真面目になったときに感じて思い起こす、気高く大きく強く優しいお方を崇め、そのお方に頼って生きれば良いのです。その、頼っているということを、祈りによって表現し、賛美と礼拝とによって示して行けば良いのです。そして頼っているという事実を、この方に喜ばれる生活をすることによって実証して行けばいいのです。信仰は必ず行為に現れるからです。

 日本人が頼るべきお方は、昔から日本におられたお方です。日本人が崇め尊んできたお方です。ただ日本人は、このお方が余りにも気高く尊く大きなお方であると感じ、あれこれと詮索することを畏れ、そっとしてきたのです。人間の言葉で弄りまわしては畏れ多いと、触らないまま、わからないまま、礼拝してきたのです。

 そのお方は、「私はある」とおっしゃる方として、聖書に教えられています。また、天地の創造者とも教えられています。日本人は、自分たちが心の奥底で感じて崇めてきたお方が、この天地の創造者だったのだと知れば良いのです。天地の創造者は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、とも呼ばれています。随分前のことになりますが、筆者が良く知っていたクリスチャン女性が、主の身許に召されてからしばらく経ってからのことです。残されたご主人がとうとうクリスチャンになる決心をしました。そのときご主人は、どのように神に呼びかけて良いのか分からずに、「美奈子が信じていた神様」と、自分の妻の名を持ち出して、神を特定して祈ったそうです。それでいいのです。初めはそれでいいのです。

 旧約聖書には、日本語で「神」、あるいは「主」と翻訳されている呼び方があります。日本語の翻訳にも、神、主、創造者、天主といろいろです。ですから、あまり呼び方にこだわる必要はありません。要するに、聖書が教えている天地の創造者と、特定できればそれで良いのです。普通、多くのクリスチャンたちは、「天の父なる神様」と呼びかけているようです。これはもともと、イエス様が神を父と呼んだことから始まったようですが、優しく強い理想の父を、無限に大きく気高くしたようなお方というほどの意味でしょうか。

 ただ、最初からキリストの話を持ち出しても、日本人には違和感があり、話がややこしくなるのが問題なのです。ややこしくなると、話す者も聴く者も大変苦労して、話を途中で諦めてしまうからです。それが日本人ヘの伝道の困難さにつながっているのです。キリストの話を持ち出すと、キリストは実在したのかとか、キリストは神だったのか人だったのかなど、面倒な話に迷い込みます。罪のない誕生、十字架の死、贖い、そして復活と、恐ろしく難しい神学の話をしなければならなくなるだけでなく、「情欲をもって女を見るものは罪人である」などと言って、無理矢理に、聞く者を罪人に仕立てなければならなくなります。挙句の果てに、「イエス・キリストはあなたの罪のために十字架にかかって死んでくださいました。あなたはこれを信じますか」などという、見当はずれの質問をして、「ハイ」と答えさせようと四苦八苦します。

 先にも触れたように、使徒パウロや初代のクリスチャンたちにとっては、キリストを信じることと神を信じることは同じでした。旧約聖書に育まれ、旧約聖書に馴染んでいた人々が、彼らと同じ背景を持っていた人たちを相手に福音を語ったとき、当然、旧約聖書で約束されていた救い主、キリストから話が始まりました。甦りのキリストを見た興奮が、いよいよキリストを語らせることになりまた。初代の教会の宣教が、キリストを語るところから始められ、罪の問題に話が及んだのは当たり前の事でした。

 天地の創造者の存在は当然の前提だったために、ほとんど論じられることもありませんでした。自分たちが信じている神以外の、様々な神々を信じている人々への福音の提示の仕方は、まだまだ未発達だったのです。天地創造の神の存在をいかに語るか、どのように説明するか、どうしたら納得してもらえ、受け入れてもらえるかといった問題が、ことごとく、まだまだ未整理だったのです。

 パウロの宣教をたどると、アテネのアレオパゴスでの説教に、その問題に取り組み始めているのがわかります。「さすがにパウロ」と思わせられますが、まだまだです。新約聖書は、そのまだまだの時点で完結しているのです。いま私たちに必要なのは、その使徒たちの教えを発展させ、天地創造の神の存在を前提としない人々、あるいは、天地の創造者についてはおぼろげで曖昧な感覚しか持っていない人々に、福音をわかりやすく提示できる神学を確立することなのです。

 もしも使徒パウロが、キリストを信じる信仰と神を信じる信仰を、同一のものとして語っているならば、私たちはいま、伝道の初めから、キリストについて語る必要はないはずです。最初に語るべきは「神」についてです。アレオパゴスでのパウロも、まず、神について論じるところから始めています。日本人にも、目に見えない至高のお方、永遠の創造主を提示することのほうが、キリストについて語るよりも先に来なければなりません。そしてこのほうが、キリストについて語るよりも、ずっと簡単なのです。なぜなら、優れた神意識を心に秘めている日本人は、すでにそのような最高神を感覚的に認め、崇めているからです。

 日本人に必要なのは、初めからキリストと十字架を持ち出して、悔い改めの必要性を語ることではなく、絶対に優しく憐れみ深い大きなお方について語り、このお方に信頼して生きることの大切さを教え、感謝を捧げて礼拝することがいかに重要であるかを説いて上げることです。そして、感謝が足りなかった不義理をお詫びし、不孝を謝り、今後は、神のお喜びになる生活をするように、決心をしてもらうことです。このような神との信頼関係に入るならば、神は、キリストの贖いのゆえに日本人を赦し、受け入れ、永遠の命を与えてくださるのです。

 アレオパゴスでのパウロは、多分、道を急いでいたせいか、かなり唐突に、キリストと罪と悔い改めと復活にまで話を持って行きました。その結果、わずかの改宗者しか起こりませんでした。もしも私たちが日本で同じことをしたならば、結果はもっと悪いでしょう。私たちはパウロのように先を急いではいません。ゆっくり留まって伝道しているのですから、慌てずに、時間をかけても良いはずです。

 ここで、ちょっとばかり視点を変えて考えてみましょう。私たちの周辺には、キリストのことも十字架の出来事も、罪の意味も知らず、きちっと悔い改めもしていないのに、クリスチャンと認められている人が結構たくさんいます。私たちは伝道の実践の場では、キリストとその働きについての知識には、かなり融通を利かせています。早い話が、死ぬ間際に信仰を告白したような人を、私たちは喜んで受け入れ、洗礼をさずけ、天に送ります。きちっと知識を確かめ、信仰の告白を要求するようなことは、まずありません。それでも、神の憐れみによって救われたのだと信じます。それでいいのだと思います。


W. どうして日本だけ?

 それにしても、日本の宣教は困難を極めています。つい最近、世界のアッセンブリー教会の、日曜礼拝会出席者総計に目が止まりました。五千六百万人を超えるようです。アジア、アフリカ、中南米で、圧倒的に数が増え続けています。この数字には、多分に「主催者側発表」的な臭いもしますが、日本のアッセンブリー教会の平均礼拝出席者数は、一万人を僅かに超えるだけです。まさに納得できない数字です。

 このような現実の背後には、たくさんの理由があるにちがいません。その中の一つが、今まで述べてきた、聖書が誰に宛てて書かれたのかについての、取り違えです。でも、キリスト教信仰が圧倒的に広められている地域でも、同じような間違いで福音が語られていたはずです。それなのに、日本だけ異なっているのはどういうわけでしょう。

 それは、日本という国が、キリスト教が入ってきた時には、既に日本人という大きなアイデンティティを持ち、共通の文化を持ち、国家としての形態を整えていたと言うことに関係があります。侵入してくる植民地主義者たちに対抗する、国家としての大きな力も、自分たちの強力なアイデンティティとなる宗教も、共通の文化も、進んだ技術力も持たない民族は、たちまちのうちに征服され、押し付けられた宗教を受容するようになりました。世界中の多くの国々がそうだったのです。

 典型的な例として、フィリピンを挙げてみましょう。マゼランがフィリピンにカトリック信仰をもたらしたのは一五二一年のことです。当時のフィリピンはまだ国家として成立しておらず、百数十に及ぶ部族がそれぞれの言葉を用いて、暮らしていました。当然、小さな島々が寄り集まった地域の住民として、緩い協力関係とかなりの共通要素を持っていたとは言え、自分たちがひとつの国家に属しているというような、感覚も意識も文化も体制も出来ていませんでした。

 そのために、マゼラン自身はフィリピンに到着そうそう、セブ島のすぐ横の小島、マクタンの酋長ラプ・ラプに殺されてしまったにも拘らず、スペイン人はたちまちの内に周辺の島々をまとめて支配し、スペイン王フィリップ二世の名を冠して、スペインと名付けたのです。それだけでなくフィリピンの人々は、侵略者がもたらしたカトリック信仰を大した抵抗もなく、むしろ喜々として受け入れ、カトリック国になってしまったのです。

 マゼランが個人的なお守りとして持ってきた、サント・ニーニヨと呼ばれる偶像は、子供の頃のキリストを想定したものですが、いまや、ほとんどのフィリピンの家庭にレプリカが置かれ、お守りの役割を果たしています。自動車には、トラックだろうとバスだろうと乗用車だろうと、みなミニチュアのサント・ニーニヨが飾られています。

 フィリピンに遅れることおよそ三〇年で、カトリックが日本に到着した時には、日本はすでに統一国家としての形態を整え、西欧の武力に対しても一戦を交える気概を持っていました。カトリックの背後に、スペインの植民地主義があることを見て取った日本の為政者たちは、カトリック勢力を壊滅させてしまったのです。

次にキリスト教が日本に到着したのは、明治維新の頃ですが、カトリックとプロテスタントがほとんど同時に上陸しました。この時の日本は、武力や技術力という知的側面では西欧に遅れを取っていたとしても、その精神文化では決して劣っていませんでした。それで日本の為政者は和魂洋才を唱えて、西欧の知識だけを輸入し、魂、すなわち精神、あるいは宗教は、拒絶したのです。

日本の為政者たちが、西欧キリスト教を退け、日本の精神である神道を国家の柱として取り入れたのは、キリスト教が、当時日本に食指を伸ばしていた、植民地主義国家の宗教だったからです。日本人は、植民地主義国家、すなわち西欧キリスト教国家が、世界中で行っていたことを学び、その残忍性、非人間性を良く心得、キリスト教は日本人にはふさわしくないと判断したのです。

 こうして、多くの発展途上国、あるいは民族の間では大いに進展した西欧のキリスト教も、日本では停滞を強いられることになったのです。西欧文化で再構築されたユダヤ文化のキリスト教、侵略と戦いと虐殺と抑圧のキリスト教は、和をもって貴しとなす日本の文化と宗教感覚に、受容されることはなかったのです。
 
私たちは、旧約聖書によって侵略と殺戮を正当化してきたキリスト教ではなく、愛の神、平和の神、慈しみと恵みの神を信じ崇めるキリスト教を伝えたいものです。そのために、異邦人の心に記された律法をもって、異邦人である日本人に、私たちの神を語る必要があるのです。

結び

 聖書には、黒い革表紙のこの聖書ではない、もうひとつの聖書があることが、はっきり書かれています。私は伝道者としてまた宣教師として、普通のクリスチャンよりは幾分多めにこの聖書を読み、ローマ人への手紙は、神学生時代に暗唱してしまったものです。そして、この第一章から第二章に書かれていることも知っていました。しかしこれに心を止め、その意味することを真剣に考えるようになったのは、異邦人である日本人にいかに宣教すべきかと、真剣に考えるようになった、最近のことです。

 私の勉強不足からかとは思いますが、この点について書かれた文章を読んだことはありません。また、そのような説教を聞いたこともありません。異邦人の宣教を真剣に考えるならば、異邦人への福音の神学も、しっかりと構築されなければなりません。パウロは土台を据えました。私たちはその上に家を建てて行かなければならないのです。神学的素養を身につけた方々の、寄与を期待するものです。








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2014年12月08日

日本人に与えられている律法に語りかける


ローマ2:14〜15
 
私たち日本人クリスチャン、西欧回りのキリスト教を鵜呑みにしていた面があります。西欧回りであろうと、聖書の教えが正しく教えられているならば、それでいいのですが、西欧回りであるための間違い、あるいは欠点もあるわけです。西欧で構築された神学が、西欧で用いられている限りは、害悪も欠点も緩和されているのですが、日本など、まったく状況の違うところに持ってこられると、非常に困ったことになります。いま私たち日本のクリスチャンにとって必要なことは、自分たちでしっかりと聖書を学び、日本の文化も洞察力をもって観察し、正しく聖書の教えを適用することです。

T. 日本人に与えられている聖書  

西欧回りのキリスト教がまったく語ってこなかったことで、日本人である私たち、というより、すべての異邦人にとって非常に大切な聖書の教えの一つが、異邦人は聖書以外の聖書、自分たちの聖書を持っているということです。それはローマ人ヘの手紙の第2章14〜15節に、はっきりと記されています。(ここで言われている「律法」とは、聖書のことです。)
 
私たちは聖書に立脚する正統的クリスチャンとして、ユダヤ人に与えられ、私たちにまで伝えられた聖書を、この上なく大切なものとして学び、その教えに従って生きてきました。そのことには誤りがありません。これからもそのようにします。ところがそのようにしている途中で、私たちは、この聖書によって、この聖書以外にも聖書があることを教えられたのです。

 また、その聖書以外の聖書は世界中のすべての人に与えられているとは言え、日本人の中に、最も明確に残っていると考えられます。それは、日本人が、原則的に偶像礼拝をせずに、見えない神を見えないままに崇めてきた民族だからです。日本人はその精神土壌に、曖昧ではあってもかなり強烈な、神道的な宗教観を抱いてきましたが、この神道がずっと偶像礼拝を避けてきたのです。そのために、偶像を忌み嫌われる神は、日本人に対して、他の民族とは異なった取り扱いをしておられると言えそうです。

 聖書を調べるならば、すべての民族に与えられている「聖書以外の聖書」とは、人間が作られた時に与えられた、神に似せて造られた姿のことであることがわかります。偶像礼拝のための厳しい裁きを、他の民族ほどには受けなかったと思われる日本人は、(ローマ1:18〜32)他の大多数の民族よりも高い倫理的水準を保ってきました。昔から聖書を所有し、キリスト教国と自認している国の人々よりも、むしろ高度な道徳を維持しています。それは、日本人の中に、神の性質がまだまだ色濃く残っていて、日本人の心と生活を支配しているということです。神の聖さ、気高さ、公平さ、正しさ、あるいは優しさや自分以外の者を大切にする心遣いなどが、日本人の中に、もっとも色濃く留まっているということです。

 私たちは今まで、ユダヤ人に与えられた聖書だけからキリスト教を語ってきました。そしてキリスト教がいかに優れた宗教であるか、キリスト教の神観がどれほど高度なものであるかを、自慢げに言い続けてきました。キリスト教関係の書物を読むと、それが見え見えです。でも、私たちは、今から態度を変え、日本人の性格の中に残っている神の性質に注目し、日本人のすばらしさを語り、日本人の中にある神観の崇高さを語り、そこからこの神の真の姿を探り出して語り、感謝と喜びをもって、この神を礼拝することを勧めて行きましょう。

 日本人の神観のすべてが正しいのではありません。かえってそれは非常に朧げで、間違いだらけです。でも、その中から、正しい神観を探し出し、その正しい神観こそ私たちクリスチャンが礼拝している神と同じであると、お話してあげましょう。これまでの西欧回りのキリスト教のように、神道的な日本人の宗教心を蔑み、偶像礼拝扱いにする必用はありません。日本人はよくわからないまま、正しい神を拝んでいる可能性が高いのです。
 
U. ユダヤ人を通して与えられた聖書 

 私たちが西欧人から渡された聖書は、本来ユダヤ人を通して全人類に与えられた聖書です。直接的にはユダヤ人に向けて書かれているために、異邦人である私たちには大変読みにくい、よくわからない書物になっていますが、全人類に与えられている事実は変わりません。
 
この聖書には、絶対に優れている点があります。それは、この聖書の中にこそ、神の本当のお姿が明瞭に示され、神の救いの計画と、救い主イエスを通しての救いの遂行が語られ、人が救われるためにはどのようにすべきが、はっきりと記されていることです。この聖書なくしては、たとえ、もうひとつの聖書がどれほど明確に神の存在と性質を示してくれたとしても、人間の救いには不充分なのです。

 ですから私たちは、まず、すべての人間に与えられている「聖書ではない聖書」によって、日本人に語りかけ、神の素晴らしさについて語り、神に感謝し、頼り、祈り、礼拝することがどれほど素晴らしいかということについて語ることができます。しかし、人間の罪、救いの必要性、赦しの必要性、悔い改めの必要性について語るには、ユダヤ人を通して与えられた聖書が必要なのです。

 日本人の救いは、もしかしたら、日本人にも与えられている聖書によって神をより明確に知り、感謝と賛美を捧げ、自分たちの礼拝と感謝が不充分であったことをお詫びして、信頼するだけで与えられるのかもしれません。たとえ日本人がキリストのことを知らなくても、天地創造の神を信頼するならば、アブラハムがキリストを知らないままに、神を信頼して救いに与ったように、救いを得ることが出来るのかもしれません。このあたりは、今のわたしたちの神学では、まだ充分に整理が出来ていません。

 だから、日本人が天地創造の神を認めて、この神に信頼し、この神を礼拝するように導くのを、第一歩としておきましょう。まずそこに到達できるように、より明確に神の姿が描かれている、ユダヤ人を通して与えられた聖書を通して、導くことができるように励みましょう。しかしそこで満足することなく、次の段階で、この神が準備してくださった、イエスキリストによる救いをお話してあげることです。
 第一段階において、日本人が、昔から自分たちが礼拝してきたお方が、どんなに素晴らしく、自分たちが礼拝者として認めるにふさわしいお方だと知るならば、第二段階は比較的容易です。これを第二段階からはじめて第一段会に遡ろうとすると、大変困難なことになります。

 私たちは今まで、直接的にはユダヤ人に与えられた聖書をもって、日本人に語りかけようとしてきました。そしてそれがどれほど困難であるかを体験してきました。今日からは、全人類に与えられている聖書からお話を始めましょう。そうしたら、共通の基盤に立ってコミュニケーションができるのです。そして、日本人である家族、友人、知人に、天地創造の神を認めてもらい、この神に頼り、この神のすばらしさを知ってもらった上で、キリストによる救いに話を持っていきましょう。







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あなたの近くの人が救われるために


    創世記15:1〜6
 
 私たちは永遠の命を頂いて、大きな希望をもって生きています。この希望があるために、たとえどんなことが起こっても、くじけずに、喜びながら暮らして行けます。 この永遠の命と喜びを、私たちは、自分のものだけにしておきたくはありません。周りの人たちにも、同じように喜びながら生きて欲しいと思います。一緒に永遠の命に入って欲しいと思います。
 でも、一体どのようにしてお話したら、私たちの周りの人たちに救いを理解し、受け取ってもらえるのでしょう。

T. 信頼関係による救い  

普通は信仰による救いと呼ばれていますが、「信頼関係による救い」の方がわかりやすいと思います。救いとは難行苦行をして獲得するものでも、大きな金を払って買い取るものでもありません。それは、天と地をお造りになったお方を信頼することによって、与えられるものです。信頼関係が核、基盤、最も大切な要因なのです。日本人には、まず、天と地を造られたお方に、信頼することを教えて上げましょう。
 天と地をお造りになったお方と言っても、日本人にはピンときません。でも多くの日本人は、折に触れては「ありがたいなぁ」、「生かされているんだなぁ」、「誰かは知らないけれど、見守られているんだなぁ」、「何かはわからないけれど、大きな存在に支えられているんだなぁ」という感覚に浸り、真面目な思いに捉えられます。

「その、日本人をありがたい気持ちにさせて下さるお方、生かして下さっているお方、見守っていて下さるお方、支えていて下さるお方こそ、私たちクリスチャンが、天地の造り主とお呼びしているお方です」と、お話してあげることができます。

 日本人も、神様に似せて造られた人間として、人間に本源的な霊的性質を持っています。だから、どんなにえらぶって「神は無い」などと言って見ても、心の中に、気高く尊く、大きく強く、優しく恵みに富んでおられる霊的なお方を、感じているのです。そのことを、はっきりと思い起こさせて上げましょう。
 
この霊的なお方は人間と同じように、感情をお持ちです。ですから、幼子が親を頼り切るように信頼するのがならば、このお方はその信頼に、喜んで応えてくださるのです。信頼されることが大好きなのです。
このお方は無限に大きく高く深いお方ですから、人間の知的探求や理解などはとても及びません。ですから、理屈から理解しようとすると、分からなくなるのです。でも信頼さえするならば、心の通った関係を持つことができるのです。天地の創造者は、心を通わせた人に、永遠の命を贈り物としてくださるのです。
 
この信頼は、祈るという簡単な方法で表現されます。天地の創造者は、祈る者に応えてくださるのです。ですから、お話する相手に祈ることを勧めてください。一緒に祈って祈り方を教えてください。どんなに小さな祈りでも、祈りは信頼の表現です。

U. イエス・キリストによる救い  

多くの日本人は、これも本能的に、「自分なんて、気高く大きなお方から救いを頂けるほど、立派ではない」と感じています。自分の穢れを本能的に感じ、このお方の前に出ることに畏れを持つのです。もしも話している相手が、そのような気持ちを表現したならば、イエス・キリストによる救いをお話してあげましょう。絶好のチャンスです。畏れこそ、日本人の宗教意識の中心です。
 
絶対に聖く気高い創造者は、本来、穢れたものはどんなに小さくても、受け入れることができないお方です。だから、たしかに罪に穢れた人間を受け入れることなど、あり得ないばかりか、その人間を滅ぼしてしまう恐ろしいお方です。人間の祈りに応えるなどということは、あり得ないのです。それを日本人は本能的に感じて、畏れ多いと思うのです。
 
ところがこの絶対に聖い創造者は、また、完全な愛の持ち主です。穢れて滅びなければならない人間を哀れに思って、これを救い、祝福を与えたいと、お望みになったのです。そこで創造者は、ご自分の独り子をこの世に送り、人間の罪の罰を背負って、十字架で死ぬようにしてくださいました。ご自分の独り子を犠牲にしてまでも、人間を救おうとされたほど、創造者は愛に満ちた方なのです。
 
私たち人間が、たとえどれほど汚く、醜く、穢れ切っていても、創造者はご自分の聖さを犠牲にせず、人間の罪を赦し、受け入れ、祝福できるように、必要とされるすべてのことを行ってくださったのです。この創造者の独り子を、私たちは「キリスト」と呼んでいます。キリストとは「救い主」という意味です。
 
このキリストが、人間の罪の問題を完全に解決して下さったために、創造者はどのように大きな罪を犯した人間でも、創造者に頼り、すがって行くならば、すべてを赦し、受け入れ、救い、祈りに応え、「神の子」と認めて、永遠の命を与えてくださるのです。
 
V. 神から受ける救い   

日本人に対して、創造者に頼るように勧めるとき、必ずしも、「キリスト」という言葉を使う必要はありません。むしろ、この時点では使わないほうが話を進め易いと言えます。多くのクリスチャンは、初めからキリストを持ち出すために、話がややこしくなって、上手く話を進めることができないでいます。そのために、福音を語ることに消極的になっています。
 
プロテスタントの福音派の神学では、何が何でもキリストの話をしなければ、救いを語ることができないと考えるようですが、大きな間違いです。キリストの贖いの力は、人間がそれを知るかどうか、理解するかどうかによって、効力を発揮したりしなかったりするのではありません。人間がそれを信じるかどうかではなく、創造者が贖いの働きを完成されたという、事実が大切なのです。
 
アブラハムは信頼によって、創造者から義と認められた、すなわち受け入れられ、救われました。アブラハムは、紀元前2000年の頃の人で、キリストのことをまったく知りませんでした。罪についても、悔い改めについても知りませんでした。しかし、神がキリストをご存知だったために、アブラハムは救われたのです。大切なのはアブラハムがキリストを知っていたかどうかではなく、創造者である神がご存知だったという事実です。
 
いま日本人はアブラハムと同じように、たとえキリストを知らなくても、創造者を信頼するならば、キリストの十字架の故に、その贖いの死の故に、創造者に受け入れられるのです。創造者に受け入れられ、その祝福をたくさん体験し、感謝の思いを強め、賛美と喜びをもって礼拝し、信頼を強くしていけばいいのです。
 そうするならば、自分たちの感謝、尊敬、賛美がいかに少なかったかを、心の底から知ることになります。創造者をないがしろにし、不義理を重ね、不孝を重ねて来たかを思い知ることになります。それで、より真実の悔い改めが起こります。日本人には「罪」」というよりも、「不義理」、「不孝」の方がわかりやすく、「悔い改め」というより、「お詫びをする」の方が、ぴったりすることでしょう。そこに至って、創造者自らが準備された、キリストによる救いの大きさ、そこに現された愛の深さに打たれることになるのです。
 
私たちは、日本人に救いを伝えるとき、まず、創造者である神に信頼することをお話しましょう。創造者に信頼さえすれば、創造者はキリストの贖いの故に、日本人をも救ってくださるのです。






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2014年10月14日

「戦争責任の告白」への呼びかけに応じる



「平和を生きる」に対して

(日本ナザレン教団の「第二次大戦下における日本ナザレン教団の責任についての告白解説」に対する批判
             (N牧師の要請に応えて問題点を指摘する)

                          2014年9月13日  佐々木正明     



「平和に生きる」は、日本ナザレン教団が1993年に年会(年次総会)において採択した「戦争責任の告白」の解説書であり、1994年に出版されている。著者は同教団の牧師である石田学氏である。著者はこれがナザレン教団の公式見解ではなく、あくまでもひとりの牧師の解説であると断っているが、同教団の社会活動委員長の「刊行のことば」と理事長による「理事長の序」が最初に載せられていることなどから、極めて公式見解に近いものであると判断する。社会問題委員長はこの小冊子の刊行に及ぶ同教団の事情を、「日本ナザレン教団がここ数年歩んできた道、そして今後歩んでいこうとする道は概ね「社会問題に関して積極的に捉えようとする流れ(靖国神社国家護持反対、大嘗祭反対等)にあり」と述べている。

 この解説書が、単に日本ナザレン教団の内輪の告白ではなく、キリストのみ体に属する他の教団・教会、あるいは世界のキリスト教会に対して、同じ行為を取るようにという呼び掛けであり、神に対する悔い改めの告白であり、全世界の人々に対する告白という形を取っているため、私たちはそれに何らかの応答を求められているとも言える。先日に至って始めてこの小冊子の存在を知った小生は、20年も過ぎてからではあるが、「その呼びかけに対して応答し、N牧師の要請にも応えようと考えた。

T. 日本ナザレン教団と著者の基本姿勢

 a.社会的責任    この小冊子に現れている日本ナザレン教団と著者の基本姿勢は、「社会問題に関して積極的に捉えること」という表現が示すように、クリスチャンの社会的責任、あるいは教会の社会的責任を重視することである。これはいわゆる社会派と言われるクリスチャンたちが、長いあいだ声高に主張してきたことである。それが、1973年に開催されたローザンヌ会議と、その会議の中心的人物であったジョン・ストットの影響によって、福音派にも及んできたものである。ローザンヌ会議は、教会のミッションは社会活動と宣教の二つであり、一本の車軸の二つの車輪のようなものであり、どちらか一方が欠けても真の教会では有り得ないという、ストットの主張を会議の公式見解として採択し、多くの福音派教会に、社会活動をないがしろにしてきた誤りを改めるように呼びかけた。日本の福音派教会の多くも、この呼び掛けに対してほとんど無批判に同調して呼応した。この呼びかけが著名な学者によって行われたとは言え、その内容について聖書的検証が行われたという話は、少なくても、日本では聞いていない。(実際にはあったのかもしれないが、小生は当時海外にいたため聞かなかったのだということも考えられるが)1993年のナザレン教団の総会における採択も、その流れにあったと思われる。これは小冊子の脚注52の言及で明らかである。

 b.預言者として罪を糾弾する    また、クリスチャンや教会が、社会や国家に対して預言者であるという理解も、長いあいだ社会派の人々によって猛々しく叫ばれてきたものである。教会は現代の預言者として、社会や国家の悪を糾弾しなければならない、彼らの罪を告発しなければならないと言うのである。さらに、キリストが王であり祭司であり預言者であったように、私たちもキリストの使命を引き継ぐものとして、王であり、祭司であり、預言者であるとまで主張してきた。福音派の人たちの中にもこれに影響されてか、同じことを「おずおず」と語ってきたのも事実である。しかしこの小冊子によって、ナザレン教団はあたかも社会派の教会でもあるかのように、声高に叫んでいる。日本ナザレン教団は私たちの教団が誕生する前から、基本的に福音的な教団として活動してきたが、どうやら進む方向に変化が起こっているようである。

 C.天皇制反対と戦争責任   この小冊子とその元となった年次総会で採択された告白で、日本ナザレン教団が強く主張しているのは、天皇制反対である。さらに日本という国家は、第二次大戦において、韓国と中国を始めとしたアジア諸国に対して重大な罪を犯したのであるから、それを謝罪しなければならないということである。それに続いて、日本ナザレン教団は預言者としての責務をないがしろにして、日本の罪を糾弾しなかったばかりか、かえってこれに積極的に加担する罪を犯したのであるから、これを悔い改めて公に告白しなければならない。教会はキリストの体であり、時代を超え、場所を超えて有機的に存在するものだから、今生きている私たちは、第二次世界大戦とそれを遡った時代の教会の罪をも負っているというのである。
 天皇制と戦争責任に関わって日本ナザレン教団は、日の丸にも国歌にも反対であることを明らかにしている。


U. 日本ナザレン教団と著者の歴史認識

 a.初期のクリスチャン指導者と左翼運動    小冊子で主張されている歴史認識は、共産党をはじめとする左翼団体とあまり変わらず、基本的に旧社会党の主張に非常に近い。それにはいろいろな理由が考えられるが、日本のキリスト教会の一部には、昔から非常に強い左翼的傾向があり、多くの指導者たちは左翼運動と深く関わってきた。実際、共産党や社会党の創立にも無縁ではなかった。初期のクリスチャン指導者たちのキリスト教的博愛主義が、美化された社会党の理想や、共産党のユートピアと共鳴したのである。それは現代のクリスチャンの多くと、左翼的感覚を持っている人たちの間にも共通している。

b. 敗戦後のアメリカ統治の偏向教育    敗戦後の日本を統治した連合軍(実際はアメリカ)は、徹底した日本人への情報統制を行った。日本人は敗戦の強烈な落胆と精神的空白、そして荒廃の現実の中にいた。戦争に突き進んだ軍部とそれを止めることができなかった日本政府への、一般国民の憤りと反感は計り知れないものだった。大本営発表に騙され、洗脳されて来たことに対する悔しさや怒りも激しかった。日本人は全体主義を憎んだ。それに対して、統治者として入ってきたアメリカの民主主義と博愛精神は、日本人大衆を非常に驚かせ、アメリカへの信頼を高めさせた。それで、アメリカが作り上げた歴史物語を容易に信じたのである。アメリカが行ったのは、日本を卑劣な戦争犯罪国家として貶め、アメリカを筆頭とする連合国を絶対に正しいと思わせることであり、日本を徹底的に悪者に仕立てることであった。

 歴史は戦勝国によって、戦勝国の都合の良いように書かれるのが常である。それで第二次大戦勃発にいたるまでの諸外国との交渉も、戦争中の出来事も、すべて日本の悪と決めつけられた。真珠湾攻撃がアメリカ人の正義を証明し、日本の卑劣さを象徴するものとして語られたが、そのように仕向けたアメリカの卑劣さは隠された。もちろんアメリカの情報操作の動機は、必ずしも「自分たちに都合よく」という悪意だけだったわけではない。日本の戦争能力と意欲を、完全に失わせて平和国家を樹立させようという、善意の目的もあったのである。ただし、世界の状況が変化すると共に、アメリカの日本に対する態度にも変化が現れ、誰でも知っているように、最近のアメリカはしきりに、日本が戦争に加わることができるような体制を作るように求めている。それが自分たちの国家の利益にかなうからである。

c. 戦後の偏向教育   前述の理由で戦前戦中の、鬼畜米英・戦争鼓舞・戦意高揚の教育は、敗戦後には一変して、英米こそ正義であったかのように教えられるようになった。面白いことにこの教育を担ったのは、ソ連を愛し、北朝鮮を理想郷とみなし、中国を模範とする、左翼系の人々によって構成される日教組である。アメリカは、日本を反戦国家にすることの益が、ある程度反アメリカになる損失よりも大きいと判断し、左翼系の人々の活動を許したのである。戦後の日本で教育を受けた者の大多数は、この日教組の思想的洗礼を受けている。日教組は、旧社会党の支持母体であった。私たちは一貫して、社会党的な思想背景を持った人々から、学校教育を受けて育ったのである。このようにして平和を叫び、反戦を唱え、再軍備反対を歌い、自衛隊を違憲と主張するのが、進歩的で良識のある日本人に見られてきた。たとえ右寄りの自民党の人たちでさえ、このような流れをよく理解して、自らの言動を慎まなければならなかった。
戦後の日本のクリスチャンたちも、大部分はこのような教育の下、良識のある平和主義者として、極めて日教組的な感覚をもってやってきたのでる。

d. マスメディアの影響  このようにして作り上げられた、日本の戦争反対の機運と左よりの感覚は、多くのメディアによって更に強化された。良識派と思われてきた日本の新聞や雑誌の多くは、盛んに左よりの見解を述べ続けてきた。メディアの存在意義のひとつは、時の権力者に対して批判の声を上げ続けることであるから、反自民党的な立場を取るのはむしろ当然であったし、そのような言論で作り上げた数多くの読者に、購買者になってもらう企業としての目的もあった。それらのメディアの主張は反自民党であるために、多くの場合、旧社会党や日教組の主張に近いものとなっていった。それに対し、少しでも自民党の主張に耳を貸すメディアは、資本主義の美酒に溺れたメディアであるかのように見られてきた。

 もともと、キリスト教会の多くは平和や平等を謳い、貧しい者や弱い者と共に歩むことを自分たちのあり方としてきたことから、容易にこのようなメディアに同調でき、知らないうちに彼らの政治的スタンスや思想的立場に近づいていた。弱者の味方であったために、労働者の味方となり、労働者の団体に心を寄せ、その主張を擁護した。だから左よりの教育と左よりのメディアに共鳴し、彼らと主張を同じにすることに安心感を得た。

 大きく見るならば、日本ナザレン教団もこの小冊子の著者も、このような流れの中に竿を刺していたと思われる。アメリカが作り上げた歴史物語を信じ、左翼系の人々が抱いてきたセンチメントと政治的立場に共感してきたのである。


V. 具体的な歴史認識の誤り

 この小冊子は、日本が犯したと言われている戦争犯罪を数多く上げている。中には歴史的事実があるかもしれない。ただし、朝鮮(韓国・北朝鮮)に対する罪、中国に対する罪、アジア諸国に対する「酷悪で残忍な」罪のほとんどは、左よりの人々があまり歴史を調べもせずに、プロパガンダとして主張してきたものを丸呑みにしたに過ぎない。この小冊子が書かれた当時、すでに、そのような戦争犯罪物語は捏造であると、指摘されていたのである。

a. 韓国人慰安婦の問題  この小冊子が発行されたのは今から20年前の1994年であり、左よりの政党やメディアが最も華々しく表舞台に踊り出、日本の戦争犯罪について声高く叫んでいた頃である。中でも、韓国における慰安婦の問題が大きく取り上げられ、村山談話があり、河野談話があり、宮沢謝罪もあった。小冊子の著者は、朝鮮人慰安婦の数を15万5千人から、20万1千人に上ると推定されると語っているが、現在はっきりしていることは、日本陸軍が、あるいは日本という国家が、強制的に朝鮮人女性を慰安婦に仕立て上げたという事実は、ただの一つも証明されていない。もちろんそれは、絶対に一つもなかったという証明にはならない。ただ、実例が一つも証明されていないのである。(第二次大戦中、軍関係者が強制的に女性を慰安婦にした例は、ただ一度だけ史実として証明されている。日本軍がインドネシアをオランダから解放した折、日本軍兵士の一人がオランダ人女性を強制的に慰安婦にしたのである。この日本軍兵士はその後、その犯罪のために、日本軍によって処刑されている)

 それだけでなく、慰安婦問題を盛んに書き立て、日本政府の罪、日本人の罪を糾弾してきた新聞、日本の良心の府とまで言われてきた、左よりの朝日新聞が、自らの報道が誤りであったことを、22年ぶりに正式に認めたのである。それは小生がこの文章を書いている今からわずか1ヶ月前の、2014年8月5日と6日の同新聞紙上で発表したものである。朝日新聞は吉田清治という人が書いた捏造物語に飛びついて、日本軍は強制的に朝鮮人女性を慰安婦に仕立てたと、誤報に続く誤報をくり返したただけでなく、政治的立場に基づく空想から、話を大きくしていったのである。朝日新聞は言い逃れと責任転嫁に満ちた書き方ではあったが、ともかく、自分の記事が誤報であったことを、22年もたって初めて認めたのである。どれほど多くの日本人がこの記事のために、日本人としての尊厳を失ったことか、どれだけ多くの日本人があるいは日本という国家自体が、このくり返しくり返し主張された朝日新聞の誤報に基づく、あるいは捏造に基づく記事のために、国際的に辱められてきたかことか。ここ数年間、韓国人は大統領をはじめとして、こぞってこの問題を取り上げて日本を糾弾し、日本と韓国の国家間軋轢の原因となっているばかりでなく、多くの国々や国連の人権委員会までを巻き込んで、日本の恥として語られている。

この小冊子が書かれた当時でさえ、すでに朝日新聞の報道が誤報であり、捏造に根ざしたものであることは、秦郁彦氏による現地調査報告や、捏造記事の舞台となった済州島の地元新聞の記事、さらに産経新聞によって暴露されていた。この小冊子の著者はそのようなことを一切無視して、朝日新聞を信用したのである。これは、左系の人たちが言う事を無批判に信じる精神構造が、ナザレン教団の教職者たちの間に、また著者の中にも、出来あがっていたからであると言われても仕方あるまい。

b. 南京の大虐殺  また著者は、中国が大問題にし、日本を糾弾し続ける大きな理由としている南京大虐殺も、事実と断定して語っているが、日本軍による30万人に上る虐殺があったなどとは、常識では考えられないものである。これも、元はといえば朝日新聞が、本田勝一という人の創作記事を信じて、事実として報道したことに始まる。(本田氏以外にも、東史郎氏や曽根一夫氏などが、南京大虐殺を取り上げてフィクションを書き上げ、あたかも史実であるかのように語っている。このようなフィクションを事実と信じる人は多い。先に慰安婦問題で名を上げた秦郁彦氏なども、曽根一夫氏の文章を史実と考えている。)南京において虐殺がまったくなかったとは言わないが、どう好意的に見ても針小棒大の報道である。証拠と言われてきた様々な写真も、今では、そのほとんどが信ぴょう性を疑われている。虐殺があったとしても、また「大きく大きく」見積もっても、せいぜい10分の1に及ぶかどうかというところである。もちろん殺された人の人数だけで判断すべきことではないが、現在は大虐殺であったか虐殺であったかが問題とされているのである。

南京の大虐殺について、現在は大きく分けて三つの立場がある。第一は30万に及ぶ日本軍による大虐殺があったとする立場で、中国が朝日新聞の記事を元に主張している他、日本の左よりの「良心的」メディアがこれに属する。第二は大虐殺と言えるほどのものはなかったが、虐殺自体はあったという立場である。この立場には数人から数十人に始まり、3万人くらいと想定する人たちがいる。第三はそのような虐殺は一切なかったという立場である。戦争だったのだから殺し合いはあったに違いないが、虐殺には当たらないと考えるのである。
 
c. 朝鮮人の強制労働  さらに小冊子の著者は、日本に強制連行された韓国人労働者は70万から100万に及ぶと語っているが、これも怪しげな数である。強制労働のために連行された韓国人も数百人の単位でいたかもしれないが、大部分はより良い働き場を求めて、自ら日本に渡ってきた朝鮮人である。

 著者はさらに、樺太に強制的に送られていた朝鮮人労働者4万3千人が、戦後日本政府によって置き去りにされたとも語っているが、これも、左寄りの報道を鵜呑みにしたものである。日本政府が韓国人労働者を強制的に樺太に送ったという事実は、証明されていない。それらの取り残された韓国人も、自分の意思で樺太に渡った労働者や、戦後、ソ連によって強制労働に送られた韓国人である事が明らかである。彼らはその後、ソ連によって置き去りにされたのである。

d. アジア諸国での残虐行為  小冊子の著者はまた、アジア諸国で日本軍が犯した残虐行為を取り上げて、日本を責め、日本の教会に悔い改めを促している。その「韓国・中国を始め、アジアの諸国で」という言い方は、まさに左寄りの人たちの常套句として使い続けられてきたものであり、現在でも変わっていない。ただ、彼らは実例をあまり挙げることができない。いつどこでという具体的な証言がほとんど出てこない。

それもその筈である。何百年にも渡る西欧諸国の、過酷な植民地支配を耐え忍んできたアジアの多くの国々にとって、第二次大戦当時の日本軍は解放軍であった。また西欧の宗主国には対抗できないと思い続けて来た彼らにとって、たとえ最後は負けたとは言え、西欧諸国に対してあそこまで戦い続けた日本軍は、大きな励ましであり手本であった。だから、この大戦後には、アジア諸国は言うに及ばず、世界中に独立運動が広まり、続々と独立国が誕生したのである。多くの植民地を失ったイギリスなどは、第二次大戦の最大の敗戦国であるとさえ言われる。

 一つの例を挙げよう。この小冊子が発行された1994年。当時の自社さ連合で首相となった村山富市と、衆院議長土井たか子とは、前後して東南アジアに向けて謝罪旅行に出かけた。彼らはフィリピン、シンガポール、ベトナム、マレーシアなどを個々に回り、大統領や首相、さらに政府の要人たちと会談を重ねたが、ほとんど異口同音に戦争犯罪を詫びる二人に、東南アジアの指導者たちは、その後ろ向きな態度に眉をひそめ、未来に向けて前向きな話を要求した。ただ、詫びることしか頭になかった二人には、未来志向の話をすることができなかった。アジアの論客と言われ、また日本を尊敬し、「日本に倣え」を標語にしてきたマレーシアのマハティール首相は流石に耐えられなくなったのか、戦後の謝罪や補償について話し合う愚かさを指摘し、未来のために、日本が積極的に貢献すべきであると語っている。その中にはただ、技術や経済における貢献だけでなく、PKOに自衛隊を送ることや、国連の常任理事国となるべきことまで含まれていた。

 日本の左よりの人たちは、アジアの人たちが日本の再軍備を恐れていると言い続けているが、むしろ、日本が再軍備に踏み出して積極的にアジアの平和に貢献すべきだと、考えるる人たちが多いと理解したほうが良い。日本が平和を願う国家だということは、アジアの国々に知れ渡っている。それを否定するのは中国と韓国と北朝鮮だけである。

 戦争は残忍なものである。そこここに、残虐行為と言われるものが多数あったに違いない。特に敗残兵は、武器弾薬を失い食料を失い健康も失い、ついには規律までも失って残虐にならざるを得なかった。日本軍は多くの場合敗残兵となる憂き目を見たのである。だとしても全体として、日本軍はしっかりとした規律によって、讃えられている。小生はフィリピンで長いあいだ宣教師として働いたが、そこは、マレーの虎と讃えられた山下将軍に率いられた日本兵が、敗走に敗走を続けてついに降伏した土地であった。インドネシア、タイ、マレーシア、カンボジア、シンガポール、ミャンマーなどを幾度も訪れ、国際会議などではさらに多くの国の人たちと話しをする機会があった。南太平洋に散在する島国の人たちとも随分話した。アジア諸国から集まってきた人たちと同じ敷地に住んで、一緒に仕事をしたこともあるが、日本軍や日本人を悪く言われたことは皆無である。

 有名なバターン死の行進についての、フィリピン人の意見もたくさん聞いた。最初の特攻兵が出撃したマバラカットで、特攻兵が出撃前の一夜をあかした家も訪れ、当時のことを知る土地の人たちと色々と語り合ったこともある。ミャンマーでは、インパール作戦で日本軍と戦ったお年寄りと、長い時間をついやして話した。彼はイギリス軍の通訳として、闇夜に紛れて、日本軍の野営している場所に、落下傘で降りたと言う。これらの会話の中で、誰ひとりとして、日本軍と日本兵の残虐行為について語った者はいない。かえってインドネシアでは、日本兵に対する賞賛の言葉を幾度も聞いた。多くの日本兵(750人から1000人、2000人、あるいは数千人と異なった説がある)が、日本軍が敗北した後もインドネシアに残り、再びインドネシアを植民地化しようと、2度にわたって侵入してきたオランダに対抗して、インドネシアの兵士を訓練して共に戦い、独立を勝ち取ったのである。

 日本から最も残虐な扱いを受けたと言われるフィリピンでさえ、「もしも日本があのままフィリピンを支配し続けていたら、フィリピンはもっと規律のある良い国になっていたに違いない」と言う声を、フィリピン人たち自身から幾度も聞いた。はじめのうちは、日本人である小生への気遣いかとも思ったが、どうやらそうではないと気づいた頃から、小生の朝日新聞をはじめとする左よりメディアへ信頼が崩れ、強い疑惑が芽生えた。

 小生がフィリピン山岳奥地住民のために働く、宣教師になろうとした理由の少なくても何パーセントかは、日本兵が残虐の限りを尽くしたと言われている場所で、被害にあった人たちのために働きたいと思ったことにある。その山岳民族からも、日本人への悪口を聞いたことがない。台湾人の多くは、日本の支配を懐かしんでいる。日本の悪口をいうのは、未確認情報を鵜呑みにしたり、捏造物語を作り出して日本を責め、なんとか謝罪の言質をとって補償を引き出そうとする、韓国と北朝鮮、そして中国だけである。

確かに、八紘一宇も大東亜共栄圏も、自らをわきまえない誇大妄想であった。そしてそのために、日本軍はそこかしこで理不尽なことをしでかし、数多くの残虐行為もしている。中でも、毒ガスや細菌兵器を密かに作り、中国人を始め、モンゴル人、ロシア人、さらには日本人までを強制収容し、彼らを「丸太」呼ばわりして人体実験をくり返し、千人とも五千人とも言われる死者を出した731部隊、別名石井部隊は有名である。数百回に渡って出撃し、一般住民をふくむ多くの犠牲者を出した、重慶の無差別空爆も知られている。実際の戦場での個別の部隊が、このような残虐行為をくり返していたとしても、植民地の辛酸を舐めていたアジアの諸国を、西欧の宗主国の手から助け出そうとした、日本政府の勝手な思い込みの善意もあったことは認めなければならない。

e. 朝鮮の併合   この小冊子の著者は、左よりのプロパガンダ報道に騙されているのである。そしてその間違いをもとにして、日本国と日本人を責め、日本の教会を責め、悔い改めを勧めているのである。それは特に韓国に対する罪意識に代表されるが、その罪悪感の大部分は、左寄りの日本のマスコミの事実に反する報道と、韓国側の捏造物語によって形成されたものである。

 日本は朝鮮を植民地としたことはない。併合したのである。この二つの言葉はしばしば混同されて用いられ、日本の公文書でも韓国を植民地化したという言葉が使われた場合もあるが、本来、植民地化と併合はまったく異なったものである。植民地化は、植民地の人々を搾取して富を得ようとするものであり、併合は基本的に、併合された側の国民に対し、併合した側の国民と同じ権利を与えるものである。

 併合を正当化しようとは思わないが、日本は併合した韓国人に基本的に日本人と同じ権利を与えた。西欧植民地主義国の長い歴史の中でも、このような試みは稀有である。たしか、フランスが一度試みたことはあるが、失敗に終わったと聞いている。一方、日本が韓国から富を搾取した事実はない。かえって、当時の韓国の数年分の国家予算にも及ぶ持ち出しをして、ダム、道路、鉄道、港湾などのインフラを整え土地整理も行っている。さらに、「両班と白丁」という、世界でも類を見ないほど愚かな身分制度を廃止して、すべての韓国人に公民権を与えた。この時まで、韓国国民の大部分を占めていた白丁と呼ばれた賤民は、基本的人権さえ奪われていたのである。日本はまた教育にも力を入れた。併合時にはせいぜい100程度しかなかった学校の数を、30年も経たないうちに4200以上に増やし、10パーセントだった識字率も65パーセントに上げている。それまで顧みられることがなかったハングル文字を、正式に取り入れたのも日本である。韓国は日本の統治によって飛躍的に豊かになり、まさに別の国のようになったのである。

 少なくとも政府のレベルでは、韓国人に日本人と同じ権利を与えて、つまり日本国民として平等に取り扱おうとした。左翼系の人々が悪名高いと非難する創氏改名でさえ、事実は強制的に日本名に変えさせたのではなく、望む者には日本名を与えたのである。もちろん実際に朝鮮人を取り扱った、政府機関の人々や民間レベルでは、余りにも貧しく教育にも倫理にも劣っていた、当時の朝鮮人を蔑視することが多く、様々な差別があったのも事実である。日本人もまた、まだ、それだけレベルが低かったのである。だから関東大震災の直後には、日頃差別と虐待を受けていた朝鮮人が、井戸水に毒を投げ込んだとか、蜂起して日本人を殺しているとかいう根も葉もない噂が流され、数百人から数千人の朝鮮人が虐殺さる事件が起こったのである。

 歴史に「もしも」はないと言われるが、あえて言おう。もしも日本が朝鮮を併合していなかったら、朝鮮はロシアのものになっていたか、中国の植民地となっていたに違いない。それがいかに悲惨なものになったであろうかということは、近代史に残るロシアの残虐性や非人道性を省みれば歴然としている。中国の周辺国への侵略や覇権主義、そして人権無視の歴史を垣間見れば明白である。これは単なる「もしも」の話ではあるが、「もしも」、ひどく倒れかかった家のつっかい棒を外してしまったら、その家はやがて倒れるだろうと予測できるのと、同じ程度の「もしも」である。

※  これらの問題に関連して、2010年に日本キリスト教協議会が、韓国キリスト教教会協議会と共同で「韓日強制併合100年 韓国・日本教会共同声明」と題した声明文を出したことを記しておく。この声明は、日韓併合条約が「武力の脅迫によって調印された条約」であり不法であると断言し、日本政府による賠償と朝鮮半島の平和的統一に対する努力を訴えている。声明文は、抗日パルチザン(独立運動)への処罰が「人道主義に反する植民地犯罪」であったこと、さらに、また日本の統治が朝鮮半島に貧困をもたらす結果となり、多数の朝鮮人を中国、ロシア、日本などに移住させなければならなくなったこと、また日本による統治が、朝鮮半島の分断をもたらして朝鮮戦争の勃発につながったなどと主張して、左翼系の人たちが言い続けてきた言い方をそのまま踏襲している。

  
 f.  言いがかり外交  このような独りよがりの言葉による悔い改めは、それほど被害者意識を持っていなアジア諸国のクリスチャンたちにとって、意味のあることではない。これからの「共に生きる態度」こそ大切なのである。日本は国際取引に賢く振舞わなければならない。言いがかり外交の策略に乗ってはならない。歴史を捏造してまでも日本の戦争犯罪を誇大に語り、日本から謝罪の言葉を引き出し、その謝罪を形あるものにしろと言い出して、補償金や賠償金、無償援助や経済支援を引き出そうとする、韓国と中国には騙されてはならない。日本式に「誠意を見せればわかってもらえる」だとか、「謝れば気持ちを収めてくれる」などという甘い考えは、彼らには通じない。文化背景が違うのである。誠意を見せるとさらに要求する。謝ればそれを理由に賠償や補償を要求してくる。

 日本が併合した朝鮮の発展のために持ち出した金は、当時の朝鮮の年間国家予算の何倍にも上る。1965年の日韓平和条約締結で、日本が様々な名目で与えた金も、当時の韓国の国家予算の数年分に及ぶ。さらにその後、韓国の要求を飲んで日本が支払った金額は、1965年の分の2倍以上に上る。中国は世界第二の経済帯大国になったと誇りながら、未だにやれ開発援助だ、何とか支援だといって、日本から毎年莫大な金を受け取り続けている。そして悪いことに、年々軍事予算を増やし続け、周辺の国々を侵略し覇権主義を拡大しているのである。チベットもウイグル自治区も、内モンゴルも彼らの手に落ちた。インドは激しく抵抗して、ひとまず、手を引かせた。今は日本やフィリピンやベトナムにまで、触手を伸ばそうとしている。このような言いがかり外交に騙されて、日本の教会が彼らの策略の手先に陥ってはならない。

 一つ明らかにしておきたいが、宗主国が植民地の独立を承認する場合、賠償を行うべしという国際法の規定は存在しない。かえって、宗主国だった側が植民地だった側に損害賠償を請求する事例の方が多い。例えば、フランスはハイチに損害賠償を請求しているし、オランダはインドネシアに請求している。近年では、ポルトガルがマカオを返還した時も、同じように請求している。その例から言えば、韓国を併合し、巨額を持ち出して近代化した日本は、韓国に対して多大な額を請求できる。
 

W. 神学的な難点

 この小冊子には、幾多の神学的難点がある。著者は基本的に福音派の人であるが、先に指摘したように、社会派ににじり寄っているように読める。

 a. 社会的活動は、教会の使命や責任ではない   ローザンヌ会議はジョン・ストットに先導されて、声明文を出した。その中心は、「教会の使命(ミッション)は、社会活動と伝道である。この二つはあたかも一本の車軸の両輪のようなものであって、どちらが欠けても教会は不完全である」という主張である。この声明文に納得しなかったローザンヌ会議の参加者も多く、彼らは署名を拒否している。しかし、この声明文は世界の福音派の反省と悔い改めを呼び起こし、今ではあたかも正しい声明であったかのようにまかり通っている。

 この小冊子の著者もその影響を強く受けて、次のように語っている。「私たちの日本ナザレン教団は、戦時下に罪を犯しました。当時の国家の悪魔的な力に、しっかり抵抗することをしないで、現人神である天皇に服従することを受け入れ、日本が神国であるという皇国思想を肯定して偶像礼拝に陥り、アジア諸国への侵略を美化して進める国策を受け入れて協力しました。迫害や弾圧を恐れ、教会を守ろうとして、かえって教会の使命と責任を放棄してしまいました。」(太字は引用者の強調)ただし、これはとんでもない主張であり、神学的ではあるかもしれないが、聖書の教えではない。

 ジョン・ストットは、それより少し前に中南米のカトリック諸国で興った「解放の福音に」心を寄せ、その指導者たちと交流して彼らの主張を取り入れ、福音的に言い直したのである。決して聖書の教えから導き出された言い方ではない。教会の使命に関わるキリストの命令には、どう読んだとしても社会活動は含まれていない。つまり、国家を糾弾する社会的使命と責任は、キリストによって与えられたものではなく、神学者が作り出したものである。

 聖書によるならば、また、キリストの命令と使徒たちの教えと模範に学ぶならば、教会がこの世に派遣された目的は、福音伝道ひとつだけである。くり返すが、キリストは教会に社会活動を命じられたことはなく、政治活動をお勧めになったこともない。特に政治活動に加担することは、自らの態度をもって、はっきりと避けるようにお教えになった。王として担ぎ出されることを幾度も拒み、「カイザルのものはカイザルに」とおっしゃって、政治的もくろみに巻き込まれることを拒絶なさった。植民地として支配の辛酸を舐めていたイスラエルの王が、宗主国の皇帝に対して物申すことなく、政治は政治家に、国家のことは国家にと言っているのである。

 教会がこの世に生きている限り、この世の悲惨さに目を閉じることはできない。それは当然である。しかしキリストは、教会が社会活動に力を注ぐようにとは、おっしゃっていない。キリストが強調し、初代の教会が力を注いだのは、教会の中で兄弟姉妹が互いに助け合うことであって、兄弟姉妹が力を合わせて、教会の外の悲惨さのために働くことではない。

 だからといって、教会は教会の内側だけに関心を持つのではない。教会がこの世に遣わされた理由、目的、使命、ミッションは、キリストの贖いのみ業に関わる福音宣教である。しかし教会は、福音を宣べ伝えるだけで生きているのではない。多くの人々と共に生きるのである。キリストが父によってこの世に遣わされたように、私たちもキリストによって、キリストと同じ贖罪論的使命を与えられて遣わされ、キリストと同じように自己犠牲を旨とし、世の人々と共に生きるべく遣わされているのである。

 福音宣教は教会がこの世に遣わされた目的、使命であり、社会活動は、教会がこの世で生きるべき姿であって、この世に遣わされこの世に生きる目的ではない。日本国の大使は、派遣された国で日本を代表し日本国の任務を行う。それがミッションである。しかし彼は一人の日本人として、遣わされた国で、日本人にふさわしい生き方をする。それが生きる様態である。福音宣教はミッションであるが社会活動はミッションではない。それは教会の生きる姿、様態なのである。それらは互いに絡み合って、完全に引き裂くことはできないが、二つの異なったものなのである。それを取り違えると、社会活動をしなければ、教会はミッションを遂行していることにならず、本来の教会の姿を失っているなどと言い出すことになる。

 b. 教会は社会や国家に対する預言者ではない   私たちは、すべてのクリスチャンが祭司であることを知っている。だからと言って、すべてのクリスチャンがあらゆる意味において、旧約聖書の祭司と同じ祭司だとは思っていない。祭司の極めて本質的な意味において、現代のクリスチャンも同じ資質を持っていると考えるだけである。

 そして小生は、使徒の働き2章17〜18節を基に、現代のクリスチャンはすべて預言者であると信じている。ただし、旧約時代の預言者の資質のすべてを備えた預言者であるとは思っていない。その極めて本質的な意味において、預言者なのである。牧師や宣教師などの教職者だけではなく、すべての信徒が預言者なのである。小冊子の著者は、キリストが祭司・預言者・王であったように、教会も祭司・預言者・王なのであると主張しているが、この理解も社会派の方々の常套句であり、極めて神学的な言い方ではあるが、聖書的根拠を持たない。教会は、キリストが王であったように、王であると主張するのは行き過ぎである。

 教会は、どういう意味で預言者なのだろう。その答えすべてをここで取り扱うことはできないが、今の議論に関わる大切な点だけに絞って話を進めよう。まず、教会は神の民に対して、つまり教会自身に対して預言者であるということである。旧約時代の預言者は、原則的に、神聖政治体制を敷いていたイスラエル国家と、イスラエルの民に向かって預言した。宿敵アッシリヤの首都ニネベに向かって、ヨナが預言したのは例外である。この場合、ヨナは神からの直接の語りかけを明瞭に受けて、敵の本拠地という特殊な地に向かったのである。旧約の預言者は、イスラエルとの関係に関わって、周囲の国家や民族に関して預言をしている。彼らは霊感を受けて、神の民であるイスラエルに語ったのである。霊感を受けずに、イスラエル民族以外の人々に語ったのではない。現代の預言者が語るべき相手は、神の民である教会であって、選ばれた神の民ではない一般社会や国家ではない。

 小生は、キリスト教国と自認していたヨーロッパの国々の教会は、キリスト教徒であった国王や、キリスト教徒が多数を占めていた政府あるいは議会に対して、預言者的に語らなければならなかったと思っている。それをしなかったのは、教会の罪である。たとえば、アメリカインディアンを謀略の限りを尽くして虐殺し、部族だけではなく民族までもほとんど滅ぼし尽くしてしまった「キリスト教国アメリカ」の罪を、どうしてアメリカの教会は預言者的に糾弾しなかったのか。どうして黒人奴隷の輸入、使用、あるいは公民権問題に対して、教会はもっと声を高くしなかったのか。

 また預言というものは、それが的中した場合、つまり正しかった場合に限って、本物の預言とされるのである。もちろんここでも例外はある。エレミヤの預言は、正真正銘神からの預言であったが成就しなかった。そのために彼は大変な苦しみを背負わされた。とは言え、預言の力は神に起源があることには変わりがない。預言者が預言をくり返し、それが幾度も成就して神からのものであると証明され、信頼に足るものであると人々に受け入れられるようになって、初めて預言として聞かれるようになるのである。現代の教会の預言が、小冊子の著者のような、一つの政治的立場に固執した見地からの一方的な意見、事実関係に誤りがあり、その解釈にも偏見がある見解を「預言」として、教会外の人々に向かって語るのは大きな誤りである。律法は「神の名をみだりに唱えてはならない」と定めているが、このような事実誤認と捏造物語に根ざした政治的発言を、「預言」として語ることはまさに神の名をみだりに唱えることであり、絶対に行ってはならない。間違いだらけの人間の見解を、神の権威を一方的に主張して語り、糾弾と断罪をくり返し、悔い改めを迫るなど、思い上がりも甚だしい。 

 c. 有機体としての教会  100年前の日本の功罪が、現在の日本に影響を残している以上、日本人としてそれを無視するわけにもいかない。教会が単なる人間の集まりや組合のようなものではなく、キリストの命によって互いに繋がった有機体であることを認めると、80年前の罪も100年前の過ちも、自分には関係がないと無視することはできない。それは認めよう。しかし、日本という国家の中の誠に少数派であった日本のキリスト教会、そしてその中でも決して大きくなかったナザレン教団が、たとえ日本の戦争に反対しなかったとしても、それがどれだけの罪になるだろうか。間違わないで欲しいのだが、罪がまったくないと言っているのではない。どれほどの罪になるのかと問うているのである。小冊子の著者は、当時の先輩クリスチャンたちを責めるのではないと語っているが、当時のクリスチャンたちは、のちの世代のクリスチャンたちが大騒ぎをするほどの、戦争責任を負っていただろうか。

 第二次大戦に関わる教会の責任を今取りざたし、日本の教会の犯罪を悔い改めるより、世界中のキリスト教国の犯罪を許した教会の責任を、クリスチャンとして悔い改めることのほうが大切ではないか。近代の植民地政策はみな、西欧キリスト教諸国によって進められた。それぞれの国の教会が、それに反対したこともあったと思いたい。教会は国家に対して強大な力を維持していたのであるから、それは容易にできたことである。しかしその教会のほとんどは、間違いなく植民地主義の後ろ盾となり尖兵となっていたのである。

 現在のナザレン教団が、戦前戦中のナザレン教団と、有機的に繋がっているというのと同じ意味において、現在の日本のキリスト教会は、植民地政策を推し進める力となって、世界中の人々を不幸に陥れた、西欧キリスト教諸国の教会と繋がっているのである。西欧キリスト教諸国が積極的に進めた植民地政策が、いかに苛酷で残忍なものであったか、歴史を調べてみるがいい。それに比べると、理不尽な西欧植民地主義国の経済封鎖のために、決死の覚悟で戦争を始めた、第二次大戦の日本の戦争犯罪など、象の前のネズミにも及ばない。プロテスタント諸国だけに限って見ても、イギリスがどれほど残忍な植民地政策を推し進めたか、オランダの植民地政策がどれほど残虐の限りを尽くしものか、アメリカがどれほど人道に悖ることをやって領土を増やし、多くの人々を死に追いやってきたか。そしてそれらの国が犯した植民地政策の罪が、現在に至るまで尾をひいて、どれほど多くの人々を苦しめ続けていることか、少しは考えて見るがいい。自分がクリスチャンであることが恥ずかしくなる。

 これらの国々の教会が、自分たちの社会的責任をどのように果たしてきたか。そのように悔い改めて、どのようなことをしてきたか、ほとんど耳にしたことがない。当然、日本のキリスト教会も沈黙したままである。なぜいまナザレン教団が、戦争犯罪の悔い改めと告白をしなければならないのか。小冊子の著者は、戦争責任の告白をしなければ、私たちの教会に将来はないというようなことを言っているが、私たちの教会の将来は、戦争責任の告白にかかっているのか。それは、聖書の教えから導き出された言い方ではなく、歴史的な事実にも合わない。ただ、左翼の人たちの言い方と不思議なほど合致する。

 d.  聖書が教える和解   聖書は確かに和解の福音を語っている。そして教会は和解の務めを与えられている使者であるとも教えられている。この小冊子の著者もそのことはよくわきまえている。しかし微妙に異なっている。著者は悔い改めと告白による、アジア諸国の教会との和解を語っているが、それは左翼の人たち、クリスチャンではない左翼の人たちがいうことに、教会という文字を加えただけである。アジアの人たちで、日本の戦争責任を責めているのは、中国と北朝鮮と韓国である。その他の大多数のアジアの国の人たちは、日本の戦争犯罪には殆ど無関心であり、日本が謝ると「なんのことですか」と、逆に尋ねられるに違いない。日本の教会が謝ると、アジアの多くの教会はそのようなことに関心はありません。たとえそのようなことがあったとしても、日本は私たちが植民地主義者の手から逃れるきっかけを作ってくれたので、感謝こそすれ、謝罪を求めることはありませんと言われるだろう。くり返して言っておくが、「アジアの国々」などという言い方は、左翼系の人たちの言い草である。

 数年前に、韓国のクリスチャン・テレビ局の重役と話したことがある。この放送局が「日本を許さないできた罪を悔い改めましょう」と、韓国の同胞に語りかけたところ、膨大の数の抗議文が寄せられたということである。赦すと言われるのはありがたい。日本も韓国に対してまったく罪を犯さなかったわけではない。しかし小生は、その重役にお願いした。「日本の罪を許さない罪ではなく、偽りの歴史を作り上げ、それで国民を惑わせ、日本を責め続け、謝罪と賠償を求めようとしている罪を、悔い改めてほしい。」これで韓国のテレビ局の重役は、私たちと協力して、日本で仕事をするもくろみを諦めてしまった。多分、お怒りになったに違いない。許さない罪を悔い改めようなどという発想は、韓国教会独特のものである。

 聖書が教える和解、そして教会がその和解の使者であると教えられている和解は、あくまでもキリストの贖罪による神との和解であり、その贖罪による和解によって、神と和解させられた者同士が作り出す和解である。神と和解させられた者同士は、あらゆる人間の相違と差別の壁を打ち破って、和解が可能になるということである。戦争犯罪を悔い改め、告白することによって作り出されるものではない。反対の言い方をすると、戦争犯罪を認めず、謝罪もしないために崩れてしまうような和解は、聖書が教える和解とは違う。聖書のいう和解は、あらゆる相違、民族、国家、政治的信条、思想的立場、そして貧富の差、教育の差、文明度合いの差をうち破って作り上げられる和解である。戦勝国、戦敗国、加害者、被害者の違いも、さらに一つの物事に対する理解と判断の差を乗り越えて、ただ、愛でいらっしゃる同じ神を信頼し、その同じ神を慕い、その同じ神の贖いを受け、同じキリストのみ体にバプタイズされているという、信仰の基盤に立った和解である。だから私たち日本のクリスチャンは、アメリカが行った非戦闘員の無差別殺戮である、日本の多くの都市の空爆の罪も、原爆投下の罪も問わないで、キリストにある兄弟として交わりを保っている。日本人が盛んに言い立てるようになった、アメリカの戦争犯罪を否定しているのではない。ただ問わずに赦しているのである。

 d. 教会の一致   教会の一致は、ただキリストを信じる信仰によってのみ可能であり、信仰以外の何物をも、教会の一致の要素として持ち込んではならない。政治的信条や、社会的立場、思想的共通などを条件として加えると、かえって教会の一致を妨げる。小冊子の著者は、戦争犯罪の悔い改めと告白を、日本のすべてのクリスチャンに、さらには世界中のクリスチャンに広く求めることによって、教会の一致に障害を持ち込んでいるのである。

 キリストの時代のイスラエルは、政治的には非常に危ういところに立っていた。キリストは自分に従う弟子たちに、政治的見解の一致や主義主張の一致を求めなかった。熱心党のユダは急進的愛国主義者であり、隙あらばローマに筵旗をあげようとしていた。税金取りのレビはユダの立場からすると売国奴であった。マルコは傀儡政権のエリート祭司の親戚であった。ペテロたち漁師は、当時としてはノンポリに近かったかもしれない。ともかく、贖罪に関わる和解の福音の鮮明なリアリティと重要性、そして緊急性に、そのような政治的立場による主義主張の違いは、顧みられなくなったのである。

 ナザレン教団の教職たちがどのような歴史観を持つのも、戦争犯罪を悔い改めるのも自由である。それが、どれほど事実に基づかない誤報と捏造によって作り上げられたものであったとしても、自分たちの内に収めているだけならば自由である。しかし、それを教団の年次総会でまとめ、教団の信仰告白に近い形でまとめるのは大きな誤りである。ましてや日本の教会が彼らと同じ態度を取るように呼びかけるなど、重大な過失であるし、世界の教会によびかけるなど、思い上がりも甚だしい。そのようなところに教会の一致は有り得ない。
教会の一致は、すべての間違いも誤りも罪も、キリストの贖いによる和解のゆえに、すべて赦してしまうところに存在する。だから小生は、年次総会でナザレン教団の教職が告白を採択したことも、糾弾するつもりはまったくない。これをもって、ナザレン教団の方たちと袂を分かつつもりも毛頭ない。それと同時に、小生の見解も間違いと見当違いに満ちているものと自戒している。だから、和解によって作り上げられた多くの兄弟姉妹の赦しがあってこそ、クリスチャンとしての小生の交わりは、可能となっていることも知っている。

 f.天皇制と日の丸と国歌   天皇制、日の丸、国歌について、ナザレン教団は反対の
立場を明確にしている。この小冊子の著者も同じである。これら問題については、日本国民の中にも一致はない。とは言え最近は、天皇制賛成、日の丸・君が代もそのままで良いという人が、増えているかなと思われる。このようなことで一方の立場を明確にするのは、教会の使命である宣教という観点から、賢いことではない。それは明らかに排除に繋がる。

 既に述べたことではあるが、教会の中にはいろいろな思想の人がいて良い。様々な政治的信念を持っていてもいい。異なった見方、違った考え方があっても良い。教会はただ一つ、天地の創造者であるお方を信じる信仰の一致で、結ばれているのである。天皇制反対で結ばれるものであってはならないし、日の丸賛成、君が代賛成で繋がるものであってもならない。このような政治的立場を教会に持ち込み、一致を妨げてはならず、伝道の障害としてはならない。

 天皇制反対のクリスチャンは天皇制反対でもいい。ただし、事実をしっかりと見る目を持って欲しい。確かに天皇が現人神として奉られたこともある。しかしそれは天皇自らが望み選んだことではなく、軍部の策略であったことは明らかである。天皇は戦争犯罪者だという意見もある。歴代の天皇や皇室に関わる人たちの中には、戦(いくさ)の責任を負うべき人たちが沢山いたことも事実である。それは多くの西欧キリスト教王国でも同じである。イギリスの国王や皇室が、いかに血塗られた歴史を持っていることか。それでもイギリスのクリスチャンたちは、自分たちの国王と皇室とを大切にしている。日本のクリスチャンたちが天皇制に反対するような、ファナティカルな態度はとっていない。

 日の丸が戦争犯罪の象徴だと論じる、クリスチャンたちがいてもいい。しかし事実はしっかりと見て欲しい。世界中の国旗の中で、かつて血塗られたことがない国旗などわずかしかない。多くの国家は戦いを通して造られ、国旗はその象徴である。イギリスの国旗は覇権主義の象徴であると非難されている。アメリかの星条旗の一つひとつの星は、侵略と流血で奪い取った土地を示している。それでも、イギリスやアメリカの真面目なクリスチャンたちが、自らの国旗を敵視しているなどという話は聞いたことがない。

 この際、日の丸を掲揚することは偶像礼拝だという、日本人クリスチャンたちにも申し上げたい。そのような考えを持っておられても、あなたは立派にクリスチャンである。それでも、客観的事実には目を開いて欲しい。韓国の国旗である太極旗は陰陽道に由来する。しかし、韓国人クリスチャンがそれを問題にした話は聞かないし、日本人クリスチャンがそれについてとやかく言ったということも知らない。タイのクリスチャンたちは自国の習慣に倣って、手を合わせて挨拶を交わす。仏教の教えで、人間の頭には佛が宿っているとされているから、互いに手を合わせるのだという。これを偶像礼拝だと言って、「クリスチャンは手を合わせるべきではない」と主張しているタイ人クリスチャンはいない。日本人クリスチャンもそのよう非難を、タイのクリスチャンたちに浴びせたりはしない。

 君が代を歌わない日本人クリスチャンは多い。それが信仰の戦いだと思っていても、立派にクリスチャンである。一方、君が代を歌う人の中にも立派なクリスチャンがおられる。大切なのは、広い視野をもって世界の事実を見て、互いに尊重しあうことである。国歌の多くは自分たちの国が戦いに勝利したことを歌い、これからも勝利し続けることを祈り、自分たちの国の美しさを主観的に称えるものである。民主主義の国なのに、王政の名残を留めているものもある。でもそのようなことで、教会に分裂を持ち込むことこそが、間違っているのである。


結び

 日本のキリスト教会の多くは、歴史的に左よりの政治的立場に立つものが多い。今回の小冊子も、左よりの人たちや、左よりのメディアがプロパガンダとして主張してきたことの、オオム返し、良くてキリスト教的な言い直しに過ぎない。このような誤報と捏造に基づく、悔い改めと告白への呼びかけに耳を貸す必要はまったくない。

 とは言え、ひとりひとりのクリスチャンが真摯に第二次大戦とその前後の事柄を学び、自分たちの教会は罪を犯してきたと感じるならば、神の前に悔い改めるべきである。二度と同じ罪を犯すことがないように、物事を間違いなく理解し、正しく判断し、良い選択をすることができるように、知恵と能力を与えてくださいと求めるべきである。日本の教会は、それほど大きな罪を犯してきたとは思わない人は、小さな悔い改めだけで十分である。

 私たちは戦争が悪であることを知っている。第二次大戦においても、たくさんの残虐行為があったことも認めている。ただし、それは日本だけが行ったとは限らない。中国共産党の残虐行為も、国民党の残虐行為も知られている。西欧植民地主義国のやった残虐行為は、身の毛のよだつものである。しかし今、私たちは、それらを私たち人類の残虐行為として、人間の罪深さを恥、神の前に赦しを乞うべきであって、互いに責め合ったり、謝罪し合ったりするのはやめにしよう。そのような後ろ向きの態度からは、何も生まれない。

 今回取り上げた問題の根底は、小冊子の著者の考え方およびナザレン教団の年次総会決定が、移ろいゆくマスコミの報道や「勝者が作り上げた歴史観」に立脚していることである。それらを無批判に信じてしまったことにある。私たちが変わらない真実として信じるのは、聖書だけだということを改めて確認しておかなければならない。 

 
 祈り

 人間をお造りになり、命をあたえ、生かし続けて下さる神様。私たちの罪深さと愚かさを実感しています。私たちはつまらない事で互いに憎み合い、争いを起こします。教会の中でも同じです。でも、どうかキリストに繋がる信仰と、信仰によって与えられる新たな命によって、私たちに相違と格差を乗り越える、一致をお与えください。








posted by まさ at 16:13| Comment(3) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月22日

なつく



 筆者が親しくお付き合いをお願いしている吉原宣教師を、フィリピンのお宅に訪ねたところ、一羽のパラキートが飼われていました。日本語ではふつう「インコ」と呼びますが、現地の人々はパラキートと言います。オウムとインコとパラキート、どこがどう違うのか難しいことは知りませんが、要するに小型のオウムです。

 奥様がとても可愛がっているこのパラキートは、現地の人たちが「バナナ・パラキート」と呼ぶ最も小さなオウムの仲間で、普段はバナナだけを食べて生きています。捕え方は簡単で、熟したバナナの実の上に糸くずを丸めて括り付けておけば、すぐに捕まえられます。エサの上をガサゴソと歩き回るうちに、糸に足をからめとられてしまって、あえなく終わりということです。

 誰か現地の人にもらったらしい吉原宣教師のお宅のパラキートは、奥様だけになついていて、その愛情の表現は見ていていじらしくなるほどです。奥様も可愛くてしょうがないといった感じで、これでは、パラキートの寿命が終わったときには大変だろうなと、ひそかに心配するほどです。

 むかし、私たちが飼っていたバナナ・パラキートは、悪賢いやつで、自分で入り口の戸をこじ開けては逃走し、戻ってきてはバナナを食べて、また逃げ出すことをくり返していたものです。意地悪をして籠の中にバナナを置いて戸を閉めておくと、ちゃんと戸を開けて中に入ってバナナを食べ、また出て行く始末でした。私たちが住んでいた標高1500mの地には、自然に熟するバナナはありませんので、空腹になったら帰ってくるよりしようがなかったのです。

 そうこうするうちに、とうとう帰ってこなくなりましたので、寿命になったか、猫にでも食べられたか・・・。とにかく、それで終わったのです。私たちは淡々と、「あれ、このところ帰ってこないね」と言っただけです。

 それにしても、吉原宣教師の奥様に甘えるパラキートの様子は、感動ものです。忙しくすれ違う奥様に声いっぱいに呼びかけ、籠の中でも一番奥様に近いところににじり寄り、羽を小刻みに震わせて気を引こうとします。奥様が指でさすってでもやろうものなら、目を閉じて首をかしげて気持ちよさそうに、まるで眠ったようになるのです。でも、眠ってはいません。この鳥が眠るときは、コウモリのように天井からさかさまにぶら下がるのです。

 私たちはペットを飼います。中には、人間の感情がまったくわからない蛇やトカゲ、イモリやヤモリを飼う人もいますが、これは例外です。私たちの多くは、自分に「なつく」動物をペットに選ぶのです。

 我が家で飼った猫は、どれもこれも不細工な姿の猫でした。たいていは何匹か生まれて、姿かたちのいいのはみな貰われて行ったのに、最後に残った「かわいげのない」奴が、仕方なく引き取られてきたのです。今いる「ぱんきん」も、世話しきれなくなったアメリカ人が残して行ったものですが、もともとは捨て猫で、何とも「へんちくりん」な顔をしています。ところが、飼って1年もすると、たいした可愛がり方もしていないのに、すっかりなついてわがまま顔に振る舞い、ときには思いっきり甘えてきます。そうなるともういけません。可愛いのです。情が移ってしまったのです。不愛想な顔つきも「個人差」に見えてきて、愛情をこめて「みったくない奴だなぁ。お前は・・」と抱き上げることになるのです。「みったくない」とは、筆者が子供のころ北海道で使っていた、「不細工で可愛げがない」という意味の言葉です。

 特別に優雅な姿をしているとか、非常に珍しいとかいうのは例外として、たいていのペットに大切なのは、なつくことです。あるいは、なついてきたと思われることです。池の鯉も鉢の金魚さえも同じです。人間は自分になつくもの、つまり心を交わすことができるものを大切にし、可愛がるのです。神様が人間をお造りになったとき、ご自分の姿に似せて人間をお造りになったという記述の重要さがわかります。

 神様もご自分と心を交わすことができる人間という動物を造り、これを愛でてくださったのです。人間が神様になつき、甘えれば甘えるほど、神様は私たちを愛(いと)おしく思ってくださるのです。三次元の動植物の中では、唯一、人間だけが神様に似せて造られ、神様と心を交わすことができる能力を与えられているのです。犬も猫も高等な動物として、ある程度人間と心を通わせることができます。猿はもっとでしょうか。でも、犬もの猫も猿も神様と心を交わすことができません。祈ることも拝むこともできないのです。神様に似せて造られていないためも、神様にはなつかないのです。

 人間は神様に似せて造られ、神様との交わりを楽しみ喜ぶように、初めからプログラムされています。そしてその中で、神様に造られ愛でていただいていることを感謝し、賛美をするのです。人間は単に神様を賛美するだけのために造られた機械ではなく、神様の愛と恵みを交わりの中に感じて、自由意思で神様を賛美します。そこが大切なのです。
 
 創世記の天地創造の物語の中で、「見よ、それははなはだよかった」とくりかえし語られた自然の中に、人間は造られ、生かされ、恵みをたくさん受けながら生活していたのです。それが人間本来のあり方でした。そのように暮らすのが、人間にとって最もよいことであり、神様もお喜びになったのです。

 聖書の中に記録されている様々な出来事も、多くの教えも、数々の戒めも、この素晴らしい本来のあり方を失ってしまった人間が、それを取り戻すにはどうしたら良いかということを教えるために、書き記されているのです。それらの中で最も大切なことは、人間がどのように努力したら、取り戻すことができるかということではなく、人間をお造りくださった神様が、人間に取り戻させるために、何をしてくださったかということです。それはとてもむずかしいこと、非常に困難なことでした。でも、人間を愛でておられる神様は、すべてを完全にやってくださったのです。

 ですから、いま人間にできることは何もありません。することがないのです。ただ、すべてを準備してくださった神様に信頼するだけです。それを教えるために、聖書は書かれたのです。人間は、「ありがとうございます」と感謝をして、「神様は素晴らしいお方ですね」と語りかけ、ほめ称えていくだけです。

 吉原宣教師の奥様が近くを通ろうものなら、思いっきり声を張り上げて気を引こうとするパラキートのように、神様に向かって声をあげ、感謝し、賛美し、お願いし、おねだりをしながら生きていくことです。神様も、ご自分になつくものをさらに愛でてくださるのです。






posted by まさ at 08:59| Comment(1) | 文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする