2016年05月21日

日本人の心に記された律法と日本人の宗教意識


日本人の心に記された律法と日本人の宗教意識

                                     2016年5月17日
                                          佐々木正明

はじめに・神との関わりの中で生きている日本人

 殆どの日本人は、キリスト教徒ではありません。でも、キリスト教の神と関係が無いのでもありません。昔から「仏ほっとけ、神かもうな」と言われて来ましたが、日本人がかまわなくても、神がほっといて下さらないのです。というより、神は日本列島に最初に住み始めた人間から現代人に至るまで、ご自分とご自分に似せてお造りになった特別な存在という、特殊な関係を保ち、深く関わり続けてこられたのです。

 日本人にも、天地をお造りになった神に似せて造られた姿がずっと残っていて、たとえ神を知らないまま、理解しないままに生活していたとしても、決定的に、神との関わりの中で生きています。人間にはすべて、神に似せて造られた姿(創世記1:26〜27)、すなわち心に記された律法が与えられていて(ローマ2:15〜16)、たとえ何も知らずにいても、この律法に従って生きるように造られているのです。その心に記された律法の内、神の姿の良い性質というか、善性についてはすでに述べました。

神に似せて造られた人間の霊性

 すべての人間には、神の善い性質に似せられた、善性とでも呼ぶべきものの他に、神の霊的な性質に似せて造られた霊性も与えられています。この霊性のゆえに、人間は霊であられる神、目で見ることもできず、科学的実験の対象として調べることもできない神を、本能的に感じ、また霊的な世界、目に見えない次元の存在を直感で感じることができるのです。そしてその霊性は、すべての動物たちの中で人間だけに与えられた、得意な能力なのです。ほかの動物には、礼拝するという宗教感覚がありません。とはいえ、神の性質に似たものとして人間に与えられた性質は、すべて、似せて造られただけであって、神と同じに造られたのではありません。あらゆる意味で無限なお方は創造主だけであって、似せて造られたものはすべて、有限の中に収められているのです。

 そのため人間は神を感じ、霊的な世界を感じたとしても、あくまでも有限の能力によって感じ、限られた知力の中で考えることが出来るだけです。神を完全に感じることも知ることもかなわず、霊的世界を説明しきることもできません。わずかに可能なだけです。そのうえ現在の私たちは、罪によって霊的能力が曇らされ、知的能力も曲げられ、神からのコミュニケーションは極めて限られているという、大きなハンディキャップのために、まさに不充分極まりないのです。そのために霊的な事柄を迷信だと笑ったり、何もわからないままに恐れたりするのです。大胆に悪霊を追い出していたイエス様の弟子たちでさえ、こともあろうにイエス様を幽霊と見間違って、恐怖のあまり叫び声をあげたほどです。(マタイ14:26)イエス様の弟子となって働いていたとはいえ、霊的世界のすべてを理解していたのではないからです。

救いのために与えられた文字で書かれた律法

 ただ神は、罪によって心に書かれた律法を読む目が曇らされ、霊的な本能が曖昧になり、神のことが分からなくなってしまった人間に、ご自分の姿を再び明瞭に教え、罪とその結果から救い出そうとしてくださいました。そために、イスラエルというひとつの民族を選び出し、これに、文字で書かれた律法である旧約聖書を与えてくださったのです。この文字で書かれた律法という、神からの新たな啓示によって、私たち人間は今、私たちの心に記された律法だけでは決して知り得ない、神の様々な性質やお心、あるいはご計画について知ることができるようになりました。

 律法は人間の宗教意識が作り上げたものではありません。人間が自分の本能や知識を駆使して考えたものでもありません。それは、神がご自分を示し、ご自分の計画を教え、救い主の到来を伝えるために、一方的に与えてくださったものなのです。特に、人類に対する神の救いのご計画とその遂行については、この文字で書かれた律法と、それに続いて与えられた新約聖書がなくては、まったく知りようがないのです。

 心に書かれた律法、パウロが「自分自身が自分に対する律法です」と言った律法は、人間が造られたとき、神のみ心にかなった生き方ができるようにと与えられた、人間の本質的な姿です。(ローマ2:14) これによって人間は、本能的に、理屈なしに、人間としての生き方をし、人間社会を築いて行けるようにされていたのです。それに対して文字で書かれた律法は、罪を犯して悪魔の支配に陥り、惨めな生活をしながら永遠の滅びを待つようになった人間を、哀れにお思いになった神が、人間の救いのための準備としてお与えになったものです。
 
文字で書かれた律法を知らなかった異邦人

 問題は、私たちのような異邦人が、いまでも、文字で書かれた律法については無知のままだということです。キリストが来てくださった当時、すでに2000年にもわたって神の教導を受け、律法も与えられていたイスラエル人には、救い主、すなわちキリストの到来と教えと働きについては、かなり明瞭に理解できたはずでした。しかし異邦人である日本人は、神についての知識も、そのお心についても、救いのご計画についても何ひとつ知らされないで来たのです。その無知な私たちの同胞が、いま、どのようにして神について知り、その救いのご計画について理解し、無代価で提供されているキリストによる救い、すなわち信仰による救いを、受け取ることが出来るかということなのです。

 その上、現代の私たち日本人は、イスラエル民族を通して与えられた律法、すなわち聖書の教えにはほ、とんど関心を持たずむしろ拒絶しているという、異邦人の中でも特異な民族です。その点について筆者は、すでに様々な文章で取り扱ってきましたので、ここで深入りはしません。ただ、日本人のそのような態度の主な理由は、この教えが、植民地政策を推し進める国の人々によって、伝えられたことによるという点だけは言っておきたいと思います。

 植民地主義者たちの侵略を退けようとして、秀吉や家康は、キリスト教に対する激しい迫害を行いました。キリスト教そのものに憎しみを持ったからではありません。さらに二代将軍はキリスト教禁止令という国策によって、植民地政策を推し進めていた国家から、日本を守ろうとしました。宗門帳や檀家制度などの仏教を利用した弾圧と、5人組などの日本社会の仕組みをたくみに用いた、反キリスト教キャンペーンが功を奏して、日本は中南米諸国やフィリピンのような、カトリック国の植民地にはならずにすみました。しかし250年ほども続いたその陰鬱な弾圧の歴史が、現在に至るまで日本人の心に暗い影を落とし、キリスト教に対して恐れと懐疑を抱かせ、よくても冷淡に近い態度を取り続けさせています。「触らぬ神に祟りなし」なのです。

 その上、イスラエル民族を通して提供された救いを先に知った、西欧のキリスト教徒たちは、そういう暗い影をもった日本人に対して、文字で書かれた律法という日本人のあずかり知らない決め事をもって、日本の文化を偶像文化と糾弾し、日本人を罪人と断じることから、伝道をはじめたのです。彼らの働きを通して救いを得たわずかの日本人たちも、彼らに倣って、自分たちの宗教文化を神の律法に背くものとして見下し、散々卑しめたのです。その結果、彼らの伝道の熱意に反比例して、多くの日本人の反感を増幅させてしまいました。

 西欧から来た宣教師やキリスト教徒たちの美しい貢献は、多くの日本人も認めています。特に教育や福祉に関する事柄で、彼らが成し遂げた立派な働きは誰もが賞賛します。それなのに、キリスト教禁止令によって意図的に作られた、キリスト教に対する疑心暗鬼は、多くの日本人が自覚しないままでありながら、まだ払拭されないままになっているのです。その上、イスラエル人に対する教導として与えられた特異な律法を、そのまま日本人に適用する、致命的間違が日本人を頑なにしてしまいました。日本人の多くは、いまだにキリスト教を面妖な宗教であると感じているのです。

文字で書かれた律法の目的

 モーセの律法、すなわち文字で書かれた律法は、あくまでも、救い主を受け入れるにふさわしい民族とするために、神がイスラエル民族にお与えになった、様々な教えと定め事を記した書物です。さらに、広義で律法と呼ばれている旧約聖書全体には、実に様々なことがいろいろな文体で記されていますが、突き詰めると、やがて救い主が与えられるという約束であり、その約束の実現のためのイスラエルの歴史と、イスラエル人たちの反応と心情が記述されています。その中には、全人類にも適用できる普遍的な教えがあり、最終的には全人類に及ぶべき教えがたくさん含まれていますが、直接的にはイスラエル民族に与えられたのです。そのイスラエル民族に与えられた律法と教導を、いま、天地の創造者についてまったく知らない日本人に、そのまま適用するのは致命的な間違いなのです。

 イギリスにはイギリス人のための法律があり、アメリカにはアメリカ人の法律があります。その中には、全人類にも適用できる普遍性を持った部分もたくさんあることでしょう。あるいは全人類に向けて語られていると、解釈できる部分さえあることでしょう。しかしそれらはあくまでもイギリス人への法律であり、アメリカ人への法律です。他国の人々に適用されてはならないものです。旧約聖書がイギリスやアメリカの法律と異なっているのは、初めから、世界の救いという前提のために書かれている点です。それでも、世界中の人間への法律と解釈してはならないのです。

全人類に共通の律法

 世界中の人々に対する共通の律法は、別にあります。モーセの律法よりもはるか昔に与えられた、「心に記されている律法」であり、「自分自身」と言われているものです。(ローマ2:14〜15) その律法が教えることは、全人類に普遍的に与えられているのです。世界中の人々は、心に記された律法によって、社会生活を営むようにされているのです。

 それは第一に、神を敬い尊び礼拝することです。第二に、人間同士が助け合いながら平和に生きることでした。これは文字で書かれた律法でも、もっとも大切な二つの教え、すなわち神を愛し人を愛することとして定められ、心に記されている律法を明確にし、補佐しているのです。(マタイ22:36〜40) 文字で書かれた律法も心に記された律法も、同じ神から与えられたものだからです。

 この心に記された律法があるため、たとえ罪によって神から隔離され、何代にもわたって神から離れた人間社会をめんめんと形成し、すっかり神のことが分からなくなってしまったとしても、人間は心の奥に本能的に宗教性を抱いているのです。だからこそ、人間の歴史が始まって以来、時や所を問わず、人種や文化にかかわらず、かならず宗教的思いの発露がありました。中には非常に堕落した宗教感覚もありますが、かなり純真な感覚が残っていることもあります。

心に記された律法をより純粋に保持している日本人

 日本人は特にこの純真な感覚に優れた民族の一つだと思います。目に見えず、耳に聞こえず、手で触れることもできないにもかかわらず、気高く尊く大きく優しく力強い存在を感じ、神や神々とは別の存在、別の神、神という言葉では表せない神として、密かに大切にしているのです。日本人の宗教感覚の優れた点は、日本人のこの礼拝対象にあります。日本人は目に見えない存在を目に見えないまま、目に見えないものとして礼拝しています。だから礼拝の対象を絵に描いたり像に刻んだりしません。(ローマ1:18〜32)

 あるいは、自分の礼拝する対象に無限の気高さを感じるために、有限の人間の知恵と言葉で、説明しようともしません。禅宗で不立文字(ふりゅうもんじ)が教えられる前から、日本人の宗教意識の最も奥深いところ、あるいは最も高いところにあった感覚が、まさに不立文字だったのです。すなわち、文字や言葉では表すことができない存在に対する、畏敬と感謝だったのです。日本人は文字で書かれた律法は知りませんが、心に記された律法を大切にして、より純粋な形で保持しているのです。

日本人の精神の土台・神道的感覚

 日本人の宗教は神道と仏教だと言われていますが、本来の日本人の心の故郷は仏教ではなく神道です。神道はまさに日本固有の宗教であり、日本人の宗教感覚の発露です。日本の文化習慣の中で、葬儀と親族関係にまつわることの多くは、仏教に取り仕切られていますが、精神文化全体はやはり神道的な感覚という土台に立つものです。

 この神道は、自分たちの礼拝対象を言葉では説明しないという、実に優れた一面を持ちながら、その美点のために多くの混乱ももたらしています。それは大きな神社に祀られる神々から、道端の小さな祠に祀られている神々に至るまで、あるいは天照大神から犬・猫・蛇の神々まで、さらにはさまざまな化け物や妖怪や魑魅魍魎に至るまで、雑多にまた混然と神あるいは神々という言葉で表現される、多神論的信仰体系となっているのです。ここに仏教が入ってきたとき、日本人は、苦も無くそれを自分たちの信仰の枠組みの中に、取り入れることが出来ました。仏教もまた、神道の要素を取り入れ神仏習合が進んで行きました。

 よく言われる「侘び寂の文化」も、ふつうに言われるような、仏教の背景を色濃く持つ茶の精神というよりも、もっともっと古くからあった日本人の神道的感覚が、そのような場で花開いたものだと考えます。侘び寂は仏教や茶道に固有というより、むしろ、日本人固有の感覚として定着しているからです。たとえば、現存する古い仏像の多くは、侘びとか寂に通じるものと言われていますが、それらの多くの元々の姿は、侘び寂とは程遠く金箔の輝くものでした。現代日本人の多くも、黄金色の眩い仏像よりくすんだ仏像を喜ぶ感覚を持っています。ところが今でも、新しく仏像を造るときには、金箔を貼るのが普通です。仏教そのものは、侘び寂ではないからです。金箔を貼ったり塗料を塗ったりしない自然な木目に、あるいは砂と土をざっくりと練り上げて素朴に焼いた磁器に、飾らない、手を加えない、そのままに残して説明しない、神道に通じる日本人的感覚が通るのです。

より高度な神道的感覚と通俗的な神道的感覚

 このような神道的感覚をきちっと整理して語るのは、困難を極めることでしょう。とは言え、これを大きく二つに分けることが可能だと考えます。ひとつは、見えない存在、聞こえない存在、絵でも像でも言葉でも説明もできない、気高い存在をそのまま崇める感覚です。もう一つは見えないまま、聞こえないまま、説明が出来ないままでは納得できない通俗的な心が、何とかして説明しようと試みて堕落してしまった感覚です。それが、様々な空想や恐れや人間社会の出来事と混ぜ合わされて、神話ができ、堕落した人間の臭気がふんぷんとする神々が、作り出されて行くことになったのです。

 難しいのは、この高い宗教感覚と通俗的宗教感覚が、少しの切れ目もなく、日本人の心の中で渾然と存在していることです。聖書の記述をもとに推察すると、高い神意識は、神をあくまでも目に見えないお方として偶像化しない、神に似せて作られた人間の本性をより強く残している部分です。通俗的神意識は、見えない神を何とかもっと具体的に感じることが出来るように、見える神にしたいという欲求によって、動物や植物、あるいは山や海、木や天体などに変えてしまった部分です。

 高度な神意識は、神を人間の思考や理論を超絶した存在として、言葉では表現できないと認め、何の説明もしないままに残しています。それをあえて説明しようとすると、通俗的な神道感覚になり、陳腐な擬人化された神話の創作が始まり、堕落した人間社会と変わらない神々の世界になってしまうのです。古事記や日本書紀に記された神話は、まさにそのようなものです。

神なんぞ存在しないという神道的感覚

 日本人の多くは、神なんて存在しないと言ってはばかりません。このとき彼らがいう神とは、この通俗的な低い神意識でいう神なのです。神なんていないと公言している同じ人たちが、宗教心を大切にして、決して宗教そのものを嘲笑しないのは、自分の中にある高い神道的神意識を、自覚しないままに感じているためです。日本人の多くは、たとえ唯物論者になったとても、このような高度な宗教感覚を否定しきれませんでした。神に似せて造られた人間には、神に似た霊的な姿が本能として残っていて、その本能が神道的表現として出てくるのです。

 日本人の宗教を多神教だという人たちは、この日本人の宗教感覚を理解していません。八百万の神々という言葉に象徴される多神教は、日本人の低級な宗教意識の反映で、まさに単に人間より強い存在、あるいは何らかの面で上の存在、すなわち何かにおいて優れた能力を持ったものたちの集合にすぎません。「神」とは上を意味する「かみ」から来たのです。それに対して、日本人の高い神意識は、目に見えず、耳に聞こえず、言葉でも表現できない気高い存在を感じて、良くは分からないままにもこの存在を大切にし、この存在に命をいただいている、生かしていただいている、必要なものすべてをいただいていると感じて、密かに感謝しているのです。

 とは言え、日本人の通俗的な神道感覚が、まったくの間違いなのではありません。ただ、「神」という言葉が混乱をもたらしているだけです。日本人は、神に似せて造られた人間としての本能によって、霊的次元を感じ取り、様々な霊的な存在を認めてきました。それらの霊的な存在を、神々という言葉で表現しただけの話で、ご自分を「ありてあるもの」と紹介してくださった神とは、まったく次元の異なった存在なのです。聖書を読むと、日本人が感じて来たこのような霊的世界が、聖書の中でも認められ、キリストも弟子たちも、それを前提として活動しておられたのです。特に、より明確な啓示である新約聖書では、日本人が神々と名付けたり精霊と呼んだりする存在は、悪霊とかみ使いとかいう表現で現わされている通りです。

 聖書を通してご自分を啓示して下さったお方、天地を創造し人間をお造りくださったお方は、本来の日本語では神ではないお方です。日本人が神と呼ばない、名前のないお方、姿も見えず声も聞こえないお方、心で感じ、畏敬の念を持って崇め感謝を捧げて来たお方こそ、聖書でご自分を啓示して下さったお方なのです。

情をお持ちになる方

 日本人はまた、この存在を、短なる宇宙の真理とか力とか定理とかいう、情を持たない冷たいものとして放っておかず、むしろ愛し憎みまた喜び悲しむ、意識と情を持った「お方」と認識したのです。とは言え、その情はべたべたとくっつく情ではなく、遠く離れながら決して離さず、幸せを願いすべての物事を整え、じっと暖かく見守っていてくださる情でした。まさにそれは、罪を犯した人間を追放しながら完全に無縁にならず、ずっと支え続けて救いの道を準備して下さった、天地の創造者であるお方を思わせるものです。一羽の雀が、地に落ちて死ぬこともご存知の上で、許しておられるお方です。

 これは豊かで温和な自然環境に恵まれ、他の民族に蹂躙されることもなかった日本で、多くの人々が普通に思い描く気高い存在です。この優しく包み込む自然は、優しく包み込む気高く尊い存在を想い起こさせたのです。険しく厳しい自然環境の中で、多くの異民族との戦いに継ぐ戦いの中で生き、神の民にふさわしく成長すべく、試練と懲罰とをを受けながら不従順と反抗とをくり返し、長く過酷な星霜を過ごさなければならなかったイスラエル民族には、同じ神が恐ろしく峻厳な神と思われたことでしょう。

 その恐ろしい神のイメージを、「父」という優しい呼び方をもって、表現し直したのがキリストです。多くの日本人には、聖書に記されている父なる神という言い方が、あたかも厳しく恐ろしい神を表現しているかのように思われていますが、実はまったく反対で、「慈父のような神」という、優しさを現わした言葉なのです。有名な放蕩息子の譬えは、まさにそのような神のイメージを際立たせています。(ルカ15:11〜32)

 使徒パウロは、「アバ父」という特異な言い方で、慈愛に富む神を表現しました。(ローマ8:15)これはキリストが用いておられたアラム語の「父」、すなわち「アバ」と、新約聖書が書かれたギリシヤ語の「父」を、重ね合わせた表現です。また「アバ」には堅苦しい父のイメージがなく、日常生活の中で頻繁に使われていたもので、幼児語だったとも言われています。キリストが「父なる神」についてお語りになったとき、たぶん、この「アバ」という言葉をお用いになったのではないかと思われます。

母なる神としての創造者

 昔、ウーマンリブが盛んだったころ、「父なる神」は女性差別だと言われ、「母なる神」と翻訳された、「Mother Bible」なるものが出版されたと、噂で聞いたことがあります。本当にそんな聖書が出されたのかどうか、興味もないので調べたこともありませんが、ひとつはっきりさせておかなければならないのは、神に性別はなく、男でも女でもないということです。むしろ男の特性と女の特性を完全な形で兼ね備えておられるのが、私たちの神です。人間が神に似せて造られたというのは、一人の男が神に似せて造られたのでも、一人の女が神に似せて造られたのでもなく、男と女が一つとされて、神のイメージをよりまどかに現わすものとされたのだと思います。(創世記1:26)

 父のイメージが強く表れている旧約聖書の神にも、母のイメージを被せられた表現も出てきます。旧約聖書の時代から、神の優しさ、愛情の深さは、母のイメージで表現されていたのです。(イザヤ66:12〜13)また、父と母が並列されて、人間に対する神の愛情の深さが語られた場合もあります。(詩27:10) 「たとえ、女が自分の乳飲み子を忘れても、神はお忘れにならない」というよく知られた表現でも、神の中の母のイメージが強調されています。(イザヤ49:15)

 優しく穏やかな恵み深い自然に囲まれ、その中に神的なものを認めて来た日本人は、たしかにその自然と重ね合わせた神感覚を抱いています。母なる大地という言葉と母なる神という感覚が重なるのです。しかし、もしも私たちが、聖書にご自分を啓示しておられるお方を正しく認識するならば、このお方こそ、まさに母なる神でもあられるのです。

日本人が求めている神・聖書の神

 日本人は情緒的な民族です。もちろん法律も契約も存在しますし、それら高く掲げてもいます。日本は法治国家だからです。それでいながら、情による超法的な判断や判決も受け入れられています。特に日常的な事柄においては、法だとか正義だとかいうものを前面に出し、振り回し、杓子定規に考える人間を軽蔑する傾向があります。三方一両損のような大岡裁きに人気があるのです。日本人の特徴はその情にあります。情の分からない人間は人間として未熟です。酸いも甘いも嚙み分けるのが、大人の人間だと考えられるのです。

 その点、西欧から来たキリスト教の神は、日本人の肌に合わないのです。なんでも白黒で決着をつけたがるからです。正義が重んじられ、正直が尊ばれ、嘘が憎まれます。「ハイはハイ。イイエはイイエ」というキリストの教えが、おかしく理解されて適用されています。間違って貼り付けられた旧約聖書の父なる神のイメージが、日本人に嫌われるのです。ところが、聖書の神は西欧から来たキリスト教の神とは、別の顔を持っています。

 聖書の神は、「犠牲よりも憐れみ」を好まれる神です。(マタイ12:7) 厳格な律法の適用よりも、情けを大切にされるのです。西欧的キリスト教徒は認めたくないと思いますが、神は、嘘さえお用いになっています。聖書の中には、嘘をついた人間がその嘘のために神から祝福を受けた例が、いくつも記されていまし、キリストも嘘をついています。父なる神ご自身が、罪を犯した人間は必ず死ぬと宣言されても、その人が悔い改めるならば生きるとおっしゃり、嘘をひとつのレトリックとして用いておられるのです。その嘘を単なる嘘としてではなく、神の愛の情の発露として用いておられるのです。

 贖いのみ業自体が、愛という情のために起こった出来事です。正義を貫くだけならば、十字架は不要です。正義を犠牲にしないで、愛を貫くために贖いが遂行されたのです。放蕩息子の父親は、正義を執行しなかったばかりか、正義の正論を吐いた長男をたしなめています。姦淫の場で捕えられた女を、イエス様は石打ちにすることを望まれませんでした。大岡裁きは三方一両損ですが、神の裁きは、神だけが大損をするキリストの十字架の死でした。

 日本人に福音を語るとき、日本人が知らない文字で書かれた律法を通して語るのではなく、日本人の心にも書かれている律法を通して語るべきです。日本人を偶像礼拝の罪人と見るのではなく、見えない神を見えないままに礼拝している人々と理解して、私たちもまた、見えない神を見えないままに礼拝している、同じ人間であることを語るべきです。確かに、日本人も偶像礼拝の要素をたくさん持っています。しかしそれらの偶像のほとんどは、見えない神、真実の神を偶像化したものではなく、「神々」という全く異なる次元のものの、可視化に過ぎないことを知らなければなりません。

偶像と依代(よりしろ)

 日本人は神社を建て、ご神体と呼ばれるものを祀り、それらに向かって礼拝(らいはい)します。表面的に見るとこれは偶像礼拝だと思われます。しかし、日本人が神社に参拝するとき、決して偶像を拝んでいるのではないのです。伊勢神宮に参拝した西行法師が礼拝したのは、神宮が祀る天照大神でも、その偶像でもありません。神宮に偶像はないのです。また彼は真言宗の僧侶でしたが、ここで彼が感じ拝んだのは、仏でもなかったわけです。彼は、「どのような方か分からないお方」を、「なにごとのおはしますかはしらねども」と言って、礼拝しているのです。

 殆どの日本の神社には、ご神体という言葉はあっても、ご神体は実在しません。何かが置かれていたとしても、それはご神体ではありません。それは依代にすぎないのです。また神社自体が大きな依代なのです。依代という言葉がもうあまり使われなくなっていますので、説明が必要かもしれません。普通は霊的なものが宿るものという意味ですが、ここでは、「目に見えない、手で触れることもできない、言葉でも説明できない実体を象徴し、その象徴を通して実態を実感できるようにしたもの」という意味で用います。きわめて偶像に近い、類似した存在ですが、偶像にはなっていないのです。

 たいへん興味深いことに、徹底的に偶像礼拝を禁止したモーセの律法の中に、この依代が取り入れられ、定められているのです。それらの依代は神の臨在を示すものですが、神は遍在のお方であり、いつでも、どこにでもいらっしゃるお方ですから、私はここにいるなどと言わなくても良いお方のはずです。しかし、人間の弱さなどの要因に配慮して、神はご自分の臨在を示す依代をお与えになったのです。それはまず、会見の幕屋といわれる天幕であり、それが固定化した神殿です。ソロモンは神殿を建て終わったときに、「神はこのような建物にはお住みにならない」と、まるで神殿の価値を損なうようなことを言っています。しかし、神殿は神の臨在を象徴し、人間にそれを思い起こさせる役割を果たしたのです。同時にまた、神は罪人と距離を置かれるということも示していました。

 神がお与えになった依代の、さらに顕著な例は、会見の幕屋の中でより強く神の臨在を示すといわれた聖所であり、その一部でさらに聖いといわれた至聖所であり、そこに安置されていた契約の箱です。契約の箱は神の箱とも呼ばれ、神の臨在を非常に強く示すものであり、不用意に取り扱うとたちまち死が待ち受けていました。(Uサムエル6:2〜11) その箱の中に収められていた三つの物、アロンの杖とマナと十戒が刻まれた石板も、神の臨在を強烈に示していました。モーセが「ありてある」お方にお会いした、あの燃える柴のあった土地も、燃える柴自体も、依代だったと考えられます。(出エジプト3:〜6)

 モーセの律法で認められ、イスラエルの歴史の中で重要な役割を果たしたこれらの依代は、偶像ではありませんでした。イスラエル人たちは、これらの依代に向かって礼拝をしたのですが、偶像ではなかったのです。ではなぜ、日本人の見えないお方に対する信仰心の表現である依代が、偶像として非難されなければならないのでしょう。むしろ、非難されてはならないものであり、大切にされるべきものではないでしょうか。

 私たちは、神社やその中に収められていることもある依代を糾弾するのではなく、むしろ、それらを通して見えないお方、「ありてある」と仰せられるお方について、お話しすることが出来るはずです。幕屋、聖所、至聖所、そしてそこに安置された契約の箱と、その中に収められた三つのものという、モーセの律法で定められた依代と、神道の依代に共通性を見て、そこから天地を創造されたお方について、話ができるのです。日本人は文字で書かれた律法を持たず、心に記された律法だけで、ここまでたどり着き、これほど真摯に見えないお方を崇めているのです。

万物に潜む唯一のお方

 日本人は、すべての自然物に、目に見えない霊的な存在が潜んでいると、感じています。被造物を通してご自分を現わしておられる、目に見えないお方を目に見えないままに感じて、目に見えないままに礼拝しているのです。(ローマ1:19〜20) それが低俗な信仰心になると、精霊や魑魅魍魎の類になってしまいますが、高度な信仰心では、目に見えない、大きく、気高いお方が、潜んでおられると感じています。しかも、いろいろな日本人と話してみると、この目に見えない気高いお方はたくさんいらっしゃるのではなく、お一人に違いないと感じている人が多いのです。この感覚をきちっと説明できる人に出会ったことはありませんが、多くの日本人はたくさんの神々ではなく、唯一の神を感じていると言って、間違いなさそうです。

 では、名だたる神社に祀られている有名な神々を、日本人はどのように理解しているのでしょう。これも定かな答えを得ることはできませんが、どうやら、それらの神々は唯一の神の象徴、あるいは権化(仏教の言葉ですが)、垂迹(本地垂迹の垂迹、仏が日本では神道の神として、仮の姿をとったという考え方の仮の姿)仮の姿、見えない存在者のある面を現わしたものなどと考えているようです。太陽を擬人化した天照大神は女神であって、まさに母なる神ですが、それは、あらゆる命と恵みの源である、見えない存在の性質を現わしたものです。日本人はあたかも太陽を礼拝しているように見えますが、それは物質としての太陽ではなく、太陽に現わされている見えないお方を礼拝しているのです。

 日本には八百万と言われる神々が存在します。しかし、それらは単なる「うえ」の存在であるという「かみ」に過ぎず、礼拝の対象ではありません。礼拝の対象は、目に見えない、気高く、尊く、恵みに溢れた、力強いお方であり、あらゆる命の源であられるお方なのです。ただ日本人は、ギリシヤ思考に影響された西欧のキリスト教徒たちとは違って、このお方を説明しようなどと思わず、神学を構築しようなどとも考えません。そのために、きわめて曖昧な意識に留まって、自分でも良く分からないまま、心に記された律法に頼って、感覚で礼拝をしているのです。

 日本人の礼拝を偶像礼拝だと言って非難せずに、むしろ日本人は、文字で書かれた律法で、改めて自己啓示をしてくださった天地創造の神を、心に記された律法に従って礼拝しているのであると、考えるのが良いと思います。私たちクリスチャンと同じ神を礼拝していると、理解するのです。もちろん、心に記された律法は文字で書かれた律法のような知的なものではありません。むしろ本能的感覚です。その中には、罪のために捻じ曲げられたり、壊れたりした部分もあることでしょう。理解不足のための間違いもあれば、欠陥もあることでしょう。しかし糾弾するのではなく、同調と同情を持って、日本人の信仰を受け入れてあげることができます。アテネの偶像礼拝者たちを前にして、パウロが取ったと同じアプローチをするのです。

 あとは、日本人が知らないで礼拝しているお方、本能で崇めているお方が、天地の創造者であると教えて上げるだけでいいのです。この天地の創造者が、万物を超越し、万物を貫き、万物の内に住み、万物を内に収めておられる方であると教えてあげるのです。(エペソ4:6、使途17:28)

罪と恥

 ルース・ベネディクトというアメリカの人文学者は、戦後まもなく出版した著書「菊と刀」の中で、人間関係をもっとも重要視している日本人は、恥の意識は強く持っているけれども、絶対者を信じていないために、罪の意識には欠けているというようなことを言っているそうです。日本に足を踏み入れたこともない人が、よくもここまで、日本文化と日本人の意識について分析できたものだと感心します。ただしこの分析は、キリスト教文化圏にいる人が、キリスト教的な判断をしただけで、正しいとは思えません。

 確かに日本人は、長い間、非常に強い定着文化の中に生きていたために、密接な人間関係の中で倫理観を育てて来ました。そこで互いの目を気にし合って、恥の感覚を増したことは充分に考えられます。それで、その人間関係の縛りが弱まると、「旅の恥はかき捨て」などということになるのも自然です。しかし日本人にも、強い罪意識があることを知らなければなりません。キリスト教文化の罪意識とは幾分異なっているとはいえ、罪意識がないというのは極めて乱暴です。

 アメリカの日曜学校で神様の絵を描かせたところ、子供の一人が、全身がたくさんの目で覆われている、翼を持った人間の姿を描いたという話を聞いたことがあります。神様の姿を描かせること自体が愚の骨頂ですが、キリスト教文化の罪意識は、いつでもどこでも見張っておられる、怖い神様の刑罰が恐ろしいという罪意識です。この神が定められた律法に違反してはならないのに、自分はどこかで違反してしまっているかもしれないという疑念です。

 ところが多くの日本人の罪意識は、怖い絶対者に対する恐れではありません。むしろ、自分自身に対する恥です。他人の目を恥じるよりも、自分自身に恥じるのです。自分自身の心に書かれている律法に恥じているのです。これを日本人は普通、良心に恥じると言います。これはとりもなおさず、心に記されている律法に照らし合わせて、自分は足りない、不足しているという感覚なのです。

 その感覚は、目に見えない気高く尊いお方を怖がることには、直接つながりません。日本人が感じているこの至高のお方は、罰するお方ではなくお赦しになるお方だと、感じられているからです。それでいながら日本人は、この目に見えないお方の前に出ることを恥じるのです。それは自分がこのお方にはふさわしくない、何かが不足している、欠けている、申し訳ないと本能的に感じるからです。自分の良心に、気高い方の姿を重ねているのです。

 だから、具体的にどのような罪があるから、どんな悪いことをしたからというよりも、自分はこのお方の前に出るにはふさわしくない、穢れた存在だと感じているのです。罪意識というよりは、穢れの意識と言うほうがよいかもしれません。これは律法を破ったからという恐れの罪意識よりも、ずっと深い罪意識です。

日本人の罪意識の高さ

 日本人の罪意識の高さは、その倫理観の高さに現れています。もちろん、悪い人間はどこにでもいます。日本も例外ではありません。それでも、落とした財布がかえって来る確立が、非常に高い国が日本です。犯罪率が異常に低い国が日本です。筆者はちゃらんぽらんな人間ですから、車のドアに鍵をかけることはまずありません。でも、盗難に遭ったことはありません。長く住んでいた「キリスト教国」を自認する国では、どんなに鍵をかけていても、幾度も盗難に遭いました。

 敗戦後、大陸から引き揚げてくる大勢の日本人たちを、船で運ぶ任務に就いたアメリカ兵たちは、極限状態の中でも老若男女が規律正しく行動する姿を見て、一様に驚嘆しまた賞賛しています。それと同じ精神が、東日本大震災のときにも、熊本大震災のときにも現れていました。同じような天災に傷つけられた国々に見られた、暴動や略奪はまったくなかったのです。警察どころか軍隊まで出動して、自動小銃を持って警護していても、あまりに多い暴徒や略奪者を前にして、何もすることができない海外の様子が、幾度も報道されていました。

 これは法律だとか刑罰の問題ではありません。人間としての行動の問題です。人間を尊び合い、愛し合い、助け合うという、心に記された律法に従っているのです。この事実を私たちが認め、日本人の中にしっかりと残っている、神の姿を認めて上げることが肝要です。

 聖書が教える罪を理解してもらう

 もちろん、すべての日本人にこのような感覚があるというのではありません。また、その感覚が恥の感覚よりも強いというのでもありません。ただ、日本人の罪意識は一般に、キリスト教文化の中で育った人たちの罪意識よりも強く、深いところにあるということです。なじみのない文字で書かれた律法をもってではなく、まず、心に書かれた律法という、全人類に共通の律法をもって接触するならば、日本人にも聖書の教えを理解してもらえるはずです。日本人の穢れの意識、あるいはふさわしくないという怖れの意識から、聖書が教える罪の自覚に導くのが、より効果的だと思います。

 日本人は強い穢れの意識をもっているために、神社の境内には必ずと言ってよいほど、清めのための水が置かれています。しかもその水が自分の穢れを完全に洗い流すとは感じられず、怖れとおののきをもって礼拝するのです。とはいえ、その穢れや罪の意識が希薄な日本人もたくさんいます。自分が犯した犯罪に対してきちっとした謝罪も償いもしないまま、勝手に禊(みそぎ)をすませ、水に流してしまうところは、大いに糾弾されるべきだと考えます。日本人には強い罪意識と共に、人間は罪を糾弾し尽くすのではなく、赦すことも知らなければならないという温和な集団主義と、恵み深い母なる神は赦してくださるにちがいないという、甘えがあるのです。その甘えを通して、徹頭徹尾お赦しになる神について語ることも可能です。

 ただ少なからず心配なのは、聖書が教える罪についての教えを、浅くしか理解していないクリスチャンが多いことです。教える宣教師や牧師の理解が、アメリカの日曜学校レベルなのかも知れません。それでは、到底、正しい罪の自覚に導くことはできません。神はイスラエル人に罪の自覚を持たせようと、ずいぶん苦労されました。キリストもユダヤ人たちに罪の自覚を持たせよとして、逆に憎まれています。日本人に罪の自覚を持たせるのは、それほど難しいとは思えません。

恩知らず・不孝と不義理

 日本人は、恵み深い母なる神を感じながら生きて来ました。しかしその神意識が、あまりにも薄くぼんやりとしているために、果たしてその恵みに充分な感謝を捧げてきただろうかと、不安に思うところもあります。

 人の恩に報いなければ、恩知らずと罵られます。苦労して育ててくれた親に感謝して大切にしなければ、親不孝と叱られます。日ごろの親切にお返しをしなければ、不義理を重ねていると批判されます。現代では少しずつ薄れているかもしれませんが、まだまだ多くの日本人に残っている大切な感覚です。

 では私たちは、目に見えない恵み深いお方に、その恵みと祝福にふさわしい感謝を捧げ、きちっとお礼をしてきたでしょうか。このお方のことが良く分からないこととあいまって、感謝もお礼もおろそかにしてきたというのが実感です。目に見えなく気高く恵み深いお方に対して、恩知らずな態度をとって、不孝や不義理を続けているという事実に気づいてもらい、申し訳ないという気持ちを強くしてもらうと、罪というものを律法と違反の関係としてではなく、神と人との間の問題、人間関係と同じ「道義の問題」として理解してもらえるはずです。

 罪というのは、本来、律法に対する違反ではなく、人間関係の道義に反することなのです。その道義に反することを具体的に表わしたのが律法です。まだまだ律法にはされていなくても、道義に反することはたくさんあります。時々間違って、法律に反していないから罪ではないと主張する人が・・・特に政治家たちの間にたくさんいます。たしかに法律に違反していないから、法律上は犯罪ではありませんが、道義に反しているならば罪なのです。

 気高く尊く恵みあふれるお方に対して、道義に反したことをしていたならば、文字で書かれた律法には明文化されていなくても、罪なのです。神の聖く正しい性質と愛の性質、そして感謝と礼拝を求める至高の性質に反しているならば、それは罪なのです。そのことは、たとえ文字では書かれていなくても、心に書かれた律法が教えてくれます。こうして罪の自覚に到達すると、当然、このような自分が、どうして聖く気高いお方に近づくことができるか、正しくふさわしい礼拝を捧げることができるかという、重要な問題に行き当たるのです。

救い主

 ここに至ってはじめて、神の赦しのご計画、救いのみ業について、意義深く話すことが出来るようになります。救い主の話も、十字架の話も、信仰による義も、悔い改めも、神が罪人を赦し、ご自分のみ許に引き寄せるためのものであると、感動的な愛の福音として語ることができるのです。造り主であるお方に対する感謝に溢れ、自分の罪意識がはっきりして、初めて十字架が感動的な愛の物語となるのです。文字で書かれた律法によって育てられていない日本人には、永遠の滅びの脅しと共に十字架を語っても、受け入れられることはまずありません。スポルジョンという稀代の名説教家は、「地獄の火の裁きの恐ろしさに、震え上がるような説教をせよ」と語ったそうですが、イギリスでの効果を日本で期待しても無理な話です。

 文字で書かれた律法によって救い主の到来を約束され、何世紀にもわたって待ち続けていたユダヤ人にとって、救い主への信仰は当然の条件でした。また、この律法に続く新約聖書によって救い主キリストの到来と働き、さらにその働きの結果である代価なしの救い、すなわち、信仰による救いを教えられていた、プロテスタント・キリスト教文化の人々にとっては、キリストの贖いの働きに対する信仰が要求されるのも、自然のことです。

 そしてここで言われる信仰とは、むしろ「信頼」と言った方が良い、あるいは分かりやすい心の状態です。人々は単純にキリストに信頼することによって、救いを得ることが出来たのです。それこそパウロが徹底して主張した信仰による義であり、普遍的な福音、つまり、全世界の人々への福音でした。

 しかし、救い主について何の予備知識もない人々、文字で書かれた律法もそれに続く新約聖書も与えられていない日本人にとって、キリストへの信仰あるいは信頼は、非常につかみどころのないものです。日本人に福音を語るとき、キリストと十字架を最初に持ち出して、神の愛と救いから始めようとすると、大変困難なことになってしまいます。

 キリストの救いは行いによらないもの、代価によらないものです。ですからキリストの救いは、キリストの救いの神学を理解するという、「非常に困難な行い」によらないでも、得ることが出来るものであるはずです。そのような困難な行いを必要とさせないために、キリストは贖いを完成して下さったはずです。キリストの十字架による救いは、キリストの十字架による救いを知らなくても、理解できなくても得ることができるように、完遂されたものなのです。それでこそ、救い主です。

アブラハムの信仰

 パウロは、キリストへの信仰による救いを論証しているとき、突然、アブラハムが信仰によって義とされたという創世記の記述を持ち出して、自分の神学の正当性を主張しました。(ローマ4:1〜13、ガラテヤ3:6) パウロは、何の困難も感じないで、キリストへの信仰を、神への信仰に変えてしまったのです。キリストの出現よりも20世紀も前に生きたアブラハムは、キリストのキの字も知りませんでした。十字架についてもまったく無知でした。しかし、彼もキリストの贖いのみ業のゆえに、義とされることが出来たのです。アブラハムだけではなく、モーセやダビデをはじめとする旧訳時代の義人たちは、みな、キリストを知らないまま、キリストの十字架のゆえに救われているのです。彼らはキリストではなく、神に対する信頼によって、キリストの救いを獲得したのです。

 では私たち、律法を持たない日本人はどうでしょう。キリストすなわち救い主について、何の予備知識も与えられていないまま、キリストを信じなさいと言われても、無理な話です。日本人は、キリストを信じる前に、天地の創造者であるお方を、はっきりと認識する必要があるのです。そしてそのお方をしっかりと認め、そのお方を信頼することによって、日本人もアブラハムやダビデのように、そのお方が準備して下さったキリストの救いを得ることが出来るはずです。

いつ救われるのか

 アブラハムが義とされたと記述されている出来事には、アブラハムの罪の悔い改めも、罪の告白も、信仰告白さえもありませんでした。義とされた信仰自体が、救いに対する信仰ではありません。救いなどという言葉は、アブラハムには何の意味もありませんでした。アブラハムの信仰は、単なる、そして純真な意味での神への信頼です。神がおっしゃる通り、自分は年老いていても世継ぎの子供を持ち、その子供から子孫が増えて夜空の星の数ほどになる、神がそのように約束して下さるなら、そのようになると信じただけです。

 しかもその信仰は、堅く揺るぎのないものではありませんでした。神の約束の成就を待ちきれず、妻サライの言葉に乗って、エジプト人の召使との間に、子供をもうけてしまった通りです。それでも、パウロはアブラハムの信仰を強調し、その信仰は「堅く、 弱らなかった」と言っています。(ローマ4:18〜22) またへブル人への手紙の著者は、アブラハムだけではなく、妻サライの信仰さえ模範として引き出しています。(へブル11:11) 神はそれほど不確実な信仰さえ、義とするのに充分だと認めてくださり、パウロに「堅く、弱らなかった」とあえて言わせてくださったのです。そして、実際にアブラハムは信じ続けたのです。ただその信仰は、現代のプロテスタント信仰を教えられた私たちが見ると、はなはだ不確実なところもあったということです。それだけ、プロテスタント信仰は厳しいということです。

 アブラハムの信仰には波がありました。強くなったときも、弱くなったときもあったのです。しかもアブラハムが信仰を認められたのは、子供を与えるとおっしゃった神を信じた時、その瞬間ではありませんでした。アブラハムの信仰は、相続地を目指して旅を始めた時から、ずっと継続していたのであって、(へブル11:7〜12)「義と認められた」と言われたときは、彼の信仰態度がそこで改めて確認されたに過ぎないのです。ですから、ヤコブは信仰には行動が伴うことを強調して、アブラハムが義とされたのはイサクを捧げた時であると言えたのです。(ヤコブ2:21〜24) 厳格な聖書釈義によると、アブラハムは二度も義とされたことになってしまいます。

 私たちは、キリストの十字架の贖いを信じて罪を告白した時に救われるという、西欧プロテスタントの福音主義的伝統から脱却しなければなりません。いつ救われるのかというのは、人間が判断することではありません。信仰は一瞬の出来事であると同時に、継続的な心の変化でもあるのです。どこかの一瞬に凝縮される表現があったとしても、それだけを強調してはならないものです。

 私たちは、文字で書かれた律法を持たない日本人が、救われるにふさわしい信仰を持つにいたる道のりは、西欧キリスト教国の人々よりかなり長くなることを知っています。また、義と認められる瞬間がどこにあるか、充分に説明することはできません。天と地をお造りになったお方を認めて、そのお方に感謝し信頼を寄せたとき、つまり、アブラハムのような信仰を持ったときか、あるいは自分たちの感謝が足りず、不孝・不義理の罪を犯していたと気づき、お詫びを申し上げたときか、はたまた、キリストを通しての神の救いのご計画を知り、キリストが成し遂げてくださった十字架の贖いの御業を知り、感謝と悔い改めをもってキリストを救い主として信じたときか、大いに考える余地のあるところです。

誰を信じるのか

 ところが現実には、ほとんど何の考察も議論もないまま、キリストを信じる信仰が強調され、キリストを最初に語らなければ、正しい伝道ではないかのような感覚があるのです。筆者は、日本人が救われるために必要なのは、アブラハムのような信仰で良いのだと考えています。私たちがキリストを信じているか、十字架の贖いを理解しているかは問われないのです。そういうことが問われなくても良いように、キリストの完全な贖いのみ業が成し遂げられたのです。問われるのは、天地を創造し、人間を造り、生かし養っていてくださる神を信頼するかどうかです。その神は、キリストを通しての贖いを計画し、十字架をもってそのご計画を完遂して下さったほど、私たちを愛してくださるお方なのです。

 乳房にむしゃぶりつこうとする赤子に対して、自分の命を危険に晒して出産した母親が、自分の苦労と苦しみと決断の美しい話を理解しなければ、乳を与えないなどと言うことはありません。そんなことは、本来、子供が知らなくてもいいのです。子供は乳を飲み、愛を感じ、感謝と喜びを持って生きればそれで良いのです。母親は子供の知識に応えるのではなく、子供の信頼に応えるのです。信頼を得るだけで母親は満足なのです。もちろん、理解力ができてから母親の出産にまつわる話を聞けば、感謝と愛とがますます強くなり、母子の絆はいよいよ強くなることでしょう。

 文字で書かれた律法を持っていたイスラエル人が、キリストに対する信仰を問われたのは当然です。でもイスラエル民族の父であったアブラハムは、まだ律法を与えられていなかったとき、すなわち、異邦人と同じ立場にあったとき、天地創造の神だけを信頼して義とされたのです。しかもアブラハムは、天地創造の神が唯一絶対の神だとは、まだ理解していなかったように思われます。多くの神々の中で、最も力ある神であり、また信頼に足りる神であることを感じて、・・・学問的に比較宗教のリサーチをして理解したのではなく、体験を通して実感して、信頼したのです。

おわりに・日本人には日本人に適した福音の伝え方を

 私たちは、異邦人である日本人に対して、イスラエル人に対するような福音の伝え方をしてきました。また、西欧キリスト教文化に生まれ育った人たちに対する、伝統的な伝道の仕方を真似て、長い間くり返してきました。現在も、懲りずにくり返しています。まったく事情の異なる諸外国からの、成功した伝道者や牧師を招いて、一所懸命に彼らから学ぼうとしています。その努力は認めますが、何かが欠けています。

 高カロリーの食べ物でも、幼児には幼児にふさわしい調理をして与えます。老人には老人に喜んでもらえ、食べやすく消化しやすく、しかも栄養過多にならないように、料理に気を配ります。聖書を学び神学を学ぶことは大切です。しかし、その知識をどのように伝えるかによって、その学びを生かしも殺します。どのように伝えるべきかは、伝える相手を理解しなければ、知ることが出来ません。

 私たちは、私たちが福音を伝える相手、私たちの同胞、異邦人である日本人を理解しているでしょうか。その宗教性、信仰の感覚、霊的本能とその発露を、理解しようとして来たでしょうか。私たちは日本人だから、日本人を知っていると思い込んではいないでしょうか。あるいは、日本人も西欧人もアジア人もみな同じ人間だ、同じ罪人だと、大雑把に、いわゆる十把一絡げで対処して来たのではないでしょうか。

 そのような伝道方法でも、通用した民族もたくさんあります。日本人も、カトリックが入ってきたときの精神状態は、まだそれでもある程度通用したと思われます。またその時のカトリックの伝道は、主にイエズス会の融和的な伝道方法であったことも、大いに関係があるでしょう。しかし、現在はその時代と違います。カトリックの侵入に対して、仏教を用いた防御対策が国策として採られ、明治の開国時には、国家神道によって、新旧キリスト教に対する防御政策が敷かれました。その影響は、知ると知らないにかかわらず、現代の日本人の心にも色濃く沁み込んでいます。

 第二次世界大戦の後、マッカーサーによって実行されたアメリカの支配によって、キリスト教への期待、あるいは好感度はかなり上昇し、一時的に伝道がしやすい時期が訪れました。しかしその好感度は、ベトナム戦争におけるアメリカの理不尽さを見せられ、下降し続けています。さらにコミュニケーションや情報が格段に容易になって、アメリカをはじめとする西欧キリスト教文化にある国々の、身勝手さや醜さを知ることが出来るようになった現在、昭和20年代、あるいは30年代の伝道のしやすさは、もう日本にはないのです。

 いま私たちに必要なことは、福音を語る対象をしっかり学び、その対象にふさわしく福音を語ることです。日本人が福音だと感じるように、福音を語らなければなりません。その時に必要なのは、文字で書かれた律法を通して福音を語るのではなく、心に書かれた普遍的な律法を用いて、充分に天地の造り主、「ありてある」とおっしゃるお方を知ってもらい、そのお方に対する信頼を築けるようにしてあげることです。そのあとに、キリストの十字架をお話ししてあげるならば、文字で書かれた律法を持たない異邦人の日本人にも、福音が福音として伝わるのではないかと考えるのです。

 筆者はここ10年以上、このようなことを考え続け、折に触れて文章でも著して来ました。そして1年半ほど前から、実際に、このような方法で個人伝道を試みる機会がありました。その結果、80歳ほどの老夫婦が、困難な理屈のつまずきを体験することなく、素直に神を信じ、贖い主であるキリストを信じることができ、昨年の暮れには二人そろって洗礼を受けました。年齢のために、滴礼でしたが、私が薦めたのではなく、本人たちが強く望んだのです。夫はそれからわずか3ヶ月で、平安のうちに召されて行きました。

 この伝道法で救われた女性がもう一人います。不治の病のために入退院をくり返し、傍目から見ると悲惨な状態ですが、彼女も週一回、数ヶ月の短い訪問の結果、自分が幼いときから感じてきた、目に見えない尊いお方が天地を創造された神であると認め、「天地をお造りになった神様」と祈るようになりました。それから自分の恩知らず、不孝・不義理の罪を認め、悔い改め、救い主イエスの十字架に感謝するようになるまでは、ほんのわずかの期間でした。彼女への伝道の記録は、「私の個人伝道」という文章で、ブログ上で紹介していますので、お読みくだされば幸いです。






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2016年04月17日

心に書かれた律法と文字で書かれた律法

心に書かれた律法と文字で書かれた律法


                    2016年4月17日
                                   佐々木正明


 多くの動物には本能があります。誰も教えていないのに、生まれながらに持っている様々な能力や知識です。小さな鳥や昆虫が集団で何千キロメートルも危険な旅をして、間違いなく越冬地や繁殖地に到着するのも不思議です。小さな蝶がまだ幼虫の時には蟻の巣に運ばれ、蟻に餌をもらって蟻の好む甘い汁を出すことによって共生し、蟻に食べられてしまう危険がある成虫になる瞬間は、上手に蟻から離れて羽化するところなど、その賢さにおどろかされます。これ以外にも、多くの昆虫や生物は、生存し続けるための驚くような知恵を蓄え、とても人間の及ぶところではありません。その本能がなかったら、彼らは一瞬たりとも生き延びることはできません。

 この本能は動物たちが生きて行くためには絶対に必要なものとして、それぞれに、神がお与えになったものです。万物の創造神を信じることが出来ない進化論の説明では、決して納得が行くものではありません。何世代にもわたって修得するなどと言うことは、あり得ないと昔から証明されているからです。

 人間にも本能が与えられています。動物的な本能というか、他の動物が持っているものと同じ性質のものもあります。たとえば、哺乳動物として生まれてすぐに、誰にも教えられなくても母親の乳首をさがし、それを口に含みます。乳の吸い方も、誰に倣う必要もありません。お腹がいっぱいになると眠ります。

 高等動物になるほど、本能的な知識が少なくなり、後天的な習得による知識や能力が多くなります。狼もトラも、親から餌を確保する知恵と技術を学ばなければなりません。最も高等な動物である人間には、生きて行くための基本的な本能はごくわずかで、必要な多くのことは、後天的な経験や教育で修得されて行きます。

 神様は人間をお造りになるとき、特別に、人間だけに、神様に似た性質を与えてくださいました。それが人間の本能的部分の多くを形成して、人間を他の動物たちとは異なった生き物にしています。この人間に与えられた、他の動物には与えられていない本能、人間の人間たる基本的姿ともいうべきものが、パウロの言う「心に書かれている律法」です。(ロマ2:14〜15) 文字で書かれたてイスラエル民族に与えられた律法、すなわち旧約聖書ではない律法で、旧訳聖書を持たない人々にも与えられている律法です。これは人間が造られたときに与えられたもので、人間がどのように生きるべきかと言うことを、理屈ではなく、本能として与えられているもので、イスラエル人に与えられた律法よりも、ずっと先に与えられたものです。

 この心の律法には、人間が造り主である神を感じ、神を敬い、神と語らう祈りの気持ちが与えられています。それから、神に似たあらゆる良い性質が与えられています。愛、思いやり、情け、正義、平等、平和、聖さ、正直など、凡そ思いつくすべての良い性質が本能として与えられ、人間はこれらの本能を心の律法として駆使して、共に生きるべきでした。

 モーセを通してイスラエルに与えられた、文字で書かれた律法は、罪を犯して神から離れ、悪魔の支配する世界で滅びの生活し、やがては望みのない完全な滅びに陥らなければならない、過酷な宿命にある人間を憐れみ、神様が救いの道を教えるためにお与えになったものです。心の律法は、人間が人間として人間らしく生きるための本能であって、神様の美しい性質が写し与えられています。しかし、モーセを通して文字で書かれて与えられた律法は、滅びに陥った人間、悪魔に捕えられた人間を、悪魔から解放し、滅びから救い出すための、神の計画と実行が記されています。

 文字で書かれた律法も心に書かれた律法も、同じ神から与えられたものであり、本質は同じです。しかし、目的が明らかに違うのです。モーセの律法は、人類を滅亡から救うために、その器としてあるいは手段としてお選びになった、イスラエルという民族に与えられたのです。彼らがより良く神を理解し、神の御心とご計画を知り、神がやがてお送りになる救い主を迎え入れるために、そして救い主がその救いの働きをやり遂げるために、ふさわしい民族となるための、教育の書物、指導の書物だからです。

 くり返し神を裏切る堕落しきった民族を、神の器である民族に教導するために、旧訳聖書には、特殊な教えや特殊な取り扱いがたくさん書かれています。それは、同じ神がお与えになった心の律法とは、随分異なっているようにさえ思えます。普段は優しい父親が、悪いことをしてもそれを認めず、謝りもしない子供に対して、正しく教導するために非常に厳しく接するようなものです。父親が変わったのではなく、状況が変わったのです。

 すべての異邦人は、モーセを通して与えられた、文字で記された律法こそ所持していませんが、生活のための律法である心に書かれた律法は持っています。そしてこの心の律法の方が、文字で記された律法より先に与えられ、効力を発揮していました。モーセの律法さえ、この心の律法の選択にかかっていた、その判断にゆだねられていたのです。心の律法がなくては、モーセの律法さえ機能しないと言うことです。心に記された律法は人間が生きるべき基本を教えるものであり、文字で書かれた律法は、罪のために滅びに陥った人間が、いかにして救いを得ることが出来るかと言うことを教えたもので、機能、目的が違うのです。

 モーセの律法はしばしば、心の律法に訴えています。心の律法が機能していないのでは、モーセの律法も意味を持たないからです。心の律法の大切さについては、パウロも言及して語っています。「兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と呼ばれること、賞賛にあたいすることがあるならば、そのようなことに心を止めなさい」。(ピリピ4:8)パウロはイスラエル人以外の人々のあいだでも、さまざまな素晴らしい徳があることを認めて、それらを心にとめることを勧めました。

 キリストの教えの特徴、はその天真爛漫さにあると言った人がいますが、そのキリストの天真爛漫な教えの元は、モーセの律法に根差すと言うよりは、人間性の奥底に根付かせられている原則的な律法によるもとのと言えます。「空の鳥を見なさい。野の花を見なさ」などは、その最たるものです。

 私たちは心に記された律法と文字で記された律法の違い、目的と性質をはっきりと理解し、共に尊重しなければなりません。人間として人間らしく生きる原則は、本来モーセによる律法で学ぶべきではありません。モーセの律法の目的は、人類の救いです。しかしその中に、廃頽した人間の本性を矯正するような、補強の律法もふくまれているのです。モーセの律法でも最も大切な戒めとされている、神を愛し、他人を愛することなどは、まさにその例の一つです。イスラエル民族が、救い主を迎えるために、道徳的にも倫理的にもそれにふさわしい民族になるように、心に書かれた全人類に共通な律法が、改めて強調されたのです。

 しかし一方では、堕落した人類の中からイスラエルと言う民族を選び、これを教育指導していく働きは、困難を極めました。そういう特殊状況の中で、ときには、心に記された律法に反することも、行われなければなりませんでした。他民族との結婚が禁じられ、戦争が正当化され、場合によっては殺人も許されています。これは本来の人間性に反すること、すなわち、心に記された律法に反することです。しかし実際問題として、堕落して罪に縛られた人間たちが、民族を造り、国家を建てて隣接して生きなければならない中では、避け得ないのが実情です。

 問題はこのような特殊性を取り上げて、神は戦争を許している、殺人も許容していると言い出すことです。クリスチャンと言われる人たちの多くも、戦争や殺人は、本来許されるべきではないと考えていますが、実際は、神も許しておられるではないかと、自分たちの戦争や殺人を正当化しています。そして他宗教を迫害したり、弱い民族や国家に侵略したりしながら、植民地化を推し進め搾取と大量虐殺を続けていました。

 そのような西欧のキリスト教の流れの中で、「それは違うのじゃないか、間違っているのではないか」と、考え始めるクリスチャンたちがいました。彼らは、聖書の中に、特にキリストの天真爛漫な教えの中にある、基本的な人間性を大切にする教え、いわゆる、ヒューマニスティックな部分、人道主義的な部分に共感しました。自分たちの中にある心に記された律法に共鳴することを見つけ出したのです。当然と言えば当然なのですが、それらのクリスチャンの多くは、聖書が誤りのない神の言葉であることに、疑問を挟む傾向にありました。旧約聖書の特殊性を理解しなかった彼らは、聖書さえ、心の律法で取捨選択されるべきだと感じたのです。

 ところが、聖書は一点一画も誤りのない神の言葉だと信じる人々は、どちらかと言うと、心の律法、あるいはそこから派生する良心の叫びに耳を傾けるよりは、聖書の記述が神の言葉であり、その中にこそ、神の御心が明らかに示されていると考えました。すると、特定の状況の中では戦争も正当化され、殺人も許されることになってしまいます。そして悪いことに、その特定の状況を、自分たちに都合が良いように拡大して考えるようになって行くのです。古くは神の名によって行われた十字軍が良い例です。記憶にまだ新しいのは、神の名によって正当化されたベトナム戦争です。

 日本人は文字で書かれた律法を持っていません。心に記された律法を持っているだけです。日本人もたくさんの戦(いくさ)をくり返し、他民族との戦争も経験してきました。その中には多くの我田引水、自分勝手、我欲、その他の悪が紛れ混んでいたのも事実です。しかし、四つの海を国境としていた日本は、他民族との戦争をほとんど経験していないせいか、西欧キリスト教諸国のような、好戦的な民族、あるいは国家とはなりませんでした。彼らのような魂胆を持って他民族や国家を侵略し、その富を奪い、人種的差別を前面に押し立てて、虐殺をほしいままにするようなことは、滅多に行っていないのです。

 例外と思われる中国への侵略さえも、西欧キリスト教諸国の植民地政策に、後れを取ってはならないと始めたもので、実際のところ、バスに乗り遅れたのであり、日本軍の残虐行為と責められているものも、ほとんどは軍として組織的に行ったものではなく、規律を外れた散発的なものであり、戦争にはありがちなことでした。戦後のマッカーサーの支配の下で、勝者による勝者のための偏向教育を受け、残虐非道な日本というイメージを植え付けられて来た私たちも、そろそろ真実に気づくべきときだと思います。私たちは、アメリカに都合が良い日本になるように、作り上げられた歴史を教えられてきたのです。

 そのようなキリスト教国を嫌い、また恐れて、徳川幕府はキリスト教を弾圧し、外国との交渉を禁止しました。それから250年ほどもたって明治に入るときも、植民地政策の鼻息をますます荒くして、日本に接近してきた西欧キリスト教諸国を日本は嫌いました。嫌ったけれどもその力に抗しきれず、日本はついに国を開き、続いてこれも力に屈して信教の自由を認め、さらに続いてキリスト教の自由も認めました。ただ、日本の為政者たちは、流血や虐殺をいとわず武力で制覇する、西欧植民地主義の精神的支柱であるキリスト教だけは、何としても阻止しようと考えたのです。

 そのためにやったことが、血なまぐさいキリスト教に代えて、日本の精神的支柱になり得ると判断した国家神道を取り入れることでした。キリスト教の布教は、列強の圧迫によって許さざるを得なかったけれど、なんとかキリスト教の侵入は阻止しようと試みたのです。国家神道を、仏教とキリスト教の上にある「宗教ではない宗教」として祀りこれに国体を守るための祭儀を執り行わせ、キリスト教の勢いを抑えながら富国強兵を勧め、西欧キリスト教列強国と肩を並べようとしたのです。

 このころ、日本の指導者たちのキリスト教に対する思いには、相反するものがありました。一つは、西欧植民地主義国家の血塗られた宗教と言う好ましくない一面、もう一つは進んだ西欧諸国家の美しい精神文化という一面です。実際キリスト教の中にあった博愛、平等、教育、医療などについては、多くの有能な日本人たちが強い憧憬を寄せ、キリスト教を積極的に取り入れようとさえしました。

 確かにキリスト教には、この二つの相反するものが共に強く混在しています。どちらもキリスト教なのです。そのキリスト教を、いま筆者が語っている、文字で書かれた律法と心で書かれた律法という視点で見ると、だいぶ見渡しが良くなると思います。旧約聖書、つまり文字で書かれた律法を強調し、これをイスラエル民族という特殊な民族の特異な必要性のために与えられたものと理解せずに、全人類に適用しようとすると、血なまぐさく好戦的な侵略者国家の宗教となり、心に記された文字によらない律法を強く意識して聖書を理解している人は、愛と、憐れみに満ち、平等を好み、平和を愛し、争いを憎むキリスト教徒になると言うことです。

 すでに触れましたが、心に記された神の律法を強く意識しているクリスチャンは、どうしても、聖書をそのまま神の言葉として受け入れることが出来ない、人道主義的傾向に陥ります。旧約聖書の教えが、自分の心の倫理と合わない、自分の心の宗教と合わないと感じて、聖書の記述や教えを素直に神からのものと受け取ることが出来ないのです。それは、いま筆者が論じている、文字で書かれた律法と心に記されている律法について、考えてもみなかったためでもあります。

 このようなクリスチャンが、今、西欧ではどんどん増えて、結果として教会離れ、あるいは世俗化と言われる現象が、雪崩のように起こっていると言われています。そして、その人たちは容易に、世界中の良心的な人たち、あるいは自分の心の奥深くの要求、つまり神の姿の写しである麗しい本能の要求に敏感な人たちと心を繋ぎ、行動を共にすることが出来るようになっているのです。この世界中の良心的な人々は、決して、「心に記されている律法」という聖書の教えに気づいているわけではありません。ただ、自分の本能の欲求、あるいは人間性の要求に反応しているだけで、ヒューマニズムなのです。

 この心の欲求、本能的な要求の強弱は異なりますが、無神論者にも、共産主義者にも、回教徒にも、仏教徒にも、神道を奉じる人にも、どんな宗教を奉じる人にも必ず存在します。ところが、これらの人々が自分の麗しい本能の声に従い、一致して美しいことをやり遂げることは非常に難しいと言うより、事実上不可能です。それは、人間は自分の本能的感覚あるいは声に従って行動するより、自分の良心に従うことが多いためです。

 神に与えられた人間の本性は、生のままで、あるいはそのままで表現されることはまずありません。必ず、文化と言う環境に育てられ、影響されて、具体的に姿を現すのです。たとえ本質的な性質は同じでも、それぞれの文化土壌で発芽し形を現わすのです。それで、日本文化の中では日本的な良心が形成され、イタリヤではイタリヤ的な良心となります。キリスト教文化と言う中で生まれ育つと、キリスト教文化的な良心を抱き、回教徒の中で成長すると、回教徒としての良心をもって行動するようになります。そして環境に影響されたそれらの良心は、互いに異なった判断となり、異なった行動となります。

 その異なった良心は、自分たちの良心の判断で、人間性が犠牲にされたと感じると怒り、不平等に扱われていると思うと憤るのです。その怒りや憤りの度合いや、それをどう表現するかもまた文化によって異なります。その怒りや憤りを受けた人たちの反応もまた、それぞれずいぶん異なります。何の憐れみも示さず、数百万人、数千万人の人々を滅ぼした植民地主義者にも良心があり、善悪の判断がありました。自国の拡大と繁栄を願って覇権主義を続けている人たちにも、いままさに、非人道的で残酷なことを当然のように行っているISの人々にも、彼らの良心と善悪の判断があるのです。泥棒を生業にしている家族の中に生まれた子供は、泥棒の良心と倫理を持ち、正義を尊び追求する人々の中で教育を受けた人はまた、それなりの良心を持ちます。(パウロも、心に書かれた律法との関係で良心に言及していますが、残念ながら、理論は発展させられていません。)

 ともあれ、人間としての基本的な善性と言うものは共通ですが、それが表現されるときは、かなり異なったものとして、時にはあいするものとして出てくるために、人間はなかなか一つ思いになって協力したり、助け合ったりすることが出来ないのです。それにもかかわらず、宗教や哲学的信念、あるいは政治的な信念と言うものを取り除くと、より多くの共通概念が現れてきます。いわゆる原理主義とか根本主義とか言われる、極端な理念に囚われている人たちはその理念を大切にするあまり、人間としての本性を否定しがちなのです。

 半面、そのような理念を持ち合わせていない人々、あるいは薄い人たちは、案外容易に仲良くなり、協力しあうことも可能ですが、理念が弱いためにすぐに変化してしまったり、冷めてしまったりすることも多くなります。その上、神の姿に似せて造られているとはいえ、人間性は罪のために破壊され、ねじ曲げられ、弱体化しているために、良いことを大規模に遂行して行く力にはなり得ないのです。

 私たち日本人クリスチャンは、自分たちの同胞が文字で書かれた律法を持っていなくても、心に記されている律法を持っていることを、しっかりと理解しましょう。彼らが自分の心の律法に、かなり一生懸命であり、知らないながらも、神に似せて造られた姿を素直に顕そうとしていることも、知りましょう。さらにその上に、日本人の宗教意識が、この心の律法にかなり忠実なものであることに気づくのが大切です。この点については次の文章に譲ります。




posted by まさ at 09:59| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月08日

日本人宣教にむけて


(日本人宣教に向けて)

   2016年4月8日
                             西九州伝道所 佐々木正明

始めに

 私たち日本人が、自由に聖書が読めるようになって、150年以上になります。たとえ政府が和魂洋才のスローガンで、密かにキリスト教を阻止しようとしたことがあったとしても、西欧諸国からのプレッシャーも手伝って、明治以降のキリスト教は、かなり自由に宣教活動を進めることが出来ました。

 ところが、日本のキリスト教の勢いは非常に弱く、その発展は微々たるもので、諸外国の様相とはまったく異なっています。私たちの、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの交わりを例に挙げても、創立102年になる、今年2016年の日曜礼拝会への出席者総数は、世界全体で6500万人をかなり超えると言うことです。発展途上国が多く、たとえ主催者発表のデモ参加者のような数字であったとしても、これは大変なものです。その中で、日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の数は、わずか、1万人を少し超えるだけです。日本と言う国を、あまり特殊なものとして扱うことには異論がありますが、こと、キリスト教の進展と言うことでは、まさに特殊と言わざるを得ません。

 今までも、キリスト教界内外の実に多くの人たちが、この問題を論じてきましたが、実際に日本の宣教に携わる一人の伝道者として、筆者が心底から納得できるような論には、まだ、お目にかかっておりません。これまでも筆者はこの問題に関していろいろなことを言って参りました。その論点の殆どは、他の人たちが取り上げていない、あるいは気づいてもおられない、いわばユニークなものだと思っております。日本の宣教を論じておられる方たちの多くは、日本人も外国人も、西欧の尺度を持って日本を測り、西欧の学問をもって日本を論じておられるために、ヤードとフィートの巻き尺をもって、日本の家屋を測っているようなことになっています。筆者はそれらのすべてが間違っているとは考えませんが、大きな誤りがあるとも感じています。

 そこで今回も、たぶん、今までどなたも語ったことが無く、誰も論じたことのない視点から、お話ししたいと考えています。それは、異邦人である日本人には、異邦人の神学をもって福音を語らなければならないと言うことです。パウロが聖霊の導きによって打ち立てた信仰による救いと言う、普遍的福音の神学をさらに進めて、異邦人の立場から福音を見直し、異邦人にわかり易くまた受け入れ易く、福音を語る努力をしなければならないからです。

 戦後、キリスト教宣教は発展期とも言える20数年を経験しました。いま私の住む地方都市にあるいくつかの教会も、1960年代には100人を超える礼拝会を持っていました。それが今は、軒並みに20人、30人の礼拝会となっています。宣教の波が引いてしまったのです。その理由は色々ありますが、もっとも大きいのは、敗戦後に見たアメリカという「キリスト教国」のすばらしさが、幻滅に終わってしまったことだと思います。

 敗戦後、鬼畜米英と叫んでいた多くの日本人は、アメリカの民主主義、人道主義のすばらしさに感服したのです。そしてその、精神的土台であったキリスト教に憧れ、たくさんの人が教会を訪れたのです。

 ところが、その日本人の憧れは、ベトナム戦争によって粉砕されてしまいました。あの戦争で、日本人の多くはアメリカの欺瞞と偽善を見たのです。そしてその偽善と欺瞞は、単にベトナム戦争だけではなく、その前後の様々な紛争の中にも、見て取ることが出来るようになりました。そのうちに、アメリカだけではなく、西欧キリスト教諸国の欺瞞や独善性を、歴史の中にも現在の世界情勢の中にも、たくさん見つけ出すようになったのです。

 あれほど美しく見えたアメリカが薄汚れて見えるようになりました。あれほどかぐわしく感じていた西欧キリスト教諸国の臭いが、鼻につくようになってきたのです。戦後の私たちは、日本は戦争犯罪者の集団であり、劣等国であるかのように教え込まれてきました。でもそれは、戦勝者が自分たちに都合良く書いた歴史であったことに、少しずつ気づいて来たのです。

 今の日本にも、アメリカが大好きな人たちは大勢いますし、アメリカには、素晴らしいところがまだまだたくさんあります。あらゆる面を総合的に判断するならば、アメリカは今でも最も良い国の一つに違いありません。しかし今、アメリカに倫理的気高さを認め、憧憬をもって見上げる日本人はあまりなく、キリスト教を尊敬する人もずっと少なくなりました。かえって、キリスト教が無くてもここまでやってきた日本に満足し、自分たちにはキリスト教なんて不要だと思う人が増えて来たのです。

 キリスト教にも、素晴らしいところはまだまだたくさんあります。しかしこれからも、しばらくの間は、キリスト教のイメージは悪化し続けることでしょう。自分たちの良さを売りにするパリサイ人のような、「私たちを見てください」という上から目線の伝道をしていたのでは、いよいよ行き詰まることでしょう。キリスト教は西欧先進国の宗教で、良い宗教なのだなどと思い込んではなりません。私たちは福音を正しく理解し、その正しい福音を、キリストのように「仕える者」の心になって、伝えて行かなければならないのです。私たちが伝えるのはキリスト教ではなく、福音でなければなりません。 




創造と堕落 救いの約束

 神の救いの歴史は、天地創造以前から始まっています。神には、人間のような過去・現在・未来がありませんが、私たち人間が論じるときは、どうしても時系列に沿わなければなりません。神の救いの御計画は、天地創造以前に建てられていました。その後、計画に従って、神は全人類の救いを実現しようとなさったのです。神の永遠の救いの御計画は、罪を犯した直後のアダムに対して、神がお語りになったお言葉の中に示されています。 (創世記3:15)
 
 神がお造りになったものは、人間を含めてすべて、非常に良いものでしたが、(創世記1:31)人間の罪のために、すべてが変わってしまいました。神は人間に完全な自由意思を与え、自由意思を持って神に従う道を選ばせることによって、人間の創造の完成とされたようですが、人間はその自由意思を間違って用いてしまいました。そういう意味においては、人間の創造はまだ完成されていないとも言えるわけです。その人間の失敗の回復があって、創造の完結となるわけです。




罪の結果

 人間の罪の結果、神がお造りになったものの美しい秩序は、乱れてしまいました。罪の結果はただ人間と人間社会だけにではなく、自然の世界にも及びました。人間の心は罪によって破壊され、捻じ曲げられてしまい、自然の世界は病と自然災害によって、住みにくいところとなったのです。

 人間の罪の最も深刻な結果は、神との離別でした。神は罪を犯した人間を追放なさったのです。これは罪に対する刑罰のように考えられがちですが、むしろ罪を犯した人間を救おうとなさる、神の取り計らいと受け取った方が、良いように思われます。罪を犯した人間が、絶対に聖い神の近くに留まる訳にはいかないからです。神の聖さは、まさに焼き尽くす火のような性質を持っていて、穢れたものを焼き尽くし、滅ぼし尽くしてしまうからです。神は人間をお救いになるために、ご自分から遠ざけられたのです。

 神から遠ざけられた人間は、神を離れたところで家族を作り、社会を形成していきました。そのようにして作られたのが、今の世界です。この世界は、神から離れた人間が作り上げたものであり、神の恵みから切り離され、罪にまみれ、罪に支配されています。それはまさにキリストが言われた通り、悪魔の支配の下にある世界であり、悪魔を君といただく世界です。

 人間は自分が犯した罪のために、命の源である神から切り離され、生物学的には生きていても霊的には死んでしまって、滅びの世界に入ったのです。人間はやがて滅ぼされるのではなく、すでにこの世に生まれた時から、神の恵みを失った滅びの中に生まれ出たのです。人間は最初から罪の中に生まれ、罪の力に縛られて、生まれながらに罪人なのです。人間が罪人なのは、人間の血管の中にあるいは遺伝子の中に、罪の性質が宿っているために、罪を犯さずにはおれない罪人だというのではなく、罪が支配する世界、悪魔を君といただく世界に生まれ、罪を犯さずには生きて行けないために、罪人なのです。




罪の中に残る神の恵み

 しかしこのような滅びの中でも、神は人間を恵み、良いものを与え続けてくださいました。人間からすべての祝福を奪ってしまわれたのではないのです。破壊されたとはいえ、自然はまだ基本的な秩序を保っていて、良い人間にも悪い人間にも太陽は昇り、雨も降るのです。罪に支配されているとはいえ、人間のすべてが破壊されてしまったのでもありません。人間には、壊され捻じ曲げられてしまったとはいえ、神に似せて造られた性質、人間の本性が、いまだにしっかりと残っているのです。

 人間は悪魔の支配を受け、罪に牛耳られているとはいえ、まだまだ神に与えられた神に似た性質をもって、人間らしく生きようと戦っているのです。たとえ、すでに神が見えなくなり、誤ったものを神として拝むような事態に陥っていたとしても、神を感じ、神を拝み、神を畏れ、神を敬う心そのものを、失ってしまったのではありません。

 何が正しいか何が悪いのか、判断さえできない有様に落ちぶれていたとしても、正しさを求め悪を憎む心は、本能として残っています。罪によって凶暴な気持ちが湧き上がってくるようなことがあったとしても、人間にはまだ、ひとを慈しみ、公平を喜び、愛し合う心が残っています。

 世界はそのような、神に与えられた人間の基本的な性質、人間の本性によって保たれているのです。異邦人たちを救いようのない罪人として、一くくりに断罪してしまってはならないのです。しかもこの世界が悪魔の支配に陥ったとしても、この世界から神がいなくなってしまったのでも、神が完全に手を引いてしまわれた訳でもありません。神は今も、その絶対の権威ですべての存在物を支配し、人間の住むこの世界にも、悪魔の支配を破って介入し、救いを完遂しようとしておられるのです。悪魔のこの世の支配は、神の救いの計画で定められている、わずかな期間だけに限られているのです。

 とは言え、罪のために神から遠ざけられた人間が形成した社会は、非常に深刻な事態に陥りました。人間の本質の一つである霊的な性質は、たとえ神から離れていても、神を感じ霊的な世界を想い、何かを礼拝しないではおれないという、本能を保たせたままです。ところが人間は、神を離れて世代を重ねるうちに、創造者である神についての知識をどんどん失い、礼拝したい気持ちだけが本能として残ったのです。




偶像礼拝と第二の堕落

 そこで、とんでもないことが起こりました。人間は礼拝すべき天地の創造者を見失い、代わりに偶像を拝むようになったのです。パウロの記述によると、神は人間の堕落の後にも、人間がご自分を正しく理解し、きちっとした礼拝ができるように、自然物を通して、ご自分を明らかに現わしておられたのです。人間は、自然物を通しての神の自己顕現、あるいは自己啓示によって、礼拝のために充分な神知識を得ることが、出来たはずでした。それにもかかわらず人間は、栄光の神に代えて滅ぶべき人間や、鳥や、獣や、這うものの像を造り、これらを礼拝し始めたのです。

 この偶像礼拝に対して、神の怒りが激しく燃え上がりました。神は、罪のために傷つけられ捻じ曲げられた人間性を、そのまま放置してしまわれたのです。「神は、人間をその心の欲望のままに汚れに引き渡されました」とパウロは言い、「神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました」とくり返しています。その結果人間は、まず、造られた人間の本来のあり方に背いた、同性愛という恥ずべき関係に陥ったと説明し、さらにありとあらゆる罪に捕えられてしまったと、21にも及ぶ具体的な罪を列挙しています。(ロマ1:18〜32)

 これはまさに、人類の第二の堕落とも呼べる出来事です。人間の深刻な罪の現状は、ただ単に、アダムとエバの罪の直接の結果だけではなく、神の明らかな自己啓示を無視した愚かな偶像礼拝のために、神が刑罰として、人間を欲望のままに任せられた結果だったのです。このような人間のあまりにも堕落しきった姿は、ノアの洪水という裁きの出来事で、一つの頂点を迎えました。このときの神の悲しみと痛みは、非常に大きなものでした。一人が滅びるのも望んでおられない神が、ノアの家族だけを残して、すべてを滅ぼし尽くされたのです。

 最初の罪の堕落の結果、人間は神を離れてしまったとはいえ、人間は神からの自己顕現を得ていたのです。正しい神、天地の創造者を認識し、礼拝することが出来るようにされていたのです。それなのに人間は、神を神と認めず、被造物を神として拝みだしてしまったのです。その結果人間は、あらゆる汚れに突き落とされ、今見るような姿になってしまったのです。




イスラエルの選びと律法の賦与・救いの準備

 ところが神は、このように堕落し果てた人間を、何とか救い出そうと心を砕き、救いの道を備えてくださいました。その救いは、救い主、つまりキリストの贖いを通しての救いでした。その贖いによる救い以外に、救いはあり得ないのです。

 このキリストの出現に至るまで、神はまず、キリストを迎えるにふさわしい人々を作ろうと、イスラエル民族に白羽の矢をお立てになりました。神は、ノアの洪水のあとの様々な人間たちの中から、アブラハムと言う一人の人物を選び、その子孫であるイスラエル民族に、救い主が生まれるように計画されたのです。その計画の実行のため、救い主が救いの働きをまっとうできるように、まずイスラエルが、救い主を迎えるにふさわしい民族になる必要がありました。彼らは堕落した人類の中で、天地創造の神をしっかりと知り、偶像礼拝を止め、この神だけを礼拝する民族になるべきでした。倫理的にも整えられて、義が広く及ぶ社会になるべきでした。そして、神の救いの計画も理解し、救い主を迎える準備がされるべきだったのです。

 そのイスラエル民族の、教育と訓練と指導のために与えられたのが、ときには律法とも呼ばれている旧訳聖書でした。旧約聖書は、全人類の救いを目的として選ばれた、イスラエル民族に与えられた指導書だったのです。間接的には全人類のために与えられたと言うこともでき、その教えの中の普遍的な性質を持った部分は、全人類に適用できますが、直接的には、あくまでもイスラエル民族への指導書であることを、知らなければなりません。パウロは、救いが全民族に平等に与えられていても、イスラエル民族には律法を与えられているという特質があり、これが、彼らを他の民族とは異なった、特別なものにしているのだと言っています。(ロマ3:1〜2)

 そういうわけで、この罪の世界で悪魔の支配に苦しめられている人間、命の源である神から切り離されて、滅びてしまっている人間も、望みのないままに打ち捨てられているのではありません。神が救いを準備して下さっているのです。罪に陥り、悪魔に支配されている人間は、たとえどのように努力したところで、自分の知恵や力で自分自身を救うことはできません。ただ、人間を造りすべての物事を支配しておられる神だけが、人間を救うことが出来るのです。

 ですから、いま私たちが生きているこの滅びの世界には、まだ希望が残されています。救われる道が準備されているからです。しかし、この救いの道を逃してしまうならば、もう、望みは残されていません。そのために、新約聖書は今を恵みの時と呼び、(Uコリント6:2)救われる希望の光のあるうちに、光を信じるようにと勧めているのです。(ヨハネ12:36)



罪人の裁き
 
 聖書は、人が一度死ぬことと、死んだ後、裁きを受けることが定められていると教えています。罪の世に生を受けたすべての人間は、霊的に死んだ者となっただけではなく、肉体的な、生物学的な死も定められています。その死の後に、すべての人間が、神の公正な裁きを受けるのです。おのおの、今の世界で生きた生き方によって、その行いに応じて裁かれるのです。

 その裁きの時、この世界で罪の力に縛られて生きていた人、悪魔の支配を受けて生きていた人たちは、すべて、滅びの中に入れられるのです。この滅びは、今の滅びの世界の継続ではありますが、もう救われる望みが残されていない滅びです。そのために、神は救い主を送って救いの道を完成し、人々がこの滅びから逃れることが出来るように、いまの恵みの時に恵みを受け入れ、光のあるうちに光を信じるようにと勧めておられるのです。

 この滅びが一体どのようなものであるか、聖書は詳しくは教えていません。とはいえ、旧約聖書が与えられていたイスラエル人、すなわち、天地の創造者である神について、単に被造物を通してだけではなく、旧訳聖書を通して、格段に明らかな自己啓示と自己紹介を受けていた、イスラエル人の裁きについては、断片的ですが、いろいろと教えられています。文字で書かれた律法によって神のみ心が教えられ、何が正しく何が罪なのかを教えられていた、イスラエル人に対する神の刑罰は、キリストの教えや新約聖書の教えによって、ある程度知ることが出来ます。一言でいうと、非常に厳しい裁きです。

 ところが、旧訳聖書が与えられていなかった異邦人の裁きと滅びについては、聖書はあまり語っていません。パウロは、律法(旧約聖書)を持っていない異邦人は、律法なしに滅びると語っていますので、律法を与えられていない異邦人が、律法を持っていなかったからと言って、裁きと滅びから免除されるわけではありません。あくまでも、罪を犯した者として滅びるのです。しかし、イスラエル人と同じ刑罰を受けるのではありません。

 異邦人伝道において、私たちが犯してきた深刻な誤りの一つは、イスラエル人に与えられた厳しい裁きの警告を、異邦人にもそのままに適用して、語り続けてきたことです。その結果、異邦人に属する多くの人々は、キリスト教の神は非常に偏った不公平な神だ、一方的に自分の正義を押し付け、人間が置かれている苦難の状況に、一片の配慮もしない神だと感じ、受け入れることが出来ないのです。異邦人も、正義と公平の神の性質を写し与えられているために、正義と公平をおろそかにする神は、認めることができないのです。

 では、異邦人の裁きは何を根拠にして行われるのでしょう。パウロによると、「心に記されている律法である」と理解できます。(ロマ2:12〜16)その心に記されている律法とは・・・・あくまでも聖書の記述をもとに考えると・・・神が人間にお与えになった人間の本性、神に似せて造られた性質であると言えます。

 たとえ、神のより高度な自己掲示である聖書が与えられていなくても、人間は本能的に何が正しいか、何が正しくないかを理解しているのです。それは神の麗しい性質に似せて造られた性質が、人間の本性として与えられているためです。罪に堕落したとはいえ、人間の本性は完全に失われてしまったのではないからです。人間は本能的に善を求め、正義を追求し、愛を重んじるのです。神はその人間の本性を基準とし、心に記された律法として、人間の行為をお裁きになるのです。

 ですから異邦人の裁きと滅びは、キリストがイスラエル人に向かって、描写されたようなものとは異なります。キリストはあくまでも、神の高度な自己掲示であり指導書である、旧約聖書を与えられていたユダヤ人を対象にして、お語りになったのです。それを異邦人全体に、そのまま適用することはできません。それはまた、黙示録に記されているような裁きとも異なっているでしょう。黙示録も、あくまでもユダヤ教の背景を色濃く残した、初期のクリスチャンたちに語られている、ユダヤ的なものだからです。

 ただこの裁きは、あくまでも滅びる者たちの、滅びの段階、あるいは滅びの状態を定める裁きだと言うことを、理解しなければなりません。それぞれの行いに応じて裁かれるのです。神が与えてくださった神に似た性質に素直に従い、公平を愛し、正義を求め、優しさに生きた人は、その生き方にふさわしく裁かれ、怒りと、裏切りと、策略と暴虐をほしいままにした人は、その悪行に応じた裁きと刑罰を受けるのです。誰もかれもが同じ刑罰を受け、同じ滅びに落とされるのではないのです。

 とは言え、どのような裁きを受けることになったにせよ、滅びは滅びであって、救いではありません。そこには神の準備した完全な世界はなく、人間性の完全な復元もないのです。神との完全な和解もなく、隔たりのない交わりもないのです。そこには救いの望みもないために、救いを目的とした神の介入も期待できません。それは救いではないのです。




救い 

 神が、キリストの贖いを通して準備された救いは、善良な生活をした人は死後の裁きで、良い報いを受けると言う程度で、終わるのではありません。全く次元が異なるのです。それは完全な救い、神との交わりの完全な回復です。

 聖書は、今のこの世界が罪のために破壊され、捻じ曲げられたものであり、本来のあるべき姿からは、遠く隔たったものであることだけではなく、悪魔の支配と罪の拘束を受けた人間は、本来の人間に与えられた、生きるべき生き方が出来なくなって、やがて望みのない滅びに陥れられると教えていますが、神の救いは、これらすべての面に及ぶものです。

 まず、いまこの世の君、あるいはこの世の神として、この罪の世界を支配している悪魔が完全に滅ぼされ、二度と再び、人間と自然界に悪を行うことが出来ないようにされます。次に、今の破壊された自然界がまったく造り変えられます。神は現在のこの世界を滅ぼし、まったく新しい世界を造ってくださいます。それは完全な秩序の中の麗しい世界で、天変地異はもちろんのこと、病もありません。そして神は、この完全な世界に私たちを入れてくださるのです。

 しかし、その完全な世界に、いまの私たちのような不完全な者が、そのまま入れられることはありません。不完全なものは完全なものを受けることが出来ず、壊れたものが完全な世界に入ることはできないのです。どのように完全な世界でも、不完全な人間がそのまま入れられたのでは、不完全な世界になってしまいます。

 そこで、今あらゆる意味で不完全な私たちは、まず、すべての面で完全な者とされなければならないのです。その完全さは、大きく二つの面に分けることが出来ます。一つは、私たちの肉体が完全にされることです。救われた者は、病気も、怪我も、生まれながらの弱さも、不完全さもまったく取り除かれて、完全な肉体を与えられるのです。それは、現在の肉体と全く同じものとは言えませんが、現在の私たちがいただく肉体なのです。次に、私たちの霊、あるいは心が、まったく完全なものに造り変えられます。完全な自然環境の中で完全な肉体を与えられて、互いに憎み、嫌い、争い、戦いながら生きたのでは、救いにはなりません。(参照Tコリント15章)

 その上、私たちに与えられる完全な救いは、神との交わりの完全な回復です。罪のために断ち切られた神との交わり、そのために失われた人間としての命の、完全な回復です。人間の本来の幸せは、単に完全な世界で完全な健康を楽しみ、人間同士の完全な愛の世界を楽しむことではありません。人間の幸せは、造り主である神との豊かで完全な交わりの中にあるのです。そのように人間は造られているのです。そのために、神から離れたままでは、人間はどのような環境にあっても、本当の幸せ、本当の満足を得ることが出来ないのです。その本当の幸せ、満足を喜ぶことが出来るのが救いなのです。




救い主の出現・キリスト

 救い主は、神が旧約聖書を与え、知識の上でも倫理道徳の上でも信仰生活の上でも、教育と訓練を与えて救い主を迎える準備をさせられた、イスラエル民族にお生まれになりました。イスラエルの人々はすでに神の聖さ、人間の罪、神の裁きと救いの必要性、そして救い主の出現について教えられていたのです。

 キリストの教えと模範は、直接的にはこのような背景を持ったイスラエル人に与えられたものです。しかしそれは、あくまでも普遍的な福音、つまり世界の全人類に向けて与えられる救いの一段階として、まず、イスラルに向けられたのです。当時のイスラエル人たちは旧約聖書を通して教えられた教えを正しく理解せず、救いはイスラエル人に与えられるものだと考えました。異邦人は例外的に、特別な条件を満たしてイスラエル人になることによって、初めて、この救いに与ることが出来ると教えられていたのです。
 



パウロの貢献・普遍的福音の理解の確立

 キリストがお与えになる救いは、全人類を対象にしているという福音の普遍性の真理は、キリストの教えと活動の中にすでに示唆されていたのですが、神学的にしっかりと論じてこれを確立し、異邦人のための使徒となったのがパウロでした。とは言えパウロは、実際の異邦人伝道の経験は、さほど深くはありませんでした。彼の宣教は確かに異邦人の土地で行われたのですが、それは主に大都市のユダヤ(イスラエル)人の会堂の中でのことです。そこにいた異邦人は、すでにユダヤ教に改宗していたか、深く興味を持ち、同情し、同調していた敬虔な人たち、つまり、宗教的にも文化的にもユダヤ化した人たちでした。

 パウロの宣教の経験では、彼が完全な異邦人に直接伝道した例は、ごくわずかです。使徒の働きの記録から見ると、アテネのアレオパゴスでの説教が唯一ですが、難船して、一冬滞在することになったマルタ島でも、間違いなく伝道したはずです。パウロが何も語らずに、一冬過ごすなどと言うことはあり得ないからです。でもここでは、一人の改宗者も出なかったようです。出ていたならば、ルカが書き漏らすこともなかったはずです。

 異邦人の使徒パウロ、華々しい伝道の成果を上げたパウロも、マルタ島のような僻地に住む、完全な異邦人を救いに導くことは、困難を極めたのでしょう。その他、エペソやコリントでも、まったくの異邦人に直接伝道したことがあったかも知れませんが、記録に残すほどの成果を上げていません。




パウロの神学の限界

 つまりパウロは、普遍的な福音の神学を打ち立てたということでは、異邦人への偉大な使徒でしたが、実際の異邦人伝道という面では経験も少なく、深い理解を持っていなかったと言えるのです。現在の日本のような完全な異邦人を相手にした、長期間にわたる伝道は、パウロにとって未経験であり、その問題について深く考えることもなかったと思われます。もしも彼が、マルタ島のような土地で、少なくても数年間の伝道経験を積んでいたならば、事情はずいぶん異なっていたことでしょう。

 パウロは信仰による義という神学を打ち立て、福音の普遍性を明確にしました。しかし異邦人伝道の経験が少なかった彼は、あくまでもユダヤ人の視点から、福音は異邦人にも及ぶと言うことを語ったものです。救いが初めか、人類全体に向けて準備されたものであり、イスラエルはその目的の遂行のために、用いられたに過ぎないとう前提で、つまり、異邦人の視点から福音について語ることは、ほとんどなかったのです。それがパウロの神学の限界でした。




パウロの神学に留まっている西欧神学

 私たちが継承して来た神学は、このパウロの神学でした。パウロが据えた「普遍的救いの神学」の土台の上には、まだ「異邦人の神学」が築かれていないのです。異邦人全体が取り扱われておらず、論じられていないのです。まだまだイスラエル人に語られたこと、イスラエル人に与えられた律法を、直接異邦人に当てはめているのだけで、しばしば的外れのことを言っているのです。

 例えば、人間に与えられた神に似た姿という、基本的な性質から発する宗教本能を軽んじ、異邦人の中にある宗教心を罪悪視して糾弾する間違いです。偶像礼拝は間違っています。しかし、神を礼拝したいという本能の欲求は、罪ではないばかりか、人間が人間であることを証明するものなのです。また、神の特別な自己啓示を受け、天地創造の神と言う存在を明確に教えられ、偶像礼拝を禁じられているイスラエル人が、それでも偶像礼拝をする罪と、神の自己啓示は自然を通してだけという、異邦人の偶像礼拝の罪を同等に扱うのは、非常に不公平です。当然、キリスト教以外の宗教に対する私たちの態度も、改められなければなりません。

 異邦人の神学が築かれてこなかった理由の一つは、西欧キリスト教の歴史の中で、キリスト教徒たちが、常に、自分たちこそ霊的なイスラエルであり、本物のイスラエル人であると考えて来たことです。学問的には、彼らも異邦人であることを認めたかもしれませんが、そのような自覚はほとんど持っていませんでした。イエスを十字架につけた時、「その罪は、我々と我々の子孫の上にかかってもいい」と言い放ったユダヤ人たちは、神の祝福から除かれて、自分たちクリスチャンが本物のユダヤ人になったのだと考え、それがいつの間にか、「キリスト教文化」に生きるほとんどの人々にまで、及んでしまったのです。

 自分たちを異邦人であると認識しなかった、西欧「キリスト教文化」に生きた人々は、当然、旧訳聖書も新約聖書も直接自分たちに与えられたものと単純に思い込み、そのように読み、そのように解釈しました。そして、旧訳聖書を与えられ、神と罪と救い主について知っていた、イスラエル人に向けて語られたキリストの言葉を、そのまま自分たちの伝道の対象にも語ったのです。それでも、「キリスト教文化」にいた人たちは、その伝道を受け入れることが出来ました。特に、近代プロテスタントの伝道には、それが顕著であったと思われます。今の私たちの伝道の模範と言うか、走りとなったウエスレーの悔い改めを迫る大衆伝道などに、それが見事に現れています。




さすがのパウロ神学

 ただしパウロの神学には、異邦人に関しても、さすがと思わされるところがあります。例えば、この文章でも取り上げたロマ書1章の偶像礼拝は、イスラエル民族の偶像礼拝とは異なる、全人類の偶像礼拝の問題だという点を、パウロは述べているのです。イスラエルが偶像礼拝をする罪と、イスラエル以外の人々が偶像礼拝をする罪は、同様の問題でありながらまったく異なっていることを語っています。イスラエル人の偶像礼拝の罪は、モーセの律法を破る罪ですが、異邦人の偶像礼拝の罪は、モーセの律法を破る罪ではないのです。パウロは、「律法の言うことはみな、律法の下にある人々に言われていることを知っています」と語って、モーセの律法が異邦人に適用されてはならないことを示しています。(ロマ3:19)

 また、律法を与えられていない異邦人は、律法なしに滅びるということも語られています。たとえ異邦人がモーセの律法を持っていなくても、心に記された律法を持っていて、それが裁きの基準になるのです。(ロマ2:12〜15)これは異邦人宣教をする上では強調しすぎることが無いほど、重要な点です。この問題をしっかりと理解するならば、私たちの異邦人伝道の方法、異邦人へのアプローチはずいぶん異なったものになるはずです。

 モーセの律法と心の律法は、同じ神から与えられたものであり、原則的にこの二つの間に矛盾はないはずです。ところが、実際に見える部分は随分異なっています。それはモーセの律法が、神の救いの計画を示すものであり、その救いのために特別に選ばれた、特殊な民族の特異な必要のために与えられたものであるのに対し、心に書かれた律法は、人類全体の一般生活のために与えられているからです。どちらがより原則的なものであるかは明白であり、どちらが異邦人にとって大切かも論を待ちません。そのような点が、西欧神学ではまったく論じられないままになっているのです。




異邦人の躓き

 多くの日本人は、旧訳聖書を読むとそのむごたらしさに眉をひそめます。人間の本当の姿があからさまに描き出されていることには、納得し、感動さえすることもありますが、あまりにも残虐であり、血が流され過ぎるのです。聖書を持たず、心の律法によって行動している日本人には、聖書の教えはあまりにも峻厳であり残酷です。その物語は人間性に反すると思われるのです。これは日本人だけではなく、多くの平和を好む異邦人が同様に感じるものなのです。

 現在、西欧諸国の教会がどんどん弱小化し、人道主義的な動き、平和だとか、愛だとか、平等だとか、基本的人権と言うような事柄に、一致を見つけて行動している人々がたくさんいます。彼らは、「キリスト教文化」に育ちながら、自分の心が命じることと聖書の教えは、合致しないと感じています。世俗主義が強まり、「キリスト教文化」が弱くなった西欧では、多くの若者たちは、もはや自分たちを霊的ユダヤ人などと見ることを止めて、異邦人の感覚を持ち始めているからです。そういう彼らは、聖書の教えではなく、自分たちの中にある心の律法、心の叫びに耳を傾けるのです。

 多くの日本人も、そのような人々と分かり合い、行動を共にできるのですが、福音派のクリスチャンや原理主義のクリスチャンとは、分かり合えないのです。福音派や原理主義のクリスチャンは、いまでも旧訳聖書を含む聖書全体を、自分たちに与えられた尊い神の言葉と信じて、その教えや律法をそのまま大切に守ろうとするためです。律法と呼ばれる旧約聖書は、特殊な目的のために選出されたイスラエル民族の、特殊な必要性のために与えられたものであり、その中に記されている多くの教えや出来事は、一般化されてはならないものです。つまり、イスラエル人以外の人々に適用されてはならないものです。その中にある、普遍的な性質を帯びたものだけが、だれにでも用いられるべきなのです。




特殊な国日本

 ではどうして、日本だけがクリスチャンの少ないままで、留まっているのでしょう? 日本以外の多くの国々、特に、西欧諸国を除いたいわゆる開発途上国では、異邦人でありながら、圧倒的にキリスト教に宗旨替えしている人々が多いのです。統計上は、回教徒の増加速度の方が早いことになっていますが、それは出生率にも関わっているためです。

 本当のところ、回教などの特定の宗教を国教としたり、それらの宗教以外の布教を禁止したりしている国々でも、日本と比較すると、急速にクリスチャンの数が増え続けている例が幾つもあります。ほとんど完全な信教の自由と、宗教活動の自由を与えられていながら、伸び悩んでいるのは日本のキリスト教だけです。いったいどうしてでしょう?

 そこにはいくつかの理由が考えられますが、一般的に言って、開発途上国が容易にキリスト教を受け入れている背景には、その国や民族の国家意識あるいは民族意識が低く、武力も弱かったこと、次に、キリスト教に対抗するだけ発達した強い宗教が無く、キリスト教の神学や哲学の浸透に、抗しきれなかったことが挙げられます。




カトリックの宣教

 まず、カトリックが国教または準国教扱いになっている国々の多くは、いわゆる大航海時代に、カトリックの太国であったポルトガルやスペインによって征服され、武力で改宗させられたものです。カトリックの宣教は、国家権力と武力を後ろ盾としたものでした。中南米の国々はみなそのようにして征服されました。アフリカにもそのような国があります。アジアではフィリピンがその例に入ります。

 それらの国々は、まだ国家としてのまとまりがなく、侵略してくる大国と戦う武力も持っていなかっただけでなく、カトリックに対抗できるだけ整った宗教もありませんでした。そのために、侵略者の宗教を一も二もなく受け入れてしまったのです。とはいえ、宗教と言うものは非常に根強いもので、武力の支配や体裁の取り換えだけでは、覆すことができないものです。そのため、カトリックが征服したのはうわべだけで、その内部は、いまだに土着の宗教のままと言うのがほとんどです。

 ちなみに、中南米やフィリピンのカトリック信仰を、本物のカトリック信仰と認めていない、カトリックの神学者がたくさんいます。土着の信仰がカトリックの衣をまとっただけであると、彼らは考えています。また、それがカトリックであると、冷めた考え方をしている神学者もいると言うことです。

 そのような中途半端なカトリック信仰の国々で、いま、私たちのようなペンテコステ信仰が、非常な勢いで伸びているというのは、とても面白い現象です。国家と結びついて腐敗した、古い権威主義の宗教に失望した人々が、新しく語られ始めた聖書の教えに耳を傾けているのです。彼らは、自分たちの国家と宗教文化に失望しているのです。




プロテスタントの宣教

 大航海時代のカトリックの宣教から数百年遅れて、プロテスタントの宣教が始まりました。予定説に強く影響されていたプロテスタントは、当初、カトリックほどの宣教の情熱をもっていませんでしたし、国家権力と武力を公に後ろ盾して、強制的に改宗させることもありませんでした。それでも、宣教の情熱を持った少数の個人や宣教団体が現れ、徐々に、近代のプロテスタントの宣教が盛んになってきたのです。

 このときのプロテスタント宣教は、西欧キリスト教諸国の植民地政策と結びついていました。公に国家の武力を後ろ盾とはしていなくても、勢力を付けて来たプロテスタント諸国が力を入れていた、植民地政策による侵略に便乗して宣教が行われたのです。とくに、侵略した地域の経済支配のためにヨーロッパ列強が設立した、東インド会社が大いに利用されました。当時インドとは、ヨーロッパと地中海沿岸以外の地域を指す言葉で、次々と植民地化したこれらの地域で経済活動をするために、特許会社として設立したのが東西のインド会社です。アジアはで活動したのは東インド会社、南北アメリカで活動したのは西インド会社ですが、東インド会社の方が強大でした。

 このような植民地政策に乗った宣教に対抗できたのは、ある程度国家や民族としての統一が出来、強い武力を蓄え、発展した宗教による精神的な一体感があった人々です。ただそのような国家や民族は、ごくわずかと言うより、ほとんど存在しなかったのです。たとえば、中国はある程度の武力を持ち、宗教的にもそれなりに深いものを持っていましたが、アヘン戦争で圧倒的なイギリスの力に屈してしまいました。もう一つの例はタイでした。タイは強い武力を持っていたわけではありませんし、国家の統一も不完全でしたが、すでにかなりのまとまりを持っていましたので、イギリスとフランスと言う対立する植民地主義国家の力を、うまく利用して独立を保つことができました。その上、強く民衆を支配していた仏教が後ろ盾となっていました。

 プロテスタント諸国に植民地とされた国々では、プロテスタント教会の宣教が行われましたが、カトリックほどの強大な武力による強制はなかったために、中南米のような状態にはなりませんでした。特にアジアの国々には、回教と仏教と儒教があり、かなり高度な哲学があって、キリスト教が容易に入り込む隙間が無かったのです。(フィリピンがカトリック化したのは、まだ小さな部族が多くの島々に住む雑多な集合にすぎず、国家としてのまとまりがなかった時代、仏教も回教も儒教も浸透していなかった、大航海時代に植民地とされたためです。)




日本の反キリスト教意識

 大航海時代のポルトガルとスペインの力を背景に、カトリックが侵入してこようとしていた戦国時代末期の日本は、混乱の中にありながらも、他の国々では考えられないほど、民族としての統一意識と強い武力を持っていました。日本の為政者はカトリックを侵略者の手先として排除したのです。プロテスタントの植民地主義国家と対峙した日本も、明治時代を目前にした黎明期であったとはいえ、他の国々や民族とは比較にならないほどの、国家意識と武力を備え、宗教的にも哲学的にも、固い基盤を備えていました。

 大航海時代のカトリックの侵略を防いだ日本には、強力な反キリスト教文化が作り上げられていました。明治直前からのプロテスタントの宣教は、この反キリスト教文化によって妨げられたのです。カトリックを侵略の手先と見た日本の為政者の感覚は、250年後のプロテスタントの宣教の背後にも、植民地主義者の意図を嗅ぎとったのです。アヘン戦争で事実上中国を植民地とし、続いて日本を支配しようとしたイギリスの策略は、本国と日本での様々な要因が複雑に絡み合っていたとはいえ、日の目を見ないままに終わりました。ドイツも、フランスも、ロシアも、オランダも、アメリカも、それぞれ自国周辺の事情も絡み、日本を植民地にすることはできませんでした。キリスト教の宣教師も大挙して押し寄せましたが、あらたに国家神道を据え、和魂漢才に代えて和魂洋才を掲げた、日本の国家意識を打ち破ることも、精神文化を切り崩すこともできなかったのです。

 このような国民的伝統は、戦後の一時期のアメリカに対する憧れによって壊されかけたものの、現在の日本でもしっかりと引き継がれています。それが、他の多くの国々と日本が異なっているところです。多くの日本人にとってキリスト教は、教育や福祉などの分野では数々の貢献をした良い宗教でありながら、日本と言う国家を侵略しようとした西欧諸国の手先であり、日本の奥深い宗教と文化を敵視し、和の文化を根底から壊そうとする、好ましくない宗教なのです。

 ちなみにお隣の韓国は、日本とよく似ていると言われますが、こと、キリスト教に関してはまったく事情が違います。中国と日本に治められ、ロシアの侵略を受けそうにもなりましたが、韓国は、キリスト教国の侵略を受けたことがありません。韓国人にとってキリスト教は、自分たちを助けてくれたアメリカの良い宗教であり、進んだ西洋諸国の美しい宗教なのです。そのために、実質は別として、韓国にはキリスト教徒と呼ばれる人々が多いのです。




日本人の疑惑と怖れを助長する伝道方法

 徳川幕府は、ありとあらゆる手段をもってカトリックを阻止しようとしました。そのために仏教が大いに利用されました。幕府の策にまんまと嵌まった民衆は、ただいたずらにキリスト教を恐れ、排除しようとしました。一方、明治の直前に、植民地政策を進めながら日本に近づいて来た国々は、行く先々、侵略するところすべてで、人道にもとる残虐な行為を、神が自分たちに与えた当然の権利であるかのように、執拗にくり返していました。その残虐性の精神的土台がキリスト教だということを、明治の為政者たちは学び取ったのです。徳川幕府が採った鎖国と迫害の政策をくり返すことはできませんでしたが、キリスト教を排除しながら、植民地政策国家の精神土台に対抗できるものとして、和魂洋才を掲げ、国家神道を置くことにしたのです。日本人は、神が人間に与えてくださった心の律法である、人間性に反することを平気で行うキリスト教を恐れ、疑惑を持ち続けてきたのです。その疑惑がわずかながら薄れたのが、戦後の民主主義に乗って入ってきたキリスト教に対してだったのです。

 キリスト教の伝道は、優越感と共に行われてきたことも、忘れられてはなりません。宣教師たちは、武力、経済力、科学知識など、ほとんどあらゆる分野で先を行っていた、西欧諸国から来ていました。その上に、白人としての人種的優越感を公然と持っていました。白人以外を人間と認めないのが一般的であった彼らの母国から、あえて有色の人々を人間と認め、福音の対象として認識して、危険を冒してまでも旅をして来たことは大いに賞賛すべきですが、宣教師たちの優越感は、伝道される側からすると非常に屈辱的でした。

 その上、「キリスト教文化」至上主義をもって、日本の文化を遅れたもの、劣ったものと断じて、これを排除し、自分たちの文化を押し付けようとしました。さらに、本来イスラエル人に向けて与えられた、聖書の教えを直接日本人に適用して、すべての宗教を邪教と断じ、忌むべきものとして糾弾し、日本人は偶像礼拝者である、罪人であると叫び続けました。異邦人に対する配慮は少しもなく、自分たちも異邦人であるという認識にも欠けていました。このようなキリスト教に対し、日本人の多くは、徳川時代の初めころからキリスト教を恐れて来たのは、正しかったと思ったのです。

 そのような日本人の感覚は、戦後の民主主義国家アメリカの美しい宗教、キリスト教をもってしても拭い去ることが出来ませんでした。ですから、いくらか良くなりかけたキリスト教のイメージも、ベトナム戦争を境にたちまち色あせて来たのです。マッカーサーの情報操作と偏向教育(ある人たち洗脳と呼ぶ)を受けて育った戦後世代の私たちは、西欧諸国は麗しい国々であると教えられてきました。その支柱となっているキリスト教は、素敵な宗教であると思い込まされてきました。マッカーサーは、日本をアメリカに都合の良い国に仕立てあげようと、あらゆる手を尽くし、キリスト教も利用したのです。彼は3000人とも5000人とも言われる宣教師を呼び寄せ、日本中の教会をアメリカかの救援物資の分配所にして、キリスト教を浸透させようとさえしました。

 それでも、ユダヤ主義から脱却していないキリスト教精神、選民意識のキリスト教信仰は、日本人が取り入れるべき良いものとは、みなされませんでした。ただ、戦後の教育を素直に受け、アメリカやキリスト教に好感を抱くことが出来た人たちの中から、ごく少数の者たちがキリスト教を受容しました。そしてこの短い期間が、日本の宣教の絶頂期だったと言われるのです。




私たちがやるべき伝道

 日本人である私たちが日本人に福音を語るとき、キリスト教ではなく、福音を伝えることが最も大切です。キリスト教の素晴らしさを語り、キリスト教の魅力で納得させようとするのではなく、純粋に福音を伝えることに集中すべきです。クリスチャンがどんなに素晴らしい人種であり、どんなに偉大なことをやってきたかという、我田引水の話もやめましょう。西洋美術、西欧音楽、西欧文学、西欧文明が、キリスト教を土台にしているなどと言って、西欧コンプレックスの、日本人の興味を引こうとしてもなりません。たとえキリスト教が、多くの良いことをしてきたことを認めたとしても、心の律法に照らし合わせると、犯し続けた悪事の方がよほど大きいことでしょう。

 歴史を直視すると、キリスト教と呼ばれる宗教は、他のどの宗教よりも血塗られた宗教であることが分かります。今やマッカーサーの偏向教育、思想統制教育から解かれた日本人たちが、それに気づき始めているのです。伝道とは、キリスト教を伝えることではなく、福音を伝えることであると、しっかりと確認し直しましょう。




福音とは何かを理解し直す

「イエスキリストが、私たちの罪の刑罰を身代わりに受けて、十字架で死んでくださったことを信じるならば、たとえだれであっても、何の行いもなしに救われることが出来る。」これが、私たちプロテスタントのクリスチャンが金科玉条として来た、福音の真髄です。でもこれは、聖書の教えから大きく外れています。

 第一は、これは「何の行いもなしに」と、一応無代価の救い、行いによらない信仰による救いをうたってはいますが、その実、「私たちの罪の刑罰を身代わりに受けて、十字架で死ぬ」という、とても難しい神学を理解しなければならない、とても困難な「行為を」前提とするからです。そんなことは一切理解しなくても、まったく知らなくても救われるのが、「行いなしに」救われることであるはずです。キリストの十字架は、十字架の理解なしにも救われるためにあったはずです。

 第二は、このような信条や神学を信じて救われるのは、キリストの福音ではないと言うことです。信じるべきは、教理でも信条でも神学でも、もっと極端にいうなら、聖書の細々とした教えでもなく、キリストと言うお方、人格(神格)を持ったお方なのです。人格を持ったお方を信じると言った場合、そのお方についての情報を信じると言う意味でもありません。そのお方に信頼する、頼ると言う意味です。「信じる」の意味が違います。

 第三に、このキリストと呼ばれるお方が、かつて、私たちのためにどんなことをしてくださったかを知り、それに感動して、感謝して、お礼を言って信じることでもありません。それもまた、知識という、困難な行為を前提とすることだからです。かつてこのお方が、私たちのために何をしてくださったかと言うことを知らなくても、このお方に信頼すればよいはずです。

 第四に、私たちの伝道対象である日本人は、旧訳聖書を与えられておらず、キリストと言うお方を知りませんので、キリストを信じると言うことが意味不明になります。キリストはあくまでも、旧訳聖書で救い主の出現を約束されていた、ユダヤ人に対する約束の成就の福音であって、異邦人である日本人には福音になりません。




日本人にとっての福音

 私たちが語る福音は、あくまでも、旧新約聖書を通して私たちに啓示された、福音でなければなりません。福音は、あくまでも、キリストを通して成し遂げられた贖いのみ業です。十字架の身代わりの死によって完遂された、神の救いの働きであり、復活によって可能にされた、聖霊による新しい命です。

 とはいえ、それらの福音の内容は、異邦人である普通の日本人には、まったく馴染のない宗教的な話、形而上学的な学問にすぎません。よほど特殊な人以外には、興味を持てないものです。頭痛薬を買いに来た人に、頭痛についての知識、その薬に含まれているいろいろな成分の知識と含有量についての知識、さらにその薬が開発されるに至った経路、それに関わった人たちなどを、いちいち説明していたのでは、買う方も売る方も疲れてしまいます。最低の知識でいいのです。

 日本人の救いのために、最低限必要な知識はどこまでなのでしょう。頭痛薬を買う人には、少なくても、頭痛に効く薬があるという情報が必要で、薬屋に行けば買えるくらいの知識が必要です。それから、頭痛にはいろいろな種類があり、薬もそれによって違うし、服用の仕方も異なっていることくらい、知らなければならないでしょう。それ以上の知識も大切ですが、いま頭痛で困っているとき必要なのは、僅かの知識です。

 私たちは聖書の福音を語ります。しかし、日本人にわかり易く、日本人に受け入れられやすくするために、まずは最低限の知識を与えるだけで良いのです。深い福音の真髄、高度な神学的理解は後に譲りましょう。頭痛薬の説明は、頭痛が薄らいでからで良いと言うことです。福音は、日本人にとっても福音とならなければ、福音ではないのです。




日本人の本能的宗教感覚に語り掛ける

 日本人福音を語るとき、キリストの話から始めるのは、頭が痛いからと頭痛薬を買いに
来た人に、アセテルサリチル酸(アスピリンのことです)やヒドロタルサイトについて、講
釈するようなものです。これでは現実の必要に対応できないのです。せいぜい、何か特殊な
頭痛ではないことを確認して、間違いが起こらないようにするくらいが普通です。

 日本人にも、神の姿に似せて造られた人間の本性があります。その人間の本性に語り掛ける伝道が大切です。旧新約聖書に啓示されている福音を、旧新約聖書が与えられていない日本人に、わかり易く、受け入れやすく語るためには、旧新約聖書の教えをそのまま語るのでは、薬についてまったく知識が無い人に、アセテルサリチル酸について一所懸命に説くようなものです。常識でわかる程度の説明で良いのです。

 ごく普通の、日本人の宗教意識に語り掛ける伝道が大切なのです。神に似せて造られた日本人は、神を感じ、認識する力を本能として持っています。しかもその本能は、多くの異邦人ほどには、栄光の神の姿を朽ちる偶像に代えてはいません。日本人には、多くの民族にありがちな偶像礼拝が、非常に少ないのです。そのために、日本人には高度な神感覚が残っているのです。




日本人の宗教感覚

 クリスチャンたちの間で行われている、日本人の宗教意識についての学びは、西欧キリスト教的な先入観による分析や、一方的な断罪が多くて、公平な学びが少ないように思われます。特に、日本人本来の宗教感覚を、もっともしっかりと保っている神道については、非常に浅い学びしかできていません。神道が理屈を嫌う宗教であって、神学を持っていないために、学問的な取り扱いができないことも影響しているのでしょう。

 日本人の宗教感覚は、実にややこしく絡み合って、容易に説明できるようなものではありませんが、ここではとりあえず、本来の人間に与えられている神知識に近い、より高度な宗教感覚と、そこから徐々に堕落して来た感覚に、分けて考えてみましょう。




高度な神意識

 日本人の中には、「神はいない」と言い切る人が少なくありません。彼らが普通に言うところの神、あるいは神々を信じていないのは、彼らに宗教意識が無いからではなく、むしろ、彼らが高度な宗教意識を持っているからだと言うことが、少なくありません。日本語でいう「神」、あるいは「神々」と言うものが、あまりにも愚かで、自分のうちにある高度な宗教意識では、そのようなものを崇め、敬い、礼拝することが出来ない、認めることが出来ないと感じるからです。お付き合いや礼儀で宗教行事に参加したりすることはありますが、普段は無宗教のようにふるまい、偶像礼拝とも無縁です。

 彼らの多くは、自分には礼拝すべきものなどないと、唯物論的な無神論を主張しているのではありません。むしろ自分は、絵でも像でも言葉でも表現できない大きな存在に、命を与えられている、生かされている、見守られていると強く感じながら暮らしています。その大きな存在が、日本語で言う神や神々のような、ちっぽけな存在ではあり得ない、あってはならないと感じているのです。

 また日本人は、その大きな崇高なお方について、理解しようとなどは思いません。むしろ、知ろうとすることなど恐れ多く、説明しようなどとはおこがましいと感じているのです。ギリシヤの知的興味から発展した、神に対する畏れを欠いた西欧神学など、言葉による偶像なのです。そのお方は、不注意に近寄ってはならないお方、名前をもって呼ぼうなどと考えてはならないお方なのです。そのお方のことを想うと、何故かしら、自分は小さく弱く穢れた存在だと感じてしまうのです。人間の理解も理屈も想像も空想さえ及ばない、不可思議なお方だと、本能的に心得ているのです。

 このような日本人こそ、聖書に啓示されている天地の創造者であるお方を、感覚として理解できる人たちです。そしてこのような日本人は決して少数者ではありません。実際のところ、程度の低い八百万の神々を認めている日本人たちも、同時に、このような高度な宗教意識を持っていることがよくあるのです。ですから、彼らの高度な宗教意識を引き出すようにして話し合うならば、容易に、創造者を認めることができるのです。彼らは唯一の存在者や、時間と空間を超越した存在者、あるいは、良い者にも悪い者にも太陽を昇らせ、雨を降らせてくださる恵み深いお方を、認めることができるのです。

 気高く尊い唯一の存在者を感じる、高度な宗教心を持ちながら、この存在者はまたすべての自然物に潜んでいる、あるいは宿っていると信じている人たち、唯一神論的汎神論感覚の人たちもいます。これもまた、聖書に啓示されている神と矛盾するものではありません。聖書の神はすべてのものを創造された神ですが、同時に、すべてのものを超越し、すべてのものを貫き、すべてのものの中に存在し、すべてのものを内に収めておられる方だからです。したがって、このような神感覚を持っている日本人には、比較的容易に、聖書にご自分を啓示された神を紹介することが出来るのです。




中程度の神意識

 唯一の存在者を感じ、その方を崇めようという感覚は、ちょっとした油断で、すぐに廃頽してしまいます。その廃頽の途上にあるのが、神宮とか大社などと呼ばれるような大きな神社、あるいは歴史と由緒のある神社に祀られている、神を拝む感覚です。これは絵でも像でも言葉でも表現できない高貴な存在者を、特定の神の名をかぶせて礼拝するものです。見えない栄光の存在者を、何とか見えるものにしたいという欲求の表現です。

 それでもこの場合、神社に祀られている神、あるいは神々は、まだ目に見えない存在のままです。神社の中に祀られているのは、偶像ではなく、見えない存在を表現する象徴的なものです。いわゆる、依代となるものです。それはちょうど、イスラエル民族にとっての契約の箱や、その中に収められていたもの、あるいは幕屋や神殿全体と同じです。それらは神の臨在を象徴していました。イスラエル人たちは、偶像礼拝はしませんでしたが、それらのものを依代として、見えない神を礼拝していたのです。

 厳密に考えると、日本の神社などの依代としての役割は、偶像礼拝に陥って行く過程のひとつと思われ、イスラエルの神殿礼拝とまったく同じと言い切れませんが、見えない神を身近に感じさせる依代であると言うことに、違いはありません。日本人は、春日神社に行こうが八幡神社に行こうが、まったく同じ気持ちで礼拝(らいはい)します。天照大御神を祀った神宮に詣でても、大黒様を祀った大社に参拝しても、同じ感覚です。小さな社や祠に手を合わせても、同じ気持ちです。多くの場合、それらの表面に現れた神々は、その背後におられる大きく気高い、唯一の存在者の依代だと感じているため、そこに、神の像が無くてもいいのです。ご神体などと呼ばれるものも、実際は神の姿を刻んだものではなく、象徴するもの、依代となるだけのものがほとんどです。

 例えば日本の主神と言われる天照大御神は、太陽を神とするものだと説明され、多くの日本人が太陽に手を合わせています。ご来光などと言って、高い山に登って、昇り来る太陽に手を合わせます。しかし、太陽を神そのもとして礼拝している人はあまりいません。すべての命の源になっていると思われる太陽ではありますが、神とはしないであくまでも神を象徴するもの、依代として拝んでいるのです。




低度の神意識

 汎神論的な神を信じる宗教感覚には、もう一段低い、少しばかり堕落した感覚もあります。
すべての自然物には、多くの霊、あるいは神々が宿っているという感覚です。多神論的汎神論とも言える神感覚です。これは容易に多神教に移っていきます。

 すべてのものを恵みによって照らし、生かしていてくださるお方の依代として、天照大御神を祀りご来光を拝むのは、まだ高度な神意識を表現しているとはいえ、そのような神意識を持っている日本人は、同時にまた、八百万の神々も認めていることが多いのです。そこに、明白な自覚も区切りも境界線もありません。そのために混乱してしまうのです。そこに、日本人は自分が持っている高度な神意識を、説明しようと思わないことも加わって、ますます混乱してしまうのです。 

 一般の日本人の低度な宗教感覚では、宗教の対象にさえなりにくい、お化けや妖怪、幽霊や物の怪から始まり、仏教的な感覚も混入して、前世や死後の世界、地獄や天国、さらには死後に仏になるとか、生まれ変わるとかいう概念までも併せ持っています。さらに、神道的な感覚と仏教的な感覚が入り混じって、様々な神々の偶像を拝んでいる場合さえあります。ただしこれらの神々は、助けを求める対象にはなり得ても、崇め敬い礼拝する対象にはならないのが普通です。例えば、子宝に恵まれたい女性が、男根に似た鍾乳石に祈願する宗教的風習があります。そして子供が生まれたときには、感謝の捧げものをするのは普通です。しかし、その石を崇め敬い礼拝することはまずないのです。

 このような混乱した感覚は、普通、アニミズムという未発達で低級な宗教観とみなされます。クリスチャンたちは、これを堕落した偶像礼拝と断じて、糾弾します。しかし私たちは、このような宗教観、あるいはある種の世界観は、聖書の宗教観、世界観と相通じるものと見るべきなのです。聖書が用いている用語は、ヘブル語やギリシヤ語で、日本語とは異なった意味合いを含みますが、要するに、この世界は見える物質の世界だけではなく、見えない霊的な世界とつながり、一緒に存在していると感じているのです。

 日本では、怨霊が徘徊し、死霊がさまよい、魑魅魍魎がばっこしています。狐の霊が悪さをしたり、蛇の霊が憑いたりもします。聖書の世界では悪霊が病気を起こしたり、汚れた霊が害を与えたりする一方、み使いがいて人間を守ってくださることもあります。聖書の世界も、アニミズムの世界なのです。この世界は第三次元だけではなく、み使いの世界も、悪霊の世界も、死後の世界も、良いことをして死んだ人が行く世界も、悪いことをして死んだ人の行く世界も含めて、たくさんの次元からできています。

 日本語の「神」と言う言葉は、本来「うえ」と言う意味です。人間より力のある存在はみな人間より上、つまり神とみなされて神々となり得るのです。したがって、人間にはできないこともすることができる悪霊もみ使いも、日本語的な表現をするならばみな「神」なのです。子供が出来ない女性にとっては、ネズミさえ神になり得るのです。沢山の子を産む力を持っているからです。聖書の世界の悪霊も汚れた霊も、み使いたちも悪魔でさえも、日本語では神なのです。しかも、そのような言葉の使い方は、聖書でさえ、悪魔を「神」と呼んでいるほどで、日本語だけの特徴ではないのです。

 ですから私たちクリスチャンは、日本の宗教土壌や日本人の宗教意識を、ことさら軽蔑したり、安易に断罪したり糾弾したりするべきではないのです。むしろ、そのような霊的状態に憐れみを持って接し、混沌の中から人間の本性に通じる高度な神意識を探し出し、それに触れ、それを通して、天地の創造者であるお方について理解してもらうのが良いのです。




信仰による救いを徹底する伝道  

 このような異邦人の特徴を持っている日本人には、信仰による救いの神学を深く理解し、それを徹底して伝道を進めて行くのが良いと思います。パウロはユダヤ人も異邦人も同じ原則によって救われるという、普遍的な福音の神学を確立しました。行いを必要としない救いが真髄です。その神学をただの学問上の問題に止めず、伝道の働きの上でも実践していくのです。

 パウロが、信仰による救いと言う普遍的な福音の神学を論証し、人々を説得するときに用いたのは、アブラハムが神を信じて義とされたと言う、創世記の記述です。パウロは「キリストを信じて義とされる」と言う議論を、何の説明もしないまま、突然、アブラハムが「神を信じて義とされた」という議論に、飛躍させています。旧約聖書の救い主の預言から、キリストへの信仰に至った「パウロにとって、「神を信じる」ことと「キリストを信じる」こととは、まったく同じであって、飛躍でもなんでもなかったのですが、私たち日本人にはとんでもない飛躍です。

 多くの神学者が何の言及もしないまま、通り過ぎているこの点こそ、私たち異邦人にとっては大切なのです。なぜなら、このときのアブラハムは、すでに選ばれ召しだされてはいても、まだ律法を与えられていない状態にあったからです。いわば、まだ異邦人と同じ立場にいたと言えるのです。

 律法を与えられていなかったアブラハムは、後になって、イスラエルに対して律法によって自己啓示をしてくださった神については、知りませんでした。神についての知的理解はまだまだ不十分だったのです。救い主についても、罪についても、十字架についても、代償の死についても、悔い改めについても知りませんでした。彼の神知識は、基本的に、異邦人の神知識であり、神に似せて造られた人間としての、本能的な神知識、本能的な神感覚によるものであり、彼個人の信仰生活を通して培われたものです。

 その「神を信じた」という彼の信仰は、現在のクリスチャンたちがいう信仰とは、かなり性質が違うものでした。それは「信仰」というより、「信頼」と言った方が良いものです。アブラハムは、神学を信じたのではありません。教理を信奉したのでもありません。理屈を受け入れたのでもなく、教えを受容したのでもないのです。彼は、神と言うお方を信頼したのです。彼に現れてくださったお方に頼ったのです。その信頼を神は受け入れ、その信頼のゆえに、彼を義としてくださった、つまり彼を受け入れ救いに入れてくださったのです。




イエス・キリストによる救い

 アブラハムも、イエス・キリストの贖いの業、十字架の死と復活を通して完成された、救いの御業によって救われました。キリストよりも、2000年ほども早く生まれたアブラハムは、キリストを知らず、キリストを信じてはいなかったのに、キリストによってすくわれたのです。罪人の救いは、キリストによる以外にないのです。

 ではアブラハムと同じ、律法のない状態で生きて来た日本人は、天地の創造者であるお方に信頼することによって、キリストの救いを頂くことはできないのでしょうか。聖書を調べる限り、できないと言う結論はどこからも出てきません。天地の造り主であるお方を信じる信仰は、ウエスレーの大衆伝道で見ることが出来たような、信仰告白と悔い改めによる明らかな救い、何月何日にどこでどのようにしてと言う、明白な救いの経験にはならないことでしょう。

 義とされたアブラハムの経験もまた、いつどこでどのようにしてというものではありませんでした。一応、聖書の記述は、「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」となっていますが、そのアブラハムの信仰は、何もないところから突然湧き起こったものではなく、長い間の神とのお付き合いの中で培われ、育て上げられたものです。カナンの地に行きなさいと言われてそれに従った時から、アブラハムの信仰はすでに行動を伴って発揮されていたのです。アブラハムはずっと主を信じていたのです。その信仰が、自分に正妻による子が与えられるという、不可能なことを信じる心になって現れ、それを覧になった神は、彼にキリストの義を着せてくださったのです。

 異邦人である日本人が義とされる信仰もまた、アブラハムのように神との長いお付き合いの中で、培われ、育てられるべきものです。その長いお付き合いの中のどこかで、キリストの義を着せられる瞬間があるのです。義としてくださるのは、まったく一方的に神の御業であり、神の権威に属することですから、人間の側から、いつどのようなときに義とされものか、特定することはできません。

 イエス様を信じたユダヤ人の多くは、予備知識を持っていたために、信じる決意をした瞬間について語ることが出来たかもしれません。キリスト教文化の中で育った人たちも、そのような瞬間を持てたことでしょう。イエス様を信じるに至った異邦人たちにも、たしかに、このときと思う瞬間があったかもしれませんが、長い神様とのお付き合いの中で積み重ねられた信仰経験の、一つの頂点としてそのような経験を持ったはずです。




全能者に対する信仰

 日本人はどこまで、全能者について知らなければならないのでしょう。全能者であると知る必要はあるのでしょうか。アブラハムは、私たちが言う「全能者」を理解していたでしょうか。天地の創造者と言う理解だけではだめでしょうか。自分を造り、生かしてくださっているお方では、いけないでしょうか。そのような理解とそれに対する信仰は、段々と固くなっていくものです。「いつどこで」は、神様にお任せすべきなのです。神が決定してくださることだからです。

 私たちにできるのは、日本人の神意識を頼りに、聖書が教えている神について語り、その神を信頼するように勧めることです。文字で書かれた律法を持っていなくても、心に書かれた律法で生きている日本人の、信仰観、神意識を大切にして、そこに語り掛けて行くべきです。私たちが伝える福音は、イエス・キリストが、日本人のためにも十字架にかかって死んでくださった事実です。そしてその事実を信じて、今も生きておられる復活のキリストを信頼してもらうことです。しかしそれより先に、天地を造り、人間を造り、命を与え、食べ物を与え、必要なものすべてを備え、生かしてくださっている、恵みの神をはっきりと示し、そのお方に信頼して生きることを勧めるものでなければなりません。

 その神は西欧の植民地主義者たちが日本に持ち込もうとした、血なまぐさい神ではなく、アメリカに都合が良い日本を作ろうとしてマッカーサーが広めた、キリスト教の神でもなく、昔から、日本人が密かに心の奥深くで感じていた、大きく、優しく、気高く、恵み深いお方であること、良い者にも悪い者にも太陽を昇らせ、雨を降らせてくださるお方であることを、なんとかお教えすることでなければなりません。

 天地を造り私たちを愛し、すべての必要を備えてくださるお方を信頼し、このお方がお望みになるような生き方を教えるべきです。そして、この方の素晴らしさを、人生の様々な局面で体験してもらい、さらに強く、このお方に信頼する生き方を勧めて行くべきです。このお方が人間に求め、期待しておられる生き方は明白です。

 その第一は、神を愛することです。愛するという言葉を絶対の存在者に向けて使うことには、いくばくかの躊躇を感じるので、むしろ敬う、敬愛するという表現にしましょう。すべてを造り支配しておられる気高いお方を敬い、ほめたたえて生きることです。太陽を見ても、月を見ても、星を見ても、海を見ても山を見ても、それらをお造りになった神を尊び、敬って、礼拝の心を持つことです。美味しい物を食べるとき、おいしいと感動するだけでなく、芳しい花にうっとりとするだけでなく、小鳥のさえずりに耳を傾けるだけでなく、それらをお造りくださった神をたたえるのです。そして、ありがとうございますと語り掛けるのです。

 第二は、神が特別に心を込めて、ご自分に似せてお造りになった、人間を愛することです。それは、自分以外の人たちも、神に愛されている存在であることを認め、何事においてもその人たちの幸せを願い、そのために努力することです。自分の益のためだけでなく、他の人たちの益も考えて生きることです。人間は神の愛の対象です。ですから、他人を愛することは神を愛することでもあるのです。

 この、他人を愛することは、自分の力だけで努力してもうまく行きません。かならず、神の助けを求めながら努力することを教えましょう。すると、その努力の中に神の働きかけ、神の力を感じることが出来るようになるのです。すると神に頼ると言うことが、単に平安な心をもったり、優しい気持ちを持ったりするための、心理作用を期待することではなく、実際に神の力を体験し、神の助けと愛を体験することであることがわかるのです。

 そのようにして、まず大きく恵み深い神を体験し、その愛と力を実感してもらうならば、キリストの話も、躓くことなく聞いてもらえるようになります。十字架の贖いの教えも、感動と喜びをもって受け入れてもらえます。神の御心に沿わない生活をしていた罪人であることも素直に認めてもらえます。だから、本物の悔い改めも期待できるのです。このとき、キリストによる救いが、理解されるのです。

 福音伝道で最も大切なことは、実際に祈らせることです。祈りはたとえ弱くても、信仰の表現、信頼の言葉です。その祈りのとき、「どこのどなたか存じませんが」と言う、西行の歌のようにではなく、「天と地をお造りになったお方に、申しあげます」と、祈りの対象、祈りを聞いてくださるお方を、はっきりと特定することが大切です。西欧式の伝道では、神は唯一と信じなければならないようですが、そんなことはどうでもいいのです。私が信じ、尊び、崇め、感謝し、祈るのは、このお方だと定めればいいのです。唯一神信仰は、聖書が救いのために必要であると言っていることではないからです。それは、後になって理解すればいいことです。




私たちがやってきた伝道

 ここまで私は、なんだかだと七面倒くさいことを言い続けてきました。でもこれは、実は私たちの伝道の場では、時々やってきたことにすぎません。何十年もの長い間、奥さんに教会に誘われても、あれこれ理由をつけては拒絶し続け、キリストの話なんぞ聞きたくないと、新聞を読むふりをして逃げ出して来た夫が、まさに死の直前、「俺も、お前とおんなじ神様を信じるよ」と言ったとしたらどうでしょう。奥様は、「うちの主人がとうとう救われたんです。信仰の告白をしたんです」と、大喜びするでしょう。牧師も神様の恵みだと、あわてて病床洗礼をと言い出し、奇跡が起こったとキリスト教式の葬儀の準備を始めることでしょう。

 でも、そんなあやふやな言葉で、その男性が救われたと断言できるのでしょうか。主イエスが、自分の罪の刑罰を身代わりに負って、十字架で死んでくださったと信じなければ、救われないのではないでしょうか。いいえ、私たちは、神様の大きな憐れみに信頼しているのです。たとえ、イエス・キリストとその働きを知らなくても、天地創造の神を信頼するならば、神は、その信頼を受け入れ、キリストの十字架の功績のゆえに、お救い下さるのです。


posted by まさ at 07:57| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

私の個人伝道

私の個人伝道
                                 


    2016年4月8日
                                         佐々木正明

始めに
 
 昔はよく個人伝道をやったものです。高校一年で救われて、すぐに個人伝道と言う大切な働きを教えられ、所かまわず、誰彼の見境もなく、ただやみくもに、「イエス・キリストはあなたの罪のために死んでくださいました」と、語りかけたものです。その結果、どういう弾みか、それがきっかけで信仰を持ち、のちには牧師になった人まで現れました。結構有名になって、本まで出しています。でもそれは、私の個人伝道が成功したのではなく、たまたま彼の精神状態が、ちょっとしたきっかけで信仰を持つ状態になっていたに過ぎません。

 だから、そんなことがいつも起こるわけではありません。かえってほとんどの試みは、見るところ何の収穫もない失敗に終わり、むなしさでいっぱいになったものです。だからといって、クリスチャンになりたての時に教わった、「個人伝道の大切さのトラウマ」は、そんなことで消し去ることが出来るほど、生易しいものではありませんでした。失敗に失敗を重ねてついに疲労困憊し、やっと思い切って投げ出すことが出来るまでには、10年近くもかかりました。われながら、学びの遅い人間だと思います。

 ただ、牧師になり宣教師になると、もっぱら説教だとか伝道方策だとかに忙しく、いつの間にか、以前のように、一人の人間の魂の大切さを考えることも少なくなり、個人伝道のトラウマも残滓となって、頭の片隅の奥の方にこびりついているだけになり、めったに思い起こすこともなくなったのが、精神衛生上は良かったと思います。

 ところが、それから40年近くもたった昨年、私はまた個人伝道の機会に遭遇したのです。しかも今度は、並行して3人です。私はすでに、「神・罪・救い」という道順をたどる、あの伝統的な伝道法には別れを告げていました。「イエス・キリストが、私たちの罪のために十字架にかかって、死んでくださいました。このキリストを信じるだけで、他に何もしないままでも救われるのです」と、しょっぱなから語りだすあの福音伝達法は、語る方にも聞く方にもあまりにも難しく、「絶対に成功しない」と思うようになっていました。少なくても、失敗をくり返した悟ったことです。

 そこで今回は、宣教師の働きに区切りをつけて、日本に帰って来てから改めて日本の文化、日本人の宗教観、神観、信仰観を学び直し、思い至った個人伝道法を試してみることにしました。それがどのようになったか、できるだけ簡潔に、しかも内容は正確に・・・と言っても簡潔にしたり、会話を文章化したりしながら・・・、今も個人伝道に情熱を燃やしておられるクリスチャンたち、あるいは、私のように個人伝道に失望して匙を投げてしまいそうになっている方たちに、お話ししたいと思います。いくばくかの示唆になれば幸いです。3人が3人とも同じような経過をたどり、キリストを救い主と信じる信仰に到達したのは感謝ですが、今回は、1人の女性の伝道記録を紹介いたします。




賢子さんへの個人伝道


 賢子さんは50を少し超えたと見える方でした。10年以上も前から膠原病を患っていましたが、今回ここに入院しているのは、どこかの有名病院でやってもらった、臓器の手術が失敗して治る見込みがなく、自分が住んでいる市に移ることになったからだということでした。非常に衰弱していて、話どころか、息をするのも苦しそうでした。一週間に一度の訪問でも、何も話すことが出来ずに、お祈りだけをして帰ることも一度や二度ではありません。話すことが出来たとしても、たいてい五分か十分程度で、三十分以上話せたのは数回だけです。

 彼女を訪問するようになったのは、私が牧会する小さな教会の、女性信徒の一人が紹介してくださったからです。保険の外交員をしているこの信徒は、顧客の一人だった賢子さんが、病院で悲惨な状況に陥っているのを見て、何とかして彼女に希望を持ってほしいと、私に「訪問して福音を伝えてください」と言ってきたのです。自分で福音を語ることが出来ない信徒に、もどかしさを感じながら、私は賢子さんを訪ねました。教会では、わかり易く福音を伝える手順を幾度も教えていたつもりなのに、この「わが教会では優秀な信徒」には、まだまだそれができないでいたのです。
 



訪問第1回目

 賢子さんは、見るからに憔悴していました。

「あなたがお入りになっている保険の外交員が、私が牧師をしている教会に出席していまして・・・・、あなたのためにお祈りくださいとリクエストを出されました。それから私にも、あなたを訪ねてお話ししてくださいと、おっしゃるので、失礼も省みずこうしてお訪ねいたしました。」

「そのことにつきましては、伺っております・・・・。」

 ベッドの上で目も開かないままに、消え入るように答える彼女を見て、一瞬、私は、彼女の命があまり長くはないと感じました。それで、前後関係の説明も省略して永遠の命のお話をすることにしました。

「私が信頼している天と地の造り主であり、人間をもお造りになって生かしてくださっているお方は、信頼してくる人には誰にでも、永遠の命を与えてくださいます。その上、この永遠の命は、単に無限に生き続けるというだけではなく、完全な肉体と完全な心を与えられて、痛みも悲しみも叫びも涙もなく永遠に生きる、素晴らしい命です。」

 賢子さんには何の反応もなく、ただ懸命に痛みに耐えていることだけが見て取れました。

「今日は初めてお会いしましたが、あまり具合が良いようにはお見受けしませんので、長いお話はいたしません。ただ、何も分からなくても結構ですから、このお方に頼ってごらんなさい。かならず、あなたにも素晴らしい人生が訪れますよ。『天と地をお造りになったお方にお願いします』と語り掛け、自分の願いをなんでもお話ししてください。」

 痛々しい彼女の姿に、なかば個人伝道をあきらめながら、私は彼女の痛みを和らげてくださるように、また永遠の命を与えてくださるように祈り、別れを告げました。

 この最初の訪問の日から、私は、筋道をつけて語る話の内容とは別に、訪ねるたびに、挨拶がわりに永遠の命についてお話ししました。死んでも生きることができるのだとお話しして、彼女を励ます努力を続けたものです。十字架の上で、今はの際の死刑囚の薄氷のような信仰に、救いをもってお応えになった、イエス様の憐れみを思い出し、何も知らない彼女のなかにもイエス様の憐れみに触れる、小さな信仰が生まれることを期待したからです。




訪問第2回目

「いいえ。私は、神様についてお話に来たのではありません。」

「キリスト教の神様についてのお話ですか?」

 弱々しく尋ねる賢子さんに、私は答えました。

「日本人にとって、神様と言うのは八百万の神々や、神話に出てくる神々、それから、いろいろな神社に祀られている神々ですが、私は、そのような神々のお話をしようとして、来たのではありません。そのような神々の中に、外国から連れてこられた、キリスト教の神を加えるお話など、賢子さんには何の益にもならないと思います。」

 ちょっといぶかしげな顔の賢子さんに、私は続けました。

「私がお話ししたいのは、賢子さんが日本人の一人として、たぶん、小さいころから心の中に感じてこられたのではないかと思う、大切なお方についてです。どう説明したら良いのか分からないし、なんてお呼びしたらいいのかさえ分からないのに、心の奥深くで、かすかに、しかも確かに感じてきた、大きく、優しく、力強く、気高く、恵み深いお方についてです。」

 目を閉じたままの賢子さんの顔に、聞いている微かなしるし見ながら、続けました。

「私はキリスト教の牧師ですが、私が信じ頼っているお方は、賢子さんだけでなく、多くの日本人が、昔から、心の奥でかすかにそしてたしかに感じて、良くはわからないままにも、崇めてきたお方だと考えています。ですから私は、まったく知らない神様を賢子さんに紹介して、この神様を信じるように、宗教を変えるようにと、勧めようとしているのではありません。」

 このとき賢子さんは目を開け、黙って不思議そうに私を見つめるだけでした。

「賢子さんも日本人の一人として、いろいろな神々を知っておられたはずですし、そのような神々に願掛けをしたことも、お祈りをしたこともあるかも知れませんね。でも、理性で考えても、そのような神々を、自分が崇め、敬い、礼拝するべき対象であるとは、考えてもみなかったことと思います。たとえ願掛けが叶い、祈りが聞かれても、『ありがとうございます』と言いはしても、尊敬と憧れをもって、礼拝を捧げることはなかったことでしょう。」

 再び目を閉じられた賢子さんの表情に、素直に聞いてくださっていることを感じて、さらに続けました。

「それが多くの日本人の感覚です。日本人はよく、八百万の神々を信じていると言われていますが、それは、日本人の宗教観のきわめて表層的で浅い理解、あるいは通俗的な表現にすぎないと思います。私がお話ししたいのは、そのような神々ではなく、賢子さんも大多数の日本人と同じように、「ふとまじめになったとき」に、かすかではあっても確かに感じてこられた、目に見えない大きなお方についてです。太陽を昇らせ、雨を降らせ、緑の山を与え、青い海を備え、その中に多くの植物や獣や鳥、そして魚や貝などを生かし、私たちに与えてくださっている、恵み深いお方についてです。」

 明らかに、私の話に興味を持っておられるように、 賢子さんは目を閉じたまま、黙って聞いておられました。

「この、目に見えない、大きな恵みにあふれたお方が、私たちを造り、命を与え、食べ物を与え、生かし続けてくださったのです。私たち日本人は、昔から、たとえおぼろげではあっても、そのお方を心の奥深くで感じて、よくは分からないままにも、感謝をささげ、自分たちのやり方で崇めてきたのです。」

 賢子さんの様子に、疲れがにじみ出て来たのを見て、私は話を切り上げ、彼女の祝福と永遠の命のために祈って、別れを告げました。

「どうぞ、来週の訪問の時まで、彼女を生かしておいてください。」

 そう祈りながら、エレベーターに乗ったものです。




  訪問第3回目

 病室が変わった彼女を探すのに手間取って、やっと見つけたところが就寝中でした。妻が持って行った花を、看護師にいただいたコップにさして、そっと置いてきました。




  訪問第4回目 

 「退院されましたよ」

 看護師の言葉にがっかり・・・。でも、しょうがありません。

「紹介してくれた泰子さんに住所を訊いて、近いうちに訪ねることにしよう・・・・。」
雨が激しく、病院の大きなガラスを叩きつけていました。




  訪問第5回目

「あの、青い壁の家だよ。きっと・・・・。」

 カーナビの付いていない車で見当はずれをくり返したあと、とうとう見つけました。

「呼び鈴を鳴らしたんですけど・・・・、だれもいらっしゃらないみたい・・・・。」

 だいぶ長い間玄関前にたたずんでいた妻が、戻ってきました。

「たぶん休んでおられるか、聞こえていても、玄関まで出てくることが出来ないのかもしれないね。」

「今度は、ご主人が仕事から帰ってきたころを見計らって、来てみましょう。」

 子供がいないと聞いていましたので、賢子さんが独りで休んでいては、お会いするのは難しいと判断して、妻と私は次の訪問先に向かいました。




  訪問6回目

 呼び鈴を押しても、何の応えもなく、携帯で呼んでみても返事がありません。

「ご主人が、仕事から戻って来ている頃合いだとは思うのだけど・・・・。」

 諦めて帰ることにしました。




  訪問7回目

 妻が押した呼び鈴に、髪の毛こそだいぶ後退していましたが、逞しく日焼けした男性がそっと顔をのぞかせました。訪問の事情を話すと、奥様の賢子さんはずっと具合が良くなく、『寝たっきりです』と小声で話してくださいました。

「普段は毎日2時間ほど介護の方が来て、身の回りの世話をしてくれるので、自分は毎晩7時過ぎまで仕事です。佐々木とおっしゃる牧師が、いつも病院を訪ねてくださり、いろいろな話を聞かせて励ましてくださっていると、家内から良く伺っています。本当にありがとうございます。体の具合さえもう少し良ければ、私が教会に連れて行けるのですが・・・・・。」

 夕闇の中で、ご主人はとても丁寧に挨拶をしてくださいましたが、賢子さんにお会いすることはできませんでした。ただ、ご主人が私たちのことを聞いていて、迷惑とは思っておられないことを喜びながら、お暇しました。




 訪問第8回目

「大変でしたね。まだ痛みますか?」
 
 以前と同じ病院の、違う病棟に賢子さんを訪ねて、開口一番に訊きました。そして、我ながらまずい訊き方をしたものだと、心の中で悔んだものです。彼女の顔には、痛みがありありと現れていたからです。

「昨日、お宅までお伺いしたところ、近所の方から、賢子さんが転んで大腿部を骨折して、前と同じ病院に入院されたと聞いたものですから、驚いてやってまいりました。」

「骨折の痛みは、鎮痛剤が利いていて今は痛くないのですが、以前からの痛みがどうしても取れません。でも、もっと詳しくお話を伺いたいと思っておりましたので、今日は、どうか・・・お聞かせください。」

 その言葉に少しほっとして、励ましをと慰めの言葉をかけてから、本題に入りました。

「前回は、私が信頼し、お祈りをしているお方は、たぶん、日本人の一人として、賢子さんも昔から心の奥でかすかに感じ、良くは分からないままにも、崇め、感謝を捧げて来たお方だとお話ししましたね。私が話していることに、納得していただけるでしょうか? 賢子さんは、心の奥深くで、良くは分からなくても、また、かすかではあっても、日本語で言う神様とは何か違う、もっと気高く、大きく、優しく、恵み深いお方を、感じて来られなかったでしょうか?」

「はい。そういえば、私も、普通の日本人として、八百万の神々や、たくさんある神社や祠にいると言われる神様に、お願いごとをしたことはあります。でも、そのような神々と、私の心の奥深くで、かすかに感じているお方は、別の存在のようにも感じます。私はこんな体ですから、かえって、生きている事に、いえ、むしろ、誰かに生かされていることに、感動することがあります。そんな時、思わず手を合わせて感謝をしたのも、一度ならずありますが、それは、八百万の神々や神社の神様にではなく、なんて表現していいのか良くわからないのですが、私の心が密かに感じている・・・・・あえて言えば、気高く、尊く、情け深く、恵み深く・・・・大きなお方。何の根拠もなく、説明もできないのですが、私の心がおぼろげに知っている・・・・・そんなお方に、手を合わせていたのだと思います。」

「そうでしたか。賢子さんもやはり心のどこかで、そのような尊いお方を感じながら、生きて来られたのですね。たとえば日本人は、大抵、食事の前には『いただきます』と言いますが、あれは食事を出してくださった方、あるいは作ってくださった方や、作物を作ってくださった農家の方々に言っているだけではなく、その背後で作物を育て、私たちに食べさせてくださっている、大きな力を持っておられるどなたかに、感謝の心を表現しているのだと、思われませんか? 私は、多くの日本人が同じような感覚を持ち、同じような体験をしているのではないかと思います。ただ、その、かすかに心に感じるお方が一体誰なのか、なぜ感じるのか、どうしてあまりにもうっすらとしか感じられないのか、何もかも良く分からないために、ついつい、目に見える姿を持つ八百万の神々や神社に祀られている神々に、お祈りしてしまうこともありますね。それでいながら、心のどこかで、なんて言うか、本能的に、『これは違う・・・。本物じゃない』などと感じてきたわけです。」

「私も、結構、宗教的なところがあって、子供のころからお宮参りをしていました。でも、八百万の神々を本物の神様だと思ったことは一度もありません。神社に祀られている神々が、本当の神様だと思ったこともありません。でも、そこに祀られているいろいろな神々の背後に、真実の神様と言うか、気高く大きなお方がいらっしゃるのではないかと感じて・・・・、そうです、感じてです。決して、考えた結論ではなく、そのように感じて、思って、手を合わせてきました。」

「日本人って、とても面白いですね。確かに神社に行って、そこに祀られている神様に祈るのですが、その神様がどんな神様であるかには、ほとんど関心がありませんね。どこの神社にお参りをしても、まったく同じ気持ちで手を合わせます。厄除けの神様だ、受験の神様だ、縁結びの神様だと、特別な役割を持たされている神様もあるようですが、参詣する多くの人たちにとっては、そこに祀られている神様が大切なのではなく、その背後に隠れておられるお方、その後ろに潜んでおられるお方こそ、尊く、大きく、私たちが手を合わせるべきお方だと、なんとなく、感じているのです。」

「私は、あまり考えたこともなかったのですが、確かに自分はたくさんの神々にではなく、いつも心の中に感じている、優しく、大きなお方に手を合わせてきたと思います。そのお方を『神様』とお呼びするのにも、少し抵抗があります。」

「日本人の宗教感覚、あるいは宗教意識と言うべきものからすれば、そのあたりはとにかく曖昧ですね。多くの神々を信じていると言われながら、本人はおしなべて、神々と言われるものなど、信じていないのではと思われます。例えば深い山に入り、見事な大木を見ると、そこにしめ縄が張ってあったり、淡い光の中に流れ落ちる滝のわきには鳥居があったり、苔むす岩々に触れてふと脇を見ると、そこに祠が置かれていたりします。多くの日本人は、それらの中になにか神々しいものを感じます。でも、それらのものを神様と言うのは、あまりにも安易で通俗的な気がします。それらのものの背後に、あるいはそれらのものの内に、気高く、尊く、大きく、優しく、強いお方の存在を感じていると言った方が、納得できます。」

「確かにそうですね。私も、そのような場所でしめ縄が張られていたり、小さな社が建てられていたりすると、たいてい、手を合わせてきました。大木や滝や山や川が神様だと思ったことはないのですが、そのようなものの中に、大切で、尊い、どなたかが潜んでおられると、感じていたからだと思います。」

「そうですね。日本人の多くは、そのような感覚をもって生きていると思います。あらゆる自然物に気高い存在が宿っておられると、本能的に感じているわけです。ただ、それを上手に説明することはできません。それで、安易に、すべての自然物を神々に仕立ててしまうこともあるわけです。でも賢子さんは、すべての自然物に多くの神々が宿っておられると、感じていたのではないようですね。むしろ、良くは理解できておらず、説明しようなどとは、お考えになったこともないだろうと想像するのですが、いま、考えてみると、いかがでしょう。賢子さんは、多くの自然物に宿っている、多くの神々を感じていたと思いますか? それとも、すべての自然物に宿っておられる、一人のお方を感じていたと思いますか? もしかしたら、大多数の日本人が心に感じている大きなお方は、たくさんの神々ではなく、唯一のお方、ただ一人のお方なのかもしれませんね。」

 賢子さんは少し目を開き、思いをめぐらせるように、天井の一点をみつめながらお答えになりました。

「一人のお方というか、同じお方と言うべきかわかりませんが、たくさんの神々ではなくて、むしろ、ただ一人のお方、同じお方が、すべての自然物に宿っておられる・・・・・と感じていたと思います。」

 期待していた答えを聞いて、励まされたように感じた私は、さらに続けました。

「そこが大切ですね。私たちが持っている高度な宗教感覚では、お一人のお方、同じお方が、すべてのものに宿り、すべてのものの背後にいらっしゃると感じるのですが、その同じ私たちが、すこし世俗化というか、安易な宗教心に流れて、自分が感じているお方について説明しようとすると、たちまち、多くの神々という言い方になってしまうわけです。日本中いや世界中に、時間と空間とを超えて存在するなど、人間の常識と体験を超えていて、心で感じたとしても、理屈では説明できないからです。そこから、人間社会と同じような、神々の世界が想像され、おどろおどろとした神話が生み出されたりもします。」

「たしかに、ほとんどの日本人は、おっしゃるようにこの二つの宗教心というか、高度な宗教感覚と安易な宗教理解を持っていて、なにか、使い分けているようなところもありますね。」

「そうですね。だから同じ人が、ある時は何々の神様と言われる神様に願掛けをしていながら、同じ口で、『神なんて存在しない』と平気で言えるわけですね。そのようなものは神様ではない、自分が尊んでいるのは、もっと気高く、優しく、自分を生かしてくださっている、良く分からない大きなお方なのだと、心の奥底では感じていながら、日常の中では、いろいろな神々を認めているところもあるわけです。

「神と言う言葉が、とても曖昧ですね。」

「その通りです。心で感じている目に見えない大きなお方は、人間の理解力をはるかに超えたお方ですので、そのお方について語ろうとすると、限られた理解力でも説明できる『たくさんの神々』になってしまうのかも知れませんね。ですから私も、個人的に、『神様』という言葉をあまり用いたくないところがあります。『神』と言う言葉は小さな、小さな、人間の頭が想像することが出来る程度のものだからです。私たちが信頼しているお方は、天と地をお造りになった大きな力あるお方で、人間の想像力をはるかに超えたお方だからです。そのため、このお方を『神様』とお呼びするには、少なからず抵抗があるわけです。『神』という日本語は、もともと『うえ』という意味で、普通の人間よりいくらかでも力があったり、能力があったりするものをなんでも、人間より上と言う意味で『かみ』と呼ぶからです。料理がうまければ料理の神、野球がうまければ野球の神という具合ですね。最近はスケートの神様だとか、神対応などと言う言葉も流行っていますね。昔は、人の上に立つと思われていた役所は、『おかみ』と呼ばれていましたし、お殿様は『・・・の頭』、あるいは『・・・の守』と呼ばれていました。人の上ですから『かみ』なのです。頭に生える毛は上の毛ですから『髪の毛』、うちの奥さんは偉い人ですから、『おかみさん』です。

「ええ!? そういう意味なんですか・・・?」

 ちょっと驚く賢子さんの笑顔に、私は続けました。

「ですからたとえば小さな動物でも、何らかの面で人間よりも優れた力があると考えられれば、神様になれるわけです。子供のできない女性からすると、子だくさんの犬やネズミは神様になれるのです。でもそのような神々を、私たちの心で感じて来た、あの気高く、大きく、強く、恵みにあふれたお方と、一緒にすることはできません。私が信頼している、『天と地の造り主』と同じレベルと言うか、同じ次元で語られても困ります。」

 仰向けに寝たまま、私の話を促すかのように、わずかに頷きながら聞いておられる賢子さんに安心して、更に続けました。

「私は、日本人が昔からかすかながらも感じて来た、尊く、気高く、大きく、優しい、目に見えないお方こそ、キリスト教の牧師である私が信頼している、「天地をお造りになったお方」だと信じています。ただ、日本人はこのお方を理解しているわけではありません。本能的に感じて来たのです。賢子さんもおっしゃったように、本当に、感じて来ただけです。また日本人は、無理してそのお方のことを理解しようとも、考えなかったようです。このお方が、あまりにも気高く、大きく、人知を超絶していると感じるために、考えることを諦め、ただ崇め、尊んで、感謝を捧げて来たという一面があるのです。大きな尊いお方を、理屈で説明できるとか、言葉で理解してもらえると考えるほど、日本人は愚かではなかったということでもあります。あるいは、ギリシヤ的な思考に慣らされた西欧人のように、とことん理屈で詰めて行くことが苦手で、あきらめが早いともいえるかも知れませんね。とにかく大多数の日本人は、自分たちが心で感じている、高く、深く、広いお方を、学問で究めようなどと、大それたことは考えもしなかったのです。そんなことは、思い上がりもはなはだしいと、感覚的に悟っていたと思われます。」

「そのような気高い方を心に感じているのは、日本人だけでしょうか? 他の国人たちというか、他の民族というか、日本人ではない方たちは、私たちのようには感じていないのでしょうか?」

「決して日本人だけではないと思いますよ。人間であればだれでも、感じるのではないかと思います。ただ、いろいろな理由で、日本人は特にその感覚に優れていると思われるのです。」

 私は、ここで非常に重要な事柄に踏み込むことにしました。

「天と地をお造りになったお方が、私たち人間に与えてくださった聖書と言う書物には、このお方が人間をお造りになったとき、人間だけを、ご自分に似せてお造りになったと書かれています。このお方は霊的な存在者で、あらゆる意味で無限のお方ですから、有限な人間の目には見えません。ですから、ここに記されている「似せて」と言う言葉は、顔かたちや姿のことではありません。このお方の本質的な性質である、霊的なあり方です。つまり私たち人間は、この第三次元の世界に生かされている有限なものですが、唯一、霊的な次元、別の次元を感じ、ある程度それを理解できる能力というか、性質を与えられているということです。ところで突然ですが、賢子さんは、猫がお祈りしているのを見たことがありますか?

 「え、猫ですか? 見たことがありません。」

 賢子さんは、わずかに白い歯を見せながら答えてくださいました。

「そうですよね。猫や犬がお祈りすることはありません。あらゆる動物の中で、人間だけがお祈りをします。人間だけが、第三次元以外の次元のことを感じ、自分をお造りになった目に見えない大きなお方を、本能的に感じるようにされているからです。感じる能力が、与えられているのです。ただその能力が、今は旨く機能していないために、自分を作ってくださった恵み深いお方のことが、ほとんど分からなくなってしまったのです。でもこのお方を礼拝したいという気持ち、このお方に感謝を捧げなければならないという心は、本能として残っているために、世界中のどの時代のどの文化の人にも宗教心があるわけです。でも、このお方のことがよく分からなくなってしまって、このお方の代わりに、おかしな神様を作り出して拝んだり、幽霊だとかお化けだとか妖怪だとかを空想して恐れたりしています。幽霊がいるのではと怖がるのは、人間だけですよね。猫が幽霊を怖がっていては夜遊びが出来なくなりますね。」

「前に、うちで飼っていた猫は、夜遊びが大好きで困りました。毎日朝帰りで、日中は寝てばかり・・・・。」

「いま我が家にいる猫も、夜遊びが大好きです。幽霊などを想定して、気味が悪いし怖いから夜は出歩けないなどと言うのは人間だけです。霊的な性質を持っていながら、すっかり迷いの中に落ち込んで、様々な霊的現象を空想しては怖がり、恐れているためですね。」

「そういえば、私の父も、とても強いしっかりとした人間だと思っていましたが、可笑しなことに、幽霊が怖くて、夜は一人で寝られなかったんです・・・・。」

「世界中のすべての人間が、人間である以上、たとえ非常に希薄で曖昧ではあっても、日本人と同じように、自分を創造して下さったお方のイメージを持っていて、そのお方を礼拝したいという気持ちを持っています。でも、大方の人々の意識はあまりにも希薄で、曖昧模糊としているために、自分勝手な神々を作り出し、様々な偶像を作成して拝んでしまうのでしょうね。その傍らでは、幽霊や悪霊、死霊や背後霊などと訳の分からないことを言って、一方では弄び、もう一方では勝手に恐れています。たいていは、『幽霊の正体見たり枯れ尾花』となるわけです。」

「人間すべてに、そして人間だけに、霊的な性質が与えられ、私たちをお造りになった天地の造り主を、感ずる能力があることが分かりました。」

「ただし、これは単に感ずる能力だけではありません。これは、造り主と交わる、あるいはお話をする、意思を通じる能力があるということなのです。だから、人間は祈り、造り主はその祈りに応えてくださるのです。」

 ここで賢子さんは、おずおずと切り出しました。

「さきほど、日本人は特に、造り主である方を感じる能力に、優れているというようなことをお話になりましたが、それはどういうことでしょか? どうしてそのようなことが言えるのでしょう。」

 話が順調に進み、賢子さんもしっかりと聞いて、的を射た受け答えになっていることを喜んで、更に話を続けようとしましたが・・・。

「○○さぁ〜ん。診察のお時間でぇ〜す。診察室に行く準備をしてくださぁ〜い。」

 突然、看護師の声がかかって、今日はこれまでとなりました。急いで、

「どうかいつも、天と地をお造りになったお方にお祈りし、感謝と願いと賛美を捧げながら生活してください。天と地をお造りになったお方は、必ず賢子さんのお祈りに応えてくださいますから。」

 と、私。

「ええ。この頃は毎日、朝晩にお祈りしています。私自身、自分の中に大きな変化を感じています」

 看護師さんの気配を後ろに感じながら、短くお祈りをしてお別れしました。




  訪問9回目

 賢子さんは、大きなリハビリ専門病院の、個室に入っていました。骨折後のリハビリと言うことで、病院を移られたようです。ただ実際のところ、素人目にも、もう立って歩くことなど、思いもよらないという状態なのですが・・・・。どうやってリハビリをするのか・・・・・?

「こんにちは。ここは個室なので、落ち着いてお話ができますね。」

 窓の向こうの明るい梢から、ゆっくりと目をはなして、賢子さんは弱々しく口を開きました。

「ええ。いつもありがとうございます。ここですと、他の患者さんに気兼ねせずにすみます。」

「それに、今日は顔色も良いようですが・・・・。」

 ほんとうは、特に顔色が良かったわけでもなかった・・・・のかも知れません。ただ、窓からの光が部屋を明るくして、一瞬、彼女の顔をさわやかに見せたのです。

「はい。今日はゆっくりお話が聞けそうです。」

「前回はたしか、日本人は天地をお造りになったお方を感じる感覚に、特に、優れているのではないかと言うところで、中断していましたね。そこからお話ししましょうか。

 少なくても、調子が悪くてお話しできない賢子さんではなかったことを、感謝しながらお祈りを済ませ、「個人伝道」を再開しました。

「世界中の民族や国々の人を、みな調べてのお話ではありませんが、元宣教師として、様々な国のいろいろな民族の代表者たちと、ずいぶんお話しする機会がありました。様々な文献に目を通すこともできました。それで言えるのですが、日本人の心には、日本人自身が気づかないままですが、天地をお造りになったお方の性質が、特別に強く残されていると思います。それは日本人の倫理観や道徳観となって現れて、世界でもまれな、最も進んだキリスト教諸国にも引けを取らないほど、平穏な落ち着いた社会を作り上げています。多くの国々の人たちが、口をそろえて賞賛しているほどです。」

「そのような話は、テレビや雑誌の報道を観ても、良く取り上げられていますね。」

「もちろんいろいろな反論も、例外的な出来事もたくさんあります。私が見ていても、おかしな日本人感覚、絶対に納得できない日本人独特の考え方、日本人らしい醜さもあります。海外で長い間活動して来た私などには、『もう嫌だ! 日本人なんかと付き合いたくない』と思うことさえあるんですよ。それでも日本人の倫理感、道徳観の高さは、世界の人々が認めていると言えるでしょう。ずいぶん昔のこと、そうですね1970年代の初めだったと思いますが、イギリスのある調査機関が、「世界のクリスチャン度」と言うものを発表したことがあります。それによると、世界で一番クリスチャン的な国は、日本だというのです。クリスチャンの数という点では日本はもっとも低いのですが、社会の平穏さ、人々のものの考え方、判断基準、価値観、倫理観など、あらゆる角度から総合的に評価すると、いちばん聖書の教えに近い生き方をしているのは、日本人だということです。ふつう最も進んだキリスト教国と言われる北欧の国々でも、イギリスでも、ドイツでも、アメリカでも、イタリアでもなく、神道と仏教の国、日本だというのです。」

「詳しいことは知りませんが、確かに、大航海時代に植民地にされて、カトリック化された中南米の国々や、アジアではフィリピンに行くときでも、治安が悪いから、強盗や万引きが多いから気を付けるようにと言われますね。それだけでなく、ヨーロッパのキリスト教の国々に行くときも、アメリカに行くときも、日本のように無防備で歩かないように言われますね。安全とか倫理と言う面では、日本は特別なのですね。江戸時代の日本では、女性が独りでかなりの遠出をしていましたが、同じころのイギリスでは、せいぜい2キロくらいが限度だったそうです。長いあいだ病院生活をしている私は、そこまでさえも出歩けないものですから、テレビや雑誌ばかり観ていて、雑学が増えました。」

「どこの国にも、素晴らしい人格を持っている人はいます。親切で心優しい人はどの文化にも存在します。安全な社会もどこかにあるでしょうね。ただ、日本は特別なようです。そこが大切です。」

「どうして、そんなことになっているのでしょうか?」

「それは、とても良い、そして大切な質問だと思います。日本人の宗教観、倫理観、社会の治安などからの推論に、聖書の教えからの推論を重ねると、そのように言うことが出来ると思います。推論ですから、絶対の確証があるわけではありません。物理や数学の世界ではありませんので、確実な証明は不可能です。でも私は、かなり高い確率でその推論が正しいと考えています。」

 ときおり、痛みに顔をしかめることがあっても、とても熱心に耳を傾けてくださっている賢子さんの様子に励まされて、さらに続けました。

「キリスト教の世界では、聖書を神様からの律法(戒め)と理解して、その戒めに反することは罪と考えます。ところが、その聖書の戒めはユダヤ人とキリスト教徒に与えられたものであって、それ以外の人たちに与えられたものではありません。その聖書の中に・・・・、ここが大切なところなのですが、ユダヤ人やキリスト教徒以外の人たちにも、天地を創造されたお方からの、基本的な律法が与えられていると教えられています。それが今まで話してきた、私たちの心の奥にある、目に見えないお方に対する恐れと尊敬の念です。造り主である方に似せて造られた性質です。これが、基本的な、あるいは原則的な律法となって、キリスト教社会以外の社会でも、良い秩序が保たれ、良心的で安全な生活が営まれるようになっているわけです。いわば聖書のように、文字で書かれた律法ではなく、心に書き記されている律法です。」

「日本人のように、ユダヤ人でもキリスト教の信徒でもない人々にも、聖書ではない戒め、文字で書かれた戒めではない、心に書かれた戒めが与えられていると、文字で書かれた戒めである聖書に教えられているのですか? なにかとてもややこしい言い方になりましたが・・・。」

 賢子さんは、とても頭の良い人なんだと、改めて思いながら続けました。

「その通りです。多くのクリスチャンたちは気づいていませんし、気づいていてもその大切さを理解していませんが、そのように聖書に教えられているのです。」

「・・・クリスチャンではなかった私たちにも、同じ天地の造り主から律法が与えられていて、私たち日本人は、その心に書き記された律法を大切に守っていると言うことですね。たぶん、多くのキリスト教諸国の人々が、聖書の教えを守ろうとする以上に・・・。」

「そういうことです。文字で書かれた律法、つまり聖書の大切さは、まず、心に記された律法ではよく分からない、天地を創造されたお方のことが、詳しく教えられているところです。次に、そのお方が人間のために準備して下さった救いの御計画と、その遂行について詳しく記されていることです。その文字で書かれた律法によりますと、人間の道徳的腐敗には二つの理由があります。第一はクリスチャンならば誰でも知っていますが、アダムとエバという人類の祖先の罪によって、人間が造り主である神から離れ、悪魔の支配に陥り、罪に縛られて生きるようになり、行き着く先が死になってしまったという物語です。いわばこれが第一の堕落で、基本的なものです。

「アダムとエバのお話は、ほとんどおとぎ話のように、多くの人たちに知られていますが、あれを本当のお話とお考えなのですか?」

 ちょっと驚いた反応をした賢子さんにお答えしました。

「アダムとエバの話は、今から3千数百年も昔に、難しい本質的なことをその当時の人々にわかり易く語り伝えようとしたもので、現代人の語り方、あるいは教え方とは違うかもしれませんが、本質を正しく伝えているものと考えています。」

「そんなに昔に書かれたお話だったんですか!」

「そうです、そんなに昔に、当時の人たちにわかり易い語り方で、理解されやすい方法で書かれているのですから、現代人が不注意に読むと、おとぎ話だと思ってしまうことがあるわけですね。・・・それで、もとにもどって・・・。」

「はい。ごめんなさい。話の腰を折ってしまいました。」

「第二は、第一の堕落から派生して来た、偶像礼拝の問題です。たとえ、第一の堕落によって造り主を離れしまっていても、造り主のことがまったく分からなくなったのではありません。事実、造り主は、ご自分のことを知らせようと、自然を通して絶えず人間にそのお姿を現してくださったと、聖書は教えています。それにも拘らず、人間はその栄光に富んだ造り主の姿、目に見えない永遠の姿を、目に見える人間や鳥や獣や地を這うものの姿に変えて、偶像を造り、それを拝むようになってしまったのです。」

「人間が、誰かを礼拝したいという本能ですね。本能はあっても、礼拝の対象と言うか、礼拝すべきお方がよく分からなくなっていた・・・・ということですね。」

「そういうことです。ただ、人間をお造りになったお方は、人間が、少なくても見えない造り主を崇めるべきだとお考えになり、それがわかるように、ご自分を現わしてくださっていたと、聖書には書かれています。それなのに、それにも拘らず・・・ですよ。人間は様々な形の偶像を作り出して、これを礼拝したのです。そこで造り主である神は、この愚かでかたくなな偶像礼拝者たちを、自分たちの汚れた欲望のままにお任せになったというのです。これがいわば第二の堕落です。

「第一の堕落の結果は、悪魔の支配にくだり、神を離れた社会を作り、罪の力に縛られるようになって、死を目指して生きるようになったということのように思いますが、第二の堕落の結果はなんでしょう?。」

「これは時間的には、第一の堕落の後、あまり時が経過しないうちに起こったことと思いますが、偶像礼拝のために、自分たちの欲望のままに任せられた結果は、聖書によると、まず性的な混乱、同性愛が挙げられています。それから続いて、多くの醜い罪が21も列挙されています。日本人の優れた倫理観、あるいは平穏な社会などは、ここに関係していると思います。

「第二の堕落、つまり偶像礼拝に関係しているということですか?」

「そうだと思います。実はとても大切なことなのですが、日本人が心に感じているあの大きなお方に関して言えば、偶像と言うものが存在しないのです。日本人の高度な宗教意識は、このお方の偶像を認めないのです。高度な宗教意識を無理やりに説明しようとすると、神々になったり幽霊やお化けや妖怪になったりしてしまいます。神々の偶像が巷に転がり、漫画のネタがあふれています。先にお話ししたように、ほとんどの日本人にとって、それらは「かみがみ」であったり、霊界の存在であったりするだけで、崇めたり敬愛したり、礼拝したりする、崇高なものではありません。かえって、「神なんぞ存在しない」と言わせるもとになっているものです。」

「でも、偶像がまったくないという訳でもありませんね。例えばお隣の佐賀県では、街々に恵比寿様の偶像を見かけますよね。」

「そうですね、恵比寿様のような神々は、通俗的に神話化されたものですね。そのような偶像は、日本中いたるところにかなりあります。人間はやはり、目に見えないものでは満足できず、何とか見えるものにしたいのですね。日本では、特に仏教が入って来て、古来の日本人の神道的感覚と混じり合った後は、偶像が増えたようですね。」

「日本の神々は、仏様をお守りしているのだと、説明がされたこともありましたね。」

「それにも拘らず、日本人古来の宗教的感覚は変わらずに、日本人の多くの心を支配していたと言えます。神道が仏教化した部分より、仏教が神道化した部分の方が多いようにさえ思います。だから、日本の仏教は他の仏教国の仏教とは随分異なっているわけです。よく仏教的な感覚として語られる『わび・さび』にしても、私は本来神道的なものだと思います。他の国の仏教には、そのようなものはありませんから・・・。」

「日本って、神道と仏教の国と言われていますが、仏教は、死に関わる事柄だけを扱うみたいですね。しかも、死についての仏教の教えはとても曖昧で、いまはもう、死んだときだけに関わる宗教と言う感じで・・・・。」

「死んだときだけに関わるというのは、少し言い過ぎかもしれませんが、死者をまつることを中心に、日本の家族や親族の繋がりを保つことによって、社会の基盤を据えている役割があると思います。仏教各派の教えは互いにひどく異なっていて、それを統一するとか調整することは不可能ですが、この死者に関わり、家族と親族の繋がりを保つという、神道にはない役割を果たしていると言えます。」

「仏教は良い宗教でもあるわけですね。」

「良いところもたくさんあると言うべきでしょうか。人間に救いをもたらさないという事では、良い宗教とは言えないでしょう。しかし、日本と言う国において、それなりの役割を果たし、日本の社会の安定化に貢献してきたことは事実だと思います。仏教徒たちにも、人間をお造りになったお方の性質がしっかりと宿っていて、彼らを治める原則的な力として働いていることに、変わりはありません。」

「すべての人間が、造り主から与えられているその基本的な人間性を大切にしていたら、宗教や思想を超えて、もう少し手をつなぐことが出来そうですね。」

「そうですね、『人類に共通な善』を無視して、自分たちの民族や国家や文化あるいは宗教の優位性だけを主張する「原理主義」に走ると、例えば大航海時代に始まったカトリックの植民地主義、その後に力を持ち出したプロテスタント諸国の、植民地政策のような残虐行為も許してしまいます。ISやアルカイダなどに代表される、現代のイスラム原理主義も同様ですね。

「アメリカなども、原理主義的傾向が強いキリスト教が、大きな政治的影響力を持っていると言われていますね。」

「そうですね。しっかりと聖書の教えに立つのは良いことだと思いますが、独善的な聖書解釈によって自分たちの優位性を主張するようになると、恐ろしいですね。それが民族的、文化的、国家的、思想的優越感になり、戦争や植民地化までも許して美化してしまうわけです。アメリカの独善性と言うか欺瞞は、ベトナム戦争を境に、だれの目にもはっきりしてきましたね。アメリカは素晴らしいキリスト教国だと思っていた人は、あれで裏切られ、さらに次々と暴かれるアメリカの国家的犯罪に、失望しているわけです。」

「ヨーロッパなどの伝統的キリスト教諸国でも、近年、若者たちのキリスト教離れが急速に進んでいますね。」

「あれなども、伝統的なキリスト教至上主義の教えが、一人の人間としての自分の人間性から出てくる『良心の叫び』とは、相容れないと感じ始めているからだと思いますね。私が前に、「キリスト教の神についてお話に来たのではない」と申し上げたことは、覚えていらっしゃるでしょうか?」

「ええ。不思議なことを言う牧師だなぁ・・・と思いました。」

「そうですか。覚えていてくださり、ありがとうございます。私は独りよがりの欧米キリスト教が嫌いなのです。私が好きなのは、聖書で教えられている教え。そこに現わされている天地を創造されたお方。また救い主としてこの世界に来てくださった、イエス・キリストであって、ヨーロッパ人の作り上げたキリスト教ではありません。私は、多くの西欧のクリスチャンたちと同じように、聖書に書かれていることを、神からの誤りのない教えであると信じていますが、その理解の仕方が違うのですね。欧米人が理解した聖書の教えでは、キリスト教以外の宗教はすべて悪であって、神の怒りと裁きの対象ですが、私が理解する聖書の教えでは、すべての人間には、造り主であるお方の麗しい性質が与えられていて、それが、人間としての基本的な律法となり、それぞれの文化の中で倫理観となり、道徳律に発展していると言うことです。キリスト教信者やユダヤ人以外の人々は、聖書の教えによって裁かれたり良し悪しを言われたりするのではなく、この、心に記された基本的律法に照らして裁かれるのです。聖書の律法は、ユダヤ人とキリスト教信者に与えられたものであって、他の人たちに与えられたものではありません。ですから、それによって裁かれることがあってはならないのです。」

「それでは、先生の教えておられる教えは、聖書に根差していると言えるかもしれませんが、欧米から教えられたキリスト教の教えとは、だいぶ違うところがあると言うことになりますね。」

「残念ながら、その通りです。特に他の宗教に対する考え方が違います。西欧から輸入されたキリスト教では、キリスト教以外はみな偶像礼拝の邪教、神が憎まれるものですが、私は、すべての宗教は造り主に似せて造られた人間の、本能的欲求の現れ、あるいは表現だと考えています。誰かを礼拝したいというのは、霊的性質を与えられて造られた人間の本能であって、それ自体は悪ではないのです。」

「私も、キリスト教は他のすべての宗教を、憎むべきものと教えていると思っていました。」

「ふつうの日本人にも、そのように理解されているのは、とても残念なことです。それは西欧キリスト教の受け売りであり、間違った聖書の読み方から来る誤った理解です。何かを礼拝したいというのは、人間に与えられた本能であり、赤ちゃんがおっぱいに吸い付くのと同じです。この本能が無ければ赤ちゃんは死んでしまいます。お腹を空かせた赤ちゃんは、おっぱいの代わりに親指に吸い付いたりもします。その行為を罪だと言って叱ってもはじまりません。おっぱいを与えてやればいいのです。」

「知らないのだから、分からずにいるのだから、教えて上げたらいいわけですね。」

「そうです。知らない人をしかりつけて裁きを宣告するだけで、教えて上げないのが悪いのですね。日本人は、天地をお造りになったお方を知らなかったために、そのお方を礼拝することが出来なかったり、そのお方を礼拝するにも、正しく礼拝できなかったりしているのです。ただ、気を付けて理解しなければならないのは、日本人の基本的宗教心の表現である神道には、いわゆる偶像が無いのです。通俗化したり、無理に理屈をつけたりした場合は、偶像の侵入も許すようですが、本来の神道には偶像が無いのです。賢子さんは、神社で神様の像を見たことがありますか? 無いですね? 純粋に神道の神社ならば、どこにも神様の像は置いていません。いわゆるご神体と言うものも、神そのものの像ではなく、神を象徴するものにすぎません。

「たしかに、神社には神様の像と言われるものを置いていないようですね。少なくても、私は見たことも聞いたこともありません。」

「日本人は、心で感じている気高く大きなお方を、非常に崇高なお方と感じていますので、このお方を言葉でも絵でも像でも、表現できるなどとは考えないようです。思いもよらないことなのですね。だから神道には、神様をあれこれと説明するキリスト教のような神学がありません。同じように、絵もなく像もありません。ユダヤ人のようにいくたびもくり返して、偶像礼拝を禁じられる必要もありませんでした。」

「日本人は、自分が直感的に感じている気高いお方と言いますか、本能的に感じている大きなお方を、自覚をしないままではありますが、とても大切にしていると言うことですね。」

「だから、『神なんていない』などと平気で言いながら、自分の宗教心を非常に大切にしていて、宗教の悪口は許さないわけです。この偶像を許さない日本人の宗教心は、神から突き放されて自分の欲望のままに任せられたという、第二の堕落をかなり止めているところがあるのではないかと、私は考えています。日本人の偶像礼拝の少なさは、日本人に対する神の怒りを少なくし、日本人の倫理観の高さ、日本社会の治安の良さにつながっているのだと思います。それが日本人を、多くの西欧キリスト教諸国の人々よりも、クリスチャン的な人間にしているのだと思います。聖書の律法も心に記されている律法も、もとはと言えば、同じ天地の造り主から与えられているものですから。」 

 ここで突然、賢子さんにひどく疲れた様子が現れました。先ほどまではなかった汗が、薄く額に浮いてきたように見えたのです。

「賢子さん。今日はずいぶん長くお話ししましたから、だいぶお疲れになったことでしょう。ですから、あとひとつのことだけお話しして終わりましょうね。」

「すみません。やはり、疲れたようです・・・・。」

「賢子さんが、今までずっと感じてこられた、目に見えない、大きく優しいお方は、私が信頼している、天と地をお造りになったお方だと思います。つまり、普通、クリスチャンたちが神様と言って、礼拝していたお方です。私は先にも言いましたように、個人的に、神様と言うのに少し躊躇するのですが、他に適当な言葉がないために、とりあえず、神様とお呼びしましょう。実は、聖書で教えている天と地をお造りになったお方を、なんという日本語に翻訳したら良いか、翻訳者たちはずいぶん迷ったようですが、結局、プロテスタント教会では神様と言う言葉に落ち着いたようなのです。このことについての詳しいお話は後に回して、便宜上、神様とお呼びしておきましょう。」

 賢さんは、黙って頷いて下さました。

「どうか、いままで賢子さんが感じて来た優しく大きなお方が、天地をお造りになりお方だ、感謝を捧げるべきお方だと、はっきりと認めてお祈りをしてください。『天地をお造りになり、私をお造りくださり、生かしてくださっている神様。ありがとうございます。今まで私は、あなたのことをあまりよく知らないまま、あまり感謝も尊敬もしないままに来てしまいました。まことに申し訳ありませんでした。これからは、あなたこそ、私の感謝と賛美を受けるにふさわしいお方だと定めて、あなただけを礼拝し、あなただけに信頼し、あなたに私をお任せして生きて行きます。どうか、私を守り、祝福してくださいますように、お願い申しあげます。』」

賢子さんの汗が少し濃くなっているのを見ながら、私は締めくくりに言いました。

「細かい言葉遣いなど、気にしなくてかまいません。天と地をお造りになった神様は、言葉がうまい下手ではなく、心を読み取ってくださるお方です。素直に感謝し、ほめたたえ、お願いをしてください。そして、神様の恵みと守りを体験してください。賢子さんのお祈りに、天と地を造り、賢子さんを造ってくださったお方は、必ず答えてくださいますから。」

 目を閉じたまま、ほとんど無表情になった賢子さんのために、最後に短くお祈りをして、別れを告げました。




 訪問第10回目

 賢さんは珍しく、ベッドの背を立てて体を起こしておられました。残暑にクーラーの涼風をわずかに感じながら、お祈りをささげて、お話を始めました。

「この前は、『神様』という言葉について、お話ししましたね。日本人が普通『神様』と呼ぶものと、私たちが本当に心に感じ、敬ったり尊敬したりしている大切なお方とは、別の存在であるということですね。私がお話ししようとしている方は、賢子さんも日本人の一人として、心の奥深くで感じて来られたに違いない、ありがたく、優しく、大きく、恵み豊かなお方についてだということです。実は、私たちも普通は、この方のことを『神様』とお呼びしていますが、それはあくまでも、日本語に適当な言葉がないので、とりあえず、翻訳として借用しているだけだということです。ここまでは、分かっていただけたでしょうか?」

 「はい。とてもよく分かりました。私も、ずいぶん曖昧にというか、なんとなく『神様』という言葉を使ってきましたが、私が本当に大切にしてきたのは、自分の心で、かすかに感じて来た、大きく、強く、恵み深いお方であり、このお方が、聖書が教えている天と地をお造りになったお方で、クリスチャンたちが、『天の父なる神様』とお呼びになっているお方だと分かりました。

「そして、このお方こそ、私たちに命を与え、生かし、すべての必要を与えていてくださるお方です。この方は優しく恵み深いために、良い人たちにも、悪い人たちにも、太陽を昇らせ、雨を降らせてくださっているのです。」

「静かに、まじめに、自分の人生を考えてみると、本当にありがたいことだと思います。今はこんな病気になっていますし、時には、『神も仏もあるものか』などと、悪態をついたこともありましたが、不平や文句などは、言ってはおれないですよね。」

「不思議ですね。健康で、好き勝手なことをしていながら、不平不満ばかり言っている人もいるかと思えば、賢子さんのように、ベッドの上に寝たきりなのに、『ありがたい』と感じながら、生きて行ける人がいるのですから。・・・・でも、賢子さんは私たちとお会いするまで、その心に感じてこられたお方に向けて、はっきりと、感謝を捧げたことはありますか? ありがとうございますという気持ちを、あきらかに表現したことはありますか?」

「そのように言われますと・・・・、あまりありませんでした・・・・。なかったと思います。」

「命を与えられ、必要なものすべてを与えられ・・・・思いめぐらせると、とても、とても、大きな恵みをいただいて来たのに、きちっと感謝もしていなかったということになりますね。」

「確かに、感謝の気持ちはありましたけれど・・・・・誰に向かって、どのようにしたらよいのか・・・・心の中で感じていた恵み深いお方の・・・・なんといいますか・・・そのイメージといいますか、お姿と言えばいいのでしょうか、感覚がぼやけていたものですから・・・・とにかく、はっきりしていなかったために、感謝の気持ちを、きちっと現わしては・・・・・来なかったのだと思います。」

 ゆっくりと、考えるように、賢子さんは言葉をつないでいました。

「あれほど大きな恵みと祝福をいただきながら、私たちの多くは、ほとんど感謝らしい感謝もせず、『ありがとうございます』とも言わなかったのは、たしかに、私たちの心に感じる天と地をお造りになったお方のイメージが、とても薄く、ぼやけていたからだと思いますが・・・・、やはり、これは『恩知らず』と言われても、言い訳が出来ませんね。あれほどよくしていただいたのに、『義理を欠いている』とも言えますね。あるいは、『親不孝』という言葉がありますが、私たちは天地をお造りくださったお方に『不孝』を重ねて来たのではないでしょうか。それなのに、まだ、このお方は忍耐深く、私たちから恵みを取り去ってはおられません。」

「そのように言われると、その通りですね。私たちは恩知らずで、不義理で、不孝を重ねていますね。でも、どうしたら良いのか分かりません。」

「そうですね。このような不義理、つまり、天地の創造者である方に本来するべき感謝をしてこなかった、本来、するべき礼拝も賛美もせず、きちっと敬意を払ってこなかったということは、やはり、大きな間違いだったと思います。これを、私たちはふつう、「罪」と言う言葉で表現します。私たちは天と地をお造りになったお方に、罪を犯してきたということです。」

「ああ・・、やっと分かりました。それが、キリスト教で言う罪なのですね。学生のころ、友人の一人が教会に通っていて、よく、『罪、罪』と言っていました。でも罪っていうと、私たちが考えるのは泥棒だとか人殺しですから、私には関係がないと・・・・。まったく無関心でした。」

「泥棒や殺人も罪には変わりませんが、それはどちらかと言うと、犯罪で、いま取り扱っているのは、それらの犯罪の根に当たる罪のことです。それは、自分をお造りになり、生かしてくださっていたお方を無視して、感謝もせず礼拝もせず、またそのお方が人間をお造りになった目的にも、少しの感心も示さず、勝手に生きて来たということなのです。親不孝、不義理、親の心子知らずというのと、同類ですね。」

 今日の賢子さんは、しっかりと目を開いて、きちっと受け答えをしておられます。

「ですから、いま、私たちにできることが二つ、いや、三つあります。一つは、不義理と不孝、恩知らずだったことをお詫びすることです。もう一つは、今日これから、このお方の素晴らしさを称え、感謝しながら生きることです。美しい花を観たら、『きれいだな〜』だけで終わらずに、『こんなにきれいなお花を造ってくださった神様。ありがとうございます』と、神様に感謝をすることです。さらにその上、私たちにも神様に似た性質を与えて、神様がお造りになった美しいものを、美しいと感じる感覚を与えてくださったことも感謝しましょう。そのような素敵な神様をほめ称え、賛美することです。美味しいものを食べた時も同じです。感動することがあったときも同じです。太陽が昇り、朝露が輝くとき、感謝しましょう。縁側で鳴く鈴虫にも、小枝を飛び交う目白にも、感動するだけでなく神様をほめたたえて、感謝しましょう。」

「すべての美しいもの、すべての善いもののために、神様に感謝し、ほめたたえるわけですね?」

「その通りです。そうしていると、しだいに、美しいものや良いものにだけではなく、美しくないもの、悪いものにさえ、感謝ができるようになるのです。それは、感謝し、賛美する心を神様が祝福して下さり、私たちの心を変えてくださるからです。でも、まずは美しいもの、おいしいもの、良いものをたくさん思い出し、ひとつひとつ感謝し、賛美していきましょう。沢山ありますね。とてもとても、たくさんありますね。今日は日差しがさわやかです。緑が輝いています。白い雲もすがすがしく、雀のさえずりさえ楽しく聞こえます。さわやかに感じる心を感謝しましょう。輝く緑を見ることが出来る目を感謝しましょう。心地よく雀のさえずりを聞くことが出来る耳を感謝しましょう。」

「よく分かりました。どうせ、ベッドの上で何もできない私ですから、いろいろな美しいもの、おいしいもの、楽しかったこと、嬉しかったことを、たくさん思い出すことが出来ると思います。」

「それをひとつひとつ感謝して行って・・・・。」

 私たちは同時に同じことを言いました。そして、笑いました。賢子さんが朗らかに笑う姿を始めて見ました。

「もう一つのことは、神様がお喜びになる生き方をすることです。それは、人間同士が互いに愛し合い助け合い、みんなが幸せになるように願いながら生きることです。」

「『互いに愛し合いなさい』と言うのが、キリスト教の基本的な教えだとは、どこかで聞きかじっていました。『罪、罪』と言っていた友人からだったかも知れません。」

「そうです。神様が人間に求めておられる大切なことの一つは、人間同士が愛し合い、助け合い、仲良く平和に生きることです。賢子さんは今、ベッドから起き上がるのも『やっと』の状態ですから、他の人のために何かをしてあげるなどと言うことは、無理かも知れませんね。でも、本当はとても大切なことが出来るんですよ。たとえば、他の人たちのために、お祈りをしてあげることです。自分に良くしてくださった方たち、親切だった方たちの顔を思い出しながら、その方たちの幸せのために、健康のために、家庭のために、人間関係のためにお祈りをしてあげるのです。それから、自分に不親切だった人たち、迷惑をかけられた人たち、嫌いな人たちのことも思い出し、その人たちの幸せのためにも祈ってあげるのです。いやかもしれませんが、その人たちのために祈ってあげていると、不思議にその人たちを赦すことが出来、いやな思い出も良い思い出と変わってきます。それは、神様が祝福してくださるからです。それから、病院の人たち、お医者さんのために、看護師の方々のために、掃除に来てくださる方たちのためにもお祈りしましょう。そして、できるだけ笑顔で、・・・・・ちょっと辛い時も、できるだけ笑顔で、あいさつし、『ありがとうございます』と言ってあげましょう。それだけでも、みんな明るい気持ちになれるんですよ。その明るい気持ちが、さらに伝染して行くわけです。」

 真剣に聞いておられる賢子さんに励まされて、私は続けました。

「あんな嫌な人のために、お祈りなどできないと思うこともあるでしょう。でも、『敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい』と言うのがキリストの教えであり、神様がお喜びになることなのです。その出来ないことをしてみるのです。『あんたなんか大嫌い! あっちに行って!!』と叫びたいところを、『いつもありがとうございます』と言ってみるのです。そのとき、自分の意志の力ではなく、神様に、『そのように言える心と勇気を与えてください』と祈りながら、言ってみるのです。すると、神様が助けてくださって、ほんとうに言えるようになります。そして、あなたの心が変えられ、やがて嫌いな人の心も変えられ、新しい人間関係が出来てくるのです。それが神様に喜ばれることです。決して自分の力でやろうとはせず、神様に祈りながら、助けられながらやることです。それが神様に対する信頼で、普通『信仰』と呼ばれるものです。自分の力だけでやろうとすると、必ず失敗します。神様に信頼して、つまり信仰を持って、やろうとすることです。神様が最もお喜びになるのは、人間に信頼されることだからです。」

「おっしゃる通りにしてみます。」

 賢子さんが約束して下さったのを聞いて、祈りの手本になるように、感謝と賛美と願いの祈りをしてお別れしました。




 訪問11回目

 一転して、賢子さんの顔色がよくありません。このところリハビリ病院で、明るく応答し、かなり話が進んだのですが、今日はお祈りをしただけで・・・・・、帰りました。帰り際にプレゼントですと、千代紙をたくさん折ってまとめた、大きなぼんぼりのようなものを持たされました。気分のいい時に、私たちに対する感謝の気持ちとして、何日もかけて作ったのだそうです。バックミラーのところに掛けてみましたが、大きすぎて運転の邪魔になるので、家に飾ることにしました。




 訪問12回目 

 またも賢子さんの容態が思わしくなく、病室の前でお祈りをしたまま、会わずに戻りました。




 訪問13回目

 リハビリ病院は、明るい色彩でまとめられていました。薬の副作用か、顔が丸く大きく腫れているようには見えましたが、元気な様子にほっとしながらお話ししました。

「この前は、ずっと昔から賢子さんが心の中で感じていた、気高く尊いお方に、感謝と賛美を捧げ、きちっとお礼をしてこなかったことを、お詫びすることについてお話ししましたね。それから、そのお方を褒め称え、信頼して生活すること、隣人を愛して行くことについても、お話ししました。しかも、それを自分の力でするのではなく、その気高いお方、つまりクリスチャンが天地の造り主として信頼しているお方にお祈りして、そのお方の力によって、そのようにさせてもらうということもお話ししました。いかがでしたか、やってみましたか?」

 賢子さんは、ゆっくりと、落ち着いて、言葉を選ぶように話し出しました。

「はい。やってみました。毎日お祈りして・・・・、天地の造り主である神様を褒め称えました。感謝しなければならないことをたくさん思い出して、今まできちっと感謝をしてこなかったことをお詫びし、ひとつひとつ『ありがとうございます』と申し上げました。それで、ずいぶん自分が変わりました。たぶん、祈りに応えられたのだと思います。」

「それは良かったですね。今までは、ただ、なんとなく心に感じていた神様でしたが、今は、祈りに応えてくださる、身近な神様となりましたね。」

「ええ。それから、教えられた通り、お祈りして神様の助けをお願いしながら、他人に親切にできるように心がけてみました。」

「その結果、どうなりましたか?」

「はっきりとは言えませんが、まず、私の気持ちが変わったみたいです。それから、心なしか、私に接する人たちの様子と言うか、態度が変わったようにも思えます。」

「そうですか。確かに変化してきているのだと思いますよ。もっとそれがはっきりと現れてくるように、続けて行きましょうね。」

「なんだか、私はいま、とっても幸せな気持ちになっています。私は、大きく強く気高いお方に守られているんだなって、感じます。誰にも知られないで苦しんできたのではなく、このお方がすべてご存じだったと思えて、・・・・病気のことも、手術の失敗のことも、何もかも神様がご存知なのだと思うと、深く安堵したというか、安心できるようになったんです。」

「それは良かったですね。少しずつですが、賢子さんは神様の力を体験しておられるのだと思います。天と地をお造りになったお方は、また、小さな雀までみ手のなかでお守りくださる神様だと、聖書に教えられています。そしてこの神様は、いわゆる、西洋から連れてこられた、キリスト教の神様ではありません。フランシスコ・ザビエルのスーツケースの中に入れられて、日本に運び込まれた神様ではありません。昔から、大昔から、天地創造の時から、日本にいてくださり、日本を祝福していてくださっていた神様です。多くの日本人が、賢子さんが感じておられたように、心の奥で感じて、良くは分からないままにも、崇め、崇拝して来た神様です。」

「そうですよね。私も、何か、とても懐かしい気持ちで、昔から知っていた優しいお方の、懐に飛び込んだような・・・・そんな感じがします。」

「キリストは、この神様を『天の父なる神様』とお呼びしましたが、まさに、長い間離れ離れになっていた、優しく強く大きな父親に再会して、その胸に飛び込むような心持が、神様を信頼することで、神様がお喜びになることなのです。聖書には、『神を愛する』ことが、人間として最も大切なことだと、教えられています。日本語では『愛する』と翻訳されていますが、なにか上から目線の表現に感じます。むしろ、『神様をお慕いする』と言った方が、日本語としてふさわしいでしょうね。『お慕いする』には、敬い、愛し、信頼するなどの深い意味がありますね。神様は、恐れたり、怖がったりするべきお方ではありません。恐れたり怖がったりするのは、神様のお心に反した生活をしているのではないかと、これも、ほとんど本能的に感じるからですね。」

「本当のところ、私も心の中で本能的に敬っていたように思うのですが、一方では、やはり本能的に恐れていたと思います。」

「そうですね。神を畏れ敬うという言葉があるくらいですから。やはり恐怖感もあったはずです。」

「どうしてでしょう? 神様は優しいお方のはずなのですが・・・。」

「これも今言いましたように、ほとんど、本能的な感覚でしょうね。優しいお方、恵み深いお方と感じていながら、一方では恐ろしいお方、怖いお方、近づきがたいお方と感じているのは、私たちに、自分ごときはこの気高いお方にはふさわしくない、自分は穢れている、汚いと感じているからではないでしょうか。キリスト教の信者に、頭ごなしに罪人呼ばわりされれば、『何を!俺は犯罪人ではないぞ!!』と腹も立ちますが、静かに自分を省みると、心の奥で感じている気高いお方の前に出るには、いささか汚らわしいと・・・・思うところもあるわけです。そんな日本人の心が、神社の手水舎(ちょうずや/てみずや)などに表現されているように思います。お参りする前に手を洗い口を漱いで、自分の穢れを洗い流すという意識だと思います。あるいは、流し雛などにも表わされているのだと思います。」

「流し雛って、今のお雛様の原型となった習慣ですよね。聞いたことがあります。」

「どのように聞いておられましたか?」

「たしか昔、日本人は、自分の身代わりとなる人形、つまり雛を作って、それに自分の穢れを乗せて、水に流したということだったと思います。」

「実際に雛が穢れを負って流れてくれたかどうかは別にして、日本人には、そのような強い穢れの感覚があったというわけですね。」

「そういえば、・・・私、大学時代の授業で、日本人には『恥』の意識はあっても、『罪』の意識はないと教えられたことがありましたが・・・・。あれはどうでしょう?」

「大変なことを思いだされましたね。それはたぶん、ルース・ベネディクトというアメリカの女性によって書かれ、戦後まもなく出版された『菊と刀』という、日本文化の研究書に書かれている事だと思いますね。アメリカ人による最初の日本文化の研究と言うことで、長い間、古典的な取り扱いを受けて来たものです。なかなか面白い分析で、たしか・・・人間関係を最も大切にして形成されている日本には、『恥』の意識は生まれても、絶対者の存在を前提としていないために、『罪』の意識は生じないというようなことを言っていたと思いますが・・・・。」

「でも・・・、キリスト教の神と言う絶対者の存在を前提としている欧米人が、その絶対者をどれだけ強く意識して生活しているか、はなはだ疑問にも思うのですが・・・。」

「そうですよね。多くの日本人は、キリスト教が言うような『絶対の神』の存在は知らなくても、気高く強く大きく正しい存在を、かすかにではあっても、心の中で、消すことが出来ない本能的な感覚として意識していていますね。だから、『誰が見ていなくても、だれに知られなくても、正しく生きよう』という、強烈な信念を抱くことも少なくありません。賢子さんは三浦綾子が書いた『氷点』という小説をご存知ですか?」

「ええ。人に勧められて読んだことはあります。三浦綾子は、クリスチャンでしたよね。」

「そうです。当時としては破格の賞金1千万円をかけて、朝日新聞が1963年に募集した小説です。私がクリスチャンになって間もなくのことであり、この小説の舞台が、私が暮らしたことのある村の隣村と言うことで、朝日新聞の連載を楽しみに読んだものです。この小説の中で、主人公の陽子が、継母から酷い虐待を受けながら、『石にかじり付いても』・・・・しがみついても・・・だったですかね・・・『正しく生きよう』と健気な決意をするところがあるのですが、まさに、そのような決意をさせたのが、天地の造り主である神の性質を与えられている人間の、本源的な、まさにマグマのように底の底から押し上げてくる衝動であり、その押し上げ突き上げてくるところが、日本人の魂の文化であると言うことが出来ると思います。

「実は、私もあの場面をよく覚えています。『石にかじりついても』だったと思います。」

「そうですよね。『石にかじりついて』が正しい日本語ですよね。罪の文化を持たなと言われる日本人の方が、陽子のように、非常に高度な倫理を固持し、その理念に従って行動をする場合が多いですね。たとえば、東日本大震災の時、あれだけたくさんの人たちが、あんなに大きな被害を受けながら、大変秩序のある行動をしていましたね。お店に暴徒が押し寄せて略奪するなどと言うことは、ありませんでした。あのような事態が起こると、キリスト教国と言われている国々でも、とんでもない略奪騒ぎになっていますね。警察だけでは足りなくて軍隊が出て来ても、あまりにも暴徒の人数が多過ぎて、何もできないというニュースをテレビや新聞で観てきましたね。」

「そういうときの、日本人って、とてもふしぎですね・・・・。何も東日本大震災の時だけではなく、そのような日本人の行動はいろいろな時に見られたと聞きました。戦後の満州からの引き上げの時の行動にもあったそうです。引き揚げ作業を管理していたアメリカ軍が、感嘆した話を読んだことがあります。」

「良くご存知ですね。私もその話は、何かで読んだことがあります。日本人は、いつも、絶対に聖く正しいお方が見ておられると、心の奥に感じていて、その感覚をぬぐうことが出来ないのだと思います。そして、そのお方の前に、自分は正しい行動をするのだという意識がとても強い・・・。」

「そういう点から考えると、罪意識はないと言われた日本人の方が、よほど強い罪意識を持っているのではないかと思いますよね。」

「だから日本人は、心に感じている気高く聖く正しいお方の前に出るには、自分はふさわしくないと感じています。それが日本人の罪意識でしょうね。あるいは穢れの感覚と言った方が良いかも知れませんね。日本人が本能的に感じているのは、罪よりも穢れでしょうね。日本語では、罪と言うのは表層的で、穢れと言うのは、もっと深くに存在する者のように感じますね。」 

「でも、ちょっと不思議に思うのですが・・・・。お聞きしてよろしいでしょうか?」

 賢子さんは、「勇気を出して」と、自分に言い聞かせるように切り出しました。

「いままで私はずっとお話を伺い、教えられた通りに、自分の心で感じていた気高く大きなお方が、天と地をお造りになった神様だと信じるようになりました。そして、おっしゃる通りに、この神様を崇め、感謝をし、お祈りを捧げてきました。その結果、この神様が自分を祝福して下さっているというか、自分を守ってくださっていると実感でき、私の精神状態がずいぶん変わってきたと思います。それが、病院という小さな社会でのことですが、私の人間関係も変わってきたと思います。それには、また、私には永遠の命が与えられているのだということが、現実的に、信じられるようになってきたことも、大きく関係していると思います。」

「そのことは、私も、お訪ねするごとに感じていましたよ。」

「でも・・・、私はそのお方を、聖く正しく、私など恐れ多くて近づけないお方であるとも感じて来ました。そして、その感覚は正しいものであるように伺ったように思いますが・・・・・。それならどうして、ただ、優しく恵み深く、人間の幸せを願い、祈りを聞き入れ、助けてくださるお方として、この恐れ多いお方に遠慮なく近づき、身勝手な祈りを捧げることが出来たのでしょうか。こんなことで、よろしいのでしょうか。どうして、私のようなものが、天と地をお造りになった大きなお方に、図々しく近づけたのでしょうか。懐かしい方に迎えられたような気持になれたのでしょうか?」

「賢子さん。あなたの疑問は、とてもとても大切なポイントというか、まさに、キリスト教の神髄ともいうべき点に、関わっています。キリスト教の『キリスト』という言葉は救い主と言う意味です。天と地をお造りになった神と言うだけならば、他の宗教、例えば、イスラム教やユダヤ教も同じように信じていますし、他にも、そのような宗教があるかもしれません。でもキリストすなわち救い主が、その神から遣わされて来てくださったと信じているのは、キリスト教だけです。

「キリストがキリスト教の特異性と言うことですね。」

「その通りです。このキリストと言う言葉は、キリストがこの世界に来てくださった当時、世界の共通語だったギリシヤ語ですが、キリストがお生まれになる前に書かれた旧約聖書では、主にヘブル語が使用されていて、『メシヤ』と呼ばれていました。『やがて救い主がおいでになりますよ』と言う励ましの言葉、あるいは予言の言葉として『メシヤ』が用いられ、人々の期待を集めていました。

「そういえば、世界メシヤ教という宗教もありますね。」

「あっ、あれは岡田茂吉と言う人が興した日本の新興宗教で、名前を借用しただけでキリスト教とは関係がありません。」

「そうでしょうね。なにか、私も違和感を持っていました。」

「それでは、このキリスト、あるいはメシヤ、・・・発音のしかたの問題で『メサイヤ』と呼ばれることもありますが・・・・」

「あっ。あのメサイヤという曲はそういう意味だったのですか!」

「よくご存じですね。ヘンデルが作曲した名曲ですね。メサイヤすなわちメシヤ、救い主、キリストです。では、この救い主についてお話をしたいと思います。それから賢子さんが、どうして何にもしないまま、そのままというか、ありのままの姿で、聖い生活をしたり徳や金銭を積んだりしないままで、気高く聖いお方に近づくことが出来たのかも、お話ししましょう。・・・でも、今日はもうだいぶ長くお話をしていますから、お疲れになったと思います。キリストのお話は、またこの次ということにしましょう。今までと同じように、天と地を造ってくださった、大きく強く優しく気高いお方を賛美し、慕い、信頼して、お祈りを続けていてください。この素晴らしい造り主の祝福を感じながら、生活してください。」

「分かりましたそのようにいたします。」

 賢子さんは珍しく手を振って、見送ってくださいました。




 第14回目

 リハビリ病院では、きちっとした治療が出来ないということで、賢子さんは元の病院に戻っておられました。幸い個室に入ることが出来たようですが、以前に比べるとずっと狭く窮屈でした。それでも、周囲に気兼ねせず話しあえ、お祈りもできるのでほっとしました。

「今日は、救い主のお話をすることになっていましたね。キリスト教がなぜキリスト教と呼ばれているのかと言うことですね。」

「はい。キリスト教が、なぜキリスト教と呼ばれるようになったかです。それから、なぜ、私のような人間が、出家もせず、功徳も積まずに、天地をお造りになった気高く聖いお方に、近づくことが出来たかを教えていただくことになっています。」

 賢子さんは、私が何を話そうと思っていたかを、すでに良く知っておられたようで、その言葉には期待さえ感じました。」

「それから、今日は特別に、もう一人の方に来ていただきました。私たちの教会に来ておられる重子さんです。たぶん、賢子さんと同じくらいのお歳だと思いますから、共通の話題も多いことでしょう。それから重子さんはベテランの看護師さんです。看護婦と言われていた時からの看護師さんです。牧師の私からだけ話を聞くのではなく、普通の信徒の方から聞くのも役に立つと思いますよ。」
 
 そう言い残して病室を離れ、30分ほど談話室で読書をしてから戻ってみました。二人の女性の会話は弾んでいるようでした。

「賢子さん。今日は重子さんと楽しくお話が出来たようですね。でも、お疲れになったでしょう? 救い主についてのお話は、またこの次にしましょうか。賢子さんは、救い主についてはまだあまりご存じなくても、神様をきちっと信頼しておられるのですから、心配はありません。神様は賢子さんの知識によって、お救いになるのではなく、神様を信頼する信仰をご覧になって、お救いになるのですから、安心してください。

「分かりました。今日は重子さんをお連れくださり、本当にありがとうございます。牧師ではなく、信徒と言う立場でのお話も、とても励ましになりました。キリストのお話は、この次に期待いたします。」

「これまでと同じように、神様を賛美し、お祈りを続けてください。神様の祝福をもっともっと体験してください。」

 賢子さんの明るい声に励まされて、私たちは病室を後にしました。証をすることによって逆に励まされた重子さんが、とても感動している様子が新鮮でした。

 訪問15回目

 前回、重子さんを連れて行って、思いのほか良い結果が得られたように思った私は、今度は、若いフィリピン人の女性を連れて行きました。明るく可愛いというより、美人系の彼女は、母国で良い大学を出た後、こちらで英語の教師をしていると言うことですが、何よりも、クリスチャン経験がしっかりしているので、賢子さんの励ましになると判断したのです。

「ハァ〜イ! ナイストゥミーチユウ!!」

 明るいあいさつの後、なんのためらいもなく、横たわる賢子さんの上に覆いかぶさるようにハグした彼女に、賢子さんはとても驚いたようですが、くったくのない片言の日本語に心を開いたのか、機嫌よく迎えてくださいました。握手した手をそのまま激しく振る美人さんに、いささか心配しながらも、はにかんだ賢子さんの笑顔に励まされて、私は福音の中心主題に入って行くことが出来ました。

 神の愛と聖さから始めて、救いの御計画、キリストの誕生とお働き、十字架の贖いと甦り、そして昇天と再臨、更には新天新地についてまで、神の救いの歴史について、ゆっくりと話すことが出来ました。何も心配せずに、人間の罪と堕落、神様に敵対した文化とその中に生きる人間、罪による悪魔の支配についても、語ることが出来ました。それから、人間に対する神のこよなき愛と、無代価の救い、すなわち信仰による救いと罪と悪魔からの解放と永遠の命について、充分に説明しました。賢子さんは、そのすべてを、素直に、そして真剣に聞いておられました。とくに、キリストの贖いに現わされた神の愛について聞いているときは、とても感動していることが分かりました。

「よく分かりました。」

 長い話を聞き終えて、賢子さんは、はっきりとおっしゃいました。

「私は今日まで、天と地をお造りになった大きな神様について伺い、その神様を信じるようになってきました。その神様は、私がずっと前から、心の中で感じていた神様であることも分かりました。人間は神様に似せて造られているために、本能的に神様を感じ、礼拝したいという願いを持つことも理解しました。だから日本人も、大昔から神様を心に感じ、良くは分からないままにも崇め、祀ってきたのだということも納得できました。そしてその神様が、私たちを祝福し、必要なすべてのものを与えてくださっていることも、よく分かり、感謝をしてきました。太陽を見ても感謝、風を感じても感謝、花に触れても果物を手にしても感謝出来る人間になりました。」

「賢子さんの様子を拝見して来ましたが、今おっしゃったことがその通りなのだと、私も感じています。本当に良かったですね。」

「でも今日は、その神様が準備して下さった救いについて、まったく新しい分野について、教えていただきました。まるで、見えなかった目が開かれるように、とてもよく分かりました。救い主の誕生とお働き、特に十字架の身代わりの死についても、なぜそれが必要だったのか、とても良く理解できました。その救い主を通して現わされた、神様の比べようもない大きな愛については、ただ、感謝することしかできません。神様の救いが無代価でなければならないことも、その通りだと思います。お金で買うべきものでも、功徳と交換すべきものでもないことにも、納得ができました。本当に、こんなに尊い救いに、私たちは何を持っても充分な支払いはできません。ただ、感謝をもって受け取る以外はありません。」

「その通りです。きっと納得していただけると思って、お話ししましたが、・・・・・ほかに、何か分からないところはありますか?」

「いいえ。お聞きしたことはどれもこれも、みんな、腑に落ちると言うべきでしょうか、よく分かります。何の疑問もありません。神様がどれほど私たちを愛していらっしゃるのか、とても言葉では言い表せないと思います。私たちは造られて、愛されて、守られていると思うだけで、感謝がいっぱい溢れてきますが、救い主を通して現わされた愛について知ると、ただただ、もう、何も言えなくなります。『ありがとうございます』と言っても、『もったいないことでございます』と言っても不充分です。

「分かっていただいて、私もとても嬉しく思います。それでは賢子さん、これからは、自分の本能的な神感覚に頼るだけではなく、もっとはっきりと神様について、救い主について、人間の生き方について教えられている、聖書に導かれる生き方をしましょうね。人間は神様の本性を写し与えられていますが、その本性は人間の堕落によってずいぶん曖昧になっています。ですから本性だけでは、神様を正しく理解することも、正しい信仰生活をすることもできません。それに対して聖書は、神様がご自分について、救いについて、人間の生活について、はっきりとお教えるため与えてくださったものです。今まで私は、この聖書によってお話しをしてきましたが、これからも、そのようにします。賢子さんも聖書を手に入れて、ご自分で読んでみましょうね。神様について、救い主について、もっともっとたくさん、しっかりと学んでいきましょう。そしてますます、神さまに信頼する生き方をして参りましょう。

「はい。どうぞよろしくご指導くださいますように、お願いいたします。」

 私と家内は、仰向けになったまま組んだ賢子さんの手を取って、一緒に感謝の祈りを捧げました。「アーメン」と言って目を開けると、喜びと平安に包まれた賢子さんの笑顔がありました。




終わりに

 賢子さんに始めてお会いしてから、もう1年半ほどにもなります。とてもしっかりとした信仰告白をしてからも、彼女はずいぶんひどい目に遭いました。法律が変わったとかで、長期間の入院が出来なくなり、2度退院させられました。自宅に戻った彼女を幾度も尋ねましたが、寝たきりのために、窓越しにお話しできたのが一度だけです。その2度の退院中に2度の骨折をしました。お会いしてから、合計3回の骨折です。さらに点滴中に細菌に感染したのか、骨折の時の傷口から感染したとかよく分かりませんが、左足に壊死がはじまり、切断しなければならないかもしれないなどとも言われました。壊死は骨まで達していましたが、幸い、今のところそれ以上進行せずに、切り取ったところに肉が盛り上がって来ています。あまりの痛さに、面会できないことも幾度かありました。

 でも今週お会いした時は、イエス・キリストを通して神が準備して下さった救いについて、1時間ほども、組織立ててお話が出来ました。お別れの前に、彼女は無理してベッドに起き上がり、私たち夫婦にプレゼントをくださいました。私たちそれぞれの誕生石と真っ赤なバラが入った、飾りの置物です。石はイミテーションですが、バラは本物を特別な方法で保存しているものでした。わざわざご主人に頼んで、買ってもらったそうです。

 次の日曜日には、教会に持って行って、信徒たちに見せたいと考えています。交わりには一度も来ることが出来ないままですが、信徒たちは名前を挙げて祈っているからです。私たちの教会の一員と理解されているのです。








posted by まさ at 07:27| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月09日

異邦人への福音・日本人の救いのために


          
 2014年12月
                                       西九州伝道所
                                        佐々木正明
                               


 使徒パウロは、異邦人への使徒と呼ばれるにふさわしい仕事をしました。ユダヤの民族主義の虜になっていた福音理解を開放して、すべての民族に対する福音、普遍的福音の理解に変えたのは、まさに聖霊に導かれた彼の働きでした。私たち異邦人クリスチャンは、彼の働きに大いに感謝をしなければなりません。

 とは言え、異邦人への使徒と呼ばれるパウロの働きは、主に神学的側面にあり、実際の伝道の働きによるものではありません。確かに彼はパレスチナに留まらず、異邦人の土地を広く行き巡りましたが、実際に彼の福音を聞いてそれを信じた大部分は、宗教的にも文化的にもすでにユダヤ化した人々でした。彼は伝道戦略として、行く先の町々でまずユダヤ人の会堂を訪れ、そこにいた人たちに語ったのです。会堂にいたのはユダヤ人とユダヤ教に改宗した人々、そして改宗にまでは至らなくても、すでに、ユダヤ教を敬い、ユダヤの文化の多くを受け入れていた人たちでした。

✩ ✩ ✩ ✩

 使徒の働きとパウロの書簡を読む限り、パウロが純粋な異邦人、すなわちユダヤの文化をまったく知らない人々に語ったのは、ごくわずかです。たとえ、キプロス島のセルギオ・パウロやピリピの獄吏のように、ユダヤ文化にあまり馴染みがなかったと思われるような人物でも、神の奇跡の働きを目の当たりにして、パウロの信じる神に畏れを感じ、聞く準備も受け入れる用意もできていた者です。

パウロが完全な異邦人の聴衆に向けて語ったのは、ルステラとアテネのことです。ルステラでは、自分たちが神ではないことを告げることで精一杯のようでした。アテネではほんのわずかではありますが、改宗者を得ることができました。アテネでの説教などは、さすがに異邦人への使徒だと唸らせるものがあります。とは言え、アテネでの彼の説教は、異邦人に対するものとしては、まだまだ準備不足なところがあります。彼が比較的長期間留まったコリントでの働きには、多数の異邦人が混じっていた会衆を相手に、随分苦労をした様子が見て取れます。彼がコリントのクリスチャンたちに宛てて書いた手紙に、それが良く現れています。

 パウロが実際の異邦人伝道では、あまり大きな働きをすることができなかったことは、マルタ島でのひと冬が物語っています。難船してマルタ島に上陸したパウロは、火にあたっていて、暖気で出てきたマムシに噛まれてしまいますが、まったく害を受けませんでした。それを見ていた人たちは驚いて、彼を神だと言い出します。それだけでなく、パウロは多くの病人を癒してとても尊敬され、島を離れる時には必要な品々を贈られてさえいます。ところが、そこにクリスチャンになった人が出たとか、会衆が生まれたなどという記述はありません。当然パウロは、そこで過ごした三ヶ月間、熱心に伝道したはずですが、記述するだけの実を得ることができなかったと思われます。まったくの異邦人、ユダヤ文化の影響が少しもない、しかも田舎に生きる粗野な人々の中では、ユダヤ教の影響の強い人々の中で得たようには、実を得ることができなかったのです。

 パウロは確かに異邦人のための神学では大きな貢献をしました。しかし実際の異邦人伝道ではまだ力不足でした。それだけでなく、大きな貢献をしたと言われる彼の異邦人の神学も、まだまだ基礎が据えられただけ、土台が敷かれただけで、その上に家は建てられていません。未完成というか、十分には開花していないのです。この、マルタ島で得るべき実を得ることができなかった、パウロの未発達な異邦人の神学では、現代の日本人に対応することができません。マルタ島の人々が、ユダヤ文化から遠かったよりも、遥かに遠い異邦人文化に生き、それを独自に発展させて、特異な精神文化と宗教心を育み、自分たちのアイデンティティを作り上げ、それを誇りとしてきたのが日本人です。たとえ、異邦人への使徒パウロがやって来たとしても、簡単に外来の信仰を受け入れるとは考えられません。

 私たちは今、パウロが基礎を据えた異邦人への福音をさらに発展させ、異邦人のための神学を築き上げなければなりません。遅すぎたといえば遅すぎたのですが、これからでも、絶対にやらなければならないことです。それができていないことが、日本の宣教が滞っている、大きな理由の一つだからです。



T. 聖書はだれに向けて書かれたか

「女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。」(Tテモテ2:11〜12、参照・Tコリ14:34)

 これは、聖書に記されている使徒パウロの言葉であり、霊感された神の言葉です。今でもこの言葉をそのまま受け取り、女性が教会で語ることを禁止している団体も少なくありません。この言葉をとって、女性差別にあたる考えを正当化しているクリスチャンも、たくさんいます。そのような教会やクリスチャンが、「だんだん少なくなっているかな」と思える傾向にあるのは、幸いです。

 この言葉は確かに霊感を受けた言葉、神の権威の下に書かれた言葉ですが、直接的には私たちに向けてではなく、第一世紀に生きていた人々に語られたものです。また、強いユダヤ文化の影響を受けて生きていた人々への言葉です。そのような特殊な事情を考察した上で、二十一世紀の現代日本に生きる私たちに適用しなければなりません。

 以上のことは常識的であり、ほとんどの日本人クリスチャンたちも良く心得ています。聖書は、誰に向けて書かれたかを知っていなければ、正しく理解することも、間違いなく現代の私たちに適用することもできないのです。聖書には、時代や文化や人種、階級、性別などを超えた、完全な普遍的教えは記されていません。みな時間的、文化的な制約の中で書かれているのです。あえて例外というならば、イエス様によって最も大切な戒めと言われた、「神を愛する」という命令(マタイ22:37)が、極めて普遍的に近いものでしょう。でも、それでさえ、ユダヤ人に向けて、ユダヤ人の言葉で書かれているという事実があり、正しく理解するためには、当時のユダヤ人が用いていた「愛する」という言葉の意味を、よく知る必要があります。ただ、ユダヤ人という制約があり、3千数百年前という背景と言語の問題があったとしても、「神を愛する」という戒めは、誰にでも適用できる普遍性を帯びているということです。

 イエス様に第二の戒めと言われた、「隣人を愛する」こと(マタイ22:39)は、もっと注意深い適用が必要です。なぜならここで言われる隣人とは、書かれた当時は、ユダヤ人のことだったからです。それを今、自分以外のすべての人と解釈するには、かなりの思索が必要です。この程度のことは、しっかりと学んだクリスチャンや伝道者、あるいは牧師にはよく知られていることです。とは言え、実際上はしばしば忘れられ、疎かにされていることです。

 それ以上に困ったことは、旧約聖書が、直接的にはすべてユダヤ人に向けて書かれているという事実が、軽く見られていることです。用いられた言葉もユダヤ人の言葉です。本当のところ新約聖書の大部分も、ユダヤ人か、ユダヤの宗教文化を持った、異邦人クリスチャンたちに向けて書かれたものです。新約時代のクリスチャンは、たとえユダヤ人ではなくても、非常に強いユダヤ的宗教文化の影響を受けていたのです。そのような聖書を、あたかも、現代に生きている日本人である「自分に」、直接宛てて書かれたかのように読むのは、正しくありません。必ず、適用ということを考えなければならないのです。

   ある教えは、大渓谷を橋渡しするような適用が必要であり、ある戒めはわずかの溝を埋めるだけの適用で済むかもしれませんが、適用をしなければならないという点においては、同じです。それで、まったくの未信者である日本人に、ただ聖書を手渡して読んでもらったとしても、なかなか理解できないのです。普通は橋渡しをしそこなって、自分には何ら関係のない古代の読み物として、片付けてしまいます。反対に、聖書を「神様からの手紙」として、まるで、直接自分に向けて書かれたものであるかのように、時代背景も文化も無視して読んでしまい、主観的な解釈に陥っているクリスチャンたちもいます。

 実はこのような誤りは、ごく普通に見られることです。日本に来た宣教師たちも同じであり、西欧のクリスチャンや神学者たちにも変わりはありません。誰もが、聖書があたかも直接、自分たちに向けて書かれているかのように読んでいますが、それがどれほど大きな誤りであり、宣教の上で躓きになっているか考えたこともないようです。

 この誤りの中で最も深刻で、広範囲に悪影響を与えているのが、「罪」の問題です。聖書はまさに全巻を通して、罪の問題をとり扱っています。聖書に記されている大部分の罪は、律法に違反する罪です。つまり、旧約聖書に記された律法を破る罪です。旧約聖書は、既に触れたように、ユダヤ人に与えられたものです。旧約聖書の中でも普遍的な事柄を扱っている部分は、すべての人々に適応できますが、こと律法に関しては、律法を与えられているものと、律法を与えられていないものが、明確に隔てられています。旧約聖書の律法に拘束されるのは、律法を付与されたユダヤ人だけなのです。(ローマ2:12) その律法に違反することが罪であり、律法の違反により明らかな罪の自覚を持ち、救い主の贖いを感謝して受け取ることができるのです。そういう意味で律法は救いに導くものであり、「養育係」であるとパウロはいうのです。(ガラテヤ3:24)

 では律法を与えられていない者に、罪は存在しないのでしょうか。そうではありません。「律法なしに罪を犯した人は律法なしに滅びる」と言われている通り、律法なしでも罪はあるのです。(ローマ2:12) ところがパウロは続けて、律法を与えられていない人でも、生まれつきのままで律法の命じる行いをする場合は、その人自身が自分に対する律法なのだと語り、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていると教えています。(2:12〜15) 旧約聖書を与えられていない異邦人も、旧約聖書の律法とは別の律法を与えられていて、所有しているのです。従って異邦人は、旧約聖書の律法によって裁かれるべきではありません。旧約聖書の律法を与えられていない者は、旧約聖書の律法によってではなく、「心に書かれている律法」によって裁かれるのです。

 残念ながら、異邦人への使徒パウロの、異邦人のための神学は、先に触れたように、土台が敷かれただけで終わっています。彼の実際の宣教の働きが、まったくの異邦人だけを相手にしたことは少なかったために、まったくの異邦人を取り扱う神学の必要性を、あまり感じることがなかったのでしょう。そのため、異邦人の神学はそれ以上発展させられていないのです。ですから異邦人の神学にとっても、異邦人への宣教にとっても非常に重要な、異邦人に与えられている「聖書とは別の律法」についての言及も、これで終わっています。

 それでも私たちが、まったくの異邦人であり、未信者である日本人に向かって語るとき、旧約聖書の律法をもって、彼らを罪人扱いにすることはできないことが、ここで明らかにされています。旧約聖書はもちろん、新約聖書の教えをもっても、日本人の罪を云々言ってはいけないのです。旧約聖書の厳しい倫理的教えを持ち出して、罪人と決め付ける猛々しいやり方は、イエス様がユダヤ人に対して行ったものですが、同じことを私たちが日本人に行うのは間違いなのです。異邦人である日本人は、日本人の「心に記されている律法の要求」によって、あるいは「律法である自分自身」に裁かれることによって、罪人であるという自覚を持てるように、教え導かれなければならないのです。(ローマ2:14〜15)

 ではパウロが言う、「自分自身が自分に対する律法である」とは、どういうことでしょう。「心に記されている律法の要求」とは何のことでしょう。聖書には、この件に関して他に言及がありません。従って、この数節から神学を打ち立てることはかなり困難です。とはいえ、全く不可能なのではありません。聖書の一箇所の言及を用いて、他の聖書の教えと相反するような主張をするのは間違っていますが、その言及で、聖書の他の多くの記述と調和する考え方を持つことができれば、それはかなりの確率で、正当な神学と考えられるからです。

 パウロが言う、「心に記されている律法の要求」、「あるいは自分に対する律法である自分」とは、人間の本源的善性のことではないかと考えられます。これは、人間が普遍的に持っているものとして語られていますから、誰かに教えられて持つようになった後天的なものではなく、人間としてあらかじめ持っていたもの、先天的なものと考えて良いでしょう。つまり人間としての本源的な姿です。人間の本源的姿は、「神に似せて造られた」という、創世記の記述に、明らかに示されています。(創世記1:27〜27) 人間が創造されたとき、人間には神に似た姿が人間の本質、あるいは本源的善性として与えられ、それが律法として残っているのです。その善性を持っている人間が、人間自身の律法の役割を果たしているのです。

 プロテスタント神学の中には、人間の堕落と罪深さを強調し、神の救いの恵みを高々と謳い上げるために、人間の中の善い性質はアダムとエバの堕落によって完全に失われ、まったく残っていないかのような言い方をするものもありますが、聖書は、堕落の後にも人間には善性が残っていることを、前提にして書かれています。パウロが「私の内には善が住んでいない」と言っているのは、彼の主観的な信仰体験としての罪の自覚であって、人間全般の性質を語ったものではありません。(ローマ7:18)

 神に似せて造られた人間は、本源的にまた本能的に、いくつかの性質また能力を持っています。それは当然、すべて神に似たすばらしいものです。もっとも基本的なのは霊的な性質です。これがあるために人間はあらゆる動物と異なって、霊的な感覚と能力を持っています。そのために神を始め、霊的な存在を感じることができます。また、聖い性質です。それはあらゆる汚れを嫌うもので、善や正義という性質に関わってきます。正しいことを理解しそれを行う能力です。それから愛の性質です。人間は愛するものとして造られました。互いに愛し合うことが人間の生き方です。もっとゆっくり考えたなら、まだ他にも大切なものがたくさん出てくることでしょう。とにかく神に似せて造られたそれらの人間の性質が、重なり合い溶け合って本来の人間の性格、本源的人間性を作り上げています。

 神に似せて造られた人間の本性は、たとえ堕落によって破壊され捻じ曲げられているとは言え、あるいは悪魔の支配のもとで抑制されているとは言え、すべての正常で健康な人間に備わっているものです。それは文化を超えたものです。これこそが、「自分に対する律法である自分」だと理解できます。パウロはまた同じ文脈で、「良心」について語っています。(V15) 短い言及の中でただ一回しか出てこない言葉ですので、あまり確固としたことは言えないのですが、これは神に与えられた神に似た本性が、文化や状況の中で、それぞれ形を変えながら個々の人間の中に形成していく、倫理観と考えて良いように思います。

 同じ愛するという本能を持っていても、文化によってその愛の表現は変わります。また、ひとつの物事に対する価値判断も変わります。家族や親族という人間関係、というより血族関係を最も大切に考える、フィリピンのような文化では、極端に言えば、家族を助けるために泥棒をすることさえ、「善である」と判断されることがあります。ところが、人間関係の重要性は認めながらも、一人ひとりの尊厳がそれ以上に謳われる日本のような文化では、愛はすべての人に向けられるべきだという理念が出来上がり、家族のために泥棒するなどということは論外となります。

 自己の確立と言うことを重んじるアメリカの個人主義文化では、三〇歳にもなって親のスネをかじって生きるなどということは、普通ありえません。それは恥であり、良心が痛むことだからです。一方、集団主義で頼り合うことを大切にする日本の文化では、良心に痛みを感じることなどありません。親が子どもを助けるのは当たり前だからです。

 そのように、良心とは、人間の本性が、文化という環境によって形成された感覚であって、万国共通ではない、つまり普遍的ではないのです。それでいて、人間の本性から出てきたものとして、かなりの共通性を持ちます。それらを掘り下げていくと、普遍的な、本源的人間性に到達するのです。

 さて、聖書が基本的にユダヤ文化に生きていた人たち、あるいは、かなりの程度でユダヤ文化を受け入れていた人々に与えられたものであって、日本人のような異邦人に向けて書かれたのではなかったという、原則的事実に立ち返って考えてみましょう。

 聖書は、すべての人が罪を犯したと断言しています。この場合のすべての人はユダヤ人も異邦人も含めて、文字通りすべての人という意味です。ただし、ユダヤ人の罪は律法によって裁かれるべき罪であり、異邦人の罪は、律法によっては裁かれない罪です。そしてキリストが来たのは、罪人を救うためであって、そこにユダヤ人と異邦人の差はありません。すべての罪人です。

 人がキリストをキリストと認めるには、つまり自分の救い主であると認めるためには、罪の自覚が必要です。しかし、ユダヤ人が罪人と定められるのは聖書である律法によってですが、異邦人が罪に定められるのは律法によってではなく、心に記された律法によってです。言い換えると、異邦人が罪を自覚させられるのは、ユダヤ人に与えられた律法によってではなく、心に記されている律法、人間の本性、本能的感覚、人間に与えられた神に似せられている部分によるのです。ですから、異邦人である日本人に、旧約聖書の律法や新約聖書の倫理を持ち出して、罪を自覚させようとするのは間違いです。そのような伝道の方法は誤っています。どれほど多くの日本人が、このような伝道に躓き、クリスチャンにならない決心をしてしまったことでしょう。日本人には日本人の本性に訴え、日本人の良心に語りかけなければなりません。

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 多くのクリスチャンは、牧師や宣教師を始め一般のクリスチャンたちも、聖書の教えを持ち出して、日本人の倫理的な低さ、曖昧さ、脆弱さを指摘します。日本人は多くの西欧の国の人々と違って、聖書を持っていなかったという事実を無視しています。西欧人は長いキリスト教の歴史の背景をもって、キリスト教的な、旧約聖書と新約聖書を背景とした倫理を持っています。本来彼らの殆ども異邦人だったのですが、まるで、直接自分たちに付与されたかのような感覚で、聖書を読んでいます。そして、聖書を全然知らなかった日本人を、聖書をもって裁く間違いを犯しています。そのような西欧人に教えられた日本人クリスチャンは、彼らと同じように聖書をもって同胞を裁き、断罪するのです。

くり返しますが、聖書をもって日本人を裁いてはなりません。フランスの法律を持ち込んで、日本人を捌いてはならず、ロシアの良心をもって日本人をとやかく論(あげつら)ってはならないのと同じです。日本人だけでなく、聖書を持たなかった人々を、聖書で裁く間違いを犯してはならないのです。繰り返しますが、聖書を持たない人間は心に記されている律法、人間に与えられている神に似せて造られた本性に照らし合わせて、裁かれるべきなのです。しかもその時は、「良心」との絡みの上で判断されなければなりません。

 ですから、律法を持たず、心に律法を書き記されている日本人に、聖書が教えている真理を説き、福音を伝えようとする場合、聖書の知識を持っている人に対するように、語ってはならないのです。そうではなく、神に似せて造られた人間の本性に語りかけ、心に記されている律法を呼び覚ますように、語りかけるべきなのです。見えない神の永遠の本性が理解できるように、被造物を通して語るべきです。なぜなら、被造物は神によって造られ、神の性質を宿すだけでなく、神ご自身がその内に潜んで居られるからです。(エペソ4:6)この被造物をもって、神はご自分について知り得ることを明らかにしてくださったのです。神の目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性を、明らかに示しておられるのです。(ローマ1:19)
 
U. 日本人に罪を自覚しもらう

 救われるためには、日本人も罪の自覚を持たなければなりません。罪の自覚なしには罪の悔い改めがなく、罪の悔い改めなくしては、新約聖書的な罪の赦しはないからです。少なくても私たち福音主義的神学を継承する者は、そのように教えられてきました。

 では、日本人が罪の自覚を持てるようにするには、どのように話を始めるのが良いでしょうか。聖書の教えを振り回し、「罪だ、罪だ」と言って、子供の頃、母親の財布から100円玉をくすねたことを思い出させても、それで日本人に罪の自覚を生じさせることはほとんどありません。本物の罪の自覚は「絶対に聖い存在」の前に出て、初めて生じるものだからです。

 私たち、西欧のキリスト教神学に教えられて来たクリスチャンは、西欧のキリスト教神学の目でもって、日本人を見てきました。それで、日本人は、「絶対に聖い存在」を知らないと断定してきました。日本人は聖書を持たず、天地創造の神、絶対者の知識を持たないからです。たしかに日本人は、西欧のクリスチャンたちが持っているような、神についての「知的理解」はほとんど持ち合わせておりません。しかし、知的理解だけが理解ではありません。日本人は聖書が与える知識とは別に、「感覚的に絶対者を理解している」と、言うことができるのです。

 西欧のキリスト教を学んだ人たち、あるいは普通の日本人でも、理性的で知的な考え方を大切にする人たちならば、いわゆる八百万の神々を愚かなものとして退けます。八百万の神々は、本来の日本人の信仰形態である汎神論が、通俗化したものと考えられますが、理性に受け入れられるのは困難です。それらの神々は、願いや欲求を届ける対象であり、願いが叶い欲求が満たされた時には、感謝の対象にはなり得ても、畏敬と礼拝の対象にはなり得ません。ですから大多数の日本人は、たとえ八百万の神々の一つに願掛けをしたとしても、畏敬と礼拝の対象としては、それらを否定するのです。そのようなものが、万物の霊長たる人間の敬愛と礼拝を受けるものとしては、ふさわしくないからです。

 ところが自分は無宗教だ、何も信仰はしていないと公言する日本人も、信仰そのものを悪く言うことはなく、何の矛盾も感じないで神社に参詣します。そればかりか、どのように小さな祠でも、大きな神社でも、真摯な心持ちになって、何かに向かって手を合わせます。その時、多くの日本人が心に浮かべるイメージは、なんとも不確かな、よくわからない存在です。それでいて、自分が感謝すべき存在、自分がへりくだり、礼拝すべき存在、その前に出ると、自分の罪穢れが思い出され、自分は礼拝するにもふさわしくなく汚れた者であると、感じさせられる存在なのです。

 しかも、小さな祠から大社に至るまで、日本人は同じ気持ちで参詣します。神社にはそれぞれ祀られている神々があると言われながら、実際は、参詣した神社に祀られている神が、一体どのような神であるかなどということには、まったく関心はありません。どの祠にもどの大社にも、同じ気持ちでお参りし、あたかも同じ方を礼拝するかのように、頭(こうべ)を垂れて柏手を打ちます。多くの神々を信じていると言われる日本人ですが、その心には    強烈な一神教的感覚があるのです。

 日本人の多くはこのような存在を「感じて」来ました。そしてこの存在が単なる「存在」なのか「存在者」なのかさえも良くは分からないまま、また大自然とこの存在とが、同一なのか異なるものなのかさえもわかないまま、この存在が自分に命を与え、育み、食べ物や着物をはじめとする、すべての必要を与え続けてくださっている、大きく力強く慈悲に富み、優しく大らかで、人の営みを見て喜んでおられると感じて、かしこんで崇拝して来ました。その存在の前に出ると、理屈も何にもなく、ただ、「ありがたい」「かたじけない」と感謝をするだけなのです。

 昔、西行法師が神宮(伊勢神宮の正式な名前)に詣でたとき、神宮が天照大神を祀る神社であることを承知の上で、「何事のおわしますかはしらねども、かたじけなさに涙こぼるる」と歌いました。それは、まさに多くの日本人の気持を表現したものです。仮に天照大神と呼ばれ、太陽の女神と言われて、そのために大社が建てられていたとしても、実体はその背後にあって、人間の英知や思考の及ばない高いお方であり、目に見えない存在であると感じていたわけです。

 日本人は偶像というものを造らない、目に見えない神を目に見えないままに礼拝する民族です。また西欧人のように、神についてくどくどと説明することもない民族です。不完全な言葉と思考で無限の神を言い表すことは、偶像を刻んで神を表現することに近い、愚かなことで、神を軽々しく扱うことであると感じるからでしょう。神道のように偶像を造らない宗教が、世界にはまだ他にあるのかどうか定かではありませんが、とにかく、日本古来の宗教であり、日本人の精神的支柱である神道は、偶像を造らない宗教です。仏教が到来してからはその影響を受けて、通俗信仰として、まれに偶像を造ることもないとは言い切れませんが、あくまでも例外に留まっています。この偶像を作らないというのは、非常に特異なことなのです。

 また、仏教が到来してからは、これと集合して形を変え通俗的な神道が発生する一方、神道の擁護し、神道的な国家の保存を願って様々な神話が作られました。それらの神話は記紀に述べられています。しかし見えない神を物語で表現しようとする試みは、やはり偶像礼拝に近づくものです。目に見えない栄光の神が、まったく人間と変わらない、というより、むしろ人間に劣る、愚かな存在としてしか描かれていないのです。幸い神道では、これらの神話を「いわれ」として保存していますが、その物語に信ぴょう性は認めていませんし、そこに登場する神々を刻んで、偶像として礼拝することもありません。

 異邦人の宗教について述べたとき、パウロも基本的に異邦人の宗教が偶像礼拝であると言って、激しく責め、断罪しています。(ローマ1:18〜32) ただしパウロは、異邦人の偶像礼拝を責めたとき、現代の多くのクリスチャンたちがやるように、十戒の第一戒を持ち出すことはしていません。彼は十戒がユダヤ人だけに与えられた、特殊な戒めであることをよく心得ていたと考えられます。ユダヤ人に与えられた律法で、異邦人を裁くようなことをしてはならないのです。パウロはモーセの律法で異邦人を裁くことをせず、異邦人にも与えられている律法で、異邦人を裁いています。

 ところが、日本人の宗教である神道は、パウロが語る異邦人の偶像拝には、合致しないところがあるのです。日本人はすべての自然物に神が潜んでいることを認め、自然物を大切にしますが、自然物そのものを神とすることはほとんどないのです。神性を宿していると見られ、神を象徴するものとされることはあっても、神そのものとはされず、礼拝の対象にはならないのです。ご来光を拝むなどといって、太陽に手を合わせる人も、太陽そのものを神であると思っている人はまずいません。太陽が神々しく、あらゆる命の源となっているという事実から、神を象徴するものと捉えているのです。太陽を礼拝しているように見えながら、その背後におられる、大きく気高く、力と哀れみに満ちた存在、すべてのものに命を与えて生かしておられる存在を感じて、あえていうならば宇宙のあらゆるものの道筋である、「御天道さま」に感謝を捧げるのです。

 日本人はあらゆる被造物、つまり自然を通して、「神の目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性を知り」、認めています。(V20)そればかりでなく、「不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、這うものの形に似たものと代えて」しまうことはなかったのです。(V23)仏教的感覚が混じってしまったことにより、日本人の心に偶像がまったくないとは言えない状態になっていますが、いにしえからの日本人の精神的土台、あるいは支柱である神道には、偶像はないのです。

 このように日本人は、「神道」とひと括りにされている、極めて高い宗教意識、あるいは神意識を持っています。私たちはこのような日本人に対し、聖書の倫理をもって罪人扱いするのではなく、日本人の宗教意識とそれに関わる倫理観に訴えて、罪の自覚を持ってもらうべきなのです。

 日本人の倫理観の高さは、世界中の人たちを驚かせています。それは、多くのキリスト教国を自認している国の人々に、引けを取らないばかりか、しばしば彼らよりも高いと評価されています。それは単なる公衆道徳の域を出て、大災害などの折に見せる日本人の公徳心、更には戦争等の、いわば異常事態に於ける行動にまで及んでいます。

 日本の戦争責任を責め、日本人の残虐性を激しく責め立てる論調もありますが、それらの多くは、戦勝国(アメリカを主とした連合国)に都合よく書かれた歴史と、政治的プロパガンダであるということがわかってきました。戦勝国側がいかに経済封鎖をして、日本を開戦にまで追い込んだのか、その経緯もだんだん明らかになっています。大航海時代からつい最近に至るまで、いかに多くの西欧キリスト教国が植民地政策を推し進め、激しい人種差別をもって、どれほど多くのアジア人、アフリカ人、アメリカ人(先住民)、すなわち西欧キリスト教国以外の人々を苦境に陥れ、さらには殺戮したかも、徐々に多くの人たちの知るところとなっています。これらを見ると、日本の戦争犯罪さえも霞んでしまいそうです。(日本の戦争犯罪を軽々しく見るわけではありません。あくまでも比較の上のことです) 聖書を持たない日本人、神の律法を持たない日本人がどうして、聖書を持っている国々の人々と肩を並べるほどの倫理、あるいは彼らよりもむしろ高い道徳を維持してきたのでしょうか。

 パウロの説明を読むと、世界中の人々の道徳的な廃頽は、ただアダムとエバの罪によるものだけではないことがわかります。人々の偶像礼拝の罪が、神の憤りを買ったためです。(ローマ2:24〜32) 偶像礼拝の罪は、まさに「第二の堕落」とも呼ぶべきものです。人々の偶像礼拝の罪のために、神は彼らを、心の欲望のままに汚れに引き渡されたからです。その結果、はっきり記されているように、人間は性的敗退を始め、あらゆる汚れと罪に陥ったのです。

 日本が、他の多くの国々のような道徳的廃頽に陥らなかったのは、ひとえに神の哀れみと恵みによるものと考えますが、その背後の理由は、日本人が偶像礼拝の愚行に走らず、目に見えない栄光の神を、目に見えないままに礼拝し、人知を超え言葉では表現できない無限の神を、言葉で説明せずに、ただ怖れかしこんで感謝と礼拝を捧げてきたからだと、考えられ
ます。そういう意味から言うと、ギリシャ哲学の背景を持つ、西欧キリスト教の神論など、まさに偶像に等しいところがあります。神に対する畏れを欠き、神を言葉で切り刻むような冒涜を犯しているからです。

 私たちは、日本人のこのような宗教心、あるいは神観というものを認め、それを基盤として語らなければなりません。多くの日本人は、自分たちがどれほど高度な神観を持っているかに、気づいていません。クリスチャンたちも気づかないまま、西欧的キリスト教の感覚で、一方的に神道的感覚を低級と決めつけ、嘲笑して来ました。まず、わたしたちクリスチャンが日本人の優れた神感覚に気づき、それを多くの日本人に気づかせて上げることです。そして彼らの心にある崇高な神意識、宗教観に目覚めさせ、そこから話していくべきです。

 この大きな、目に見えない、哀れみと力に富む存在、生きとし生けるものに命を与え、生かしてくださっている存在を、私たちクリスチャンは、「天地の創造者」と呼び「私たちの神」として礼拝していることをお話してあげましょう。それから、私たち人間はこのお方の恵みによって生かされ、支えられ、あらゆる良いもので恵まれてきたにも拘らず、余りにも感謝の心が少なかったことを思い起こさせてあげましょう。そのような恵みにまったく応えてこなかったことに、思いを馳せてもらいましょう。

私たち日本人は、たくさん恵みを頂いて生かされて来ました。養われ守られて来ました。それに対して私たちは、十分に感謝をしてこなかったことに気づきます。この目に見えないお方に、きちっと向かって、「有難うございます」とお礼を言ってこなかったことに思い当たります。私たちは見えないお方に不義理を重ねてきたのです。その不義理は、いつか、どこかで、どのようにしてか、お詫びしなければならないと感じます。

 散々お世話になり、迷惑のかけっぱなしで、電話の一本も入れないまま、とうとう親の死に目にも会えなかったバカ息子が、歳を重ねてから両親のお墓の前で泣き崩れて、親不孝を詫びたという話を聞いたことがあります。私たち日本人は、親不孝ならぬ神不孝を続けてきたことを認めることになります。親不孝を詫びるように、神に不孝を詫びることが、神との正しい関係を持つには重要であることに気づきます。また誰に言われなくても、日本人はそのようなことを薄々感じていたために、春に秋に、感謝の祭りを行い、奉納行事を続けてきたのです。

 日本人には、「罪」という何やらわからないものを「悔い改める」よりも、創造者である神に対する不義理と不孝をお詫びすることのほうが、分かりやすいと思います。そのほうがまた、罪の本質に触れているのです。さらにクリスチャン信仰を、西欧プロテスタント神学のような教理の知的受容としてではなく、神との正しい関係を持つこととして、心の通う人間関係のように、神と心を通わせることとして示してあげるのです。

V. アブラハムのように

 異邦人への使徒であったパウロは、信仰による救いの教えを語ったとき、ユダヤ人の先祖であるアブラハムを模範に引き出しました。パウロはユダヤ人も異邦人も同じように、行いによってではなく、信仰によって救われるという真実を弁証するために、「アブラハムは神を信じた。神はそれを義と認められた」という、創世記の記述を用いたのです。アブラハムは、なにか良い行いをしたから義と認められたのではありません。ただ神を信じただけです。神にすがっただけです。神の約束を信頼して神に頼っただけです。

 ところでパウロは、このアブラハムの信仰に言及したとき、「アブラハムは悔い改めた」とは語っていません。「アブラハムはキリストを信じた」とも、「キリストの十字架が自分の罪のためだ」と信じたとも語っていません。もちろんアブラハムは、キリストよりも2千年も前に生きた人ですから、キリストについて知りようがなかったのです。律法を与えられていなかったために、律法によって罪を教えられてもおらず、悔い改めも知りませんでした。神の独り子がすべての罪人のために、十字架で贖いの死を遂げてくださったなどということをまったく知らないで、ただ、神を信じて義とされたのです。キリストを信じてではなく、神を信じて義とされたのです。

 異邦人にとってというか、キリストを知らない者にとって、ここでパウロが用いているロジックはとても大切です。パウロは通常、ユダヤ的論調、すなわち旧約の律法を前提とし、キリストの贖いを前提として、キリストを信じる信仰によって救われると主張しているのですが、その信じるだけで救われるという論証のために、引き合いに出したアブラハムの信仰は、キリストを信じる信仰ではなく、神を信じる信仰なのです。パウロにとっては、キリストは神でした。旧約の主、すなわちヤァヴエは、新約の主であり、キリストなのです。パウロは、何の矛盾も感じないまま、説明の必要性さえ感じないで、キリストを信じる信仰と、神を信じる信仰を同一のものとしているのです。

 使徒パウロをはじめとする、初代のクリスチャンたちの中にあったユダヤ人的信仰の形態は、与えられた律法につちかわれ、律法に捕らわれたものでした。そのような信仰形態からは、当然、律法で預言され約束されたキリスト、律法の成就として贖いを成し遂げたキリストを信じる信仰が、いかに大切であるかを語ります。それがそのまま、西欧キリスト教諸国の人々の信仰観となって、世界中に広められました。本来、西欧キリスト教諸国の人々も異邦人であるはずなのですが、彼らには、自分たちは異邦人であるという自覚はあまりありません。その信仰観がそのまま日本にも伝えられたのです。

 ただ偉大な異邦人への使徒パウロは、ローマ人への手紙を書いた時だけは、キリストへの信仰よりも、神に対する信仰を強調していますが、先に述べたように、パウロはキリストと神を同一視して、論が曖昧になったままに残しています。このあたりで私たちは、パウロの異邦人の神学にとどまり続けるのではなく、それを発展させる必要があります。パウロの異邦人の神学を土台として、その上に家を建てていかなければ、完全な異邦人である日本人に福音を受け入れてもらうのは困難です。

 パウロの救済論によると、アブラハムはキリストを知る必要も、理解する必要もありませんでした。罪についても、悔い改めについても、贖いの働きについても、知らなくても良かったのです。たとえアブラハムが知らなくても、神がすべてをご存知だったからです。

 救いは、アブラハムが何についてどれだけ知っていたかという、「知的行い」によるのではなく、神がキリストを通して成し遂げようと決めておられた、贖いの働きによるのです。救いは理解によるのではなく、神に対する単純な信頼によるのです。信頼は知性の働きよりも、情の働きです。厚い情の持ち主であられる神は、ご自分が知的に理解されることよりも、信頼されることをずっと喜んで下さり、何よりも喜んでくださるのです。信仰による救いとは、信頼関係による救いなのです。

 誤解してはなりません。アブラハムの救いにキリストが必要ではなかったと言っているのではありません。アブラハムの救いは、キリストの十字架の贖いのゆえに可能だったのです。とは言え、アブラハムの時代、キリストのことはただ神のみがご存知でした。アブラハムは、まったく知らなかったキリストの贖いのゆえに、そして神を信頼したがゆえに義とされ、救いにあずかったのです。

 アブラハムと同じように律法を持たず、キリストについても知らない日本人の救いは、どうなるのでしょう。まだ、律法を与えられた人に対する伝道のように、「キリストを信じなさい、罪を悔い改めなさい」と、言い続けなければならないのでしょうか。それとも、まず、天地の創造者であるお方について語るべきでしょうか。

 キリストを知らなくても救われるならば、最初からキリストについて語り、罪と悔い改めと贖いについて語る必要はありません。神に頼れば良いのです。日本人が普通「神」と呼ぶ、八百万の神々ではなく、ふと真面目になったときに感じて思い起こす、気高く大きく強く優しいお方を崇め、そのお方に頼って生きれば良いのです。その、頼っているということを、祈りによって表現し、賛美と礼拝とによって示して行けば良いのです。そして頼っているという事実を、この方に喜ばれる生活をすることによって実証して行けばいいのです。信仰は必ず行為に現れるからです。

 日本人が頼るべきお方は、昔から日本におられたお方です。日本人が崇め尊んできたお方です。ただ日本人は、このお方が余りにも気高く尊く大きなお方であると感じ、あれこれと詮索することを畏れ、そっとしてきたのです。人間の言葉で弄りまわしては畏れ多いと、触らないまま、わからないまま、礼拝してきたのです。

 そのお方は、「私はある」とおっしゃる方として、聖書に教えられています。また、天地の創造者とも教えられています。日本人は、自分たちが心の奥底で感じて崇めてきたお方が、この天地の創造者だったのだと知れば良いのです。天地の創造者は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、とも呼ばれています。随分前のことになりますが、筆者が良く知っていたクリスチャン女性が、主の身許に召されてからしばらく経ってからのことです。残されたご主人がとうとうクリスチャンになる決心をしました。そのときご主人は、どのように神に呼びかけて良いのか分からずに、「美奈子が信じていた神様」と、自分の妻の名を持ち出して、神を特定して祈ったそうです。それでいいのです。初めはそれでいいのです。

 旧約聖書には、日本語で「神」、あるいは「主」と翻訳されている呼び方があります。日本語の翻訳にも、神、主、創造者、天主といろいろです。ですから、あまり呼び方にこだわる必要はありません。要するに、聖書が教えている天地の創造者と、特定できればそれで良いのです。普通、多くのクリスチャンたちは、「天の父なる神様」と呼びかけているようです。これはもともと、イエス様が神を父と呼んだことから始まったようですが、優しく強い理想の父を、無限に大きく気高くしたようなお方というほどの意味でしょうか。

 ただ、最初からキリストの話を持ち出しても、日本人には違和感があり、話がややこしくなるのが問題なのです。ややこしくなると、話す者も聴く者も大変苦労して、話を途中で諦めてしまうからです。それが日本人ヘの伝道の困難さにつながっているのです。キリストの話を持ち出すと、キリストは実在したのかとか、キリストは神だったのか人だったのかなど、面倒な話に迷い込みます。罪のない誕生、十字架の死、贖い、そして復活と、恐ろしく難しい神学の話をしなければならなくなるだけでなく、「情欲をもって女を見るものは罪人である」などと言って、無理矢理に、聞く者を罪人に仕立てなければならなくなります。挙句の果てに、「イエス・キリストはあなたの罪のために十字架にかかって死んでくださいました。あなたはこれを信じますか」などという、見当はずれの質問をして、「ハイ」と答えさせようと四苦八苦します。

 先にも触れたように、使徒パウロや初代のクリスチャンたちにとっては、キリストを信じることと神を信じることは同じでした。旧約聖書に育まれ、旧約聖書に馴染んでいた人々が、彼らと同じ背景を持っていた人たちを相手に福音を語ったとき、当然、旧約聖書で約束されていた救い主、キリストから話が始まりました。甦りのキリストを見た興奮が、いよいよキリストを語らせることになりまた。初代の教会の宣教が、キリストを語るところから始められ、罪の問題に話が及んだのは当たり前の事でした。

 天地の創造者の存在は当然の前提だったために、ほとんど論じられることもありませんでした。自分たちが信じている神以外の、様々な神々を信じている人々への福音の提示の仕方は、まだまだ未発達だったのです。天地創造の神の存在をいかに語るか、どのように説明するか、どうしたら納得してもらえ、受け入れてもらえるかといった問題が、ことごとく、まだまだ未整理だったのです。

 パウロの宣教をたどると、アテネのアレオパゴスでの説教に、その問題に取り組み始めているのがわかります。「さすがにパウロ」と思わせられますが、まだまだです。新約聖書は、そのまだまだの時点で完結しているのです。いま私たちに必要なのは、その使徒たちの教えを発展させ、天地創造の神の存在を前提としない人々、あるいは、天地の創造者についてはおぼろげで曖昧な感覚しか持っていない人々に、福音をわかりやすく提示できる神学を確立することなのです。

 もしも使徒パウロが、キリストを信じる信仰と神を信じる信仰を、同一のものとして語っているならば、私たちはいま、伝道の初めから、キリストについて語る必要はないはずです。最初に語るべきは「神」についてです。アレオパゴスでのパウロも、まず、神について論じるところから始めています。日本人にも、目に見えない至高のお方、永遠の創造主を提示することのほうが、キリストについて語るよりも先に来なければなりません。そしてこのほうが、キリストについて語るよりも、ずっと簡単なのです。なぜなら、優れた神意識を心に秘めている日本人は、すでにそのような最高神を感覚的に認め、崇めているからです。

 日本人に必要なのは、初めからキリストと十字架を持ち出して、悔い改めの必要性を語ることではなく、絶対に優しく憐れみ深い大きなお方について語り、このお方に信頼して生きることの大切さを教え、感謝を捧げて礼拝することがいかに重要であるかを説いて上げることです。そして、感謝が足りなかった不義理をお詫びし、不孝を謝り、今後は、神のお喜びになる生活をするように、決心をしてもらうことです。このような神との信頼関係に入るならば、神は、キリストの贖いのゆえに日本人を赦し、受け入れ、永遠の命を与えてくださるのです。

 アレオパゴスでのパウロは、多分、道を急いでいたせいか、かなり唐突に、キリストと罪と悔い改めと復活にまで話を持って行きました。その結果、わずかの改宗者しか起こりませんでした。もしも私たちが日本で同じことをしたならば、結果はもっと悪いでしょう。私たちはパウロのように先を急いではいません。ゆっくり留まって伝道しているのですから、慌てずに、時間をかけても良いはずです。

 ここで、ちょっとばかり視点を変えて考えてみましょう。私たちの周辺には、キリストのことも十字架の出来事も、罪の意味も知らず、きちっと悔い改めもしていないのに、クリスチャンと認められている人が結構たくさんいます。私たちは伝道の実践の場では、キリストとその働きについての知識には、かなり融通を利かせています。早い話が、死ぬ間際に信仰を告白したような人を、私たちは喜んで受け入れ、洗礼をさずけ、天に送ります。きちっと知識を確かめ、信仰の告白を要求するようなことは、まずありません。それでも、神の憐れみによって救われたのだと信じます。それでいいのだと思います。


W. どうして日本だけ?

 それにしても、日本の宣教は困難を極めています。つい最近、世界のアッセンブリー教会の、日曜礼拝会出席者総計に目が止まりました。五千六百万人を超えるようです。アジア、アフリカ、中南米で、圧倒的に数が増え続けています。この数字には、多分に「主催者側発表」的な臭いもしますが、日本のアッセンブリー教会の平均礼拝出席者数は、一万人を僅かに超えるだけです。まさに納得できない数字です。

 このような現実の背後には、たくさんの理由があるにちがいません。その中の一つが、今まで述べてきた、聖書が誰に宛てて書かれたのかについての、取り違えです。でも、キリスト教信仰が圧倒的に広められている地域でも、同じような間違いで福音が語られていたはずです。それなのに、日本だけ異なっているのはどういうわけでしょう。

 それは、日本という国が、キリスト教が入ってきた時には、既に日本人という大きなアイデンティティを持ち、共通の文化を持ち、国家としての形態を整えていたと言うことに関係があります。侵入してくる植民地主義者たちに対抗する、国家としての大きな力も、自分たちの強力なアイデンティティとなる宗教も、共通の文化も、進んだ技術力も持たない民族は、たちまちのうちに征服され、押し付けられた宗教を受容するようになりました。世界中の多くの国々がそうだったのです。

 典型的な例として、フィリピンを挙げてみましょう。マゼランがフィリピンにカトリック信仰をもたらしたのは一五二一年のことです。当時のフィリピンはまだ国家として成立しておらず、百数十に及ぶ部族がそれぞれの言葉を用いて、暮らしていました。当然、小さな島々が寄り集まった地域の住民として、緩い協力関係とかなりの共通要素を持っていたとは言え、自分たちがひとつの国家に属しているというような、感覚も意識も文化も体制も出来ていませんでした。

 そのために、マゼラン自身はフィリピンに到着そうそう、セブ島のすぐ横の小島、マクタンの酋長ラプ・ラプに殺されてしまったにも拘らず、スペイン人はたちまちの内に周辺の島々をまとめて支配し、スペイン王フィリップ二世の名を冠して、スペインと名付けたのです。それだけでなくフィリピンの人々は、侵略者がもたらしたカトリック信仰を大した抵抗もなく、むしろ喜々として受け入れ、カトリック国になってしまったのです。

 マゼランが個人的なお守りとして持ってきた、サント・ニーニヨと呼ばれる偶像は、子供の頃のキリストを想定したものですが、いまや、ほとんどのフィリピンの家庭にレプリカが置かれ、お守りの役割を果たしています。自動車には、トラックだろうとバスだろうと乗用車だろうと、みなミニチュアのサント・ニーニヨが飾られています。

 フィリピンに遅れることおよそ三〇年で、カトリックが日本に到着した時には、日本はすでに統一国家としての形態を整え、西欧の武力に対しても一戦を交える気概を持っていました。カトリックの背後に、スペインの植民地主義があることを見て取った日本の為政者たちは、カトリック勢力を壊滅させてしまったのです。

次にキリスト教が日本に到着したのは、明治維新の頃ですが、カトリックとプロテスタントがほとんど同時に上陸しました。この時の日本は、武力や技術力という知的側面では西欧に遅れを取っていたとしても、その精神文化では決して劣っていませんでした。それで日本の為政者は和魂洋才を唱えて、西欧の知識だけを輸入し、魂、すなわち精神、あるいは宗教は、拒絶したのです。

日本の為政者たちが、西欧キリスト教を退け、日本の精神である神道を国家の柱として取り入れたのは、キリスト教が、当時日本に食指を伸ばしていた、植民地主義国家の宗教だったからです。日本人は、植民地主義国家、すなわち西欧キリスト教国家が、世界中で行っていたことを学び、その残忍性、非人間性を良く心得、キリスト教は日本人にはふさわしくないと判断したのです。

 こうして、多くの発展途上国、あるいは民族の間では大いに進展した西欧のキリスト教も、日本では停滞を強いられることになったのです。西欧文化で再構築されたユダヤ文化のキリスト教、侵略と戦いと虐殺と抑圧のキリスト教は、和をもって貴しとなす日本の文化と宗教感覚に、受容されることはなかったのです。
 
私たちは、旧約聖書によって侵略と殺戮を正当化してきたキリスト教ではなく、愛の神、平和の神、慈しみと恵みの神を信じ崇めるキリスト教を伝えたいものです。そのために、異邦人の心に記された律法をもって、異邦人である日本人に、私たちの神を語る必要があるのです。

結び

 聖書には、黒い革表紙のこの聖書ではない、もうひとつの聖書があることが、はっきり書かれています。私は伝道者としてまた宣教師として、普通のクリスチャンよりは幾分多めにこの聖書を読み、ローマ人への手紙は、神学生時代に暗唱してしまったものです。そして、この第一章から第二章に書かれていることも知っていました。しかしこれに心を止め、その意味することを真剣に考えるようになったのは、異邦人である日本人にいかに宣教すべきかと、真剣に考えるようになった、最近のことです。

 私の勉強不足からかとは思いますが、この点について書かれた文章を読んだことはありません。また、そのような説教を聞いたこともありません。異邦人の宣教を真剣に考えるならば、異邦人への福音の神学も、しっかりと構築されなければなりません。パウロは土台を据えました。私たちはその上に家を建てて行かなければならないのです。神学的素養を身につけた方々の、寄与を期待するものです。








posted by まさ at 19:26| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月08日

日本人に与えられている律法に語りかける


ローマ2:14〜15
 
私たち日本人クリスチャン、西欧回りのキリスト教を鵜呑みにしていた面があります。西欧回りであろうと、聖書の教えが正しく教えられているならば、それでいいのですが、西欧回りであるための間違い、あるいは欠点もあるわけです。西欧で構築された神学が、西欧で用いられている限りは、害悪も欠点も緩和されているのですが、日本など、まったく状況の違うところに持ってこられると、非常に困ったことになります。いま私たち日本のクリスチャンにとって必要なことは、自分たちでしっかりと聖書を学び、日本の文化も洞察力をもって観察し、正しく聖書の教えを適用することです。

T. 日本人に与えられている聖書  

西欧回りのキリスト教がまったく語ってこなかったことで、日本人である私たち、というより、すべての異邦人にとって非常に大切な聖書の教えの一つが、異邦人は聖書以外の聖書、自分たちの聖書を持っているということです。それはローマ人ヘの手紙の第2章14〜15節に、はっきりと記されています。(ここで言われている「律法」とは、聖書のことです。)
 
私たちは聖書に立脚する正統的クリスチャンとして、ユダヤ人に与えられ、私たちにまで伝えられた聖書を、この上なく大切なものとして学び、その教えに従って生きてきました。そのことには誤りがありません。これからもそのようにします。ところがそのようにしている途中で、私たちは、この聖書によって、この聖書以外にも聖書があることを教えられたのです。

 また、その聖書以外の聖書は世界中のすべての人に与えられているとは言え、日本人の中に、最も明確に残っていると考えられます。それは、日本人が、原則的に偶像礼拝をせずに、見えない神を見えないままに崇めてきた民族だからです。日本人はその精神土壌に、曖昧ではあってもかなり強烈な、神道的な宗教観を抱いてきましたが、この神道がずっと偶像礼拝を避けてきたのです。そのために、偶像を忌み嫌われる神は、日本人に対して、他の民族とは異なった取り扱いをしておられると言えそうです。

 聖書を調べるならば、すべての民族に与えられている「聖書以外の聖書」とは、人間が作られた時に与えられた、神に似せて造られた姿のことであることがわかります。偶像礼拝のための厳しい裁きを、他の民族ほどには受けなかったと思われる日本人は、(ローマ1:18〜32)他の大多数の民族よりも高い倫理的水準を保ってきました。昔から聖書を所有し、キリスト教国と自認している国の人々よりも、むしろ高度な道徳を維持しています。それは、日本人の中に、神の性質がまだまだ色濃く残っていて、日本人の心と生活を支配しているということです。神の聖さ、気高さ、公平さ、正しさ、あるいは優しさや自分以外の者を大切にする心遣いなどが、日本人の中に、もっとも色濃く留まっているということです。

 私たちは今まで、ユダヤ人に与えられた聖書だけからキリスト教を語ってきました。そしてキリスト教がいかに優れた宗教であるか、キリスト教の神観がどれほど高度なものであるかを、自慢げに言い続けてきました。キリスト教関係の書物を読むと、それが見え見えです。でも、私たちは、今から態度を変え、日本人の性格の中に残っている神の性質に注目し、日本人のすばらしさを語り、日本人の中にある神観の崇高さを語り、そこからこの神の真の姿を探り出して語り、感謝と喜びをもって、この神を礼拝することを勧めて行きましょう。

 日本人の神観のすべてが正しいのではありません。かえってそれは非常に朧げで、間違いだらけです。でも、その中から、正しい神観を探し出し、その正しい神観こそ私たちクリスチャンが礼拝している神と同じであると、お話してあげましょう。これまでの西欧回りのキリスト教のように、神道的な日本人の宗教心を蔑み、偶像礼拝扱いにする必用はありません。日本人はよくわからないまま、正しい神を拝んでいる可能性が高いのです。
 
U. ユダヤ人を通して与えられた聖書 

 私たちが西欧人から渡された聖書は、本来ユダヤ人を通して全人類に与えられた聖書です。直接的にはユダヤ人に向けて書かれているために、異邦人である私たちには大変読みにくい、よくわからない書物になっていますが、全人類に与えられている事実は変わりません。
 
この聖書には、絶対に優れている点があります。それは、この聖書の中にこそ、神の本当のお姿が明瞭に示され、神の救いの計画と、救い主イエスを通しての救いの遂行が語られ、人が救われるためにはどのようにすべきが、はっきりと記されていることです。この聖書なくしては、たとえ、もうひとつの聖書がどれほど明確に神の存在と性質を示してくれたとしても、人間の救いには不充分なのです。

 ですから私たちは、まず、すべての人間に与えられている「聖書ではない聖書」によって、日本人に語りかけ、神の素晴らしさについて語り、神に感謝し、頼り、祈り、礼拝することがどれほど素晴らしいかということについて語ることができます。しかし、人間の罪、救いの必要性、赦しの必要性、悔い改めの必要性について語るには、ユダヤ人を通して与えられた聖書が必要なのです。

 日本人の救いは、もしかしたら、日本人にも与えられている聖書によって神をより明確に知り、感謝と賛美を捧げ、自分たちの礼拝と感謝が不充分であったことをお詫びして、信頼するだけで与えられるのかもしれません。たとえ日本人がキリストのことを知らなくても、天地創造の神を信頼するならば、アブラハムがキリストを知らないままに、神を信頼して救いに与ったように、救いを得ることが出来るのかもしれません。このあたりは、今のわたしたちの神学では、まだ充分に整理が出来ていません。

 だから、日本人が天地創造の神を認めて、この神に信頼し、この神を礼拝するように導くのを、第一歩としておきましょう。まずそこに到達できるように、より明確に神の姿が描かれている、ユダヤ人を通して与えられた聖書を通して、導くことができるように励みましょう。しかしそこで満足することなく、次の段階で、この神が準備してくださった、イエスキリストによる救いをお話してあげることです。
 第一段階において、日本人が、昔から自分たちが礼拝してきたお方が、どんなに素晴らしく、自分たちが礼拝者として認めるにふさわしいお方だと知るならば、第二段階は比較的容易です。これを第二段階からはじめて第一段会に遡ろうとすると、大変困難なことになります。

 私たちは今まで、直接的にはユダヤ人に与えられた聖書をもって、日本人に語りかけようとしてきました。そしてそれがどれほど困難であるかを体験してきました。今日からは、全人類に与えられている聖書からお話を始めましょう。そうしたら、共通の基盤に立ってコミュニケーションができるのです。そして、日本人である家族、友人、知人に、天地創造の神を認めてもらい、この神に頼り、この神のすばらしさを知ってもらった上で、キリストによる救いに話を持っていきましょう。







posted by まさ at 11:53| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

あなたの近くの人が救われるために


    創世記15:1〜6
 
 私たちは永遠の命を頂いて、大きな希望をもって生きています。この希望があるために、たとえどんなことが起こっても、くじけずに、喜びながら暮らして行けます。 この永遠の命と喜びを、私たちは、自分のものだけにしておきたくはありません。周りの人たちにも、同じように喜びながら生きて欲しいと思います。一緒に永遠の命に入って欲しいと思います。
 でも、一体どのようにしてお話したら、私たちの周りの人たちに救いを理解し、受け取ってもらえるのでしょう。

T. 信頼関係による救い  

普通は信仰による救いと呼ばれていますが、「信頼関係による救い」の方がわかりやすいと思います。救いとは難行苦行をして獲得するものでも、大きな金を払って買い取るものでもありません。それは、天と地をお造りになったお方を信頼することによって、与えられるものです。信頼関係が核、基盤、最も大切な要因なのです。日本人には、まず、天と地を造られたお方に、信頼することを教えて上げましょう。
 天と地をお造りになったお方と言っても、日本人にはピンときません。でも多くの日本人は、折に触れては「ありがたいなぁ」、「生かされているんだなぁ」、「誰かは知らないけれど、見守られているんだなぁ」、「何かはわからないけれど、大きな存在に支えられているんだなぁ」という感覚に浸り、真面目な思いに捉えられます。

「その、日本人をありがたい気持ちにさせて下さるお方、生かして下さっているお方、見守っていて下さるお方、支えていて下さるお方こそ、私たちクリスチャンが、天地の造り主とお呼びしているお方です」と、お話してあげることができます。

 日本人も、神様に似せて造られた人間として、人間に本源的な霊的性質を持っています。だから、どんなにえらぶって「神は無い」などと言って見ても、心の中に、気高く尊く、大きく強く、優しく恵みに富んでおられる霊的なお方を、感じているのです。そのことを、はっきりと思い起こさせて上げましょう。
 
この霊的なお方は人間と同じように、感情をお持ちです。ですから、幼子が親を頼り切るように信頼するのがならば、このお方はその信頼に、喜んで応えてくださるのです。信頼されることが大好きなのです。
このお方は無限に大きく高く深いお方ですから、人間の知的探求や理解などはとても及びません。ですから、理屈から理解しようとすると、分からなくなるのです。でも信頼さえするならば、心の通った関係を持つことができるのです。天地の創造者は、心を通わせた人に、永遠の命を贈り物としてくださるのです。
 
この信頼は、祈るという簡単な方法で表現されます。天地の創造者は、祈る者に応えてくださるのです。ですから、お話する相手に祈ることを勧めてください。一緒に祈って祈り方を教えてください。どんなに小さな祈りでも、祈りは信頼の表現です。

U. イエス・キリストによる救い  

多くの日本人は、これも本能的に、「自分なんて、気高く大きなお方から救いを頂けるほど、立派ではない」と感じています。自分の穢れを本能的に感じ、このお方の前に出ることに畏れを持つのです。もしも話している相手が、そのような気持ちを表現したならば、イエス・キリストによる救いをお話してあげましょう。絶好のチャンスです。畏れこそ、日本人の宗教意識の中心です。
 
絶対に聖く気高い創造者は、本来、穢れたものはどんなに小さくても、受け入れることができないお方です。だから、たしかに罪に穢れた人間を受け入れることなど、あり得ないばかりか、その人間を滅ぼしてしまう恐ろしいお方です。人間の祈りに応えるなどということは、あり得ないのです。それを日本人は本能的に感じて、畏れ多いと思うのです。
 
ところがこの絶対に聖い創造者は、また、完全な愛の持ち主です。穢れて滅びなければならない人間を哀れに思って、これを救い、祝福を与えたいと、お望みになったのです。そこで創造者は、ご自分の独り子をこの世に送り、人間の罪の罰を背負って、十字架で死ぬようにしてくださいました。ご自分の独り子を犠牲にしてまでも、人間を救おうとされたほど、創造者は愛に満ちた方なのです。
 
私たち人間が、たとえどれほど汚く、醜く、穢れ切っていても、創造者はご自分の聖さを犠牲にせず、人間の罪を赦し、受け入れ、祝福できるように、必要とされるすべてのことを行ってくださったのです。この創造者の独り子を、私たちは「キリスト」と呼んでいます。キリストとは「救い主」という意味です。
 
このキリストが、人間の罪の問題を完全に解決して下さったために、創造者はどのように大きな罪を犯した人間でも、創造者に頼り、すがって行くならば、すべてを赦し、受け入れ、救い、祈りに応え、「神の子」と認めて、永遠の命を与えてくださるのです。
 
V. 神から受ける救い   

日本人に対して、創造者に頼るように勧めるとき、必ずしも、「キリスト」という言葉を使う必要はありません。むしろ、この時点では使わないほうが話を進め易いと言えます。多くのクリスチャンは、初めからキリストを持ち出すために、話がややこしくなって、上手く話を進めることができないでいます。そのために、福音を語ることに消極的になっています。
 
プロテスタントの福音派の神学では、何が何でもキリストの話をしなければ、救いを語ることができないと考えるようですが、大きな間違いです。キリストの贖いの力は、人間がそれを知るかどうか、理解するかどうかによって、効力を発揮したりしなかったりするのではありません。人間がそれを信じるかどうかではなく、創造者が贖いの働きを完成されたという、事実が大切なのです。
 
アブラハムは信頼によって、創造者から義と認められた、すなわち受け入れられ、救われました。アブラハムは、紀元前2000年の頃の人で、キリストのことをまったく知りませんでした。罪についても、悔い改めについても知りませんでした。しかし、神がキリストをご存知だったために、アブラハムは救われたのです。大切なのはアブラハムがキリストを知っていたかどうかではなく、創造者である神がご存知だったという事実です。
 
いま日本人はアブラハムと同じように、たとえキリストを知らなくても、創造者を信頼するならば、キリストの十字架の故に、その贖いの死の故に、創造者に受け入れられるのです。創造者に受け入れられ、その祝福をたくさん体験し、感謝の思いを強め、賛美と喜びをもって礼拝し、信頼を強くしていけばいいのです。
 そうするならば、自分たちの感謝、尊敬、賛美がいかに少なかったかを、心の底から知ることになります。創造者をないがしろにし、不義理を重ね、不孝を重ねて来たかを思い知ることになります。それで、より真実の悔い改めが起こります。日本人には「罪」」というよりも、「不義理」、「不孝」の方がわかりやすく、「悔い改め」というより、「お詫びをする」の方が、ぴったりすることでしょう。そこに至って、創造者自らが準備された、キリストによる救いの大きさ、そこに現された愛の深さに打たれることになるのです。
 
私たちは、日本人に救いを伝えるとき、まず、創造者である神に信頼することをお話しましょう。創造者に信頼さえすれば、創造者はキリストの贖いの故に、日本人をも救ってくださるのです。






posted by まさ at 11:30| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月14日

「戦争責任の告白」への呼びかけに応じる



「平和を生きる」に対して

(日本ナザレン教団の「第二次大戦下における日本ナザレン教団の責任についての告白解説」に対する批判
             (N牧師の要請に応えて問題点を指摘する)

                          2014年9月13日  佐々木正明     



「平和に生きる」は、日本ナザレン教団が1993年に年会(年次総会)において採択した「戦争責任の告白」の解説書であり、1994年に出版されている。著者は同教団の牧師である石田学氏である。著者はこれがナザレン教団の公式見解ではなく、あくまでもひとりの牧師の解説であると断っているが、同教団の社会活動委員長の「刊行のことば」と理事長による「理事長の序」が最初に載せられていることなどから、極めて公式見解に近いものであると判断する。社会問題委員長はこの小冊子の刊行に及ぶ同教団の事情を、「日本ナザレン教団がここ数年歩んできた道、そして今後歩んでいこうとする道は概ね「社会問題に関して積極的に捉えようとする流れ(靖国神社国家護持反対、大嘗祭反対等)にあり」と述べている。

 この解説書が、単に日本ナザレン教団の内輪の告白ではなく、キリストのみ体に属する他の教団・教会、あるいは世界のキリスト教会に対して、同じ行為を取るようにという呼び掛けであり、神に対する悔い改めの告白であり、全世界の人々に対する告白という形を取っているため、私たちはそれに何らかの応答を求められているとも言える。先日に至って始めてこの小冊子の存在を知った小生は、20年も過ぎてからではあるが、「その呼びかけに対して応答し、N牧師の要請にも応えようと考えた。

T. 日本ナザレン教団と著者の基本姿勢

 a.社会的責任    この小冊子に現れている日本ナザレン教団と著者の基本姿勢は、「社会問題に関して積極的に捉えること」という表現が示すように、クリスチャンの社会的責任、あるいは教会の社会的責任を重視することである。これはいわゆる社会派と言われるクリスチャンたちが、長いあいだ声高に主張してきたことである。それが、1973年に開催されたローザンヌ会議と、その会議の中心的人物であったジョン・ストットの影響によって、福音派にも及んできたものである。ローザンヌ会議は、教会のミッションは社会活動と宣教の二つであり、一本の車軸の二つの車輪のようなものであり、どちらか一方が欠けても真の教会では有り得ないという、ストットの主張を会議の公式見解として採択し、多くの福音派教会に、社会活動をないがしろにしてきた誤りを改めるように呼びかけた。日本の福音派教会の多くも、この呼び掛けに対してほとんど無批判に同調して呼応した。この呼びかけが著名な学者によって行われたとは言え、その内容について聖書的検証が行われたという話は、少なくても、日本では聞いていない。(実際にはあったのかもしれないが、小生は当時海外にいたため聞かなかったのだということも考えられるが)1993年のナザレン教団の総会における採択も、その流れにあったと思われる。これは小冊子の脚注52の言及で明らかである。

 b.預言者として罪を糾弾する    また、クリスチャンや教会が、社会や国家に対して預言者であるという理解も、長いあいだ社会派の人々によって猛々しく叫ばれてきたものである。教会は現代の預言者として、社会や国家の悪を糾弾しなければならない、彼らの罪を告発しなければならないと言うのである。さらに、キリストが王であり祭司であり預言者であったように、私たちもキリストの使命を引き継ぐものとして、王であり、祭司であり、預言者であるとまで主張してきた。福音派の人たちの中にもこれに影響されてか、同じことを「おずおず」と語ってきたのも事実である。しかしこの小冊子によって、ナザレン教団はあたかも社会派の教会でもあるかのように、声高に叫んでいる。日本ナザレン教団は私たちの教団が誕生する前から、基本的に福音的な教団として活動してきたが、どうやら進む方向に変化が起こっているようである。

 C.天皇制反対と戦争責任   この小冊子とその元となった年次総会で採択された告白で、日本ナザレン教団が強く主張しているのは、天皇制反対である。さらに日本という国家は、第二次大戦において、韓国と中国を始めとしたアジア諸国に対して重大な罪を犯したのであるから、それを謝罪しなければならないということである。それに続いて、日本ナザレン教団は預言者としての責務をないがしろにして、日本の罪を糾弾しなかったばかりか、かえってこれに積極的に加担する罪を犯したのであるから、これを悔い改めて公に告白しなければならない。教会はキリストの体であり、時代を超え、場所を超えて有機的に存在するものだから、今生きている私たちは、第二次世界大戦とそれを遡った時代の教会の罪をも負っているというのである。
 天皇制と戦争責任に関わって日本ナザレン教団は、日の丸にも国歌にも反対であることを明らかにしている。


U. 日本ナザレン教団と著者の歴史認識

 a.初期のクリスチャン指導者と左翼運動    小冊子で主張されている歴史認識は、共産党をはじめとする左翼団体とあまり変わらず、基本的に旧社会党の主張に非常に近い。それにはいろいろな理由が考えられるが、日本のキリスト教会の一部には、昔から非常に強い左翼的傾向があり、多くの指導者たちは左翼運動と深く関わってきた。実際、共産党や社会党の創立にも無縁ではなかった。初期のクリスチャン指導者たちのキリスト教的博愛主義が、美化された社会党の理想や、共産党のユートピアと共鳴したのである。それは現代のクリスチャンの多くと、左翼的感覚を持っている人たちの間にも共通している。

b. 敗戦後のアメリカ統治の偏向教育    敗戦後の日本を統治した連合軍(実際はアメリカ)は、徹底した日本人への情報統制を行った。日本人は敗戦の強烈な落胆と精神的空白、そして荒廃の現実の中にいた。戦争に突き進んだ軍部とそれを止めることができなかった日本政府への、一般国民の憤りと反感は計り知れないものだった。大本営発表に騙され、洗脳されて来たことに対する悔しさや怒りも激しかった。日本人は全体主義を憎んだ。それに対して、統治者として入ってきたアメリカの民主主義と博愛精神は、日本人大衆を非常に驚かせ、アメリカへの信頼を高めさせた。それで、アメリカが作り上げた歴史物語を容易に信じたのである。アメリカが行ったのは、日本を卑劣な戦争犯罪国家として貶め、アメリカを筆頭とする連合国を絶対に正しいと思わせることであり、日本を徹底的に悪者に仕立てることであった。

 歴史は戦勝国によって、戦勝国の都合の良いように書かれるのが常である。それで第二次大戦勃発にいたるまでの諸外国との交渉も、戦争中の出来事も、すべて日本の悪と決めつけられた。真珠湾攻撃がアメリカ人の正義を証明し、日本の卑劣さを象徴するものとして語られたが、そのように仕向けたアメリカの卑劣さは隠された。もちろんアメリカの情報操作の動機は、必ずしも「自分たちに都合よく」という悪意だけだったわけではない。日本の戦争能力と意欲を、完全に失わせて平和国家を樹立させようという、善意の目的もあったのである。ただし、世界の状況が変化すると共に、アメリカの日本に対する態度にも変化が現れ、誰でも知っているように、最近のアメリカはしきりに、日本が戦争に加わることができるような体制を作るように求めている。それが自分たちの国家の利益にかなうからである。

c. 戦後の偏向教育   前述の理由で戦前戦中の、鬼畜米英・戦争鼓舞・戦意高揚の教育は、敗戦後には一変して、英米こそ正義であったかのように教えられるようになった。面白いことにこの教育を担ったのは、ソ連を愛し、北朝鮮を理想郷とみなし、中国を模範とする、左翼系の人々によって構成される日教組である。アメリカは、日本を反戦国家にすることの益が、ある程度反アメリカになる損失よりも大きいと判断し、左翼系の人々の活動を許したのである。戦後の日本で教育を受けた者の大多数は、この日教組の思想的洗礼を受けている。日教組は、旧社会党の支持母体であった。私たちは一貫して、社会党的な思想背景を持った人々から、学校教育を受けて育ったのである。このようにして平和を叫び、反戦を唱え、再軍備反対を歌い、自衛隊を違憲と主張するのが、進歩的で良識のある日本人に見られてきた。たとえ右寄りの自民党の人たちでさえ、このような流れをよく理解して、自らの言動を慎まなければならなかった。
戦後の日本のクリスチャンたちも、大部分はこのような教育の下、良識のある平和主義者として、極めて日教組的な感覚をもってやってきたのでる。

d. マスメディアの影響  このようにして作り上げられた、日本の戦争反対の機運と左よりの感覚は、多くのメディアによって更に強化された。良識派と思われてきた日本の新聞や雑誌の多くは、盛んに左よりの見解を述べ続けてきた。メディアの存在意義のひとつは、時の権力者に対して批判の声を上げ続けることであるから、反自民党的な立場を取るのはむしろ当然であったし、そのような言論で作り上げた数多くの読者に、購買者になってもらう企業としての目的もあった。それらのメディアの主張は反自民党であるために、多くの場合、旧社会党や日教組の主張に近いものとなっていった。それに対し、少しでも自民党の主張に耳を貸すメディアは、資本主義の美酒に溺れたメディアであるかのように見られてきた。

 もともと、キリスト教会の多くは平和や平等を謳い、貧しい者や弱い者と共に歩むことを自分たちのあり方としてきたことから、容易にこのようなメディアに同調でき、知らないうちに彼らの政治的スタンスや思想的立場に近づいていた。弱者の味方であったために、労働者の味方となり、労働者の団体に心を寄せ、その主張を擁護した。だから左よりの教育と左よりのメディアに共鳴し、彼らと主張を同じにすることに安心感を得た。

 大きく見るならば、日本ナザレン教団もこの小冊子の著者も、このような流れの中に竿を刺していたと思われる。アメリカが作り上げた歴史物語を信じ、左翼系の人々が抱いてきたセンチメントと政治的立場に共感してきたのである。


V. 具体的な歴史認識の誤り

 この小冊子は、日本が犯したと言われている戦争犯罪を数多く上げている。中には歴史的事実があるかもしれない。ただし、朝鮮(韓国・北朝鮮)に対する罪、中国に対する罪、アジア諸国に対する「酷悪で残忍な」罪のほとんどは、左よりの人々があまり歴史を調べもせずに、プロパガンダとして主張してきたものを丸呑みにしたに過ぎない。この小冊子が書かれた当時、すでに、そのような戦争犯罪物語は捏造であると、指摘されていたのである。

a. 韓国人慰安婦の問題  この小冊子が発行されたのは今から20年前の1994年であり、左よりの政党やメディアが最も華々しく表舞台に踊り出、日本の戦争犯罪について声高く叫んでいた頃である。中でも、韓国における慰安婦の問題が大きく取り上げられ、村山談話があり、河野談話があり、宮沢謝罪もあった。小冊子の著者は、朝鮮人慰安婦の数を15万5千人から、20万1千人に上ると推定されると語っているが、現在はっきりしていることは、日本陸軍が、あるいは日本という国家が、強制的に朝鮮人女性を慰安婦に仕立て上げたという事実は、ただの一つも証明されていない。もちろんそれは、絶対に一つもなかったという証明にはならない。ただ、実例が一つも証明されていないのである。(第二次大戦中、軍関係者が強制的に女性を慰安婦にした例は、ただ一度だけ史実として証明されている。日本軍がインドネシアをオランダから解放した折、日本軍兵士の一人がオランダ人女性を強制的に慰安婦にしたのである。この日本軍兵士はその後、その犯罪のために、日本軍によって処刑されている)

 それだけでなく、慰安婦問題を盛んに書き立て、日本政府の罪、日本人の罪を糾弾してきた新聞、日本の良心の府とまで言われてきた、左よりの朝日新聞が、自らの報道が誤りであったことを、22年ぶりに正式に認めたのである。それは小生がこの文章を書いている今からわずか1ヶ月前の、2014年8月5日と6日の同新聞紙上で発表したものである。朝日新聞は吉田清治という人が書いた捏造物語に飛びついて、日本軍は強制的に朝鮮人女性を慰安婦に仕立てたと、誤報に続く誤報をくり返したただけでなく、政治的立場に基づく空想から、話を大きくしていったのである。朝日新聞は言い逃れと責任転嫁に満ちた書き方ではあったが、ともかく、自分の記事が誤報であったことを、22年もたって初めて認めたのである。どれほど多くの日本人がこの記事のために、日本人としての尊厳を失ったことか、どれだけ多くの日本人があるいは日本という国家自体が、このくり返しくり返し主張された朝日新聞の誤報に基づく、あるいは捏造に基づく記事のために、国際的に辱められてきたかことか。ここ数年間、韓国人は大統領をはじめとして、こぞってこの問題を取り上げて日本を糾弾し、日本と韓国の国家間軋轢の原因となっているばかりでなく、多くの国々や国連の人権委員会までを巻き込んで、日本の恥として語られている。

この小冊子が書かれた当時でさえ、すでに朝日新聞の報道が誤報であり、捏造に根ざしたものであることは、秦郁彦氏による現地調査報告や、捏造記事の舞台となった済州島の地元新聞の記事、さらに産経新聞によって暴露されていた。この小冊子の著者はそのようなことを一切無視して、朝日新聞を信用したのである。これは、左系の人たちが言う事を無批判に信じる精神構造が、ナザレン教団の教職者たちの間に、また著者の中にも、出来あがっていたからであると言われても仕方あるまい。

b. 南京の大虐殺  また著者は、中国が大問題にし、日本を糾弾し続ける大きな理由としている南京大虐殺も、事実と断定して語っているが、日本軍による30万人に上る虐殺があったなどとは、常識では考えられないものである。これも、元はといえば朝日新聞が、本田勝一という人の創作記事を信じて、事実として報道したことに始まる。(本田氏以外にも、東史郎氏や曽根一夫氏などが、南京大虐殺を取り上げてフィクションを書き上げ、あたかも史実であるかのように語っている。このようなフィクションを事実と信じる人は多い。先に慰安婦問題で名を上げた秦郁彦氏なども、曽根一夫氏の文章を史実と考えている。)南京において虐殺がまったくなかったとは言わないが、どう好意的に見ても針小棒大の報道である。証拠と言われてきた様々な写真も、今では、そのほとんどが信ぴょう性を疑われている。虐殺があったとしても、また「大きく大きく」見積もっても、せいぜい10分の1に及ぶかどうかというところである。もちろん殺された人の人数だけで判断すべきことではないが、現在は大虐殺であったか虐殺であったかが問題とされているのである。

南京の大虐殺について、現在は大きく分けて三つの立場がある。第一は30万に及ぶ日本軍による大虐殺があったとする立場で、中国が朝日新聞の記事を元に主張している他、日本の左よりの「良心的」メディアがこれに属する。第二は大虐殺と言えるほどのものはなかったが、虐殺自体はあったという立場である。この立場には数人から数十人に始まり、3万人くらいと想定する人たちがいる。第三はそのような虐殺は一切なかったという立場である。戦争だったのだから殺し合いはあったに違いないが、虐殺には当たらないと考えるのである。
 
c. 朝鮮人の強制労働  さらに小冊子の著者は、日本に強制連行された韓国人労働者は70万から100万に及ぶと語っているが、これも怪しげな数である。強制労働のために連行された韓国人も数百人の単位でいたかもしれないが、大部分はより良い働き場を求めて、自ら日本に渡ってきた朝鮮人である。

 著者はさらに、樺太に強制的に送られていた朝鮮人労働者4万3千人が、戦後日本政府によって置き去りにされたとも語っているが、これも、左寄りの報道を鵜呑みにしたものである。日本政府が韓国人労働者を強制的に樺太に送ったという事実は、証明されていない。それらの取り残された韓国人も、自分の意思で樺太に渡った労働者や、戦後、ソ連によって強制労働に送られた韓国人である事が明らかである。彼らはその後、ソ連によって置き去りにされたのである。

d. アジア諸国での残虐行為  小冊子の著者はまた、アジア諸国で日本軍が犯した残虐行為を取り上げて、日本を責め、日本の教会に悔い改めを促している。その「韓国・中国を始め、アジアの諸国で」という言い方は、まさに左寄りの人たちの常套句として使い続けられてきたものであり、現在でも変わっていない。ただ、彼らは実例をあまり挙げることができない。いつどこでという具体的な証言がほとんど出てこない。

それもその筈である。何百年にも渡る西欧諸国の、過酷な植民地支配を耐え忍んできたアジアの多くの国々にとって、第二次大戦当時の日本軍は解放軍であった。また西欧の宗主国には対抗できないと思い続けて来た彼らにとって、たとえ最後は負けたとは言え、西欧諸国に対してあそこまで戦い続けた日本軍は、大きな励ましであり手本であった。だから、この大戦後には、アジア諸国は言うに及ばず、世界中に独立運動が広まり、続々と独立国が誕生したのである。多くの植民地を失ったイギリスなどは、第二次大戦の最大の敗戦国であるとさえ言われる。

 一つの例を挙げよう。この小冊子が発行された1994年。当時の自社さ連合で首相となった村山富市と、衆院議長土井たか子とは、前後して東南アジアに向けて謝罪旅行に出かけた。彼らはフィリピン、シンガポール、ベトナム、マレーシアなどを個々に回り、大統領や首相、さらに政府の要人たちと会談を重ねたが、ほとんど異口同音に戦争犯罪を詫びる二人に、東南アジアの指導者たちは、その後ろ向きな態度に眉をひそめ、未来に向けて前向きな話を要求した。ただ、詫びることしか頭になかった二人には、未来志向の話をすることができなかった。アジアの論客と言われ、また日本を尊敬し、「日本に倣え」を標語にしてきたマレーシアのマハティール首相は流石に耐えられなくなったのか、戦後の謝罪や補償について話し合う愚かさを指摘し、未来のために、日本が積極的に貢献すべきであると語っている。その中にはただ、技術や経済における貢献だけでなく、PKOに自衛隊を送ることや、国連の常任理事国となるべきことまで含まれていた。

 日本の左よりの人たちは、アジアの人たちが日本の再軍備を恐れていると言い続けているが、むしろ、日本が再軍備に踏み出して積極的にアジアの平和に貢献すべきだと、考えるる人たちが多いと理解したほうが良い。日本が平和を願う国家だということは、アジアの国々に知れ渡っている。それを否定するのは中国と韓国と北朝鮮だけである。

 戦争は残忍なものである。そこここに、残虐行為と言われるものが多数あったに違いない。特に敗残兵は、武器弾薬を失い食料を失い健康も失い、ついには規律までも失って残虐にならざるを得なかった。日本軍は多くの場合敗残兵となる憂き目を見たのである。だとしても全体として、日本軍はしっかりとした規律によって、讃えられている。小生はフィリピンで長いあいだ宣教師として働いたが、そこは、マレーの虎と讃えられた山下将軍に率いられた日本兵が、敗走に敗走を続けてついに降伏した土地であった。インドネシア、タイ、マレーシア、カンボジア、シンガポール、ミャンマーなどを幾度も訪れ、国際会議などではさらに多くの国の人たちと話しをする機会があった。南太平洋に散在する島国の人たちとも随分話した。アジア諸国から集まってきた人たちと同じ敷地に住んで、一緒に仕事をしたこともあるが、日本軍や日本人を悪く言われたことは皆無である。

 有名なバターン死の行進についての、フィリピン人の意見もたくさん聞いた。最初の特攻兵が出撃したマバラカットで、特攻兵が出撃前の一夜をあかした家も訪れ、当時のことを知る土地の人たちと色々と語り合ったこともある。ミャンマーでは、インパール作戦で日本軍と戦ったお年寄りと、長い時間をついやして話した。彼はイギリス軍の通訳として、闇夜に紛れて、日本軍の野営している場所に、落下傘で降りたと言う。これらの会話の中で、誰ひとりとして、日本軍と日本兵の残虐行為について語った者はいない。かえってインドネシアでは、日本兵に対する賞賛の言葉を幾度も聞いた。多くの日本兵(750人から1000人、2000人、あるいは数千人と異なった説がある)が、日本軍が敗北した後もインドネシアに残り、再びインドネシアを植民地化しようと、2度にわたって侵入してきたオランダに対抗して、インドネシアの兵士を訓練して共に戦い、独立を勝ち取ったのである。

 日本から最も残虐な扱いを受けたと言われるフィリピンでさえ、「もしも日本があのままフィリピンを支配し続けていたら、フィリピンはもっと規律のある良い国になっていたに違いない」と言う声を、フィリピン人たち自身から幾度も聞いた。はじめのうちは、日本人である小生への気遣いかとも思ったが、どうやらそうではないと気づいた頃から、小生の朝日新聞をはじめとする左よりメディアへ信頼が崩れ、強い疑惑が芽生えた。

 小生がフィリピン山岳奥地住民のために働く、宣教師になろうとした理由の少なくても何パーセントかは、日本兵が残虐の限りを尽くしたと言われている場所で、被害にあった人たちのために働きたいと思ったことにある。その山岳民族からも、日本人への悪口を聞いたことがない。台湾人の多くは、日本の支配を懐かしんでいる。日本の悪口をいうのは、未確認情報を鵜呑みにしたり、捏造物語を作り出して日本を責め、なんとか謝罪の言質をとって補償を引き出そうとする、韓国と北朝鮮、そして中国だけである。

確かに、八紘一宇も大東亜共栄圏も、自らをわきまえない誇大妄想であった。そしてそのために、日本軍はそこかしこで理不尽なことをしでかし、数多くの残虐行為もしている。中でも、毒ガスや細菌兵器を密かに作り、中国人を始め、モンゴル人、ロシア人、さらには日本人までを強制収容し、彼らを「丸太」呼ばわりして人体実験をくり返し、千人とも五千人とも言われる死者を出した731部隊、別名石井部隊は有名である。数百回に渡って出撃し、一般住民をふくむ多くの犠牲者を出した、重慶の無差別空爆も知られている。実際の戦場での個別の部隊が、このような残虐行為をくり返していたとしても、植民地の辛酸を舐めていたアジアの諸国を、西欧の宗主国の手から助け出そうとした、日本政府の勝手な思い込みの善意もあったことは認めなければならない。

e. 朝鮮の併合   この小冊子の著者は、左よりのプロパガンダ報道に騙されているのである。そしてその間違いをもとにして、日本国と日本人を責め、日本の教会を責め、悔い改めを勧めているのである。それは特に韓国に対する罪意識に代表されるが、その罪悪感の大部分は、左寄りの日本のマスコミの事実に反する報道と、韓国側の捏造物語によって形成されたものである。

 日本は朝鮮を植民地としたことはない。併合したのである。この二つの言葉はしばしば混同されて用いられ、日本の公文書でも韓国を植民地化したという言葉が使われた場合もあるが、本来、植民地化と併合はまったく異なったものである。植民地化は、植民地の人々を搾取して富を得ようとするものであり、併合は基本的に、併合された側の国民に対し、併合した側の国民と同じ権利を与えるものである。

 併合を正当化しようとは思わないが、日本は併合した韓国人に基本的に日本人と同じ権利を与えた。西欧植民地主義国の長い歴史の中でも、このような試みは稀有である。たしか、フランスが一度試みたことはあるが、失敗に終わったと聞いている。一方、日本が韓国から富を搾取した事実はない。かえって、当時の韓国の数年分の国家予算にも及ぶ持ち出しをして、ダム、道路、鉄道、港湾などのインフラを整え土地整理も行っている。さらに、「両班と白丁」という、世界でも類を見ないほど愚かな身分制度を廃止して、すべての韓国人に公民権を与えた。この時まで、韓国国民の大部分を占めていた白丁と呼ばれた賤民は、基本的人権さえ奪われていたのである。日本はまた教育にも力を入れた。併合時にはせいぜい100程度しかなかった学校の数を、30年も経たないうちに4200以上に増やし、10パーセントだった識字率も65パーセントに上げている。それまで顧みられることがなかったハングル文字を、正式に取り入れたのも日本である。韓国は日本の統治によって飛躍的に豊かになり、まさに別の国のようになったのである。

 少なくとも政府のレベルでは、韓国人に日本人と同じ権利を与えて、つまり日本国民として平等に取り扱おうとした。左翼系の人々が悪名高いと非難する創氏改名でさえ、事実は強制的に日本名に変えさせたのではなく、望む者には日本名を与えたのである。もちろん実際に朝鮮人を取り扱った、政府機関の人々や民間レベルでは、余りにも貧しく教育にも倫理にも劣っていた、当時の朝鮮人を蔑視することが多く、様々な差別があったのも事実である。日本人もまた、まだ、それだけレベルが低かったのである。だから関東大震災の直後には、日頃差別と虐待を受けていた朝鮮人が、井戸水に毒を投げ込んだとか、蜂起して日本人を殺しているとかいう根も葉もない噂が流され、数百人から数千人の朝鮮人が虐殺さる事件が起こったのである。

 歴史に「もしも」はないと言われるが、あえて言おう。もしも日本が朝鮮を併合していなかったら、朝鮮はロシアのものになっていたか、中国の植民地となっていたに違いない。それがいかに悲惨なものになったであろうかということは、近代史に残るロシアの残虐性や非人道性を省みれば歴然としている。中国の周辺国への侵略や覇権主義、そして人権無視の歴史を垣間見れば明白である。これは単なる「もしも」の話ではあるが、「もしも」、ひどく倒れかかった家のつっかい棒を外してしまったら、その家はやがて倒れるだろうと予測できるのと、同じ程度の「もしも」である。

※  これらの問題に関連して、2010年に日本キリスト教協議会が、韓国キリスト教教会協議会と共同で「韓日強制併合100年 韓国・日本教会共同声明」と題した声明文を出したことを記しておく。この声明は、日韓併合条約が「武力の脅迫によって調印された条約」であり不法であると断言し、日本政府による賠償と朝鮮半島の平和的統一に対する努力を訴えている。声明文は、抗日パルチザン(独立運動)への処罰が「人道主義に反する植民地犯罪」であったこと、さらに、また日本の統治が朝鮮半島に貧困をもたらす結果となり、多数の朝鮮人を中国、ロシア、日本などに移住させなければならなくなったこと、また日本による統治が、朝鮮半島の分断をもたらして朝鮮戦争の勃発につながったなどと主張して、左翼系の人たちが言い続けてきた言い方をそのまま踏襲している。

  
 f.  言いがかり外交  このような独りよがりの言葉による悔い改めは、それほど被害者意識を持っていなアジア諸国のクリスチャンたちにとって、意味のあることではない。これからの「共に生きる態度」こそ大切なのである。日本は国際取引に賢く振舞わなければならない。言いがかり外交の策略に乗ってはならない。歴史を捏造してまでも日本の戦争犯罪を誇大に語り、日本から謝罪の言葉を引き出し、その謝罪を形あるものにしろと言い出して、補償金や賠償金、無償援助や経済支援を引き出そうとする、韓国と中国には騙されてはならない。日本式に「誠意を見せればわかってもらえる」だとか、「謝れば気持ちを収めてくれる」などという甘い考えは、彼らには通じない。文化背景が違うのである。誠意を見せるとさらに要求する。謝ればそれを理由に賠償や補償を要求してくる。

 日本が併合した朝鮮の発展のために持ち出した金は、当時の朝鮮の年間国家予算の何倍にも上る。1965年の日韓平和条約締結で、日本が様々な名目で与えた金も、当時の韓国の国家予算の数年分に及ぶ。さらにその後、韓国の要求を飲んで日本が支払った金額は、1965年の分の2倍以上に上る。中国は世界第二の経済帯大国になったと誇りながら、未だにやれ開発援助だ、何とか支援だといって、日本から毎年莫大な金を受け取り続けている。そして悪いことに、年々軍事予算を増やし続け、周辺の国々を侵略し覇権主義を拡大しているのである。チベットもウイグル自治区も、内モンゴルも彼らの手に落ちた。インドは激しく抵抗して、ひとまず、手を引かせた。今は日本やフィリピンやベトナムにまで、触手を伸ばそうとしている。このような言いがかり外交に騙されて、日本の教会が彼らの策略の手先に陥ってはならない。

 一つ明らかにしておきたいが、宗主国が植民地の独立を承認する場合、賠償を行うべしという国際法の規定は存在しない。かえって、宗主国だった側が植民地だった側に損害賠償を請求する事例の方が多い。例えば、フランスはハイチに損害賠償を請求しているし、オランダはインドネシアに請求している。近年では、ポルトガルがマカオを返還した時も、同じように請求している。その例から言えば、韓国を併合し、巨額を持ち出して近代化した日本は、韓国に対して多大な額を請求できる。
 

W. 神学的な難点

 この小冊子には、幾多の神学的難点がある。著者は基本的に福音派の人であるが、先に指摘したように、社会派ににじり寄っているように読める。

 a. 社会的活動は、教会の使命や責任ではない   ローザンヌ会議はジョン・ストットに先導されて、声明文を出した。その中心は、「教会の使命(ミッション)は、社会活動と伝道である。この二つはあたかも一本の車軸の両輪のようなものであって、どちらが欠けても教会は不完全である」という主張である。この声明文に納得しなかったローザンヌ会議の参加者も多く、彼らは署名を拒否している。しかし、この声明文は世界の福音派の反省と悔い改めを呼び起こし、今ではあたかも正しい声明であったかのようにまかり通っている。

 この小冊子の著者もその影響を強く受けて、次のように語っている。「私たちの日本ナザレン教団は、戦時下に罪を犯しました。当時の国家の悪魔的な力に、しっかり抵抗することをしないで、現人神である天皇に服従することを受け入れ、日本が神国であるという皇国思想を肯定して偶像礼拝に陥り、アジア諸国への侵略を美化して進める国策を受け入れて協力しました。迫害や弾圧を恐れ、教会を守ろうとして、かえって教会の使命と責任を放棄してしまいました。」(太字は引用者の強調)ただし、これはとんでもない主張であり、神学的ではあるかもしれないが、聖書の教えではない。

 ジョン・ストットは、それより少し前に中南米のカトリック諸国で興った「解放の福音に」心を寄せ、その指導者たちと交流して彼らの主張を取り入れ、福音的に言い直したのである。決して聖書の教えから導き出された言い方ではない。教会の使命に関わるキリストの命令には、どう読んだとしても社会活動は含まれていない。つまり、国家を糾弾する社会的使命と責任は、キリストによって与えられたものではなく、神学者が作り出したものである。

 聖書によるならば、また、キリストの命令と使徒たちの教えと模範に学ぶならば、教会がこの世に派遣された目的は、福音伝道ひとつだけである。くり返すが、キリストは教会に社会活動を命じられたことはなく、政治活動をお勧めになったこともない。特に政治活動に加担することは、自らの態度をもって、はっきりと避けるようにお教えになった。王として担ぎ出されることを幾度も拒み、「カイザルのものはカイザルに」とおっしゃって、政治的もくろみに巻き込まれることを拒絶なさった。植民地として支配の辛酸を舐めていたイスラエルの王が、宗主国の皇帝に対して物申すことなく、政治は政治家に、国家のことは国家にと言っているのである。

 教会がこの世に生きている限り、この世の悲惨さに目を閉じることはできない。それは当然である。しかしキリストは、教会が社会活動に力を注ぐようにとは、おっしゃっていない。キリストが強調し、初代の教会が力を注いだのは、教会の中で兄弟姉妹が互いに助け合うことであって、兄弟姉妹が力を合わせて、教会の外の悲惨さのために働くことではない。

 だからといって、教会は教会の内側だけに関心を持つのではない。教会がこの世に遣わされた理由、目的、使命、ミッションは、キリストの贖いのみ業に関わる福音宣教である。しかし教会は、福音を宣べ伝えるだけで生きているのではない。多くの人々と共に生きるのである。キリストが父によってこの世に遣わされたように、私たちもキリストによって、キリストと同じ贖罪論的使命を与えられて遣わされ、キリストと同じように自己犠牲を旨とし、世の人々と共に生きるべく遣わされているのである。

 福音宣教は教会がこの世に遣わされた目的、使命であり、社会活動は、教会がこの世で生きるべき姿であって、この世に遣わされこの世に生きる目的ではない。日本国の大使は、派遣された国で日本を代表し日本国の任務を行う。それがミッションである。しかし彼は一人の日本人として、遣わされた国で、日本人にふさわしい生き方をする。それが生きる様態である。福音宣教はミッションであるが社会活動はミッションではない。それは教会の生きる姿、様態なのである。それらは互いに絡み合って、完全に引き裂くことはできないが、二つの異なったものなのである。それを取り違えると、社会活動をしなければ、教会はミッションを遂行していることにならず、本来の教会の姿を失っているなどと言い出すことになる。

 b. 教会は社会や国家に対する預言者ではない   私たちは、すべてのクリスチャンが祭司であることを知っている。だからと言って、すべてのクリスチャンがあらゆる意味において、旧約聖書の祭司と同じ祭司だとは思っていない。祭司の極めて本質的な意味において、現代のクリスチャンも同じ資質を持っていると考えるだけである。

 そして小生は、使徒の働き2章17〜18節を基に、現代のクリスチャンはすべて預言者であると信じている。ただし、旧約時代の預言者の資質のすべてを備えた預言者であるとは思っていない。その極めて本質的な意味において、預言者なのである。牧師や宣教師などの教職者だけではなく、すべての信徒が預言者なのである。小冊子の著者は、キリストが祭司・預言者・王であったように、教会も祭司・預言者・王なのであると主張しているが、この理解も社会派の方々の常套句であり、極めて神学的な言い方ではあるが、聖書的根拠を持たない。教会は、キリストが王であったように、王であると主張するのは行き過ぎである。

 教会は、どういう意味で預言者なのだろう。その答えすべてをここで取り扱うことはできないが、今の議論に関わる大切な点だけに絞って話を進めよう。まず、教会は神の民に対して、つまり教会自身に対して預言者であるということである。旧約時代の預言者は、原則的に、神聖政治体制を敷いていたイスラエル国家と、イスラエルの民に向かって預言した。宿敵アッシリヤの首都ニネベに向かって、ヨナが預言したのは例外である。この場合、ヨナは神からの直接の語りかけを明瞭に受けて、敵の本拠地という特殊な地に向かったのである。旧約の預言者は、イスラエルとの関係に関わって、周囲の国家や民族に関して預言をしている。彼らは霊感を受けて、神の民であるイスラエルに語ったのである。霊感を受けずに、イスラエル民族以外の人々に語ったのではない。現代の預言者が語るべき相手は、神の民である教会であって、選ばれた神の民ではない一般社会や国家ではない。

 小生は、キリスト教国と自認していたヨーロッパの国々の教会は、キリスト教徒であった国王や、キリスト教徒が多数を占めていた政府あるいは議会に対して、預言者的に語らなければならなかったと思っている。それをしなかったのは、教会の罪である。たとえば、アメリカインディアンを謀略の限りを尽くして虐殺し、部族だけではなく民族までもほとんど滅ぼし尽くしてしまった「キリスト教国アメリカ」の罪を、どうしてアメリカの教会は預言者的に糾弾しなかったのか。どうして黒人奴隷の輸入、使用、あるいは公民権問題に対して、教会はもっと声を高くしなかったのか。

 また預言というものは、それが的中した場合、つまり正しかった場合に限って、本物の預言とされるのである。もちろんここでも例外はある。エレミヤの預言は、正真正銘神からの預言であったが成就しなかった。そのために彼は大変な苦しみを背負わされた。とは言え、預言の力は神に起源があることには変わりがない。預言者が預言をくり返し、それが幾度も成就して神からのものであると証明され、信頼に足るものであると人々に受け入れられるようになって、初めて預言として聞かれるようになるのである。現代の教会の預言が、小冊子の著者のような、一つの政治的立場に固執した見地からの一方的な意見、事実関係に誤りがあり、その解釈にも偏見がある見解を「預言」として、教会外の人々に向かって語るのは大きな誤りである。律法は「神の名をみだりに唱えてはならない」と定めているが、このような事実誤認と捏造物語に根ざした政治的発言を、「預言」として語ることはまさに神の名をみだりに唱えることであり、絶対に行ってはならない。間違いだらけの人間の見解を、神の権威を一方的に主張して語り、糾弾と断罪をくり返し、悔い改めを迫るなど、思い上がりも甚だしい。 

 c. 有機体としての教会  100年前の日本の功罪が、現在の日本に影響を残している以上、日本人としてそれを無視するわけにもいかない。教会が単なる人間の集まりや組合のようなものではなく、キリストの命によって互いに繋がった有機体であることを認めると、80年前の罪も100年前の過ちも、自分には関係がないと無視することはできない。それは認めよう。しかし、日本という国家の中の誠に少数派であった日本のキリスト教会、そしてその中でも決して大きくなかったナザレン教団が、たとえ日本の戦争に反対しなかったとしても、それがどれだけの罪になるだろうか。間違わないで欲しいのだが、罪がまったくないと言っているのではない。どれほどの罪になるのかと問うているのである。小冊子の著者は、当時の先輩クリスチャンたちを責めるのではないと語っているが、当時のクリスチャンたちは、のちの世代のクリスチャンたちが大騒ぎをするほどの、戦争責任を負っていただろうか。

 第二次大戦に関わる教会の責任を今取りざたし、日本の教会の犯罪を悔い改めるより、世界中のキリスト教国の犯罪を許した教会の責任を、クリスチャンとして悔い改めることのほうが大切ではないか。近代の植民地政策はみな、西欧キリスト教諸国によって進められた。それぞれの国の教会が、それに反対したこともあったと思いたい。教会は国家に対して強大な力を維持していたのであるから、それは容易にできたことである。しかしその教会のほとんどは、間違いなく植民地主義の後ろ盾となり尖兵となっていたのである。

 現在のナザレン教団が、戦前戦中のナザレン教団と、有機的に繋がっているというのと同じ意味において、現在の日本のキリスト教会は、植民地政策を推し進める力となって、世界中の人々を不幸に陥れた、西欧キリスト教諸国の教会と繋がっているのである。西欧キリスト教諸国が積極的に進めた植民地政策が、いかに苛酷で残忍なものであったか、歴史を調べてみるがいい。それに比べると、理不尽な西欧植民地主義国の経済封鎖のために、決死の覚悟で戦争を始めた、第二次大戦の日本の戦争犯罪など、象の前のネズミにも及ばない。プロテスタント諸国だけに限って見ても、イギリスがどれほど残忍な植民地政策を推し進めたか、オランダの植民地政策がどれほど残虐の限りを尽くしものか、アメリカがどれほど人道に悖ることをやって領土を増やし、多くの人々を死に追いやってきたか。そしてそれらの国が犯した植民地政策の罪が、現在に至るまで尾をひいて、どれほど多くの人々を苦しめ続けていることか、少しは考えて見るがいい。自分がクリスチャンであることが恥ずかしくなる。

 これらの国々の教会が、自分たちの社会的責任をどのように果たしてきたか。そのように悔い改めて、どのようなことをしてきたか、ほとんど耳にしたことがない。当然、日本のキリスト教会も沈黙したままである。なぜいまナザレン教団が、戦争犯罪の悔い改めと告白をしなければならないのか。小冊子の著者は、戦争責任の告白をしなければ、私たちの教会に将来はないというようなことを言っているが、私たちの教会の将来は、戦争責任の告白にかかっているのか。それは、聖書の教えから導き出された言い方ではなく、歴史的な事実にも合わない。ただ、左翼の人たちの言い方と不思議なほど合致する。

 d.  聖書が教える和解   聖書は確かに和解の福音を語っている。そして教会は和解の務めを与えられている使者であるとも教えられている。この小冊子の著者もそのことはよくわきまえている。しかし微妙に異なっている。著者は悔い改めと告白による、アジア諸国の教会との和解を語っているが、それは左翼の人たち、クリスチャンではない左翼の人たちがいうことに、教会という文字を加えただけである。アジアの人たちで、日本の戦争責任を責めているのは、中国と北朝鮮と韓国である。その他の大多数のアジアの国の人たちは、日本の戦争犯罪には殆ど無関心であり、日本が謝ると「なんのことですか」と、逆に尋ねられるに違いない。日本の教会が謝ると、アジアの多くの教会はそのようなことに関心はありません。たとえそのようなことがあったとしても、日本は私たちが植民地主義者の手から逃れるきっかけを作ってくれたので、感謝こそすれ、謝罪を求めることはありませんと言われるだろう。くり返して言っておくが、「アジアの国々」などという言い方は、左翼系の人たちの言い草である。

 数年前に、韓国のクリスチャン・テレビ局の重役と話したことがある。この放送局が「日本を許さないできた罪を悔い改めましょう」と、韓国の同胞に語りかけたところ、膨大の数の抗議文が寄せられたということである。赦すと言われるのはありがたい。日本も韓国に対してまったく罪を犯さなかったわけではない。しかし小生は、その重役にお願いした。「日本の罪を許さない罪ではなく、偽りの歴史を作り上げ、それで国民を惑わせ、日本を責め続け、謝罪と賠償を求めようとしている罪を、悔い改めてほしい。」これで韓国のテレビ局の重役は、私たちと協力して、日本で仕事をするもくろみを諦めてしまった。多分、お怒りになったに違いない。許さない罪を悔い改めようなどという発想は、韓国教会独特のものである。

 聖書が教える和解、そして教会がその和解の使者であると教えられている和解は、あくまでもキリストの贖罪による神との和解であり、その贖罪による和解によって、神と和解させられた者同士が作り出す和解である。神と和解させられた者同士は、あらゆる人間の相違と差別の壁を打ち破って、和解が可能になるということである。戦争犯罪を悔い改め、告白することによって作り出されるものではない。反対の言い方をすると、戦争犯罪を認めず、謝罪もしないために崩れてしまうような和解は、聖書が教える和解とは違う。聖書のいう和解は、あらゆる相違、民族、国家、政治的信条、思想的立場、そして貧富の差、教育の差、文明度合いの差をうち破って作り上げられる和解である。戦勝国、戦敗国、加害者、被害者の違いも、さらに一つの物事に対する理解と判断の差を乗り越えて、ただ、愛でいらっしゃる同じ神を信頼し、その同じ神を慕い、その同じ神の贖いを受け、同じキリストのみ体にバプタイズされているという、信仰の基盤に立った和解である。だから私たち日本のクリスチャンは、アメリカが行った非戦闘員の無差別殺戮である、日本の多くの都市の空爆の罪も、原爆投下の罪も問わないで、キリストにある兄弟として交わりを保っている。日本人が盛んに言い立てるようになった、アメリカの戦争犯罪を否定しているのではない。ただ問わずに赦しているのである。

 d. 教会の一致   教会の一致は、ただキリストを信じる信仰によってのみ可能であり、信仰以外の何物をも、教会の一致の要素として持ち込んではならない。政治的信条や、社会的立場、思想的共通などを条件として加えると、かえって教会の一致を妨げる。小冊子の著者は、戦争犯罪の悔い改めと告白を、日本のすべてのクリスチャンに、さらには世界中のクリスチャンに広く求めることによって、教会の一致に障害を持ち込んでいるのである。

 キリストの時代のイスラエルは、政治的には非常に危ういところに立っていた。キリストは自分に従う弟子たちに、政治的見解の一致や主義主張の一致を求めなかった。熱心党のユダは急進的愛国主義者であり、隙あらばローマに筵旗をあげようとしていた。税金取りのレビはユダの立場からすると売国奴であった。マルコは傀儡政権のエリート祭司の親戚であった。ペテロたち漁師は、当時としてはノンポリに近かったかもしれない。ともかく、贖罪に関わる和解の福音の鮮明なリアリティと重要性、そして緊急性に、そのような政治的立場による主義主張の違いは、顧みられなくなったのである。

 ナザレン教団の教職たちがどのような歴史観を持つのも、戦争犯罪を悔い改めるのも自由である。それが、どれほど事実に基づかない誤報と捏造によって作り上げられたものであったとしても、自分たちの内に収めているだけならば自由である。しかし、それを教団の年次総会でまとめ、教団の信仰告白に近い形でまとめるのは大きな誤りである。ましてや日本の教会が彼らと同じ態度を取るように呼びかけるなど、重大な過失であるし、世界の教会によびかけるなど、思い上がりも甚だしい。そのようなところに教会の一致は有り得ない。
教会の一致は、すべての間違いも誤りも罪も、キリストの贖いによる和解のゆえに、すべて赦してしまうところに存在する。だから小生は、年次総会でナザレン教団の教職が告白を採択したことも、糾弾するつもりはまったくない。これをもって、ナザレン教団の方たちと袂を分かつつもりも毛頭ない。それと同時に、小生の見解も間違いと見当違いに満ちているものと自戒している。だから、和解によって作り上げられた多くの兄弟姉妹の赦しがあってこそ、クリスチャンとしての小生の交わりは、可能となっていることも知っている。

 f.天皇制と日の丸と国歌   天皇制、日の丸、国歌について、ナザレン教団は反対の
立場を明確にしている。この小冊子の著者も同じである。これら問題については、日本国民の中にも一致はない。とは言え最近は、天皇制賛成、日の丸・君が代もそのままで良いという人が、増えているかなと思われる。このようなことで一方の立場を明確にするのは、教会の使命である宣教という観点から、賢いことではない。それは明らかに排除に繋がる。

 既に述べたことではあるが、教会の中にはいろいろな思想の人がいて良い。様々な政治的信念を持っていてもいい。異なった見方、違った考え方があっても良い。教会はただ一つ、天地の創造者であるお方を信じる信仰の一致で、結ばれているのである。天皇制反対で結ばれるものであってはならないし、日の丸賛成、君が代賛成で繋がるものであってもならない。このような政治的立場を教会に持ち込み、一致を妨げてはならず、伝道の障害としてはならない。

 天皇制反対のクリスチャンは天皇制反対でもいい。ただし、事実をしっかりと見る目を持って欲しい。確かに天皇が現人神として奉られたこともある。しかしそれは天皇自らが望み選んだことではなく、軍部の策略であったことは明らかである。天皇は戦争犯罪者だという意見もある。歴代の天皇や皇室に関わる人たちの中には、戦(いくさ)の責任を負うべき人たちが沢山いたことも事実である。それは多くの西欧キリスト教王国でも同じである。イギリスの国王や皇室が、いかに血塗られた歴史を持っていることか。それでもイギリスのクリスチャンたちは、自分たちの国王と皇室とを大切にしている。日本のクリスチャンたちが天皇制に反対するような、ファナティカルな態度はとっていない。

 日の丸が戦争犯罪の象徴だと論じる、クリスチャンたちがいてもいい。しかし事実はしっかりと見て欲しい。世界中の国旗の中で、かつて血塗られたことがない国旗などわずかしかない。多くの国家は戦いを通して造られ、国旗はその象徴である。イギリスの国旗は覇権主義の象徴であると非難されている。アメリかの星条旗の一つひとつの星は、侵略と流血で奪い取った土地を示している。それでも、イギリスやアメリカの真面目なクリスチャンたちが、自らの国旗を敵視しているなどという話は聞いたことがない。

 この際、日の丸を掲揚することは偶像礼拝だという、日本人クリスチャンたちにも申し上げたい。そのような考えを持っておられても、あなたは立派にクリスチャンである。それでも、客観的事実には目を開いて欲しい。韓国の国旗である太極旗は陰陽道に由来する。しかし、韓国人クリスチャンがそれを問題にした話は聞かないし、日本人クリスチャンがそれについてとやかく言ったということも知らない。タイのクリスチャンたちは自国の習慣に倣って、手を合わせて挨拶を交わす。仏教の教えで、人間の頭には佛が宿っているとされているから、互いに手を合わせるのだという。これを偶像礼拝だと言って、「クリスチャンは手を合わせるべきではない」と主張しているタイ人クリスチャンはいない。日本人クリスチャンもそのよう非難を、タイのクリスチャンたちに浴びせたりはしない。

 君が代を歌わない日本人クリスチャンは多い。それが信仰の戦いだと思っていても、立派にクリスチャンである。一方、君が代を歌う人の中にも立派なクリスチャンがおられる。大切なのは、広い視野をもって世界の事実を見て、互いに尊重しあうことである。国歌の多くは自分たちの国が戦いに勝利したことを歌い、これからも勝利し続けることを祈り、自分たちの国の美しさを主観的に称えるものである。民主主義の国なのに、王政の名残を留めているものもある。でもそのようなことで、教会に分裂を持ち込むことこそが、間違っているのである。


結び

 日本のキリスト教会の多くは、歴史的に左よりの政治的立場に立つものが多い。今回の小冊子も、左よりの人たちや、左よりのメディアがプロパガンダとして主張してきたことの、オオム返し、良くてキリスト教的な言い直しに過ぎない。このような誤報と捏造に基づく、悔い改めと告白への呼びかけに耳を貸す必要はまったくない。

 とは言え、ひとりひとりのクリスチャンが真摯に第二次大戦とその前後の事柄を学び、自分たちの教会は罪を犯してきたと感じるならば、神の前に悔い改めるべきである。二度と同じ罪を犯すことがないように、物事を間違いなく理解し、正しく判断し、良い選択をすることができるように、知恵と能力を与えてくださいと求めるべきである。日本の教会は、それほど大きな罪を犯してきたとは思わない人は、小さな悔い改めだけで十分である。

 私たちは戦争が悪であることを知っている。第二次大戦においても、たくさんの残虐行為があったことも認めている。ただし、それは日本だけが行ったとは限らない。中国共産党の残虐行為も、国民党の残虐行為も知られている。西欧植民地主義国のやった残虐行為は、身の毛のよだつものである。しかし今、私たちは、それらを私たち人類の残虐行為として、人間の罪深さを恥、神の前に赦しを乞うべきであって、互いに責め合ったり、謝罪し合ったりするのはやめにしよう。そのような後ろ向きの態度からは、何も生まれない。

 今回取り上げた問題の根底は、小冊子の著者の考え方およびナザレン教団の年次総会決定が、移ろいゆくマスコミの報道や「勝者が作り上げた歴史観」に立脚していることである。それらを無批判に信じてしまったことにある。私たちが変わらない真実として信じるのは、聖書だけだということを改めて確認しておかなければならない。 

 
 祈り

 人間をお造りになり、命をあたえ、生かし続けて下さる神様。私たちの罪深さと愚かさを実感しています。私たちはつまらない事で互いに憎み合い、争いを起こします。教会の中でも同じです。でも、どうかキリストに繋がる信仰と、信仰によって与えられる新たな命によって、私たちに相違と格差を乗り越える、一致をお与えください。








posted by まさ at 16:13| Comment(3) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月22日

なつく



 筆者が親しくお付き合いをお願いしている吉原宣教師を、フィリピンのお宅に訪ねたところ、一羽のパラキートが飼われていました。日本語ではふつう「インコ」と呼びますが、現地の人々はパラキートと言います。オウムとインコとパラキート、どこがどう違うのか難しいことは知りませんが、要するに小型のオウムです。

 奥様がとても可愛がっているこのパラキートは、現地の人たちが「バナナ・パラキート」と呼ぶ最も小さなオウムの仲間で、普段はバナナだけを食べて生きています。捕え方は簡単で、熟したバナナの実の上に糸くずを丸めて括り付けておけば、すぐに捕まえられます。エサの上をガサゴソと歩き回るうちに、糸に足をからめとられてしまって、あえなく終わりということです。

 誰か現地の人にもらったらしい吉原宣教師のお宅のパラキートは、奥様だけになついていて、その愛情の表現は見ていていじらしくなるほどです。奥様も可愛くてしょうがないといった感じで、これでは、パラキートの寿命が終わったときには大変だろうなと、ひそかに心配するほどです。

 むかし、私たちが飼っていたバナナ・パラキートは、悪賢いやつで、自分で入り口の戸をこじ開けては逃走し、戻ってきてはバナナを食べて、また逃げ出すことをくり返していたものです。意地悪をして籠の中にバナナを置いて戸を閉めておくと、ちゃんと戸を開けて中に入ってバナナを食べ、また出て行く始末でした。私たちが住んでいた標高1500mの地には、自然に熟するバナナはありませんので、空腹になったら帰ってくるよりしようがなかったのです。

 そうこうするうちに、とうとう帰ってこなくなりましたので、寿命になったか、猫にでも食べられたか・・・。とにかく、それで終わったのです。私たちは淡々と、「あれ、このところ帰ってこないね」と言っただけです。

 それにしても、吉原宣教師の奥様に甘えるパラキートの様子は、感動ものです。忙しくすれ違う奥様に声いっぱいに呼びかけ、籠の中でも一番奥様に近いところににじり寄り、羽を小刻みに震わせて気を引こうとします。奥様が指でさすってでもやろうものなら、目を閉じて首をかしげて気持ちよさそうに、まるで眠ったようになるのです。でも、眠ってはいません。この鳥が眠るときは、コウモリのように天井からさかさまにぶら下がるのです。

 私たちはペットを飼います。中には、人間の感情がまったくわからない蛇やトカゲ、イモリやヤモリを飼う人もいますが、これは例外です。私たちの多くは、自分に「なつく」動物をペットに選ぶのです。

 我が家で飼った猫は、どれもこれも不細工な姿の猫でした。たいていは何匹か生まれて、姿かたちのいいのはみな貰われて行ったのに、最後に残った「かわいげのない」奴が、仕方なく引き取られてきたのです。今いる「ぱんきん」も、世話しきれなくなったアメリカ人が残して行ったものですが、もともとは捨て猫で、何とも「へんちくりん」な顔をしています。ところが、飼って1年もすると、たいした可愛がり方もしていないのに、すっかりなついてわがまま顔に振る舞い、ときには思いっきり甘えてきます。そうなるともういけません。可愛いのです。情が移ってしまったのです。不愛想な顔つきも「個人差」に見えてきて、愛情をこめて「みったくない奴だなぁ。お前は・・」と抱き上げることになるのです。「みったくない」とは、筆者が子供のころ北海道で使っていた、「不細工で可愛げがない」という意味の言葉です。

 特別に優雅な姿をしているとか、非常に珍しいとかいうのは例外として、たいていのペットに大切なのは、なつくことです。あるいは、なついてきたと思われることです。池の鯉も鉢の金魚さえも同じです。人間は自分になつくもの、つまり心を交わすことができるものを大切にし、可愛がるのです。神様が人間をお造りになったとき、ご自分の姿に似せて人間をお造りになったという記述の重要さがわかります。

 神様もご自分と心を交わすことができる人間という動物を造り、これを愛でてくださったのです。人間が神様になつき、甘えれば甘えるほど、神様は私たちを愛(いと)おしく思ってくださるのです。三次元の動植物の中では、唯一、人間だけが神様に似せて造られ、神様と心を交わすことができる能力を与えられているのです。犬も猫も高等な動物として、ある程度人間と心を通わせることができます。猿はもっとでしょうか。でも、犬もの猫も猿も神様と心を交わすことができません。祈ることも拝むこともできないのです。神様に似せて造られていないためも、神様にはなつかないのです。

 人間は神様に似せて造られ、神様との交わりを楽しみ喜ぶように、初めからプログラムされています。そしてその中で、神様に造られ愛でていただいていることを感謝し、賛美をするのです。人間は単に神様を賛美するだけのために造られた機械ではなく、神様の愛と恵みを交わりの中に感じて、自由意思で神様を賛美します。そこが大切なのです。
 
 創世記の天地創造の物語の中で、「見よ、それははなはだよかった」とくりかえし語られた自然の中に、人間は造られ、生かされ、恵みをたくさん受けながら生活していたのです。それが人間本来のあり方でした。そのように暮らすのが、人間にとって最もよいことであり、神様もお喜びになったのです。

 聖書の中に記録されている様々な出来事も、多くの教えも、数々の戒めも、この素晴らしい本来のあり方を失ってしまった人間が、それを取り戻すにはどうしたら良いかということを教えるために、書き記されているのです。それらの中で最も大切なことは、人間がどのように努力したら、取り戻すことができるかということではなく、人間をお造りくださった神様が、人間に取り戻させるために、何をしてくださったかということです。それはとてもむずかしいこと、非常に困難なことでした。でも、人間を愛でておられる神様は、すべてを完全にやってくださったのです。

 ですから、いま人間にできることは何もありません。することがないのです。ただ、すべてを準備してくださった神様に信頼するだけです。それを教えるために、聖書は書かれたのです。人間は、「ありがとうございます」と感謝をして、「神様は素晴らしいお方ですね」と語りかけ、ほめ称えていくだけです。

 吉原宣教師の奥様が近くを通ろうものなら、思いっきり声を張り上げて気を引こうとするパラキートのように、神様に向かって声をあげ、感謝し、賛美し、お願いし、おねだりをしながら生きていくことです。神様も、ご自分になつくものをさらに愛でてくださるのです。






posted by まさ at 08:59| Comment(1) | 文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月26日

汎神論的感覚で生きる日本人に福音を伝える


                                         2014年4月24日


 いま私たちが手にしている聖書は、多くの神々を信じ様々な神々に仕えていた、多神教
的な感覚を持つ人々に与えられたものです。聖書は多神教文化の人々を読者に想定して書かれた書物なのです。

 イスラエル人は一神教だったではないかと、すぐに反論が起こりそうですが、彼らは常に多神教の脅威にさらされていた民族です。だからこそ、聖書は偶像礼拝の罪を激しく執拗に責めているのです。教え導かなければならなかったイスラエルの人々が、多神教的感覚の中に生きていて、際限なく偶像礼拝に陥る危険性をはらんでいたために、神は自己啓示、すなわち自己紹介として、天地創造の物語をしてくださったのです。

 太陽の神、月の神、星の神、風の神、川の神、鰐の神、河馬の神、牛の神、犬の神、猫の神、あるいは豊穣の神、多産の神と、とどめなく続く多神教の中に生きる人々に対して、「あなた方が拝むべき神はそのようなものではなく、天地万物を造った神だ。それが私だ」と、自己紹介してくださったのが創世記の始めの天地創造の物語です。天地創造の経緯を説明した物語ではないのです。

 実際のところ、神の自己紹介も容易ではありませんでした。というのも、当時の人々が用いていた「神」という言葉が、あまりにも低俗な多神教文化の中の「神」であって、無限の神、全能の神を表現するにはまったくふさわしくない概念だったためです。それでも、人々が普段使っている「神」という言葉を借用する以外に、神を表現する方法がなかったわけです。日本語の「神」が、聖書の神を表現するにはあまりにも足りなくて、それが日本の宣教の妨げのひとつになっていると思われますが、それと同じ問題が、「初めに、神が天と地を創造した」という、聖書の最初に記された短い宣言の中にもあったのです。

 新約聖書のほとんどは、唯一の神だけを信じていたクリスチャンたちを、読者に想定して書かれているではないかと、異議を唱える方もおられるはずです。その通りなのですが、当時のクリスチャンたちは唯一の神のほかに、天使や悪魔や悪霊たち、さらに幽霊の存在までも信じていたようですから、現代の日本人の「神」という言葉の意味からすると、立派に多神教の中に生きていたのです。ただクリスチャンたちは、悪魔や悪霊を信頼することはありませんでしたし、天使たちを特別に崇めて礼拝することもなかったようですので、そういう意味では唯一神教だったのです。

 私たちはいま、聖書が書かれた土地と時代と文化から、遠くはなれた日本で、多神教の感覚ではなく、むしろ汎神論的感覚の中に生きています。表面的には、八百万の神々を持ち、それらを礼拝していると思われていますが、大多数の日本人は、多神教を幼稚なものとあざ笑っていることに、気づかなければなりません。

 日本の多神教感覚の「神」は、「上」という意味の「カミ」に語源があるといわれています。人間よりも少しばかり力があると思われるものは、何でも人間より「上」と認められて、「神」になり得るのです。死人は、生きている人間には分からない力を持つと感じられるために、「神」になることができ、たとえ生きていても、物事を上手にこなす人物はその分野で「神」となりえるのです。日常の会話の中ではこのような意味で用いられている「神」は、理性の中では完全に愚かなものとされ、心をこめた礼拝の対象にはなっていないのです。

 ですから、たとえ同じ天地創造の神を紹介するにしても、完全な多神教的感覚の中にいたイスラエル人に対する方法ではなく、多神教は理性に反すると感じている人々に対する、別の方策を採ることが肝要だと考えるものです。(注)

 日本人は、たとえ無意識の中であったとしても、目に見えない神の永遠の力と栄光を認めています。目に見えない気高い存在を心の奥底に感じ、その力と尊厳と恵みを認めて生きています。その悠遠の力に生かされ、恵みに支えられて命を営んでいると感じています。理性的な理解ではなく、理性を超えるものとして、まさに「感じて」いるのです。そして感謝を捧げているのです。親に対する感謝、先祖に対する感謝だけではなく、さらにその背後におられる目に見えない大きなお方、恵みに富み慈愛に満ち、あらゆるよいもので私たちを祝福していてくださるお方を感じて、折に触れては手を合わせ、頭を垂れるのです。食事の前に「いただきます」と手を合わせるのも、単に食事を準備してくださった人や、もてなしてくださった方に感謝しているのではなく、目に見えないお方、野菜や穀物や魚や肉を供えてくださった、大きな存在をわずかながらも感じて、「おかげさまで」と感謝しているのです。

 大社の前でかしわ手を打つこともあります。小さな社の前に佇み、静かに祈ることもあります。それぞれの神社や社には、それぞれが祀るそれぞれの神があります。でも一般的な日本人はそのようなことには無頓着です。それらの表面的なことの向こうに、大きく、強く、気高く、優しい、目に見えないお方、自分の命の元であり源となっておられるお方がおられると感じて、はなはだ曖昧ではありますが感謝と祈りを捧げるのです。それは限りなく一神教に近い感覚です。

 多くの日本人が太陽に向かって手を合わせます。わざわざご来光を拝みに山に登ります。
でも、彼らは太陽を拝んでいるのではありません。太陽をあらゆる命とエネルギーの源と認めて、拝んでいるように見えながら、その実、その太陽の背後におられる命の源でありエネルギーの源である、本源的な「なにものか」に向かって、厳粛な思いで感謝を捧げているのです。太陽は単なる象徴に過ぎません。その象徴を無理に神格化し擬人化した天照大神などは、理性的には愚にもつかない神話として、ほとんどの日本人に退けられてしまうのです。

 このような一般的日本人の宗教感覚を、「偶像礼拝」として一刀両断の下に切り捨てて良いものでしょうか。というより、日本人は偶像礼拝者なのでしょうか。日本人は旧約聖書が糾弾するような意味での、多神教感覚の偶像礼拝者ではないのです。日本人はむしろ汎神論者なのです。ただ、そのすべての物の内に内在される神が、誰なのか、どなたなのかを、知らないままに生きているだけです。素晴らしいところは、その分からないお方を分からないままで、偶像化しないで礼拝し続けていることです。

 西欧を周(まわって)って来たキリスト教は、日本人の汎神論的感覚を理解することができませんでした。今も出来ていません。そのために、世界中にある普通の多神教や精霊信仰と見分けをつけることが出来ず、八百万の神々を祀る偶像礼拝者として糾弾したのです。でもそれをあまり非難したくはありません。日本人自身が良く理解していないことであり、日本人クリスチャンたちもまた、よく分からないままにして来たことだからです。

 日本人の心の奥深くに潜んでいるのは、見えない存在者、知られない存在者、幽玄のおお方に対する畏敬と感謝の念です。日本人は仏教の伝来まで、ほとんど手で刻む偶像を知りませんでした。仏教がやってきて、金色にきらめく仏像(現在見る、わびさびの仏像は、金箔がはげたもの)が人々の心を捉えたこともありましたが、今でも、日本人の心の底にあるのは、仏教の偶像を礼拝する心ではなく、目に見えない存在者に対する畏敬です。あるいは仏像自体を、見えない存在者の姿を表現したものと捉えて、その背後におられると思われるお方に、礼拝を捧げているのです。多くの日本人は、仏教的習慣さえも汎神論的に捉えているのです。

 なにしろ、仏教の基本的な教えを理解している人など、日本人の中にはほとんどいないのです。汎神論的感覚の日本人は、宗教、すなわち神仏に関わることは奥深く、理解できないところがよいと考えているからです。それは、知的にキリスト教を理解しようと努力を重ねてきた、西欧の人々とは大いに違うところです。日本人ははじめから、神を気高く奥深くゆかしいお方と感じて、知的理解を放棄して深めようとはしなかったのです。むしろ、ただ感じるままに崇めることこそ優れていると考えてきたのです。

 事実、神道は少しでも理屈付けをしようとすると、愚かな精霊信仰に陥ったり、おどろおどろとした多神教の神話の中に迷い込んでしまったりします。組織的また体系的に組み立てようとすると、復古神道のようにキリスト教のまがい物になってしまうのです。神道は初めから神を絶対の超越者であるかのように扱ってきました。少なくても人智を遥かに超えたお方、深く高く大きなお方として崇め、知的理解の試みを愚かなものとしてきたのです。

 このような感覚の日本人に対して、私たちはいかにして、聖書を通して自己啓示をしておられる神を、紹介することが出来るでしょうか。以下、いくつかの提案をしたいと思います。


1. 日本人を偶像礼拝者と決め付け、敵対意識で語ることはやめましょう

 日本人は、人知では到底はかり知ることができない神の無限の栄光、その見えない姿と力を認め、ひそかに神を崇めているのです。ローマ人への手紙1章に記されているように、神の栄光を人や鳥や獣や這うものの像に似せて礼拝する罪は、犯していないのです。自分の心の奥で本能的に感じている気高い存在を、「神」と呼ぶことさえ躊躇しています。巷に散在している神々と混同されてしまわないためです。それで、「神」など存在しないとまで言い切り、自分の心の奥深くで感じている存在を大切にしているのです。日本人が敬っているのは、単なる「うえ」の神ではなく、超絶した存在者なのです。

 日本人は「知られざる神」を知らないまま礼拝しているのです。イスラエル民族のように、神の明確な自己顕現を見、律法をいただいていたのに知らないままだったのではありません。多くの西欧諸国の人々のように、聖書を持っていながら無知だったわけでもありません。日本人の信仰と宗教行為には、知らないことからくる間違いはたくさんあります。しかし日本人は、イスラエル民族が叱責をされたように叱責されるべきではなく、欧米諸国の人たちが厳しくとがめられたように、とがめだてされるべきではありません。

 敵対感情で語られることを、心開いて素直な気持ちで聞くことができる人はまれです。日本人の宗教を偶像礼拝の悪と決め付けて、敵対感情をむき出しにして語るのはやめましょう。むしろ、日本人の意識の深くにある宗教心に、聖書の教えと共通するところがある事を積極的に認め、それらを高く評価する努力をしましょう。


2. 日本人が知らないで崇めている神が、本当の神である可能性を認めましょう

 一般的な日本人が、神でもないものを神として拝んでいるのは、事実の一面です。ただし、それらの神々はお願いを聞いてくれる神、なにかのときに助けてくれる神、なんらかの面で人間より力があると思われる神であり、祈りや感謝の対象とはなっても、人間の尊敬と畏敬とを集める礼拝の対象とはなりにくいものです。日本人の心の奥底には、これらの神々とは異なった、知られない神に対する深い畏れがあるのです。間違ったところを攻撃するのではなく、正しいところを積極的に認め高く評価し、受け入れてあげるのです。

 パウロは、アテネの人々が知らずに拝んでいるのは「間違った神だ」とは言わず、「知らないで拝んでいる神について教えよう」と語ったのです。その神が本当の神である可能性を示唆しているのです。だとするならば、偶像で満員御礼が出ていたアテネの町の人々の「知られざる神」よりは、日本人が拝み続けてきた汎神論的な「知られざる神」のほうが、まさに正しい神である可能性が大きいのです。


3. 日本人が崇め、畏れ、敬い、感謝を捧げている神は、真の神である事を認めてあげましょう

 もちろん、日本人の神観念には間違いがたくさんあります。ひどく捻じ曲がった理解も
あります。でも、長いこと聖書を所持してきた西欧人クリスチャンの中にも、頭を三つくらい殴ってやりたいくらいの、とんでもない神概念を持っている人がたくさんいることを思えば、聖書を持たないで、そのような神意識を持っている日本人を高く評価したくなります。

 まず、日本人の心の奥深くにある汎神論的神意識を認め、それを評価し、そうする過程の中で、多神教的な愚かさや精霊信仰の迷いを、濾過して行けばよいでしょう。日本人の中にある汎神論的神意識を、聖書の教えによってさらに純化し、濁りを取り除き、輝くものにすることが出来ます。ともすれば多神教や精霊信仰と重なり合い、それらと混同してしまいそうな脆弱さ、危うさを指摘し、汎神論的感覚の優れた点を強調してあげましょう。

 私たちクリスチャンが信じている聖書の神は、すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内に存在し、すべてのものを内に収め、すべての次元を超越しておられるお方であり、汎神論と矛盾しないところが多いのです。あえて言えば、唯一神論的汎神論です。多くの神々や魑魅魍魎がすべての自然物に宿っているのではなく、森羅万象が神なのでもありません。万物の創造者である唯一の神が森羅万象に内在し、森羅万象を内に収め、森羅万象を通して御自分を現しておられるのです。


4. 日本人が心の奥で感じている神は、同時に世界の神であり、天地の造り主である事を教えてあげまし    ょう

 昔から日本に住み、日本を守り、日本を祝福してこられた神、日本人が見えないお方、尊いお方、恵み深く慈愛に溢れたお方として崇め奉ってきた神は、天地をお造りになって人々を慈しんでこられた、私たちの神であることを教えて上げましょう。その神は普通キリスト教の神として知られている神でもあることを、知らせてあげましょう。

 キリスト教の神は、フランシスコ・ザビエルの船に乗って、日本にやってきたのではありません。アメリカ人宣教師のスーツ・ケースに入れられて連れられて来られたのでもないのです。神代の始まる前から日本にいて、日本を慈しんでこられた日本の神であり、良くはわからないまま、日本人が畏れ敬ってきた神である事を語って上げましょう。

 キリストはこの世に生まれてくださるずっと以前から、天地創造以来、この世の人々には知られない姿で知られないまま、この世にいてくださったお方だと聖書に教えられています。そのキリストが改めて、見える姿で人々の救いのためにこの世を訪れてくださったのが、クリスマスです。おなじように、天地創造の神は、天地創造以来、絶え間なく私たちの国日本にいて、日本を祝福し守り、そこに住む人々を慈しんできてくださったのです。その神がいま改めて、救いを目的として日本人を訪れてくださっているのです。

5. 聖書を持っていた西欧人は、天地をお造りになった神についてより良く理解しているけれど、
     多くの間違いも犯してきたことを積極的に認めてあげましょう

 聖書を持たず、本能と直感だけで、優れた神意識を持ち続けている日本人の素晴らしさを、高く評価してあげましょう。キリスト教国と言われている多くの国々が、倫理的には日本ほど高くはない事実も認めてあげましょう。聖書を持たない日本人が、世界中の人々から賞賛されるほど、崇高な倫理観と友愛意識を持って生きていることを、大いに認めましょう。世界の歴史を調べるまでもなく、キリスト教の名で多くの犯罪が重ねられてきた事実も認めましょう。

 世界的な視野をもって歴史を見ると、日本があまり戦争犯罪に手を染めていないことも評価しましょう。確かに近代の日本は、台湾や朝鮮を併合し、南の国々を占領しました。傀儡の満州を建国し、中国を攻め、多くの人々を殺しました。しかしそれは、キリスト教国が進めていた植民地主義を警戒し、むしろそれを模倣しながら、それに対抗しようとしたのだという一面も知っておきましょう。日本が外国に侵略した歴史は、1886年の台湾併合から第二次大戦で敗北した1945年までの、たかだか半世紀ですが、西欧キリスト教諸国の侵略は、大航海時代と植民地政策の時代だけでも、500年を超えるのです。多くのキリスト教国が犯し続けたこれらの侵略のほうが、日本人が他国や他民族に対して犯した罪よりも、何十倍も大きかったことを認めましょう。


6. 日本人は聖書を持っていなかったけれど、心に書き記された律法を持っていたことを認めてあげまし    ょう

 聖書を持っていた西欧のキリスト教徒の間では、旧約聖書の中途半端な理解から神を恐れる「恐怖」の気持ちは強いものの、神を畏れる「畏敬」の心は少ないことに気づきましょう。日本人は逆です。日本人は、性懲りもなく偶像礼拝をくり返すイスラエル民族を、厳しく罰しながら導かなければならなかった、神の憤怒の姿、激しい憤りの姿を知りません。むしろ、日本の豊かな自然の中で、自然を通して語りかけられる恵みの神を感じてきたのです。だから日本人は神を恐れるのではなく、神を畏れることを学んできました。もちろん日本人の間でも、「荒ぶる神」を恐れる事はあります。怒りの神を鎮める行事もたくさんあります。しかしそれは神々を恐れるのであって、超絶するお方を恐れるのではありません。もしも超絶するお方を恐れるとしたら、それは災害を受けるに値する自分を感じて恐れるのであって、畏れが先にあるのです。

 恐れは自分たちが犯した罪悪に関わります。誰かに見られている。刑罰を受けるかもしれないという感覚です。確かにイスラエル人は神に反逆し続け、刑罰を受け続けましたので、神を恐れるようになったのも分かります。イスラエル民族を厳しくお取り扱いになった神の姿を、旧約聖書から学んだ西欧人たちが、大地震や大嵐や疫病などの天災をも、ただ「天罰」として捉えるだけで、終わってしまいがちなのも理解できます。

 ところが畏れは、大きく気高い存在者の前に、自分は小さなものに過ぎない、自分はただその大きな者の慈愛と慈悲によって、生きることを許されているだけだという感覚によって生じるものです。その見えないお方に対する畏れは、自分たちが浴してきた恵みに関わります。豊かな刈り入れや穏やかな地域社会、そして和気あいあいとした家族を思い、自分が生み出され生かされていること、食べさせてもらっていることに対する、感謝として表される感覚です。

 この感覚は、パウロが言う「律法を持っていないものの心に書き記された律法」です。(ローマ2:14−15) 神によって、神に似せて造られたものの本源的な姿、本能です。人間の神に似た姿は、罪によって捻じ曲げられ壊されてしまったとはいえ、完全に失われてしまうことはなかったのです。ですから、日本人は神に似た愛、寛容、公平、平和、などの基本を強く保持しているのです。

 なぜ、日本人が神に似た姿を多く残しているかというと、パウロがローマ書の第一章で書き記しているとおりです。日本人は、他の多くの国の人々とは違って、見えない栄光の神の姿を見える人や獣や鳥や這うものの形に似せて、偶像を作ることはしなかったことです。偶像礼拝をしなかったために、日本人は、自分の欲望のままに任せられるという神の刑罰、いわば神の第二の追放をあまり厳しく受けておらず、偶像礼拝をしている多くの人々とは異なった、高い倫理観を堅持しているのです。(アダムとエバの追放が第一の追放)


7.  日本人の良心を高く評価し、認めてあげましょう

 日本人の倫理観の高さは、日本人の良心と深く繋がっています。良心とは、神に似せて造られた人間の本性が、文化や教育、あるいは育ちや訓練などという環境によって、影響を受けながら具体的に表現されたものです。偶像礼拝の少ない日本の環境は、神の姿に似せて造られた人間の本姓、すなわち心に記された律法が、より素直に表現されるのにふさわしいのです。

 日本人は、神が恐ろしいから悪いことをしないのではなく、神を畏れるから正しくありたいと願うのです。刑罰を与える厳しい神が怖いのではなく、優しく恵み深いお方を畏れ敬っているのです。

 例外の事例や時期があったとしても、日本は民族として偶像礼拝を退けてきました。そこには神を恐れるのではなく、神を畏れる気持ちが強かったからです。神を畏れると、偶像礼拝には至らないのです。多神教の偶像文化では、神を畏れる気持ちは芽生えません。汎神論的な文化には神を畏れる心が育つのです。

 キリスト教的一神教の感覚を持って、日本人の汎神論的感覚を責めるのは間違っています。聖書の神は、欧米で発達させられたキリスト教が持つ一神教的神理解、唯一神教的神感覚を遥かに超えたお方です。三位一体論は偉大で高度な神理解ですが、聖書の神はもっと幽玄で神秘なお方です。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内におられ、すべてのものを内に秘めておられる唯一の神であり、三位一体の神と呼ばれてはいますが、それさえも人間の理解の範囲に神を留めておこうとする試みで、本当は三位一体の理解さえ超えた神なのです。 

 日本人の良心は、この人間の理解を遥かに超えた存在者を、心の奥深く、まさに芯に感じるところから生じ、そのような人々が作り出す社会、あるいは共同体によって養われてきたのです。


8. 心の奥深くで感じているお方について、もう少し正しい理解を持ってもらいましょう

 日本人の宗教意識あるいは神観には瞠目すべき点がたくさんあります。とはいえ、それは決して充分なものではありません。日本人も、神についての自分の知識や理解では、救いを得ることはできないのです。日本人に、もう少しだけ、多くはありませんが、もう少しだけ知ってもらわなければなりません。

 日本人に知ってもらう場合、いま持っている不確かで誤りの多い知識や理解を否定し、間違いを正すところから始めてはなりません。むしろそれらのものを橋渡しとして用いて、より確かなもの、より明らかなものを示して行くのが良いでしょう。

 不確実で不明瞭な「神」を明らかにしてあげましょう。日本人の多くが心の奥深くで感じ、大切にしているお方は、日本語の「神」では表現できない尊く高く大きく、恵みと情けに富んでおられるお方であることを、お話してあげましょう。日本人がそのお方を心に感じるのは、日本人もそのお方に似せて造られているからだということを、教えて上げましょう。だからこそ、すべての人間には宗教があり神意識があり、祈りたい心があるのだと教えてあげましょう。

 そのお方こそ、人間だけでなく天地万物をお造りになったお方であることを、教えてあげましょう。人間はこのお方がお造りになった大自然の中に置かれ、その中で幸せに生きるようにされていることを、お話してあげましょう。人間が自然の中に入ると心が落ち着き、安らぐのはそのためであることも教えてあげましょう。

 人間は本来、神に造られた自然の中で、自分を造ってくださったお方と語らい、感謝と賛美を捧げながら、このお方の愛と恵みに信頼しながら生きるようにされていることを教えてあげましょう。そして、そのように生きることが、人間の幸せであることを教えてあげましょう。鳥には鳥の、魚には魚の生き方があって、その生き方に従って生きることが最も良い生き方であるように、人間には人間に与えられた生き方があり、それに倣って生きることが幸いな生き方であることを、お話してあげましょう。


9. 正しく感謝し正しく礼拝することを学んでもらいましょう

 ところが人間は、この幸せを充分に味わうことも、掴み取ることもできないままでいることも知らせてあげましょう。それはこのお方のことをあまり知らないために、このお方を大切にしてこなかった、正しく崇めることも感謝することもしてこなかったためであると、知らせてあげましょう。太陽を昇らせ、季節を巡らせ、草木を育て穀物の実を結ばせ、動物を育て、私たちを養って来られた、このお方に対する感謝が少なすぎたのです。それは恩知らずであり不義理です。私たちは知らず知らずのうちに、恩知らずになり、不義理を重ねてきていたのです。

 このお方は万物を造り所有しておられるのですから、私たちに何かをしてもらう必要もありません。お金も、高価な物品も、人間の苦行も善行も、このお方は必要としていません。私たちがこのお方の心の広さ、善良さ、恵み深さ、情け深さに感謝を捧げ賛美をしながら暮らすことを望んでおられるだけです。つまり、心の交流、交わりを願っておられるだけなのです。そのことを知らせて上げましょう。

 私たちはまず、このお方をないがしろにして生きてきたこと、あまり感謝もしてこなかったこと、ほとんど賛美をしてこなかったこと、たとえ知らなかったこととはいえ、あまりにも恩知らずを続け、不義理を重ねてきたことをお詫びするようにお勧めしましょう。

 私たちは今まで、罪を悔い改めることが救いの必須条件だと教えられてきたために、鼻から「罪、罪、罪」と言い募り、「悔い改め、悔い改め、悔い改め」と叫んできました。その結果、罪を理解しない多くの日本人に嫌われ、疎まれることになってきました。そのように罪を糾弾し、悔い改めを迫る怒りの神には、近づかないほうが良いと思わせしまったのです。

 しかも指摘する罪が、おおよそ的外れで枝葉の事柄に止まり、罪の本質からはかけ離れていますので、悔い改めをしたとしても、本物の悔い改めになっていないのです。罪の正しい理解には、優しく恵み深い神、私たちにあらゆる良いものを与え、幸せにしようと願っておられる神がおられることを、知ることが大切なのです。そのような神がいてくださるから、私たちは美しい自然の中で、美味しいものを食べ、おだやかな社会に生きてくることができたのだと、気づくことが重要なのです。

 そのような神をないがしろにしたまま、感謝もせず、そのみ旨に思いを馳せることもせず、勝手気ままに生きてきたことが、大きな不義理に当たることを知らせてあげるのです。人間の間の不義理は恥ずべきことです。神への不義理はさらに恥ずべきことです。親不孝は親の心を傷つける、あってはならないことです。神不孝は人間の幸せのために尽くしてくださっている神を悲しまる、絶対にあってはならないことですと教えてあげるのです。


10. このお方に信頼して生きるように励ましてあげましょう 

 私たちの神は、感謝され賛美されることをお喜びになりますが、それと同じくらい、あるい
はそれ以上に、信頼されることをお喜びになります。この信頼をクリスチャンたちはふつう、信仰と呼んでいますが、信じて仰ぐという「信仰」では意味がぼやけてしまいます。非常に観念的な宗教臭さがあって、聖書が本来教える人間と神との正しい関係に用いるには、力不足なのです。

 聖書が教えるのは信仰というより、信頼です。それは人間と人間の基本的な関係と同じです。
信用して信頼する、信じて頼るのです。私たちも神の善良さ、力強さ、恵み深さ、誠実さなどを信用して信頼するのです。信頼されたとき、人間はだれでも悪い気はしません。「窮鳥、懐に入れば猟師も殺さず」ということわざがある通り、たとえ好きではない人間でも、役に立たない人間でも、頼ってこられると助けてやりたくなるのが人情です。それは哀れみという神の性質が人間に写し与えられたからです。

 神が最もお望みになるのは、人間が立派になることでも、正しくなることでもありません。
まず神を信頼することです。神を頼って行くことです。いままで、私たちの足りなさ、ふがいなさ、醜さ、過ち、間違いなどに応じて私たちに報いず、かえってご自分の大きな恵みと愛と優しさと赦しの中に、私たちを生かし続けてくださっていることを感じて、これからも信頼して、思い煩わず、あくせくせず生きていくことです。その上で、神の寛大さを信頼して、必要があればなにごとでも神にお願いすることです。

 平たく言えば「なつく」ことです。いま我が家に居候をしている猫は、アメリカ人宣教師が帰国するときに、「預かってくれ」と言って置いていったものです。狐のような顔つきでまったく可愛げがありません。でも抱き上げるごとに、「おまえ、みったくない猫だなぁ」などと言いながらも世話をしているうちに、すっかりなついてしまいました。(みったくない=筆者の子供の頃の方言で、見てくれの悪いこと)

 なついてしまうと可愛いのです。上目づかいで餌をねだるのも、他人が見ればおかしな顔と思われるに違いありませんが、可愛いのです。私たちは善行や功績で自分を良く見せ、可愛くなろうとする必要はありません。たくさんの金品を奉納したりして、歓心を買う必要もありません。神学を学び理屈を捏ね、知識を見せびらかす必要もありません。神になつけばいいのです。「できの悪い子こそ可愛い」と言われますが、できが悪くても、なんだかだと親のところに行っては迷惑をかけ、すねをかじっている子のほうが、出来が良くて立派な社会人として生きているけれど、滅多に親のところに顔を見せない子よりも、親にしてみると可愛いのです。私たちは神に可愛がられればいいのです。

 さらに神の寛大さに信頼して、今までの不義理と不孝を詫びることです。神に対する不義理
と不孝が、私たちが悔い改めなければならない最大の罪であり、罪の本質なのです。心の広い神は私たちがお詫びをするなら、喜んで赦してくださいます。神は人の信頼を最もお喜びになり、その信頼のゆえに私たちのあらゆる過ち、罪、穢れを赦し、生かしてくださるのです。聖書は「信頼による義人は生きる」と語っています。なつくことです。

 私たちが信頼してお詫びをすることを期待して、神は、すでにキリストによって私た
ちの罪を処分してくださっているのです。お詫びをした上で、感謝の祈りの捧げ方を教え、賛美の仕方と賛美の歌を教えて上げましょう。

「私のような人間を、神は受け入れてくださるでしょうか」と、神の前に畏れをもっている日本人が意外に多いのです。神の恵みの豊かさ、心の広さ、忍耐の深さなどをお話してあげましょう。私たちのような罪深く穢れたものを、気高く聖い神が、受け入れることができるようにしてくださいました。それがキリストの十字架です。ここに至ってキリストの十字架の話をすることができれば、神の大きな愛を知ってもらい、感動と感謝でキリストを見上げてもらうことができるようになるのです。


結び

 日本人は、日本人独特の文化を持ち、非常に日本人的な宗教意識の中に生きています。
ユダヤ民族という特殊な人々や、グレコローマンの文化背景の中に生活する人々に宛てられた聖書を、生のままで説いたのでは理解されません。「キリスト教文化」の中で形成された西欧キリスト教神学を日本人に語り聞かせても、あまり意義のある話として聞いてもらえません。福音は日本人にわかってもらえるように、日本人に受け入れられるように説かれなければ、福音ではないのです。

 プロテスタント・キリスト教の宣教が150年を越える今、私たちはこれまでの宣教の仕
方、今までの伝道のやり方、伝統となってきた説教の方法、勧められてきた証のあり方を、日本人の感覚に合ったものに改めて行かなければなりません。この小文は、そのような気持ちを表現したものです。語る福音をより正しく理解し、語り聞かせる日本人をもっと深く理解し、もっと効果的に福音を語り伝えていきたいものです。

(注)  本文中では「多神教」、「一神教」、「精霊信仰」あるいは「汎神論」などという言葉を用いていますが、どれも複雑に入り組み重なり合った宗教感覚や世界観を、何とか分類し、説明しようと試みたものであり、正確な定義があるわけではありません。したがってそのような曖昧さ、
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2014年03月09日

 私たちが語る福音

 
  小さな物語

 集落の住民たちは、水がなくて困っていた。いや、近くには澄んだ沢の流れがあって、その豊かな水は枯れたこともないのだが、惜しいことに、塩辛くてとても飲めたものではなかった。昔、井戸を掘ってみた者もいたそうだが、湧き出た水はみな塩辛かった。村人たちは雨水を貯めるか、しばらく坂道を登った丘の上にある、隣の集落から買い求めなければならなかった。

 ところがあるとき、何がどうなったのか、突然、沢の水から塩気が抜けて、とびきり美味しい水になった。村人たちは、「奇跡だ」「神様がわしらを助けてくだすった」と、それはそれは喜んだ。噂を聞いた周辺の集落からも、そんな不思議な水を自分で味わってみようと、わざわざ訪ねてくる者もあれば、器に入れて持ち帰る者まで現れた。いままで、「呪いの水」と囁かれていたのが、「祝福の水」に変わった。彼らの集落は、新しい水の流れるところと呼ばれるようになった。

 それから長い年月が流れ、部族間の戦が幾度もくり返され、村はすっかり荒れすたれて住む人もいなくなり、見渡す限り草木に覆われてしまった。そんなある日、旅人たちの一行がその場所を訪れた。彼らが住んでいた土地は住民が増えすぎて、すべてを養うのが難しくなり、新しい土地を求めてやってきたのだ。

 一行は豊かに流れる美しい水に歓喜した。もう、今までいた村のように、水の心配はしなくてもいい。土地も広くたくさんの人が住める。争いも起こらない。この嬉しい発見は、すぐさま彼らが出てきた村に伝えられ、多くの者がその土地に移住した。こうしてたくさんの人口を抱えるようになった村は、美しい沢の村と呼ばれて栄え続けた。


T. 新約の時代

 新約聖書が記され、イエス・キリストの福音が新しい契約の福音として認識され、それまでの律法に拘束された古い契約を破棄して、喜びに満たされたのが使徒の時代、新約の時代でした。それはあたかも、塩気の強い沢の水から、塩気がなくなったときの喜びのようです。使うことができなかった古いものが変えられて、使うことができる新しいものになった喜びです。

 だれもが、古いものについてよく知っていました。その見た目の美しさの裏切り、役に立たなかった事実は、みんなが体験していました。だから、なぜそれが役に立たなかったのか、新しい契約はいかにして役立つものとして登場することができたのか、古い契約と新しい契約の関わりはどういうものなのかなどということに、強い関心を持っていました。人は律法によっては、義とされないこと。人には完全に律法を守る力がないこと。それなのに律法を守ろうと必死になり、守っていると勘違いする者たちも現れ、偽善者となって生きていたことなどが、新約聖書によって明らかにされました。

 律法が役に立たなかったのではなく、律法が間違って用いられたために、正しく機能しなかったのだということも、きちんと教えられました。律法は新しい契約へ導く筋道であり、信仰による救いへの養育係だったのです。(ガラテヤ3:24)そしてその律法によって期待させられるべきであった、救い主が現れ、律法とは別に、信仰による救いの道を開いてくださいました。それは、十字架による代償の死によってもたらされる、罪の赦しであり、救い主の甦りを経てもたらされる、義の転嫁であり、白い衣を着せられて、しみもとがもない花嫁となることができる、永遠のいのちの福音でした。

 罪の中に生きていて、偽りの望みしか持つことができなかったイスラエルの人々には、これらが大きな福音でした。塩辛い水の古い沢が、甘くおいしい水の新しい沢になったのです。


U. 旧約を知らない人々

 私たち日本人は、ユダヤ人ではありません。古い塩の沢のことは知らないのです。かつてそのような沢があったという事実を、長々と聞かされても、関心を持てないのです。それよりも、そこに、美しくおいしい水が流れる沢がある、いつでもその水を飲むことができるという、いまの事実の方がよほど大切なのです。まず、その美しい流れからおいしい水を飲み、生活を営む中で、かつての歴史を学んだら良いのです。

 私たち日本人がまず福音として聞かされるべきことは、美しくおいしい水が流れる沢があるという、いまの事実です。かつてそれは塩水の沢であったのに、奇跡的においしい水に変えられたという歴史は、後になって学べば良いことです。

 21世紀も昔に生きていた歴史上の人物が、何をしたか、何をどう変えたか、当時の状況にあってどのように生き、どのように戦い、どのように死んだかなどという事実は、どれほど重要であっても、いまさまざまな問題の中に生きている現在の日本人には、どうでもいいことなのです。それよりも、「いま助けてくださる方、いまこの問題を解決してくださる方」の方が、よほど大切なのです。

 聖書の中でキリストはどのように描かれているか、旧約聖書との関わりの中でどのように教えられているかも、どうでもいいのです。どんなに素晴らしい教えをし、どれほど大きなことを成し遂げたかも、いま、問題の中にいて悩んでいる人にとってはどうでもいいのです。キリストの救いの道がどのように開かれたか、そのためにキリストがどれほど苦しまなければならなかったかなども、いまは、そんなことはどうでもいいという、「そんなこと」に含まれるのです。いま重要なのは、助けてもらえるかどうかです。いま助けがあるというのが福音。「助けてくださる方が、ここにいるぞー!」というのが、福音伝達であり伝道なのです。

 私たちは歴史上のキリストを、一所懸命に語っているのではないでしょうか。旧約聖書との関わりに関心を持って深く学び、その知識を真剣に語り伝えているのではないでしょうか。十字架のイエス、甦りのイエスを、力いっぱい語ろうとしているのではないでしょうか。それはとてもとても大切な事実であり、私たちの信仰の土台です。でも、それが福音でしょうか。キリストが、人類の罪のために十字架で命を落としてくださったという事実は、いま21世紀の問題の中に生きている日本人にとって、果たして福音として聴くことができるものでしょうか。

 私たちが福音として宣べ伝えるのは、十字架に架かって死んでくださった、過去のキリストの物語ではありません。甦って天にお帰りになった、昔のキリストの話でもありません。いま私たちと共にいて下さるキリスト、いま私たちを助け、癒し、力を与え、困難に打ち勝たせ、望みを与えて下さるキリストです。いま私たちと共にいて下さるキリストは、かつて、私たちの罪のために十字架で死に、三日目に甦ってくださった方ですが、いま肝心なのは、このキリストが、私たちを助けようと、私たちが頼って行くことを待っておられるという事実です。いま、そのように私たちを助けることが出来るのは、かつて十字架で死に、甦ってくださったからですが、そのようなことは後で知れば良いことです。

 私たちは旧約聖書を知らない国民です。律法を持たない異邦人です。かつて流れていた沢は、塩辛い水であったということを知らない新しい住人です。いま、そこに流れている美しくおいしい水の沢を、まず喜んで、たっぷり飲んで渇きを癒したらいいのです。私たちの信仰は、過去の事実の上に立脚しています。しかし、過去の事実が福音なのではなく、いまの事実が福音であるはずです。いまの事実は、救い主、助けぬし、慰めぬしが私たちの近くにいて、私たちに手を差し伸べていて下さるということです。


V. ペンテコステ信仰のメッセージ

 ペンテコステ運動で語られた福音には、当然、歴史上のキリストとその教えが含まれていました。キリストが何をしたかということも語られました。ところがそれで終わりではありませんでした。しばしば、いま、キリストが何をしてくださるかという点に、焦点が当てられていたのです。ガリラヤで足萎えを癒されたキリストは、いまここにいる足萎えを癒して下さるというのが、ペンテコステ信仰のメッセージでした。エルサレムで、目の見えない人の目を見えるようにしてくださったキリストは、いま、ここにいる目の見えない人の目も、見えるようにしてくださるというのが、ペンテコステ信仰の祈りの期待でした。イエス・キリストは、昨日も今日もとこしえまでも変わることがないというのが、ペンテコステ信仰の旗印だったのです。「いま共にいて下さるイエス様に、お願いしましょう」というお勧めが、証であり、伝道であり、メッセージであり、それに応答する信仰を期待したのです。

 ペンテコステのメッセージは、聖書に記された歴史のできごとに基盤を置きながら、今生きておられるキリストを語り伝えたのです。これはしばしば体験主義、現象主義、ご利益主義というレッテルを貼られ、伝統的福音派の人たちの非難を浴びてきました。たしかにそのような非難には、真摯に耳を傾けるべきところがたくさんあり、反省し、改めなければならないことも数多くありました。それで、ペンテコステ信仰を持つ者が、少しばかり萎縮してしまったところもありました。とはいえ、そのような「主義」が、ペンテコステ運動の躍進の原動力でもあったのです。

 私たちは何を福音としているのでしょう? キリストの十字架でしょうか? 復活でしょうか? それとも聖書の教えでしょうか? キリストを信じるならば救われる。なんの行いも必要としないということでしょうか?

それらはみな福音の基盤であり、大切です。本物のクリスチャン信仰には、どれも欠かせないものです。しかし本当の福音は、私たちの救いのために、独り子をさえ惜しまずにこの世に遣わして十字架に架けるまで、私たちを愛し救いの道を整えてくださった神が、いま、私たちを救おうとしておられることなのです。いま私たちの祈りを聞き、助けの手を差し伸べようとしておられることなのです。

 かつて私たちの罪を担って十字架で死んでくださったキリストが、いまも変わらない愛を持って、私たちを救いに入れようとしてくださっているという、その事実が福音なのです。私たちの癒しのために十字架で傷つき、永遠のみ国において完全な癒しをもたらして下さるキリストが、いまもこの世において働いておられるという、その事実が福音なのです。それだけでなく、キリストは、永遠のみ国で与えてくださる完全な癒しの前味を、いまのこの世で、あらかじめ味あわせ、永遠のいのちの望みを与えてくださるという、その事実が福音なのです。

 くり返しますが、私たちは何を福音として語っているでしょうか。聖書の記述でしょうか? 神とキリストに関する過去の事実でしょうか? それとも、いま、神は私たちを救い助けてくださるという、現在の事実でしょうか?

 私たちは、塩辛い水の沢のことを知らない人たち相手に、福音を語ろうとしています。いま喉が乾いて死にそうな人に、塩辛い水がどうして甘いおいしい水になったのかという、過去の事実を最初に語っても意味がないのです。それよりも、いまそこにあるおいしい水を、喜んでたくさん飲むことを勧めてあげるのです。勧めて上げるだけでなく、水を汲み上げて差し出し、飲めるようにしてあげるのです。

 私たちは、いま問題の中に生きている日本人、悩みの中に痛み苦しんでいる日本人に向かって、2000年前のキリストがどうしたの、何を教えたのなどとお話するのではなく、その人の痛みと悲しみを感じながら、いま、助けてくださるお方にお祈りしてあげるのです。私たちの雄弁や知識、心理学やカウンセリングの能力で日本人を助けてあげるのではなく、本当に助け救う能力をもっておられる方に、一緒にお祈りしてあげるのです。

 すでに筆者は、普通の日本人に最初から「キリスト」という名を持ち出しては、理解と受け入れる心を妨げるといくどもお話ししてきました。ですから、すでに教会の活動に参加しているような人はさておいて、のっけからキリストがどうのこうのと言い出すのは、避けたほうが良いでしょう。それよりも、日本人が昔から心の奥深くで感じてきた気高く、大きく、優しく、有り難く、尊く、厳かな方、聖書でいう天地の造り主に、一緒にお祈りしてあげればいいのです。

 
簡単な結論

 ではこの福音を、まったく聖書的な背景がない異邦人である日本人に、どのように説明したらいいのでしょう。大体、次のようにお話するのが良いのではないかと思います。
ふつう

「私たちが信頼しているお方は、日本人が、昔から心の奥で感じてきた、優しく強く、心広く、情けに富む、気高く、尊いお方です。美しい四季を巡らせ、森や原を緑で覆い、作物を育て穀物を稔らせ、陸や空や海に住むすべての生き物に命を与え、私たちをも生かしておられる大きなお方です。日本人はこのお方のお名前も知りません。知らないままに、大切に崇めてきまし。実は私たちも、このお方について正確には知りません。計り難く大きなお方だからです。ただ、聖書という書物を通してこのお方について教えられ、天と地をお造りになったお方と呼んで崇めています。私たちはこの方のめぐみの中に命を与えられ、生かされ守られてきました。

 このお方が、あなたを助けようとしておられます。それだけではなく、あらゆる禍からあなたを救い、もっともっと豊かに恵み、永遠の命までも与えようとしておられます。そのような祝福を得るためには、実は大変難しい手続きと、とても高額な費用が必要だったのですが、あなたを助け救い出そうとしておられるお方が、すでにあらゆる手続きを済ませ、すべての費用を払ってくださっています。

 ですから、あなたは何もする必要がありません。ただ、このお方に「有難うございます」とお礼を言い、このお方をないがしろにして生きてきたことをお詫びし、このお方に信頼する生活を始めるだけでいいのです。そして、このお方の寛大さとめぐみに対する具体的なお礼として、このお方がお喜びになる生き方をするように、心がけましょう。

 このお方がお喜びになる生き方は、自分中心をやめ、人を愛し人のためになるように生きることです。その上、天と地をお造りになって人間を生かし、さらに永遠の命まで与えてくださるこのお方に感謝し、崇め、尊んで生活することです」と教えて上げることができれば、九割方成功です。あとひと押しは、「このお方がお喜びになる、自分中心を捨てて人を愛する生活をするためには、人間の力だけではとても無理です。でも、このお方に祈り、助けをお願いすれば、このお方が喜ばれる生き方も無理なく、自然にできるようにしていただけるのです」と、祈りの生活を勧め、神の助けを体験できるように勧め、励ましてあげることができれば、長い伝道過程の第一段階としては大成功です。

 あとは、神様がその人の心に働きかけて下さるように、祈るだけです。

posted by まさ at 19:43| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月01日

異邦人への福音

      

 神戸の大震災の後、被災者が作った歌が唄い継がれて、多くの人たちの励ましになってきました。その歌が、こんどは東日本大震災の被災者たちの前で唄われて、大きな勇気を与えることになりました。生きる力、思いやる力、新しい希望を生み出す力となっています。歌を携えて訪ねてきた、神戸の小学生たちと一緒に唄う、年配の東日本大震災の避難者たちの目には、感謝と感動と喜びの涙が溢れていました。善意がどれだけ人の心を動かし、勇気と励ましを与えるものなのか、改めて思い知らされました。
 
 それほど素晴らしい人の善意、思いやり、同情なのですが、私たち福音的立場に立つクリスチャンからは、どうしても素直に感動できないところ、同調できない部分が残ります。それは彼らがどれほど素晴らしいことをし、感動的な生き方をしたとしても、しょせんは、キリストの救いに与らない限り、永遠の滅びに陥る罪人の行いに過ぎないという神学が、心の底に定着しているからです。世の罪人の行いはどんなに素晴らしく見えたとしても、完全に聖なるお方からすると「汚れた布切れ」で、汚らわしく忌むべきものなのだという、福音派の神学理解が頭を占領しているからです。

「彼らは罪人なのです。どれほど素敵で立派な人たちであっても、神のみ前には罪人であり、悪魔の支配に陥って神に敵対して歩いていて、やがて永遠の滅びに陥るのです。だから、彼らも福音を聞いて救われなければなりません。救われて新しく生まれ、キリストに連なるものにならなければ、神のみ前に何一つ良いことはできないのです」と、教えられてきました。

 そのような伝統的教えが間違っているというのではありません。ただ、なんとなく不信感が湧き起こるのです。果たして、聖書はそのように教えているのだろうか。間違ってはいないけれど、何かがおかしいのです。キリスト教の文化の中に生まれ育った福音派のクリスチャンたちには、わからない感覚かもしれませんが、異邦人として聖書を読み、異邦人として救われた筆者には、腑に落ちないのです。

 伝統的西欧キリスト教諸国で築き上げられた神学は、たとえ間違ってはいないとしても何かが足りなと感じるのです。それは、異邦人の立場、異邦人的な見方、異邦人的な考え方に配慮されていない、「キリスト教徒」という選民意識の神学であって、ユダヤ人でもなく伝統的キリスト教国の人間でもない、筆者のような人間の立場には考察も理解もまったく及んでいないのです。たとえ間違っていなくても、自分たちが理解した一面だけが強調されていると、全体としてみるならば、歪んだものとなってしまいます。
 
 異邦人として生き、異邦人に福音を伝えようとしている私たちは、もっと、異邦人に関する聖書の教えを学び、理解しなければなりません。伝統的な西欧の神学を学び、それを受容して伝えるだけではいけないのです。パウロは異邦人への使徒として、異邦人のための神学というより、むしろ普遍的な神学というべきものの土台を敷きました。とはいえその神学は、まだ築き上げられてはいないのです。それを築いていくのが私たちの使命だと感じます。


T. アブラハムの救い    

 パウロがそれまでのユダヤ主義的信仰理解を打ち破り、信仰による救いという普遍的な神学を論じたとき、論拠として、躊躇なくアブラハムの例を持ち出しました。アブラハムは信仰によって救われたのです。

 ところがこの有名なパウロの論旨には、重大なすり替えがあります。パウロは「キリストを信じる信仰」を論じていたのに、なんの予告も注釈も説明もなく、突然、「神を信じる信仰」に鞍替えをしているのです。パウロにとって、キリストは神の子であり神だったので、何ら矛盾はないのですが、異邦人である筆者には、キリストに対する信仰と神に対する信仰を、まったく同じに取り扱うにことには大きな理論の飛躍、すり替えとさえ言えるものがあると感じられます。異邦人は、果たしてそのような飛躍に耐えることが出来るでしょうか。

 アブラハムは神を信じました。それによって義とされ救われたのです。神の言葉に信頼し、神の誠実さを受け入れたからです。ただし、彼はキリストを信じたのではありません。彼はキリストなるものを知ってさえいなかったのです。もちろんアブラハムもキリストの功績の故に救われたのであり、キリストなしにはアブラハムの救いもありませんでした。ところが、アブラハムがキリストを知っていたかどうか、キリストを信じたかどうかは問われていないのです。

 私たちは、キリストを信じることなしには救われないと、教えられてきました。聖書もそのように語っているかのように思えます。ところが、パウロが異邦人の救いについて語ったとき、すなわち、ユダヤ人にとどまらない普遍的な救いと、それに必要な信仰を語ったとき、彼は「ユダヤ人に与えられた律法」に留まって、その中で論じることができなかったのです。律法以前、ユダヤ民族以前の、アブラハムの例に論拠を求め、キリストに対する信仰ではなく、神に対する信仰について語らなければなりませんでした。

 しかも、この時のアブラハムの信仰は、キリストに対する信仰ではなかったばかりでなく、罪の悔い改めや赦しの理解もなく、キリストの代償の死も復活による義の賦与も知らなかったのです。ただ、自分と妻サラの肉体がすっかり衰えていたにもかかわらず、実子を与えるとおっしゃる神のお言葉に対する信仰でした。現在の私たちの救いに関する知識とは、おおよそかけ離れた信仰だったのです。

 それだけではありません。彼の信仰は、一面では揺るぐことがなかったと言われるほどでありながら、厳しく見ると、神の約束の言葉に信頼しきれずに、色々と画策して妾によって実子を得ようとした程度の信仰です。大切なのは、それでも神は彼の信仰を「義とする」にふさわしいと、受け入れてくださったという事実です。
 
 長いキリスト教の歴史と伝統を持った西欧諸国の神学は、このような点を見落とし、もっぱらキリストを信じる信仰について考察を深めてきました。自分たちが異邦人であるという事実さえ忘れて、あたかも自分たちは新約時代のイスラエル民族であるかのように、ユダヤ人に与えられた律法を、自分たちに与えられたものであるかのように理解してきました。

 しかし、律法は原則的にユダヤ人に与えられたものであり、そこに教えられていることは、普遍性に欠けるのです。普遍性を持たせるためには、正しい適用をしなければなりません。罪という概念も、キリストという概念も、旧約聖書、すなわち律法によって培われたものです。その律法を持たない異邦人が、キリストを信じるように、罪を悔い改めるようにと言われても、その意味を正しく理解することはできないのです。

 キリストの福音は救いへの唯一の道です。しかしそれが伝えられたとしても、正しく理解されないとしたら、福音とはなりません。伝統的プロテスタントの神学を背景に語る福音は、律法を持たない日本人にはなかなか理解できません。キリストを知らない日本人に、キリストの救いを理解させることは至難です。キリストによる救いは、律法という養育係によって道を整えられたものです。その養育係を持たない日本人に、私たちは養育係を持っていた人々に対するようには、福音を語ってはならないのです。

 だからこそ、養育係を持っていなかったアブラハムの救い、彼が義とされた出来事が重要なのです。アブラハムが義とされた物語は、異邦人が義とされるための手本、あるいは模範なのです。パウロは異邦人への使徒ではありましたが、まだこの点を理解していたようには思えません。少なくても、その点の議論を深めてはいないのです。彼は異邦人への使徒であり、普遍的福音の理解の基礎を固めましたが、そこで留まっているのです。大都市の、ユダヤ人会堂を拠点としていた彼の実際の宣教は、ほとんどがユダヤ人か、ユダヤ教徒化した異邦人を対象としたものであって、完全な異邦人宣教はどちらかというと計画外の、偶発的に起こったアテネでの説教の例など、ごくわずかでした。そのために、彼の異邦人への福音の神学は、基礎を据えただけで留まっているのです。

 アテネに於いて異邦人に取り囲まれたパウロは、キリストについてではなく、神について話し始めました。当然パウロは、完全な異邦人を相手に福音を伝える場合、キリストから始めたのでは、話にならないことを知っていました。ただ、彼の異邦人伝道の未熟さと、アテネは通過地点にしか過ぎなかったために先を急いでいて、ゆっくり腰を据えて語ることができなかった点を考え合わせても、あまりにも性急にキリストに話を持って行き過ぎて、大多数の異邦人とは物別れに終わってしまったのです。アテネのような完全な異邦人を相手に伝道をする機会を、パウロがたくさん持ったならば、パウロの異邦人への神学も、もっと発展を見せたことでしょう。


U. 神への信仰かキリストへの信仰か
 
 クリスチャンにとっては、神への信仰もキリストへの信仰も同じものと言えますが、多くの異邦人にとってはそうではありません。特に日本人の信仰観からすると、まったく異なるものです。大多数の日本人は、いわゆる八百万の神々を、理性に合わない愚かなものとして退けますが、自分の奥底にある厳かな信仰心、あるいは気高い信仰観を大切にしています。「神」という言葉では言い表すことができないほど気高く尊い、「目に見えず」「言葉でも表現できない」「なにものか」を自分の存在の奥深くで密かに感じています。

 日本人の多くは、自分が生きているのではなく、この「なにものか」によって生かされ、養われ、守られているのだと感じて、なにかにつけてそっと感謝をしています。ただ、感謝の対象が「目に見ず」「言葉でも表現できない」方であって、はっきりしないために、外面的な表現としては滅多に現れてこないのです。このような日本人の宗教観は、実は、聖書が教えるところと良く調和しているのです。

 人間は神に似せて造られました。本能的に神を感じ、神を礼拝する動物として生かされています。日本人もまた、人間として神を礼拝する本能を与えられているのです。「神」という日本語を用いると、八百万の神々に堕落してしまった神になるために、日本人は、心の奥底で感じている「目に見えず」「言葉でも表現できない」方を神と呼ぶのさえ恐れ、かえって、神なんていないと言ってしまうのです。心の奥深くに感じている崇高な方を大切にしているからこそ、神なんていないと言い切るのです。神宮や大社で参拝しても、本当に崇め尊んでいるのはそこに祀られている神々ではなく、その背後にいらっしゃると思われる、目にも見えず、手で触れることもできず、言葉で表現することもできず、ただ心で微かに感じることができるだけの、「なにものか」なのです。

 私たちが万物の創造者を「神」と呼ぶのは、「とりあえずの翻訳」、「借り物の言葉」に過ぎません。旧約聖書の最初、創世記の一章一節に出てくる「神」という言葉も、実は、当時の周囲の人々が用いていた言葉で、万物の創造者を言い表すにはまったく足りない言葉した。それなのに、他に方法がなかったために「とりあえず借用」したに過ぎまません。それで神は、ご自分の真の姿を理解させるためにさまざまな方法で自己顕現を繰り返し、啓示の書もお与えになったのです。

 日本人は、自分の心が本能的に感じている「なにものか」が、日本語で言う「神」ではないことを知っていますが、いったい誰なのかは知りません。気高く貴く畏れ多い方であると感じ、その「なにものか」について斟酌することも憚(はばか)ってきました。そのために、日本人は、曖昧な神意識、宗教観しか持たないままに、それでよしとして来たのです。

 西欧的キリスト教から見ると、日本人の宗教観はまさに幼稚で、神学も理論も全くありません。しかしそれはむしろ、見えない神を見える偶像にしないという、日本人の高い宗教意識によることを理解しなければなりません。江戸時代の末期、キリスト教などの教義を取り入れた復古神道が出現し、明治政府によって取り入れられたこともありましたが、それは草の根の人々に受け入れられるには至りませんでした。見えない神の永遠の栄光の性質を、見える形で表現すると必ず歪(いびつ)になり、誤った理解と誤った信仰を産みだすために、聖書は偶像を作ることもそれを礼拝することも禁じているのです。人間の手による表現で、神を表すことはできません。同じように、人間の言葉や理屈によっては、神の永遠の姿を描き出すことはできないのです。それを一所懸命にやろうとしている、ギリシャ的思考に基づく西欧神学は、言葉による偶像制作にさえあたります。日本人は、自分が尊ぶ「見えない方」を説明することを、恐れ多いと感じているのです。

 実のところ日本人は、聖書が天地の創造者、万物の創造者と言っている存在者、「われはありてあるもの」とおっしゃる方を、心の最も深い部分で本能として感じていながら、なんとお呼びして良いかわからない存在として、「なにごとのおわしますかは知らねども」と、そっと崇めてきたのです。私たちは、この「ありてあるもの」とおっしゃる方を、とりあえず「神」と呼んでいますので、日本人が感じている「なにものか」をも、ここでは「日本人の神」と呼んでおきましょう。八百万の神々の神ではありません。すべての存在物の中に潜んでおられるお方です。それゆえに、唯一のお方です。日本人が崇めている目に見えない存在者、「日本人の神」は、聖書が教えている万物の創造者であり、万物を超越し、万物を貫き、万物の内に存在し、万物を内に収めておられるお方なのです。

 ただ、日本人が本能的に感じている尊い存在者の感覚は、あまりにも希薄である上に、言葉で説明できないものとされているために、曖昧模糊として多くの誤った感覚も紛れ込んでいます。それを理解した上でも、私たちは、神に似せて造られた本来の人間の姿を色濃く残している、日本人の神観を大切にして、これを接点として福音を伝達して行くのが賢い方法です。

 この、日本人が微(かす)かに感じている気高く尊い方は、アブラハムが感じていた気高く尊い方と、どれほど違うのでしょうか。幸いなことにアブラハムは神の自己顕示を受け、神をより良く理解することができました。それでも、いろいろと誤った感覚を持っていたことが、聖書の記述から伺えます。アブラハムの子孫であるイスラエル人は、神の顕現に加えて律法という啓示を受けながらも、なかなか正しい神理解を持つことはできませんでした。神の自己顕現も啓示も戴いていない私たち日本人は、なおさらのこと曖昧な中に残されています。しかし、神に似せて造られた姿を本能的に大切にし、多くの民族のようには偶像礼拝にも陥っていない、日本人の「神意識」は神の自己顕示を受ける前のアブラハムと比較しても、あまり遜色はないと思われます

 私たちは、この日本人が心の奥底で感じている方を、聖書によって明らかに説明してあげ、この方を信じること、つまり、信頼して生きることを教えてあげれば良いのです。すでに日本人は、この「何とお呼びしていいかわからない方」、「どのように説明していいのかわからない方」を、分からないままにもある程度信頼し、祀り、感謝をし、それを様々に表現しながら生活をしているのです。その日本人のうっすらとした神観を、聖書の教えによって少しばかり明確にし、信頼しやすくし、実際に信頼することを勧めてあげれば良いのです。

 ところが、キリストを信じるとなると、全く別のこととなってしまいます。日本人が心の奥底で感じている方がキリストであるというのでは、飛躍が大きすぎるのです。キリストというと、良くても、2000年以上も昔に外国で生まれた偉大な人物であり、宗教家であり、キリスト教の創設者であり、尊敬できる人物ではあっても、日本人が心の奥底でずっと感じ続け、崇め続け、感謝し続けたお方とは感じられないのです。少なくても一般的日本人に、キリストこそ天地の創造者であり誠の神であるとう議論は、あまりにもかけ離れていて、頭で納得できないだけでなく、心も頷くことができないのです。キリストを多くの神々の一人として受け入れることはできるはずです。ところが、目に見えず、言葉でも表現できない、神ではない「神」として受け入れることはできないのです。
 
 悪くすると、キリストは実在したのか、宗教革命に失敗して処刑された人物ではないか、キリスト教は植民地主義者たちの世界侵略の精神的支柱ではなかったかなどという、ややこしい議論に発展してしまいます。ましてやキリストの救いを説明しようとすると、必然的に罪、悔い改め、代償の死、復活、三位一体などという、律法を与えられていない日本人には馴染みのない、難題に触れなければなりません。

 私たちは単純に、私たちが本能的に感じている、大きく優しく豊かで情け深いお方に感謝し、その方を崇め、その方に信頼して生きればいいのです。それがアブラハムの物語を通して教えられる信仰です。天地の創造者であるという理解さえ、救いには必要のないものと言えるでしょう。西欧神学の大きな欠点は、この、人間は神ご自身に似せて造られた霊的な存在であり、神を感じ、神を礼拝する本能を持っているという事実を、軽々しく取り扱っているところです。確かに人間は、自分の理解力で神の救いの奥義を知ることはできません。しかし、神を感じることはできるのです。そして、パウロが言うように、神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、自然物によってはっきりと知られ、認められるのです。

 日本人は2,3歳のときに母親と離ればなれになってしまい、10年ほども他人の手によって育てられた子供のようです。本当の母親に会いたいということを、おおっぴらに口に出すこともできず、ただ密かに慕い続け、面影を追って生きていたのです。その子の前に、とつぜん母親が現れました。当然、ずっと慕い続け追い求めていた面影とは、随分異なった姿になっていました。直ちに、「お母さん」と言って駆け寄ることもできないかもしれません。でも、わずかに記憶に残っているおぼろげな面影が、その子を押し出すのです。ここで、母親を連れてきた人があれこれと母親について説明し、紹介するのは無用です。どうして別れて暮らすようになったかを話して聞かせるのも後でいいのです。「お母さんだよ」と言われた子供は、わずかに残った記憶と感覚からお母さんだと察して、胸に飛び込むのです。

 ギリシャ哲学による、形而上学的な神理解を最初に持ってくる、プロテスタントの伝道方法は間違っています。人間は神に似せて造られ、神を感じる本能を与えられているのですから、その本能を利用して伝道すべきです。ましてや日本人は、非常に情緒的で、感覚を大切にしているのです。神は頭で理解すべき知的対象ではなく、暖かい心の持ち主として、心で感じるべきお方なのです。見えない方に守られ育まれて、今まで生きてこられたのだという感覚を、さらに研ぎ澄まさせ、感謝の念を起こさせ、もっと信頼するべきことを感じさせれば良いのです。

 
V. 神への信仰からキリストへの信仰へ

 異邦人である日本人が、キリストを知らないまま心で感じていた「何とお呼びしていいのかわからない方」を、もう少し明らかに理解して、その方に信頼するだけで、果たして救いを受けることが出来るのでしょうか? 

 私たちはここで、「救われている」「救われていない」という区別を、あまり峻厳にすべきではありません。たしかに、キリストや使徒時代のクリスチャンたちは、救いの瞬間を大切にしていたように思われます。律法を知り、罪意識を持ち、救いを待ち望んでいた、ユダヤ的な背景を持つ人々に、伝道をしていたからです。強いキリスト教の背景の中で、罪意識を抱えていた人々を伝道の対象にしていた、メソジスト系やバプテスト系の大衆伝道者たちもそうでした。そのような環境で救いの体験を持った人達は、比較的明確に救いの時を語ることができます。

 それでも、救いはあくまでも神の判断に属することであり、人間の判断には常に曖昧さや不確かさが付きまとうのです。アブラハムは神を信じて義とされたという場合も、一体いつの時点で義とされたのか、厳密には不明です。アブラハムはずっと神を信じ続けていたのであって、突然、なにもかも信じられるようになったのではありません。ただ神を信じたと言われる信仰を持ち、義とされるにふさわしい信仰を持ったことが、あの時点で明らかにされたのです。

 神の側からご覧になると、信じたという瞬間があるのかもしれません。しかし人間側から見ると、大抵の場合、信仰は瞬間的できごとではなく、心の動きの過程なのです。ですから、昔から感じ、崇め、感謝し、祀ってきた「表現のしようがない方」が、聖書をもって自己を啓示しておられる天地の創造者であると理解し、その事実を受け入れ、改めてその方に信頼すると表明した時に、日本人は義とされるのかもしれません。あるいは、もう少し後で、キリストと神との関係がある程度理解されて、初めて義とされるのかもしれません。ただはっきりしていることは、神はそのような信仰のプロセスの最初から、その人の中に、救いに導き入れる働きを始めておられるということです。だから、そのプロセスの最初の「とっかかり」を大切にしたいのです。

 日本人に語りかけるとき、キリストからはじめると、理解してもらうのが非常に難しいのです。むしろ、日本人の心にある宗教心を利用し、日本人が自分の奥深くのところで感じてきた「お名前も存じ上げない方」こそ、聖書が教える天地の創造者であり、人間をご自分に似せてお造りになった方であるという事実から始めたほうが、理解してもらいやすく、受け入れてもらうことも容易だということです。
 
 とはいえ、自分が心で感じて崇めてきた方が、天地の創造者だと知り、人間を造り、生かし、育んできてくださった方だという事実を受け入れ、感謝を捧げ、信頼をするだけで良いのではありません。たとえそれで義とされたとしても、伝道はそこで完結したのではなく、そこで大人の信仰になったのでもありません。伝道はさらに続き、信仰はさらに育てられなければなりません。

 自分は罪人であり、神の救いが必要である、あるいは必要であったという事実も知らなければなりません。その罪の自覚は、律法に記されているユダヤ人向けの、罪の自覚の生じさせ方ではなく、異邦人向けの罪の自覚への導きがされなければなりません。日本人に対しては、罪という言葉を用いるよりも、不義理、あるいは不孝という言葉が適当かもしれません。つまり、自分を造り、生かし、あらゆる良いもので育み、すべての禍から守ってくださっていた方に対して、充分な感謝を捧げず、当然のお礼もしてこなかった不義理です。また親不孝という感覚があるならば、親のように面倒を見続けてくださった神に対する、神不幸という感覚も理解できるはずです。すべての良いもので私たちを養い育ててくださった方に、不義理を重ね、不孝を続けてきたのです。それこそが罪の本質です。

 罪が理解されたならば、罪の赦しの必要性も理解されやすくなります。罪というものは、律法があって始めて罪と断定されます。パウロの言うところでは、律法のないところには罪もなかったのです。ただしそれは、ある行為が罪と断定されるためには、律法が必要であったという意味であって、まだ律法がない時から罪そのものは存在していたのです。神に似せて造られている人間は、本能的に善悪を感じ取ることができ、罪意識を持っていたのです。律法によっては、どんな行為が罪であるかを理解することができ、また、人間は罪人であるという認識が、より強く植えつけられるようになっただけです。

「菊と刀」という、日本文化について論じた有名な本によりますと、日本人は恥の意識を持ってはいるが、罪の意識は持っていないということです。なかなか鋭い分析ではありますが、西欧キリスト教的感覚からの独断です。日本人の倫理観は人間同士の付き合いの中から生まれたものであり、「絶対者」という感覚がないために罪という感覚の代わりに、恥の感覚になったというのは、日本人の倫理観を表面的に捉え過ぎている一方、西欧キリスト教文化の優越感が垣間見える結論と言わざるを得ません。「旅の恥はかきすて」という諺があるのは事実であり、日本人の恥の文化をよく表していると言われますが、「旅の恥をかきすてる」のは、何も日本に限った事ではありません。

 確かに、キリスト教文化には絶対者の感覚がありますし、律法による罪意識もあります。とはいえ、それは神が意図されたほど強い意識でも正しい意識でもありません。それに比べ、日本人には「見えない方」「言葉でも形でも表現できない方」「私たちを生かし守っておられる方」に対する畏れが、社会生活の基盤として、あるいは人生の土台としてしっかりと据えられているのです。

 日本人の中にある倫理観は、「旅の恥はかきすて」という側面もある一方、「誰が見ていなくても、必ず見ている方がおられる」という、強い意識に支えられていることにも注目しなければなりません。これは、絶対者の存在を前提としている「西欧キリスト教文化」の、倫理観に勝るとも劣らないものです。絶対者の存在を前提とした「恐れの文化」が、絶対者の存在を感じられなくなった人々に取って代わられると、災害の時の略奪や混乱の時の我先の行動が生まれるのです。多くのキリスト教諸国の、災害時の暴動や略奪の様子がニュースになる中、日本の大震災のときの整然とした行動は、世界中で話題になったとおりです。日本人は、神に似せて造られた性質を色濃く残しているのです。彼らの中には、「見えない大きな方に対する畏れ」という強い本能的感覚があり、その前に正しく生きようという良心が機能するのです。 

 日本人は多くのキリスト教諸国の人々よりも、鮮明な罪意識を持っています。ただ、罪という言葉と感覚が、日本人には理解されていない、あるいは受け入れられていないのです。罪というと、行動そのものを指すと理解されますが、日本人は、行動そのものより、その行動がどういう意図で行われ、誰に対して行われたかを問うのです。ですから、人間関係で用いられる「不義理」や「不孝」という言葉と、それにともなう感覚のほうがわかりやすいのです。本来、聖書が教える罪も、何が罪なのかと行動を探るよりも、誰にどのような意図で行われた行為かという点が問われるものです。罪意識とは、罪の定義を理解してそれを受け入れることではなく、神のみ心に反した生き方をしているという恐れの感覚なのです。

 ですから、正しく聖書の教える罪を教えるならば、すなわち、神と人間の関係における不義理、不孝として教えると、日本人の方がよく理解できるのです。これほど優しく情け深い神のみ心を知らず、理解しようともせず、勝手に生きてきてしまった。その結果、人間を幸せにしようとしておられる神の前で、不幸な人生を送っただけでなく、他人も不幸に陥れ、神を悲しませることになってしまったと、感じるようになればいいのです。これを、キリストから話を始めて、「すべての人間は罪人です」と語りだしては、うまくいかないのです。日本人が心の奥深くで感じ続けてきた「目にも見えず、言葉でも表現できない方」に対する、感謝と配慮の不足という面から語るならば、理解されやすいのです。

 ひとたび、自分たち日本人が心の深くで感じ崇め感謝をしてきた方が、聖書で言う天地万物の創造者であることに納得できると、日本人のたぐいまれな高い倫理観も、神に似せて造られた人間の本性を残すものとして大切にされる一方、罪の赦しの必要性と、罪の取り扱い方に思い巡らせることになります。その段になって、キリストの代償の死が意義深く伝えられ、救い主キリストへの信仰へと、話を持っていくことができるのです。


W. 日本人の罪意識

 さて筆者は冒頭で、日本人がどんなに善意と思いやりと同情をもって生きていても、罪人である彼らの行く末は、永遠の滅びであるというプロテスタント福音派の神学に、異邦人の一人として疑問符をつけました。キリストを信じなければ、永遠に火が燃え続ける地獄に落ちるのだ。だから福音を信じなければならない。だから福音を語らなければならないという、しばしば「地獄絵」などで表現されているあの神学です。さすがに伝統的な福音派の教会では、地獄絵を用いて恐怖感を起こさせる伝道はしないと思われますが、原理主義と言われる人たちの中では、しばしば用いられるやり方です。

 確かに、読み方によっては、聖書はそのようにも読めます。ただそれは一面だけを強調した読み方であって、全体的に均整のとれた読み方ではありません。キリストを信じなければ、あるいは神を信じなければ、永遠の滅びに陥るのは確かです。しかし聖書によるならば、いま生きているこの世界が既に永遠の滅びの世界なのです。その厳粛な事実を見逃して、あたかも、死んだ後に永遠の死に入れられると考えるのは、聖書の世界観を理解していないことなのです。今のこの世が命である神から離れた社会であり、死の社会、滅びの世界なのです。ですからこの世に生を受けた者はみな、死の中に生まれてきたもので、死んでいるのです。だから神に連なることによって命を得なければならないのです。

 ただ、この現世に生きている限りは、「まだ恵みの時、救いの日」の内にいるだけです。滅びの中にいながら、まだ救われる機会を与えられているのです。この、ある意味での猶予期間を過ぎると、すなわちこの世の人生を終えると、恵みの機会は失われ救いの可能性はなくなるのです。ですから人間は、この世で生きている間に救いを手に入れなければならないわけです。聖書はまた、人間はすべて死に、死んだ後に裁きを受けなければならないと教えています。この世界でどのように生きたかが問われ、裁かれるのです。

 ただ、この裁きの理解が、キリスト教国で練り上げられた神学は、我田引水というか、手前味噌すぎて、私たち異邦人には素直に受け入れることができないのです。多くの日本人クリスチャンたち、特に伝道者たちは、それを感じていながら、正統的神学から逸脱したと思われるのを恐れてか、声を上げるのをためらってさえいるのです。キリスト教がまだまだ西欧人の宗教で、日本人の宗教になりきっていない証拠です。

 パウロは律法のないものは律法なしに滅びると教えています。また律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行いをする場合は、自分自身が自分に対する律法だとも言いっています。さらに、律法を持たない彼らが律法の命じることを行うのは、律法の命じる行いが彼らの心に記されていることを示すとも語っています。(ローマ2:12〜15) 残念ながら、ここで語られたパウロの異邦人の神学は、これ以上の展開も進展も見せていません。主にユダヤ人かユダヤ化した異邦人への宣教をしていたパウロには、これ以上深める必要のない主題だったのでしょう。ところが、完全な異邦人である日本人への宣教を試みている私たちには、この神学を深めることこそが必要なのです。

 ここで大切なのは、まず、律法なしに罪を犯した者もすべて滅びるという、すでに取り扱った事実です。律法なしに罪を犯した者は、「律法がないのであるから救われる」とは言われていません。滅びるのです。次に、生まれつきのままで律法の命じる行いをする場合もあることです。これによって、律法を持たない異邦人である日本人も、律法の命じていることを行っている事実を、積極的に評価し説明できるのです。さらにその場合、律法が命じる行いは、日本人の心に記されていると言われているのです。すなわち日本人を始めとする異邦人の心には、文字によらない律法が記されているのです。

 では、この文字によらない律法、異邦人の心に記されている律法とは、なんのことでしょう。それこそ、人間が神のみ姿に似せて造られているという、厳粛な基本的事実に繋がるものに違いありません。人間は罪によって堕落し、神の許から追放されて悪魔の支配下に移り、罪に縛られて生きるものになりました。神に似せて造られた本性も捻じ曲げられてしまいました。しかし神に似せて造られたその本性まで、完全に失ってしまったのではないのです。だからこそ、たとえ律法を知らない異邦人であったとしても、正しく生きることが求められ、自分の生き方に責任が問われるのです。

 すべての人間が、神に似せて造られた本性を持っているために、本来的に善を求め、公平を追い、哀れみを持ち、平和を好むのです。聖であり善であり愛である神の本性に似せて造られた人間の本性こそ、心に記されている律法なのです。日本人はその人間の本性を特に良く保存している上に、偶像礼拝をせずに、見えない神の本性をそのまま崇め、感謝と礼拝を捧げている民族なのです。そのために、日本人は聖書を知らずキリストの教えも知りませんが、どのキリスト教国と比較されても決して引けを取らない、平和で穏やかな国を造り、人を尊び、和を大切にし、公正と正義を高く掲げて生きているのです。

 このような国の人に、キリスト教国の宣教師は、罪を説くのを恥じるべきです。キリストは、自分の目に梁があるのに、他人の目の塵を取らせてくださいという愚かさについて語られました。西欧キリスト教諸国の人々は、聖書を持ち、キリストを知り、その教えも理解し、高い倫理観を持っているはずです。さらにその上、聖霊の力もいただいて高尚な人生を送っているはずです。でも、現実はそうではありません。聖書を読んだことがなく、キリストとその教えも知らず、聖霊の力も体験していない日本人が、彼らに引けを取らない生き方をしています。繰り返しますが、それは日本人が神に似せて造られた本性を大切にし、天地の創造者とは言わなくても、心の奥深くで感じる目に見えない尊い方を、目に見えないまま体でも触れられないまま、尊び畏(かしこ)んでいるからです。ぜひ、ローマ人への手紙の第1章18節から32節までを、注意深く読んでください。

 日本人は西欧人のような罪意識を持っていません。お母さんの財布から500円玉を盗んだことは罪かもしれませんが、罪意識とはそんなことを意識することとは違います。絶対者の前に出るときの畏れこそ、本当の罪意識なのです。日本人は絶対者を知らないために、本当の罪意識を持つことができないというのは、一面、正しいと言えます。でも日本人は、西欧キリスト教諸国の人々が絶対者を感じるよりも、さらに強く、崇高な見えない方の存在を感じ、その存在の前には、自分は出ることさえかなわないのだという、畏れの意識を持っているのです。そのために、たとえば、日本で最高位の神を祭る伊勢神宮では、お願いの祈りはしないことになっています。崇高な目に見えない方の存在を象徴する場所に、出させていただいただけでもありがたく、ただただ感謝を捧げるだけです。その感謝を捧げることさえ、畏れ多いのです。

 日本人の意識では、伊勢神宮に祀られている天照大御神でさえ「神」であって、日本人の心の奥深くに感じられている「見えない方」ではありません。それでも、畏れ多く、願い事などしてはならないのです。なぜ畏れ多いと感じるのでしょう。目に見えない、名をお呼びすることもできない、気高く尊く、大きく広い方の前に、自分はあまりにも小さいと感じるからであり、そのお方に生かして頂き、必要なものを与えて頂いているのに、充分には感謝を捧げていないし、正しく礼拝も捧げていないと感じるためです。これが日本人の罪意識です。恵み深い方に対する不義理であり、不孝なのです。

 ただし、日本人のこのような感覚は非常に希薄で、日常の生活で気づくことはあまりありません。ところが真面目に自分の人生を考えるとき、あるいは深山に入って幽玄さに打たれたり、星空の神秘さに深く感銘を受けたりするようなとき、さらには豊かな農作物の収穫を祝うとき、海の幸に喜び歌うとき、かならず、そのかすかな感覚が頭をもたげてくるのです。ただ残念なことに、最近の日本人は自然に接する機会を失ってしまいました。それで、その自然の中に潜んでおられる方を感じ、その方に心を向けることも希になってしまいました。

 とはいえ、伝道の一環として日本人に罪意識を持たせることは、それほど大切だとは思われません。心の深いところで静かに、希薄でありながら、確実に感じていた気高く、大きく、優しい方をしっかりと認めて、その方にはっきりと感謝を捧げ、崇め、祈り、賛美を捧げ、その方の力と善意に自分を任せることを学べば、第一歩として充分なのです。そのような生活を始めると、天地をお造りになった方が必ず、その人の中に働きかけてくださるからです。その働きかけを体験し、その体験を積み重ねていくと、確実な信仰となり、感謝の気持ちがいよいよ大きく膨らむのです。

 感謝の心が募り、ありがたいという気持ちが大きくなると、それに正比例して、自分は充分な感謝をしてこなかった、それに見合うだけの奉仕もしてこなかったという、自責の念にかられます。それが本当の罪意識です。これほど恵み深く、公正に富み、愛に溢れている方を無視して、自分勝手に生きてきたことに対する後悔と悲しみが湧き上がります。そこに、神の救いの計画、キリストの降誕、十字架、贖い、甦り、赦し、義認、新しい命を語るならば、かなりの確率で理解してもらえるはずです。


X. 永遠に燃える火の池

 キリストを信じることなく死んだ人は、だれでも、みな永遠に消えない火の池の中に投げ込まれるというのが、多くの福音派の人たちの考え方です。キリストが教えたいつまでも消えることのないゲヘナの火の譬えや、黙示録に記された永遠に苦しみを与える火と硫黄の池の記述から、そのような結論に至ったものですが、ここにも、ユダヤ人に対して語られた言葉をそのまま異邦人に適用する、大きな間違いがあります。

 キリストが語った教えのほとんどは、直接的にはユダヤ人に対するもので、異邦人に適用するときは公正な判断が必要です。中には普遍性を持つ教えがある一方、厳密にユダヤ人に対して語られたもので、異邦人に適用することのできないものもあります。ただし、そのような教えであっても、特殊事情を理解し、その中から普遍性を見つけ出して、それを日本人に正しく適用することができます。

 ゲヘナの火は、当時のユダヤ人に対して語られただけではなく、律法も預言者も持ち、キリストの行われた数々の印(しるし)のみ業を見ていながら、なおもキリストに敵対してやまない人々に対して、厳しい裁きの警告として語られたものであることを、理解しなければなりません。神の顕現も律法も与えられたことがなく、キリストの教えも印のみ業も見たことがなく、キリストに敵対して口汚く罵ったこともない、一般的な日本人に向けて語られたものではないのです。たとえ日本人がキリストを信じることなく死んだとしても、キリストの言葉を聞いても悔い改めることがなかった人々と、同じように苦しめられることは有り得ないのです。ただしたとえ日本人であっても、聖書をかなり理解し、キリストの教えと働きを理解した上で、キリストに敵対し、口汚く罵り続けていたのでは、ユダヤ人と同じような裁きを受けることになるでしょう。

 黙示録の記述も、基本的にユダヤ文化を背景に書かれています。その上、この文書には黙示文学特有の解読の困難さがつきまといます。字義通り、文字通りに受け取ってはならないところが多いのです。多くの言葉が象徴的であり、背景を知っていなければその象徴を理解することさえできません。ですから、火と硫黄という言葉が字義通りかどうか、厳密には不明です。そのあとに続くいのちの書が実際の書物と考えるよりも、神の記憶という記録ではないかと思わせることを考えると、火と硫黄も象徴的な言葉と考えたほうが良いかもしれません。とにかく、この前後は象徴的言葉と字義通りの言葉が入り混じり、ここから断定的な神学を作り上げることは避けるべきです。

 もしもこの黙示録の記述を文字通り、字義通りに受け取ると、キリストを信じていないすべての人は、異邦人を含めて、みな永遠の火の池に投げ込まれてしまうことになりますが、それは明らかに、聖書のより明快な教えに反することになります。パウロは、神の公平さを語り、ユダヤ人にも異邦人にも、それぞれの行いに応じてひとりひとりに報いが与えられることを述べています。その言い方は、その部分だけを切り離して読むと、まるでキリストを信じる信仰による救いとは関係なく、行いによって永遠の命を得ることが出来ると言っているようにさえ読めるほどです。(ローマ2:6〜11)

 パウロはそのような言い方までして、神の公平さ、人種によって偏った取り扱いをしない神の義を語っています。それは、キリストを信じないものはみな、揃って永遠の火の中に投げ込まれるというような、乱暴な取り扱いとはまったく異なるものです。たしかに黙示録の記述では、いのちの書に名前が記されていない者はすべて、永遠の火に投げ込まれることになっていますが、この一度だけの記述をもって、キリストを信じていない人はすべて、永遠の火に投げ込まれると断定するのは困難です。神のみ心に叶った者たちの名が、いのちの書に記されると言うのは正しいようですが、キリストを信じなければいのちの書に名を記されることはないと言い切るには、聖書に充分な根拠を見出すことができません。いのちの書に名が記されるということが、キリストを信じたものだけの特権だとは、言い切れないのです。いろいろな理由でキリストを信じることができなかった人でも、神のみ心に叶い、キリストの贖いのみ業のゆえに、いのちの書に名を記されることも、ないとは言い切れないのです。

 またこの黙示録の記述とキリストの言葉を直接結びつけて、キリストを信じていない者の運命を断定するクリスチャンたちが多いのですが、それも避けたほうが賢明です。まったく異なった事情の中で語られ、また書かれたものを、主題が似ているから、言葉が類似しているからと、直接結びつけるのはよくありません。それぞれがどのような状況で、何を目的として書かれまた語られたかを、まず正しく判断してから、関連があれば関連させて考えるのです。黙示録の記述とキリストの言葉の共通性は、神の裁きがあることと、その裁きが非常に厳しいものであることです。また、その裁きがもたらす刑罰は、永遠という言葉や、火が消えることがないという言葉で表されている点です。

 ともあれ、神の救いと裁きとは、神の采配、神の権威に属することで、私たちが事細かに知ることが出来るものではありません。それを断定的に、キリストを信じることができなかったすべての人が、永遠の火と硫黄の池に投げ込まれると言うのは、正しくありません。神の自己顕現を見、啓示の書を読み、キリストの教えを聞き、み業に触れた者たちにが、なおもキリストに敵対し続けたとするならば、間違いなく、それが彼らの行く末でしょう。私たちに言えることは、神のみ心にかなった生き方をしなければならないということであり、この時代、神のみ心に叶う生き方とは、キリストに従う生き方であるということです。

 そのキリストに従う生き方に入ることができるように、日本人にも、まず神について、ある程度の正しい理解を持ってもらい、その神に信頼できるように励まして上げなければなりません。最初にすべきことは、日本人が昔から心の奥深くで感じ、感謝し、崇めてきた、目に見えない方、ことばでも表現できない方、「神」とお呼びすることさえはばかられる方が、実は、天地を造り、人間を造り、人間にご自分に似た性質をお与えになった、聖書の神であることを知ってもらうことです。そうすれば、罪についても容易に理解してもらえ、悔い改めの必要性もわかってもらえます。そして何よりも、キリストの必要性に気づいてもらえるのです。

 キリストを信じている人の善意も、キリストを信じていない人の善意も、神に似せて造られた人間の本性の現れであり、美しいものです。その本性が、律法を持っていない異邦人の心に記されている律法です。異邦人がこの律法に従って生きているならば、神はその善い生き方に報いて下さるのです。ただし、それで救いに入ることができるのではありません。救いは、心に記されている律法に従って生きたことによって受ける報いではなく、行いによらず、信仰によるものであり、報いではなく、神の賜物なのです。

 ただ、しっかりと理解しておくべきは、キリストを信じないで死んだ人が、だれもかれも、十把ひとからげに、永遠に消えることがない火の中に投げ込まれるのではないということです。神は正義の神であり、ご自分の義に従ってすべての人をお裁きになるのです。

 神の姿に似せて造られた人間の本性は、環境によって育てられ、環境の中で表現されるものです。従って同じ善意や正しさも、環境は文化によって異なった表現となり、ときには相反する表現になります。ある文化では、人を愛するということは、その人の間違いや欠点を黙って受け入れ、その人が気づくまで忍耐をして待ってあげるという表現になります。ほかの文化では、人の間違いや欠点を直ちに指摘し、それを直すように忠告し、直すことができるように手助けしてあげることになります。そのような違いを、人間が理解して判断し、裁くことは容易ではありません。その文化や環境によって異なった表現がされた人間の本性を、パウロは良心と表現したように考えられます。(ローマ2:15)

 心の中に記されている律法は良心となって表現されます。良心は、ときとして、文化の違う人間には理解不能なものとなってしまいます。ですから、私たちは文化の異なる人たちの行動や考え方を、軽はずみに嘲笑ったり裁いたり、反対に感心してしまったりしてはいけないのです。ただ神は、そのようなものまで、正しく判断し、公正に裁いてくださるのですから、信頼することができるお方なのです。

 





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2014年02月18日

ベン・バランさんのこと

                                2014年1月19日

 1983年の秋、ベンさんは牧師と一緒に働いていました。彼自身はまだクリスチャンではありませんでしたが、海抜2千メートルほどの小さな集落で開いたばかりの私たちの教会に、奥さんが出席し始めていたのです。それで、貧しい牧師の住いの修理に、手を貸してくれていたわけです。ところが牧師と共にセメント工事をしようと、山道の脇で砂利を集めているとき、突然起きた崖崩れに巻き込まれて、彼だけが土砂に埋もれてしまったのです。

 牧師の必死の奮闘によって掘り出された彼は、意識不明のまま、随分離れたところにある名前だけのクリニックに、運び込まれました。一人だけ駐在していた看護婦(?)にできたことは、ブドウ糖の点滴をすることだけでした。1週間後に目覚めた彼は、まったくの植物人間になっていたのです。彼の事故について聞いた私たちは、はあらゆる手を尽くして彼の回復を願いました。無駄と分かっていても、マニラに連れて行き、フィリピンで最高峰の病院にも2ヶ月間入院させました。しかし担当医の通告は、「酸欠で脳が死んでいます。まったく望みがありません。あと数ヶ月の命です」という冷酷なものでした。

 私たちはまた、残された家族のためにもできる限りのことをしました。自分たちの家を持っていなかった彼らが、一緒に住めるように小さな家も建てて上げました。開拓したすべての教会を励まし、力を合わせて支援の方法を考えました。奥さんが3人目の子を出産したのは、まだ、このような支援が具体的に始まる前のことでした。女の子、男の子に次ぐ男の子。2月29日のことで、忘れることができません。

 ところが数年たったある日、絶望的な夫を見ることが苦痛となった奥さんは、3人の子供を連れてほかの男へ走ってしまったのです。私たちは、まったく身動きもできないままひとり小さな家に残されたベンさんを、慰めるすべもありませんでした。ただ、彼を比較的大きな町に建てた教会に連れてきて、牧師と協力して教会の敷地に彼のための小さな家を建て、信徒たちに世話をさせるように手配したのが、精一杯でした。

 それから3年ほどもたったでしょうか。ベンさんは少しずつ、本当にわずかながら話すことができるようになっていました。世話を頼んだ教会の大学生たちが、入れ代わり立ち代わりやってきて英語で話すために、カタコトながら英語でも話すようになっていました。彼の面倒をみるためにやってきていた姪っ子が、教会に出席してイエス様を信じるようにもなりました。そのうちにお母さんも救われました。みんなの手厚い助けをみて感動したのです。土着の宗教を押し付けて、教会を非難してやまなかった家族や親族の中からも、クリスチャンになる者が続出しました。(・・・ずっと後になってからですが、親族の中からは何人かの伝道者さえ起こって来ました)

 彼の奥さんが亡くなったというニュースが届いたのは、そんなある日でした。一緒になった男と山に薪(たきぎ)を切りに行って、二人共、倒れた松の木に頭を打たれてしまったのです。訪れて、慰めの言葉もなく枕元にたたずんでいた私に、彼は英語ではっきりと言いました。「The Lord gave and the Lord hath taken away; blessed be the name of the Lord」「主が与え、主がとられたのだ。主のみ名はほむべきかな」 いつの間にか、とてもしっかりとした信仰を持つようになっていたのです。母親を失った3人の子供たちがベンさんの許に戻るようになり、彼の顔にも明るい笑いが戻ってきました。長女がかいがいしく世話をしていました。

 そんな彼を残して、1991年、私たちはフィリピンを後にしました。次男の病気のためです。でも私は、その後もフィリピンを訪ね、彼にも会いに行きました。日本のクリスチャンにお願いして、子供たちの教育のために、支援のお願いもしたものです。いつの訪問のときだったでしょうか。私は2月29日に生まれた彼の次男が、車にはねられて死んでしまったことを聞きました。言葉もなく寄り添った私に、ベンさんは言いました。「主が与え主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」

 クリスチャンになる前に、教会の為にボランティアで働きにきて事故に遭い、すべてを失った彼の口から、わたしは一言の泣き言も恨みも不平も聞いたことがありません。本当に「一言も」です。そんな彼を、私たちの協力伝道者たち、そして私たちが建てた教会の信徒たちは、貧しい中からいろいろな助けの手を差し伸べていました。神様がなぜ彼をこのような目に遭わせられたのか、わかるような気がします。

「1年もたない」と医者に宣言された彼ですが、だんだん体力までも戻ってきました。始めは天井からぶら下げたブランコのような物に両手で捕まり、体を起こす練習に手をつけました。私が訪れると大きな声で話すようにもなりました。いつも興奮して、全身がまるでシャドウボクシングをしているような、激しい痙攣状態になり、押さえつけていなければなりませんでしたが、着実に回復していました。

 残された二人の子供たちも、それぞれ立派に成長しました。それどころか、彼は車椅子に乗りはじめ、仕事さえ始めたのです。ごった返す人ごみの真ん中に割り込んで、乗客を載せ、それぞれの目的地に向かう乗合の車に、乗客を呼び込む仕事です。喧騒を掻き分けて車椅子を操り、人を呼び、車に案内し、運転手から何がしかの手間賃をもらうのです。わずかな収入ですが、これは彼の肉体と精神の健康の向上に、大きな力になったものと思います。でも聞いただけで、車にはねられはしないかと心配になったものです。

 またこのころから、彼は市役所と交渉し、古くて汚れがひどいとはいえ、かなり広い建物を借りて、障害者の交流会を立て上げ、その会長として活躍を始めていました。障害者たちが沢山集まって、団欒したり、手作業をしたり、励ましになるように様々なことを考える共に、障害者の地位向上のためにも活動していました。町の職員が感心するほどの彼の姿に、驚くばかりでした。

 次にフィリピンを訪れたとき、わたしはもっと驚かされました。彼が結婚したというのです。次の日にはさらに驚かされました。一歳になる子供がいると聞いたのです。相手は障害者の集まりに来ていた女性で、彼より30歳ほども若いとのことです。1990年、バギオ市だけで1500人以上の死者を出した地震で、片足を失った20を超えたばかりの女性だと!! 

 わたしははやる気持ちを抑えながら、障害者のための建物に駆けつけ、ベンさんと若い奥さんに会うことができました。一歳の男の子を腕に抱き上げ、感謝と祝福の祈りもできました。ただでさ
現在のベンさんの家族と一緒に 2014年2月4日      え貧しいフィリピンで、教育もなく、重度の身体障害を抱えての生活は楽ではないはずです。でも彼らは、神様の恵みと兄弟姉妹の励ましを受けながら、いま力いっぱい生きています。

 昨年の12月(2013年)、「1月の末にそっちに行くよ」と牧師たちに連絡すると、ベンさんのニュースが入ってきました。「彼は今、2人の子持ちです。6歳の男の子と2歳の女の子です」「やりおったな!!」 お土産なんぞ、ついぞ持って行ったためしがない私ですが、今回は、持って行くことにしました。「6歳の男の子と2歳の女の子だな?」わたしは確認し直しました。「よし、この子達のために、古着を集めよう。ベンさんと奥さんのためにも持っていこう。ベンさんは、私より少し小柄で163cmくらい。太ってはいない。奥さんは多分150cmもない小柄な女性で、こちらも太ってはいないな・・・・」 写してきた彼らの写真を見ながら決めました。「子どもたちのためには、ちっちゃなおもちゃも持っていこうか・・・・」

 2014年2月4日夕方 久しぶりにベンさんに会うことができました。ご家族も一緒です。フィリピン北部山岳地の伝道者セミナーに招かれ、大勢の懐かしい顔に囲まれて雑談をしていたときです。「ベンさんが来た!」という声にハッとして驚いて目をやると。車椅子に乗ったベンさんが、付き添いの人に押してもらいながら、いましも急な坂道を登ってくる姿が見おろせました。急斜面に建てられた教会は、正面玄関からは一階でも、駐車場のある下側から来ると3階ほどの高さにありました。松葉杖の奥さんが、意外に身軽に階段を上り始め、2人の子供たちがピョンピヨンと跳ねながら続いていました。

 登りきった奥さんと握手し、挨拶をしながらふと階段を見ると、何と! ベンさんが、ひとりで階段を登っていたのです。手すりに掴まりながら、ゆっくりゆっくりとではありますが、一歩一歩確実に登っていました。付き添いの男性が、いつでも手を貸せるように横についていましたが、ベンさんはあくまでもひとりで登りきったのです。さすがの私も、涙がこぼれそうになりました。酸欠で脳の一部が死に、野菜人間の状態にまでなって長年寝たきりだった兄弟が、ここまで回復したのです。足の筋肉も力を取り戻しつつあるのです。

 嬉しい会話が続きました。可愛い子供たちを膝に抱き上げお話をしました。人懐っこい子たちでした。昨年の暮れ、彼らをお世話してきた牧師がくれた情報は間違っていて、上の男の子は5歳。下の女の子は3歳でしたが・・・・・持っていった古着もおもちゃも、役に立っただろうか。「男の子の古着はちょっと足りなかったかなぁ」 最初の奥さんとの間の長女は既に成人となり、結婚して子どももいるということです。さらに長男もバギオ市のボディ・ビルディングジムで指導員をしていると聞きました。

 ベンさんと奥さんは、とても辛い体験をしました。「神さま。どうしてですか?!」と叫んだこともあることでしょう。でも、今は喜びと希望に満ちています。やがての甦りのとき、完全な肉体が与えられることを知っているからです。今はまだまだ痛み続けています。それは、痛み苦しんでいる多くの人々とともに生き、その痛みと苦しみを最も激しく体験した人として、心を通じ合わせながら、キリストの福音を語ることができるためなのです。ベンさんの生き様は多くの人たちを励まし、救いに導いています。昨年、30年以上も筋ジストロフィーで苦しんだ末に天に召された、荒巻信行さんもベンさんの人生に強く励まされた一人でした。自分の苦しみを、神の福音との関わりの中で受け入れることが出来る人は、その苦しみを「キリストのための苦しみ」とすることができるのです。(ピリピ1:29)

 ベンさんと私の会話の様子は、フェイスブックの吉原博克宣教師のページに写真及と動画で載っています。





  
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2014年01月10日

神はいないと言う日本人は間違っていない

 



 多くの現代日本人は、誰はばかることなく、「神はいない」と言います。個人伝道や証をしているときにそのような言葉を聞くと、私たちはハタと困惑してしまいます。このような人たちにどうやって神の救いを伝えることができるだろうか、まず神の存在を納得させるには、どうしたら良いのかと悩んでしまいます。

 ところがその一方では、実にたくさんの日本人がいろいろな宗教を奉じ、宗教行事に参加しています。「私は○○教の信者です」という人や、神社の行事に夢中になっている人たちに出会うと、またしても、「どうしたら、このような人たちに証をして、天地の創造者の救いを説明できるだろうか」と、タジタジとなってしまいます。

 私たちはより効果的に、より大胆に福音を語り、神の愛を伝えていくために、「神はいない」という日本人に、「そうですよね。神なんて、本当は存在しませんよね」ということができます。同時に、何らかの宗教を奉じている人たちや、宗教行事に積極的に参加している人たちに、「あなたたちのやっていることは素晴らしい」と、言えることも知るべきです。

 神はいないと平気で言う人たちを、無神論者だなんて思うことはありません。本当の無神論者なんて、日本人には滅多にいるものではありません。何らかの宗教を奉じていたり、強い宗教心を持っている人たちを、偶像崇拝の罪を犯しているなどなどと、毛嫌いしたり、軽蔑したり、避けたりする必要もありません。彼らも神の愛の対象であり、救いの対象なのです。

 私たちは多くの日本人に論戦を挑む必要はなく、敵対感情を抱くことも不要なのです。むしろ、日本人の宗教意識、宗教観を正しく知るならば、彼らと気持ちを一つにして語ることができるのです。敵対感情や嫌悪感をもって語っていたのでは、神の愛も救いも伝えることはできません。

「神はいない」という日本人と話し合うとき、私たちはまず同調しましょう。「そうですよね。神なんて存在しませんよね」と言えばいいのです。多くの日本人が神はいないと言うとき、彼らの言う神、彼らの使う神という言葉の意味が、私たちクリスチャンが理解する神とはまったく異なっているのです。彼らはクリスチャンたちが信じている神のことを「いない」と言っているのではなく、ふつう、日本人たちが言っている「神」なるものは、存在しないと言っているだけなのです。ここを間違ってはいけません。私たちクリスチャンも、普通日本人が言っている神など、本来存在しないと信じているのですから、私たちは同じように信じ、同じ立場に立っているのです。私たちは同じだというところから、話を始めるのが肝心なのです。

 一般的に、日本人が「神」と言うとき、三つあるいは四つの異なった神感覚を、区別も定義もできていないままに、その言葉を使っています。これらの異なった神感覚は、それぞれが重なり合い混ざり合っているために、明確な境界線を引くことができるようなものではありませんが、それでもある程度の区分けが可能です。そうすることによって、曖昧な感覚や、そこから派生するさらに「ぼやけた会話」をかなり明瞭にし、実りある結果を期待することもできるのです。

@ 八百万の神々と言われる神々の中の低位置の神々
 
 日本人が神と言うときは、多くの場合、八百万の神々のことです。日本語は単数と複数の区別がはっきりしませんから、神でも神々を意味することがあります。ただ、多くの神という点を強調するときには、八百万の神々と表現します。

 日本人の通俗的信仰、あるいは神道の通俗的な神観念では、人間より何かの点で優れているものは、なんでも神になり得ます。筆者が幾度も語ってきたように、「かみ」の本来の意味は、「うえ」に過ぎません。普通の人間よりどこかが優れていれば、神として崇められるのです。山や海や川あるいは草や木や岩などの自然物から、動物に至るまで、あるいは死んだ人間はもとより、生きている人間さえ・・・・、極めて軽く神とされることがあります。

 この神感覚は、しばしば簡単な礼拝の対象物、いわゆる偶像を持ち出してきます。時には人間より優れた何ものかを思わせる形、あるいは人間の望みを象徴するにふさわしい姿をした、石や木などの自然物であったり、自分たちで作り出した像であったりします。これは、神に似せて造られて神を知っていたにもかかわらず、罪のために神から追放され悪魔の支配下に陥ってしまった人間の、おろかで虚しい努力ということができます。神の記憶、神意識、あるいは神への感覚の希薄化に、人間自身が恐れを感じて、なんとか目に見え手に触れることができるもので、薄れ行く神の姿を補おうとしているのです。

 このような神感覚の神々は、人間の日常の願望、切実な願いから出ているものが多いのが特徴です。中でも、人間の生殖に関わるものが多いようです。男女の生殖器や女性の乳房をかたどった偶像、あるいはそれに似た石木を偶像としているものは、全国各地に点在していますし、男女の営み自体を刻み出して拝んでいる場合もあります。水源の神、漁の神がひっそりと祀られていることもあります。このような神々の礼拝は、ふつう、せいぜい小さな祠を建てたりしめ縄を張ったりする程度で、多くの人々の礼拝を期待する意図もなく、少数の人々に静かに祀られているものです。

 多くの日本人は、このたぐいの神々に頼らずにはおられない人々の、弱さと宗教心は受け入れます。ただしそのような信仰自体は、「良識と科学的分別」をもって、内心、バカバカしいものとして退け、「神はいない」というのです。日本人が「神はいない」と言うときの神は、多くの場合このような神なのです。ですから私たちクリスチャンも、彼らにまったく賛同して、「神はいない」ということができるのです。神なんぞいないのです。

 しかし大切なのは、このような神々を拝む宗教心です。それを責めたり嘲笑したりしないことです。神ご自身が、間違うことなどありえないほど明確に、ご自分を現して導いてくださっていたイスラエル民族が、その神を裏切って偶像礼拝に走るのとはわけが違うのです。むしろ、日本人の強い宗教心を素晴らしいものとして受け入れ、そこから、彼らも非常におぼろげながら持っている、天地の創造者の存在に対する本能的意識を、みがいて上げることが大切なのです。

 赤ちゃんが乳に吸い付くのは生まれ持った本能です。この本能がなければ赤ちゃんは育ちませんし、育てられません。赤ちゃんが間違って何か他の物に吸い付いたとしても、叱ることはありません。乳首を口の近くに持って行ってやると、ちゃんと乳首に吸い付くのです。日本人が、たとえ何であれ拝もうとしているのは、赤ちゃんが間違ったものにでも吸い付くのと同じ、本能によるのです。神に似せて造られたという事実によるのです。間違いを正すあまり、本能まで否定してはならないのです。

A 八百万の神々と言われる神々の中の高位置の神々

 日本人の意識にある神の第二は、@で取り扱った神と基本的には同じですが、少しばかり程度が高く、小さくても神社があり、より多くの人々に祀られる神々です。もっとも普通に見られるのは、氏神と言われる小さな地域共同体の神です。それに仏教が混淆してできた鎮守の神も珍しくありません。さらに、それぞれにいわれや由緒や歴史を背後にもつ、良く知られている大きな神社です。多くは歴史に認められている人物を祀ったり、日本の神話に登場する神を祀ったりしています。

 その上位にあるのは、出雲大社や神宮(伊勢神宮の正式な名前)などの、巨大な建築物を伴う神社の神々です。ふつう、出雲大社と伊勢神宮は同じ神道でも異なった系統と考えられています。出雲系は有史前に日本に渡来して定着した民族の神道で、大国主命(大黒様)を主神としています。伊勢神宮は多分その後に入ってきた民族の神道であり、降臨系の神社として天照大神(太陽の女神)を主神とし、皇室にかかわるものと考えられています。この二つの民族の間に激しい争いが起こり、後から入ってきた民族が勝利をして、天皇につながる最上位の神社とされましたものです。ただ現実には、征服された出雲系の神社の方が圧倒的に多いため、その理由が様々な憶測を呼んでいます。いずれにせよ両方とも、自然物崇拝から生まれた神道であると考えられていますので、素人には区別がつかないほど混合して存在しています。

 多くの日本人は、神社には二つの系統があることも知らないままお参りし、厳かに祈りを捧げているのですが、その同じ日本人が、神はいないと平気で言うのです。これらの神社は日本人の宗教心の表現ではあっても、そこに神がおられるとか、そこに祀られている神が実存するとは考えていないのです。

 本当のところ、そのような神社に祀られていたり、ゆかりがあったりする神々が登場する神話などを読み聞きすると、人間世界よりも「おどろおどろ」していて荒唐無稽なのに驚き、やはり「神なんていない」と言ってしまうのです。私たちもこのような「混乱した」日本人の宗教心を理解し、「神なんていない」という日本人に、同意してあげなければなりません。

 特に大切な点は、これらの神社には礼拝の対象となる偶像が、普通存在しないという事実です。小さな祠や社には、仏教の影響もある民間信仰のために、偶像が安置されている場合も少なくありませんが、より多くの人々に認められ、大きな構造物を構える神社などには偶像は存在しません。

 その代わり、祭儀の中心となる「御神体」というものがあります。ただしこれは、礼拝される「神」そのものではなく、「神」を象徴する物体で神の依代(宿るもの)とされるものです。普通の日本人が、自分の信仰心、宗教心の対象と感じているのは、あくまでも目に見えない霊的な存在、自分が本能的に心の奥深くに感じている存在であり、「神」ではないのです。私たちがこのような日本人と語り合うとき、彼らが密かに心の奥深くに感じている存在を、もう少し明瞭に意識できるようにしてあげることこそ、肝心なのです。

 ここでもまた、目に見えない存在を目に見えないままに礼拝する、日本人の宗教意識を認め、大いに賛同してあげなければなりません。御神体と偶像とを混同してはなりません。この御神体は、神がイスラエルの民に契約の箱に収めるようにお命じになった、品々に似た役割を果たしているといえますが、日本人の場合は次に取り扱う、汎神論的な感覚に通じています。
 
B すべての自然物の中に潜んでいる神

 日本人の宗教意識のもっとも底辺にある意識は、すべての自然物の中に「神」と呼ぶことが出来るかどうかは不明だけれど、それ以外に言葉がない、霊的な存在がひそんでいるという感覚です。これが変遷して、巨岩や巨木にしめ縄を張ったり、ひっそりとした深山の谷間や、白波の打ち返す岬に祠を設けたりする通俗信仰にもなっています。その一方では、あくまでも、人間の五感では感知も察知もできない「なにものか」として、「神なんていない」という人たちの心にも荘厳な意識として潜む、消し去ることのできない信仰心ともなっています。

 日本人の信仰心の極めて明白な点は、天地万物を尊いお方の潜むもの、あるいは潜んでいる尊いものの現れと見る、汎神論的な感覚です。この尊いものを、多くの日本人は「神」と呼ぶことさえよしとしないのです。神はいないのです。いるのは、いるという言葉さえ使えない、「おわしますお方」なのです。日本人はこの「おわしますお方」を心密かに感じ、その感覚、その宗教心を大切にしているのです。

 ただし、その宗教心をどのように表現したらよいのかはよくわかりません。そのおわしますお方がどのようなお方なのかさえも、わからないのです。そこで、そのおわしますお方を象徴する依代(よりしろ)、御神体を作って、それを象徴として祀るのです。それでいながら、御神体を礼拝の対象にすることはないのです。それが一歩間違えば、偶像礼拝に陥った民間信仰としての神道、八百万の神々の神道になるわけです。

 ですから、普通、神道という言葉にはこれらの異なった概念が重ね合わされ、混ぜ合わされて含まれていますので、非常に曖昧になるのです。この曖昧さは、一方では他宗教に対する寛容さ、あるいは鷹揚な態度となって現れます。神道的感覚では、神道の信仰さえ否定しなければ、どのような宗教でも受け入れることができるのです。「分け入れる麓の道は多けれど同じ高嶺の月をみゆらん」と言われているとおりです。すべての宗教は、この限りなく尊い、名前さえ付けられない高貴な存在の、多種多様な現れであると見ることができるからです。

 私たちクリスチャンは、このような汎神論的神道をかなりの範囲で認めることができます。私たちの創造主であるお方は、本来、日本語の「神」という言葉に制約されたり定義されたりできるお方ではありません。あくまでも、物質の次元を含めてあらゆる次元を超越する、見ることも触れることも出来ない、また考えも及ばないお方です。すべてのものを超越し、すべてのものを貫き、すべてのものの内におられ、すべてのものを内に収めておられるお方なのです。汎神論を反キリスト教的だと敵対意識を持って接するよりも、聖書もないのに、よくここまで神の本質を感じ取っているものだと、肯定的に捉えて接する方がよほど良いのです。

 日本人が心の奥に潜めている神観は、私たちの創造主に非常に近いものです。西洋人は聖書を読み、神についてあれこれと恐れもなく、人間の有限の言葉をもって説明しようとしました。それが「キリスト教の神」です。それは本来目に見えず、手で触れることも出来ないお方を、見たり触れたりすることができる形で表現しようとするのと同じで、偶像につながる危険性を持つものです。本来人間の知的能力では把握も理解もできないお方を、なんとか理解できるレベルに、引きずり落とそうとしているからです。

 偶像を作らず、神学も持たない日本人の宗教観、神観の優れたところに気づかなければ、私たちは日本人を見誤ります。また、多くの日本人はそれを本能的に行っているのであって、誰に教えられたのでもなく、自覚さえしていません。ですから、そのあたりのことに触れながら、私たちが信頼している目にも見えず、手で触れることもできず、言葉で説明することさえ叶わないお方について話をすると、多くの日本人が納得してくれるのです。

 日本人は神の存在を否定してはばかりません。しかし、この崇高な宗教観をもち、気高くめぐみ深いお方の存在を、本能的に感じ、ありがたいと言って手を合わせるのです。神社で手を合わせても、多くの場合そこに祀られている神や、御神体に手を合わせているのではありまえん。自然の中に満ちておられる方の存在を感じて、手を合わせるのです。

 日本人は、パウロがローマ書の第一章で語っている、人類の偶像礼拝の罪に(イスラエル民族の偶像礼拝の罪ではなく)ぴったりとは当てはまらない、唯一の民族かもしれません。本来の神道の感覚では、偶像礼拝は論外だからです。偶像礼拝に陥らなかった日本人の優れた感覚を認め、賞賛するところから始めると、多くの日本人は聖書の神の話も喜んで聞いてくれるのです。

C 人間の理解の及ばない唯一の存在者としての神

 日本人の多くは、自分たちが拝んでいる神々の存在を否定し、嘲笑いながら、気高く高貴なお方の存在を本能的に感じています。感じてはいますが、その高貴なお方について、あれこれと詮索することはせずに、分からないままにしています。そのために、いざ礼拝しようとすると、神社に詣でたり小さな神々に手を合わせたりすることになってしまいます。

 それだけに、質問すると何も理解していない。話し出すと荒唐無稽、説明しだすと矛盾だらけということになります。それでいながら、気高いお方、自分たちを生かし、養い、育て、すべての良いもので取り囲んでいて下さる、恵深いお方に感謝する思いを忘れてはいないのです。豊かな自然に恵まれ、四季折々の美しさに囲まれ、美しい水と新鮮な緑に覆われた土地に生きる日本人は、その背後におられるに違いない、人知では及びも付かないほど大きく、優しさと寛容さに富むお方を直感的に想定しているのです。

 このお方はいったい誰なのか。それを問うことさえ愚かだと感じているわけです。そしてその感覚はまったく正しいのです。私たちクリスチャンでも、神の側からの語りかけがなければ、神についての正しい知識はほとんど持つことができなかったのです。

 それでいながら、日本人の神意識にはもう一つ非常に重要な点があります。それは、日本人が心に感じているのは唯一のお方だということです。山の神も川の神も海の神も、大木に潜み巨岩に住まう神も、太陽を昇らせ雨を降ら、作物を育て生き物を生かして下さる神も、たくさんの神々ではなく、一人の、あるいは唯一つの神だと感じているのです。この唯一の感覚も、ギリシヤ思考によって形成されたキリスト教神学が言うような唯一ではありません。神は唯一であるが三つの神格を持ち、その三つの神格が完全に調和してひとつとなっているという、分析的な唯一ではなく、あらゆるものを包含する唯一と言ったほうが良いでしょう。もちろん、このような表現をする筆者自身がすでにギリシヤ思考に影響された、キリスト教的な基準を持ち込んでいるのは百も承知です。

 神道的な神意識、日本人の心の根底にある本能的意識では、気高いお方は一つだとか、三つだとかいう、数の概念を超えているお方なのです。キリスト教の神は三位一体の神であると定義することが、すでに無限の存在の神を人間の有限の思考の枠内に収めることであって、誤っているのです。確かに聖書の神は三つの神格で現れてくださいましたが、三つと限定する理由はどこにもないのです。無限の神は数の概念さえ超えておられるはずです。

 日本人は一方では八百万の神々と言いながら、他方ではこのような人間の有限な理解を超えた、大きな存在を感じているのです。そこに矛盾を感じないのは不思議ですが、少なくても「神はいない」という言い方が、逆に、超越したお方を思わせているのです。

 日本人が神道的な礼拝をするとき、礼拝の対象が誰であるかを問うことはまずありません。一段低い神意識で、安産の神、学問の神、農業の神というような神々も存在しますが、そのような神を「礼拝すること」は滅多にありません。願い持ちゆく神々ではあっても、礼拝をすべき神々ではないのです。あるいはそのような神々は、気高いお方の象徴的姿の一部のように捉えられています。

 ですから日本人は、たとえ祀られている神がなんであろうと、どんないわれがあり、どんな歴史があろうとも、普通はいちいち参拝の仕方を変えたり、それぞれの名前を呼んだりはしません。どの神社でも同じ気持ち、同じ心で参拝するのです。どこの神社で祀っている神であっても、名前も謂れも異なっていても、あたかも同じ神、同一の神であるかのように礼拝するのです。表に出ている神々、祀られている神々は多様であっても、その神々がそれぞれ象徴している霊的実体は、一つだと感じているのです。

 これは神道がどう教えているか、宮司たちがいかに説明しているかではなく、一般の日本人の感覚です。つまり日本人は、一般的には八百万の神々を信じているという表現に満足しているというか、「それでもいいや」と思っているようですが、決して納得しているわけではありません。むしろそのような神々を否定し、神社で祀られている神々、大社とか神宮とか言われる巨大な構造物に祀られている神々をも、礼拝の対象としては退けて、むしろそれらの神々の背後におられると感じられる、目にも見えず、手で触れることも叶わず、言葉で説明することさえ憚られる、大きな存在を感じて、その存在に手を合わせ感謝の思いを捧げるのです。 

 西行法師が伊勢神宮を訪れたときに詠った歌が、日本人の宗教心をもっともよく表していると言われるのです。「なにごとの おわしますかわしらねども かたじけなさに涙こぼるる」

結び

 このように、日本人の神意識、神観は混沌としているように見えますが、ある程度の道筋をつけることが可能です。そうすることによって、日本人の神意識が少しばかり明らかになり、クリスチャンとしても日本人の宗教心を理解し、福音伝道の手がかりを得ることができます。

 八百万の神々を拝んでいる人たちには、その宗教心の深さを褒めてあげ、そこから友好的に話を始めることができます。宗教心は人間が人間であることの証明であると、人間は神に似せて造られたという聖書の教えを交えながら、自分も大きな神様、無限の神様、人間をお造りになった神様を信じていると、証してあげましょう。彼らが拝んでいる神々を否定したり卑しめたりする必要はありません。イスラエル人に要求されたのでさえ、ほかの神々を否定することではなく、ヤーウエの神だけを礼拝することでした。それがやがて、ヤーウエの神以外の神々を神と認めない理解に進んだのです。

 八百万の神々を拝んでいる日本人に取って必要なのは、彼らの神々が否定され卑しめられることではなく、天と地をお造りになった大きな力強い神がおられると知らされることであり、その神に信頼するとどんなに素晴らしいことが起きるかを、教えられることなのです。その神に信頼したら、八百万の神々は不要になり、願いを捧げる対象でもなくなるのです。

 私たちはまた、「神なんていない」という日本人に戸惑うことなく「そうですよ。神なんていないんですよ」と同調しながら、「かみ」ではない全能者、天地の創造者を紹介することができます。

 日本人の偶像を礼拝しない神道的な宗教意識を高く評価し、そこからすべてを超越した栄光の創造者について語ることができます。日本人が感じている、すべてのものの中に潜んでおられる唯一の存在者こそ、私たちクリスチャンが礼拝しているお方であると、同じ感覚に立って喜び合うことができます。この方によって私たちは生かされ、永遠の命を与えられ、未来に対する不安もなく、とても喜んでいることを証してあげることができます。

 私たちはこれまで教えられてきたように、日本人の神道的宗教感覚を偶像礼拝として蔑み、嫌い、敵対感情を抱いて取り扱うのではなく、天地の創造者であるお方に対する、正しい信仰へ導き入れるための手蔓と考えて、大切に用いて行きたいものです。





posted by まさ at 19:07| Comment(6) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月24日

二種類ある偶像礼拝の罪


 
 聖書は偶像礼拝が罪であると教えています。単なる罪ではなく、神がもっとも忌み嫌われる罪であると教えています。それでクリスチャンたちの多くは、徹底して偶像礼拝を避けるように指導されてきました。日本人クリスチャンも例外ではありません。日本の宗教は偶像教であると教えられたために、忠実なクリスチャンたちは日本の宗教を敵視し、嫌悪感を露わにして、少しでもそれらに接触することがないように、注意深く避けてきました。

 ただほとんどのクリスチャンは、宣教師や牧師などの伝道者を含めて、偶像礼拝の罪にはふたつの種類があることに気づいていません。そのために、日本の宗教やそれらの宗教を奉じている人たちに対して、間違ったお付き合いの仕方をしてきたことも少なくありません。それが、日本という文化土壌のなかで生きなければならない、日本のクリスチャンの生活をことさら難しいものにしてきたことも事実です。

 さらに、偶像礼拝についての間違った理解のために、この日本に生まれ育った人たちに福音を伝えようとするとき、私たちは非常な困難に直面してきました。そのような体験を二度三度と繰り返すと、もう自分には福音伝道どころか、証さえ満足に出来ないと思い込んでしまいます。しかしこの偶像礼拝に関する聖書の教えを正しく理解して、その上に立って生活と証をしていくならば、必ず異なった展開が開けてくると確信するものです。

 偶像礼拝の罪の二つの種類とは、@ 出エジプト記20章に記されている十戒の、第一戒である偶像礼拝禁止の命令を破る罪と、A ローマ書1章18〜32節に記されている、偶像礼拝の罪です。この二つは同じ偶像礼拝を取り扱っていながら、実はかなり異なっています。


T. 十戒の第一戒として与えられた偶像礼拝禁止の律法

 出エジプト記20章に記されている十戒の、第一戒に挙げられている偶像礼拝禁止の命令は、そのまま日本の宗教やそれを奉じている日本人にも適用され、日本人は偶像礼拝者であり、神の怒りのもとにあると断罪されてきました。その上、旧約聖書に幾度となく繰り返されているイスラエルの偶像礼拝の罪と、そのつど下される神の厳しい刑罰の歴史が持ち出されて、偶像礼拝に対する神の峻厳な態度に注意を促されてきました。

 ところが、正しく聖書を学ぶと、この出エジプト記に記されている十戒をはじめとし、旧約聖書の多くの戒めを直接日本人に適用するのは、大きな誤りであることに気づきます。これはむしろ非常に簡単というか、単純というか、聖書を素直に読むならば誰にでも分かることです。ただ私たちは、ずっと尊敬する西欧の宣教師に教えられ、西欧で発展した聖書の解釈によって導かれて来たために、それを疑うことなく鵜呑みにしてきたのです。西欧の「キリスト教文化」に生まれ育ってしまうと、これを正しく理解するのは困難なのです。

 十戒をはじめとする旧約聖書の多くの戒めは、イスラエル民族という特殊な民族に与えられた法律であって、イスラエル人とはなんの関わりもない私たち日本人に、そのまま、直接、適用してはならないものです。フランスの何とか言う町には、「この町で死んではならない」という奇妙な法律があるそうです。土葬にする土地が無くなってしまったという特殊な事情が、そのような定めごとを作らせたのだそうです。そのありがたいようなありがたくないような法律を、私たち日本に住む日本人に、直接当てはめる人はいません。十戒で初めて与えられ、それからしばしば繰り返された偶像礼拝禁止の戒めは、イスラエル人に対する法律であって、日本人に対するものではありません。
 

T.A. 偶像礼拝禁止の大前提

 十戒に命じられている偶像礼拝禁止には、大前提があります。つまり、それが崩れれば命令自体が成り立たないという条件です。それが偶像礼拝禁止の条例の直前に、間違えるはずがないほど「明瞭明確」に述べられています。ところが、日本人の偶像礼拝の罪を語る多くの人たちは、いつもそれを完全に無視しているのです。

「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である」
これが大前提です。まず、「私はあなたの神、主である」と宣言されていますが、偶像礼拝を禁じた方は、「私はあなたの神」ということが出来、「あなたの主」と言い切ることができた方です。すでに、「あなたとわたし」という関係に入っているのです。日本人は、聖書が教える神とはこのような「あなたとわたし」の関係には入っていません。枠外なのです。ここで言われる「あなた」ではないのです。

 この関係は、「あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した」という、決定的な出来事によって作られた関係です。それは神が多くの民族の中からイスラエル民族を選んだ出来事に根ざし、その民族がエジプトの国で奴隷になっていたのを神が数々の奇跡をもって、救出し、約束の地に導き登っておられた事実に立っているのです。日本人は、そのような事実を背景にしている民族ではありません。

 イスラエル人は、ただ、アブラハム、イサク、ヤコブの神と呼ばれた先祖の神を信じていたのではなく、彼らの目の前で数々の大きな奇跡を行って、彼らをエジプトの枷から解き放ってくださった神を体験していたのです。エジプトを出てからも、昼は雲の柱夜は火の柱で導き守り、紅海の水を二つに分けて道を開き、彼らを安全な土地に渡らせた上に、エジプトの軍隊を全滅させてくださった神、苦い水を甘い水に変えてくださった神、攻めてくる土着の民族を奇跡によって打ち負かしてくださっただけでなく、砂漠の中で充分な肉とパンを与えてくださっている神を、その時も毎日体験していたのです。

 その神が、イスラエル民族と特別な契約関係を結んで下さり、それを一般民衆までに明らかにされようとしておられたのです。天地の創造者がイスラエル民族と、夫婦関係、婚姻関係に喩えられる関係に入られたのです。それで、「あなたの神、あなたの主」という表現が力を持つのです。それで、この神を離れて他の神に行くことを、聖書は不定の妻、姦淫の女に比べているのです。不定の妻を愛し続け許し続ける夫が神の姿を表し、繰り返して夫を裏切り続ける奔放な妻が、イスラエルを表現するというわけです。この神の姿を、身をもって現すことを命じられたのが、淫乱な妻を持たせられたホセアという「気の毒な」預言者でした。

 つまり、神はイスラエル民族をご自分の妻と見立て、偶像礼拝を他の男に走る淫らな妻の浮気心に見立てて語っておられるわけです。神は大きな奇跡をもって、この女を惨めな奴隷状態から救い出し、ご自分の妻として愛されたのです。だから、私はあなたの夫、あなたを救い出したもの、私以外の者に走ってはならないと仰せになり、彼らを愛し、彼らを幸せに出来るのは自分だけだと、訴えておられるのです。

 したがって、神の奇跡を見せられていない人々、神によって奴隷の状態から救い出されていない人々、神との特別な契約関係に入れられていない人々、「神の妻」とされていない人々は、この、偶像礼拝禁止条約、不貞禁止条約、現代的に言えば不倫禁止の法律にふれることはないのです。結婚していないからです。天地創造の神と「婚姻関係」に入っていない日本人が、不貞の妻として訴えられ裁かれ刑罰を与えられることはないのです。

 たとえ日本人が偶像礼拝をしていても、イスラエル民族が叱責されたように叱責され、彼らが罰せられたように罰せられることはないのです。それなのに、日本人をイスラエル人と同じ立場に立たせて、偶像礼拝の罪を責め立てる宣教師や牧師は間違っているのです。確かに日本人も偶像礼拝をしています。だからといって、十戒が与えられたあとのイスラエル人のように責められてはならないのです。イスラエル人は、神の明らかな自己顕現、自己紹介だけでなく、明らかな助けを体験しているからです。

 
T.B.  十戒が与えられる前のイスラエルの偶像礼拝

 同じイスラエル人の偶像礼拝に関してでさえ、十戒が与えられる前の偶像礼拝は、厳しく罰せられていません。イスラエル人の先祖であるアブラハムは、シュメール文化の中に生まれ育ったようですから、シュメール人の宗教と信仰生活に馴染んでいたはずです。初めから天地の創造主を信じていたとは考えられません。ところがそのような偶像礼拝者であったにも拘らず、神は彼の信仰心と生活態度をご覧になって、彼にご自分を現して、ご自分の大切な器としてお選びになったのでしょう。

 アブラハムは天地の創造者を自分が礼拝するべきお方として定め、このお方だけを礼拝し、また仕えるようになったようですが、他の神々の存在やそれらを礼拝する人々の存在を否定したのでも、責め立てたのでもありません。ただ、自分が礼拝しお仕えするのはこのお方だけと定めただけです。アブラハムが持つことができた天地の創造者についての理解は、現在の私たちからすると甚だ希薄なものだったに違いありません。しかし彼の理解は頭脳による理解ではなく、お付き合いを通しての知識、体験を通しての理解であり、ちょうど子供が親を知っているのと同じ性質のものでした。その点に置いて、現代の私たちには及びも付かないほど高く、また深い理解を持っていたのです。

 この天地の創造者を信じる信仰は、多分、少しずつ、他の神々に対する考え方や取り扱いに影響を及ぼしたことでしょう。ちょうど、現在のクリスチャンたちでも、たとえ偶像礼拝について何も教えられなくても、いつの間にか、様々な偶像礼拝を退けるようになるのと同じです。その過程においては、いろいろな間違った神観念もあったことでしょう。明らかな偶像礼拝もあったはずです。

 アブラハムの孫にあたるヤコブが愛した妻、ラケルは父ラバンの家を離れるとき、自分たち一族の偶像を盗み出しています。彼らは偶像礼拝者だったのです。ヤコブが自分の一族の中から偶像をみな取り出して、樫の木の根元に埋めた一種の宗教改革は、祖父アブラハムが神に召し出されてから、およそ150年も経ってからの出来事です。神は、偶像礼拝に対しても案外忍耐深く構えておられたのです。この150年は、プロテスタント・キリスト教が日本に入ってきてから、今日に至るまでの年月と同じです。私たちは日本人の偶像礼拝を、十戒が与えられた後のイスラエル人を責めるような勢いで、責めてはならないのです。

 イスラエル民族に対しては、神はさらに天地創造の物語を通して、非常に明快な自己紹介をして下さり、ご自分が、周囲の民族が礼拝していた神々とは根本的に異なる、まったく次元の異なるお方であることを教え、多くの歴史的出来事をもって、その事実を実証してくださっています。ですから、イスラエル民族の偶像礼拝の罪は殊更に重く、神の刑罰は特別に厳しいのです。天地の創造者である神について何も知らない、無知で「愚かな人間」の偶像礼拝とはまったく違うのです。


U. ローマ書1章に記された偶像礼拝の罪

 モーセの十戒の一部としてイスラエル民族に与えられた、偶像礼拝禁止の命令を破る罪と、ローマ書1章に記されている偶像礼拝の罪を、同じ土俵の上の相撲のように語ってはなりません。偶像礼拝という主題は同じでも、土俵が違うのです。同じように組み合って戦うスポーツでも、丸い土俵の上で戦う相撲と畳の上で戦う柔道を、同等に語ることはできないのです。


U.A. すべての偶像礼拝者に対する罪の宣告

 端的に言うと、十戒の偶像礼拝の問題はイスラエル民族の問題であって、日本人には適応できません。一方、ローマ書1章で取り扱っている偶像礼拝は、イスラエル人をも含めた人類一般の偶像礼拝なのです。従って、日本人はこのローマ書1章の18〜32節の記述に従って評価されなければなりません。

 ローマ書で言われる偶像礼拝の罪とは、神が自然物を通してご自分について知りうることを明らかにしておられるにも拘らず、人間は明らかにされた神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性、不滅の栄光を、滅ぶべき人間や、鳥や、獣や、這うものの形に変えてしまった罪です。これは、夫婦関係の不貞になぞらえる事ができる、イスラエル民族の偶像礼拝の罪に先行する、もっと根源的な偶像礼拝の罪で、偶像礼拝をしている全民族、地上のすべての人々に及ぶものです。

U.B.  第二の堕落
 
この偶像礼拝は、いわば、人類が神から遠ざけられた罪の「二つ目」というべきものです。あるいは、アダムとエバが犯した罪による堕落に続く、「第二の堕落」とも言えるものです。この罪のために、人類は「心の欲望のままに汚れに引き渡され」、「恥ずべき情欲に引き渡され」たのです。そのために、人間はありとあらゆる「してはならないことを」するようになったのです。ローマ書1章の最後の部分では、21の「してはならないこと」が、列挙されています。つまり、人間が罪に汚れたのは、アダムとエバによる罪の結果だけではなく、偶像礼拝の罪のためだと説明されているのです。この第二の堕落は、まず人間の性本能の錯乱となって現れたようですが、それだけには留まらず、人間のあらゆる欲望に及んでいます。

V.C. 偶像礼拝の罪の背景
 
 偶像礼拝にはいくつかの段階、あるいは背景があります。その第一は、人間に与えられている本能です。偶像礼拝は人間の本能に直接関連しています。人間は神に似せて造られ、はじめから神との交わりを求めるように、神を礼拝するように、また祈るように造られているのです。宗教性は神が人間に与えてくださった本能、霊である神に似せて造られた人間の霊的本性の現れです。
 
 この人間の宗教本能は、アダムの罪による堕落でも失われませんでした。だからこそ神は、その失われていないという事実に立って、神から追放され神を忘れかけている人間に対し、自然物を通してご自分を示し、人間が改めてご自分を知ることができるようにされたわけです。言い換えると、人間が宗教を持つこと自体を悪と決め付けてはならず、むしろそれは神が与えてくださった本能の発露と考えるべきです。

 問題は、神が自然物を通してご自分を示してくださっているのに、人間は神を正しく理解することができなかったことです。これが第二の背景です。ですから偶像礼拝を憎むあまり、人間の本源的欲求である宗教性まで叱責するのは間違いです。ただ何を礼拝するか、誰を拝むかに問題があるのです。赤ちゃんが焼酎を飲んではいけません。飲ませてはなりません。しかし、赤ちゃんが持っている「飲む」という本能まで否定してはならないのです。

 ローマ書の記述によると、人間は自然物を通して神を知っていたのです。ローマ書の著者パウロは、アテネでの説教の中でも、神は人々にご自分を求めさせるように仕向け、人が「もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともある」ようにしてくださったと語っています。ローマ書で彼が言う「神を知る」という事は、もちろん、神について何から何までも理知的に知るという意味ではありません。むしろ極めて原則的、あるいは基礎的なことを、本能的に理解することです。少なくても、人間は自然を通して神が目に見えない方であることを理解すべきだったのです。パウロは、目に見えないものは永遠であるとも語っています。目に見えないからこそ無限なのです。

 それなのに人間は、無限の神を無限の神として崇めずに、偶像を作って有限の神に変えてこれを礼拝したのです。これが第三の背景です。繰り返しますが、人間は、神について全く何も知らずに偶像礼拝に陥ったのではないのです。むしろ神が、人間にわかるように自然を通してご自分を啓示してくださり、人間はそれによって神についての基本的なことを理解したにも拘らず、あえて、愚かな偶像礼拝に陥ったのです。だから、人間には言い訳の余地がないと糾弾されているわけです。もちろん、キリストの十字架による贖いについては、自然を通しての啓示によっては知ることも理解することもできません。それは特別な啓示を必要としています。しかし、「神の見えない性質、永遠の力と神聖」とパウロが言う、極めて基礎的なことは理解できたはずなのです。


V. 無知な時代を見過ごして来られた神

 パウロはアテネでの説教の中で偶像礼拝に触れ、「神はそのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます」と語りました。

V.A. あまり殊更に責め立てるべき問題ではない。

 宣教師や牧師たちは、烈火の勢いで偶像礼拝を責め立てて来ましたが、パウロによると、神が長い間見過ごしてこられたほどの問題でもあるのです。すでに触れたように、十戒が与えられる前のイスラエルに対しても、神は偶像礼拝について責め立てるようなことはなさいませんでした。私たちの神は忍耐深いお方です。神が激しく叱責し、厳しく責め立てたのは、婚姻関係にあるイスラエル民族が浮気をして、ほかの神々に心を寄せた時だけなのです。

 人類一般の偶像礼拝の罪についてパウロが論じた、ローマ書1章の言及はかなり厳しいものです。しかし、それはあくまでも「論」であって、実際に偶像礼拝をしていた人々に対しては、アテネでの説教の例が示すように、そのような厳しい言い方をしたのではありません。パウロはアテネの町が偶像で満ちている実情に、腹立たしい思いを抱いたことは当然です。しかし、実際に偶像礼拝者たちと話し合ったときは、その偶像礼拝を手蔓にして、つまり、話の手始めの共通の話題として持ち出し、決して叱責するような表現はしていないのです。

 偶像礼拝は神の栄光を無に帰する重大な罪ではありましたが、それと切り離すことができない人間の宗教性は、非難されるべきではないために、パウロは自分の腹にある偶像礼拝への憤りを隠して、聞いている人々にも一方的な叱責や非難に聞こえないように、理を尽くして語っているのです。私たちが日本人の宗教や宗教心について語ったとき、このような気配りをしていたでしょうか。

V.B. 「無知な時代を見過ごしておられた」

 アテネの説教でパウロは偶像礼拝に触れて、「神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが」と語っています。神様は偶像礼拝を「大目に見て」(新共同訳)おられたのです。 人類の偶像礼拝の罪は、原理原則として、決してないがしろにできない問題です。しかしその一方、異邦人の偶像礼拝の罪は「無知の時代のこと」として、大目に見て下さることが出来る程度の問題だったのです。彼らはまだ神の自己顕現、自己紹介を頂いておらず、その助けの力も体験していない「無知」の状態にいたためです。日本人も「無知」なのです。

V.C. 「今は」悔い改めを命じておられる

 ところが、パウロが語った「今は、すべての人に悔い改めを命じておられる「という言葉の方が、厳しく解釈されて日本人にも適用されています。

 まず、「今は」という意味ですが、これはパウロがアテネの人々に天地創造の神について語った、紀元50年頃のことでしょうか。そのときを境に、すべての異邦人も悔い改めて、偶像礼拝を止めるように命じられたということでしょうか。そうではありません。むしろ、「天地創造の神についての正しい知識が伝えられたとき」と、考えるべきであり、「正しい知識を伝えられたすべての人」は悔い改めるべきだと受け取るべきです。正しい神の理解を持っていなかった異邦人が、天地創造の神についての基本的な知識を与えられたその時が、こぞって悔い改めるべき「今」となるのです。そうだとすると、大多数の日本人にとって、「今」はまだ到来していないのです。

V.D. 今は「悔い改めを命じておられる」

 次の問題は「悔い改め」という言葉です。ここでパウロが用いた悔い改めという言葉は、もともと「考え方を変える」という意味のギリシヤ語でした。それが紀元前数世紀から、ギリシヤ文化に取り込まれたヘブル民族の間で、「悔い改め」という宗教的意味に用いられるようになりました。当時翻訳された旧約聖書のギリシヤ語訳においても、そのような意味で用いられています。

 ところがパウロの時代、この言葉が悔い改めという強い意味で用いられていたのはユダヤ民族の間だけで、もともとのギリシヤ人たちの間ではまだ知られていなかったと考えるべきなのです。

 パウロは、ギリシヤの影響が強い文化に生まれ育ちました。その中で、この言葉がユダヤ人たちの間で用いられるときの意味と、ギリシヤ人たちの間で用いられるときの意味の違いにも、当然、気づいていたことでしょう。ですからアテネにおいて、ギリシヤ人たちに、あるいは、ギリシヤの知恵を求めて集まってきていた人たちに向かって語ったとき、パウロは、ギリシヤで用いられていた意味で語ったと考えるのが自然です。たとえ、ヘブル的な意味で語ったとしても、聞いた人たちはみなギリシヤ人ですから、ギリシヤ語の意味で理解したはずです。

 つまりこの言葉は、「悔い改めて」という宗教的意味合いを持った、厳しい言葉として訳すべきではなく、「考え方を変えて」、あるいはせいぜい、「心を変えて」程度に訳すべきものだと考えます。ただ次の節には「世界をさばくために」という峻厳な言葉が出てきますので、クリスチャン感覚としては、「悔い改め」という訳がピッタリで、疑問を差し挟む余地がないと感じるほどです。

 とは言えよく考えると、ルカが記録したパウロの説教は要約されたもので、本来はこの何倍も長かったはずで、偶像の問題からキリストの裁きに至るまでには、ひとつの説教のなかでも相当の時間が必要であり、主題にも展開があったものと思われます。ルカの記述を読むと、偶像礼拝の主題の中に、キリストによる裁き話がいかにも唐突に出てくるのです。いかにパウロは異邦人伝道に不慣れであったとしても、あまりにも突然です。

 パウロは異邦人への使徒として、異邦人のための神学の土台を築き、異邦人の土地を周り歩き、異邦人教会を建てているのですが、実際に完全な異邦人を相手に伝道している例はわずかしかなく、毎日完全な異邦人を相手に伝道を試みている私たちからすると、まさに不慣れです。パウロが性急に話を進めたもうひとつの理由は、多分、この時彼はアテネに留まって教会を建てる計画はなく、すぐに次の目的地に向かって旅立とうとしていたことです。

 ともあれ、パウロがこの言葉をどういう意味で語ったかは、今となっては厳密には想像の域を出ませんが、聞いたギリシヤ人がどう理解したかははっきりしています。また、それを記録したルカがどういう理解で書き留めたかも、想像をたくましくできます。ルカはギリシヤ人ですから、もともと「考え方を変えて」の理解でしたが、クリスチャンになってからは、「悔い改め」というユダヤ的用法があることにも、気づいていたはずです。ではルカはどちらの用法を念頭において書いたのでしょう。

 ルカが彼の福音書とその続編である使徒の働きを宛てたのは、テオピロと呼ばれた社会的身分の高いギリシヤ人だったと考えると、これはギリシヤ的用法で書かれたものと考えられます。しかし、ルカが、クリスチャンたち一般をテオピロ、すなわち「神を愛するもの」という意味で呼んだと解釈すると、これはヘブル的な意味合いに取ることができるようになります。私たちはギリシヤ人と同じ異邦人ですから、「考え方を変えて」と読むほうが良いように思います。 

 少なくても私たちは、厳格この上ない神の代弁者として、偶像礼拝を続けるイスラエルを、激しく責め立てて止まない預言者を真似てはなりません。「上から目線」丸出して偶像礼拝者を弾劾する態度をとるべきではないのです。むしろパウロが試みたように、偶像礼拝の中にもある強い宗教心、神意識を手蔓、あるいは共通の土俵としてねんごろに話を進めるべきです。もちろん、その中に、必然的に結論に近いところで、神の裁きを語ることも当然必要になってくることでしょう。ただし、その裁きでさえも、イスラエル民族に対する裁きと、一般の異邦人に対する裁きとを、混同して語ってはなりません。


W. ローマ書一章の偶像礼拝と日本人

 ところで、日本人の基本的宗教意識、あるいはそこから発生している神道というものを、このローマ書の記述に照らし合わせてみるとどうなるでしょう。

W.C. 偶像を造らない神道

 神道の基本的特徴を挙げるならば、体系的な教え、キリスト教で言う神学がないということと、拝む対象がはっきりしないことです。神学がないのですから、拝む対象がはっきりしないのが当然なのか、拝む対象が明らかではないために神学がないのか、ともかくそれが神道の特徴なのです。そしてこれはたまたまそのようになったのではなく、わざわざ、あえてそのようにしていると言えるのです。

 神道は、もともと日本人の心の奥深くの宗教観、あるいは神観を素朴に表現したものです。素朴以上に表現しようとはしないのが、本来の神道です。このような神道に満足できず、体系的な神道を作ろうとして、キリスト教の神学などを参考に作り上げたのが、徳川の終わりに現れた復古神道です。これは明治から昭和の初期にかけて、反キリスト教政策の一環として、国家神道の土台とされましたが、現代ではあまり影響力を持っていません。日本人本来の素朴な宗教観、あるいは神観にあわないのです。

 神道に神学がなく、拝む対象がはっきりしないということは、神道には偶像が存在しないという、極めて特徴的な事実につながります。多くの日本人は神道にも偶像があると思っていますが、それは通俗的な神道で、堕落した神道、あるいは仏教化した神道であって、神道本来のものではありません。 

 神道は日本人が本能として持っている、目に見えないもの、すなわち像や絵画で表現することができないもの、あるいは人間の思考と想像力をこえて、言葉でさえも表現できないものにたいする畏れを表現したものです。ですから、拝む対象がはっきりしない、神学がないということと、偶像がないということは根が一つなのです。

 神学がないということ、対象がはっきりしないということは、数々の混乱を引き起こし、いわゆる民間信仰、通俗信仰というものを数多く作り出すことになりました。神学がないのですから、どんな信仰だろうと、間違っているだとか異端だとか。キリスト教のような争いにはならないのです。非常におおらかにすべてを包み込んでいながら、神道の本質を失わずにきているのです。宗教的寛容性が神道の性格の一つです。

W.C.1. 神道の中の偶像

 そういうわけで、通俗的な神道には偶像がたくさんあります。特に仏教との混合によって作り出された宗教観は、そこここに偶像を作り出してきました。人間には目に見えないものでは満足できないという弱さがあります。偶像は、目に見えない神をなんとか目に見える形で、表現しようとしたものです。人間の理性を超えた大きな神を、なんとか有限の人間の足りない言葉と知恵で説明しようとしてきた、西欧の神学と根は同じです。

 これは神道的感覚の一部である、汎神論的な感覚につながっています。神道ではすべての自然物、時には人造物の中にさえ、目に見えない神が宿っていると考えます。それは僅かに言い方、表現、あるいは理解を変えると、すぐに、自然は神の姿を現しているとなり、自然は神だとなり、自然を拝むことになります。自然物を神格化して拝む民間信仰は各地に広がっています。拝まれているものも、巨木や奇岩からはじまり太陽に至るまで、偶像礼拝につながっています。

 あるいは、人間の願望を象徴する物を作ったり見つけ出したりして、これを拝む偶像礼拝もあります。たとえば、男性性器や女性性器に似た物体を拝むのは、男女の睦みを願い子宝を願う表現です。とはいえ、このような日本人の自然崇拝から生まれる偶像礼拝は、全体から言えば、宗教心の僅かを占めているだけで、宗教心の中心を占めているのでも大部分を占めているのでもありません。

 このような日本人の宗教心の中心は、日本人が密かに感じ続けてきた、目に見えない大きな方、絵でも像でも言葉でも表現できない、気高く奥深く恵みに富む聖い方に対する、素朴な畏敬と感謝と願いです。そのお方を、無理に言葉や形で表現しようとすると、八百万の神々の神話や民話の世界、あるいは貧弱な偶像礼拝に陥ったりしますが、神道全体としては、やはり、目に見えない畏(かしこ)き方を、良くはわからないまま崇めて行くという本筋を失っていないのです。

 神道の内に見られる、すべての自然物に神が宿っていると見る汎神論的信仰は、原則的に聖書の世界観と矛盾しません。特にすべての物に神々が宿るのではなく、神が宿るという感覚は聖書の神観と一致します。神道のでは神々という存在よりも、唯一と表現されても良いほどの、大きなよくわからない方に対する怖れの方が明らかなのです。

 この方は、単に上という意味しか持たない「神」という言葉では、表現しにくい存在でもあるのです。ですから、「何事のおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」と詠われたのです。

 お勧め

 日本人に証をし、福音を語るとき、多くの宣教師や牧師がやり続けているような、十戒を水戸黄門の印籠のように掲げて、日本の宗教や日本人の宗教心を卑しめる言い方をやめましょう。むしろ、偶像礼拝の誘惑を強く感じながらそれに陥りきっていない、日本人の宗教的純粋さに敬意を払って語りましょう。神道的感覚を手蔓として、永遠の栄光の神について語ってあげましょう。
 
 今日はキリストの誕生を記念するクリスマスです。聖書には、キリストの誕生を祝うために、東から博士たちが訪ねて来たと記されています。ご存知のように、この人たちはユダヤ人ではなく、博士でもありませんでした。正しくは知恵にあふれた異邦人の占い師だったようです。神は異邦人の占い師たちにも、光を当て、正しい信仰に導いてくださることもあるのです。

 筆者の伝道者生涯にも、そのような体験を幾度かしたことがありました。一九六八年のことです。当時貧しい開拓伝道者として、沖縄のやんばる(北部)の入口、金武村というひなびた村で苦闘していた筆者を、一人の中年の男性が訪ねて来ました。話によると、彼が昔から仕えていた神様が前日に現れて、「金武村の大通りを歩いて、大きな白い十字架が描かれている建物に入って、そこの主(ぬし)から、ねんごろに話を聞いてそれを受け入れるように」と仰せになったというのです。

 それで彼は、住んでいた伊平屋島から朝一番の船に乗り、バスを乗り継いで八時間かけて、言われた通りに筆者のところまできたわけです。私は三時間ほども費やして、神について、キリストについて、救いについてお話してあげました。聴き終わった彼は丁重に礼を言い、「自分は知らず知らずのうちに、天と地をお造りになったお方を拝んでいたのだ」と言って、喜びに溢れて帰って行きました。

 伊勢神宮を訪ねて、「何事のおわしますかは知らねども」と詠って涙を流した偉いお坊さんは、もしかすると、神様の救いに与っているかもしれません。もしあずかっていないとしたら、このお坊さんの罪による自業自得だと言い切れるでしょうか。イエス様の宣教の命令をないがしろにし、自分たちの権力と名声と金を求めて争い続けていたために、このような真面目な求道者に、天地の創造者を告げ知らせることができなかった、教会の罪はどうなるのでしょう。

 日本にいて、日本人の宗教感覚も神道も真面目に理解しようとせずに、ただ一方的に偶像礼拝と非難し糾弾し断罪してきたために、多くの日本人を福音から遠ざけてしまった、私たちの過ちはどうなるのでしょうか。

 
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2013年11月09日

私たちの生き方

         


 私たちは偶然生まれてきたのではありません。何の目的もなく生きているのでもありません。私たちは進化の果てに出現した人類という生物ではなく、神によって造られた特別な生き物です。神によって神に似せられて造られ、明らかな目的をもって存在しているのです。その目的から外れて生きる人生は、的外れの人生になってしまいます。


T. 私たちが造られた目的  神は私たち人間を、ご自分の姿に似せてお造りになりました。それは私たちと心を通わせることができるように、造ってくださったということです。言い方を変えると、私たちをご自分の愛の対象としてお造りになったのです。それは、私たちが神の愛を一身に受け、幸せに生きるようにされたということです。私たちははじめから幸せに生きるように、すべての環境を整えたうえに、造り、生かしてくださったのです。

 私たちの周囲の自然が、いかに素晴らしいものとして造られているか、よく観察して考えて見ましょう。地球全体、そして宇宙、それから小さな小さな世界にいたるまで、すべて、私たちが生きるに都合よく造られているのです。自然の中に出て、花の美しさ、紅葉のあでやかさ、海の青、雲の白、一つ一つに感動するのは大いによいことです。

 神様がお造りになった自然の中で、幸せに生きることこそ、私たちが生まれた目的なのです。ただし、幸せに生きることだけが目的なのではありません。神様がお造りになった自然の中で、神様を賛美し、感謝し、礼拝しながら生きるのです。神の愛を感じないでは、人間は本当の幸せを持つことができません。人は人との交わりがなければ孤独になってしまいます。人と人が愛し合うように造られているからです。同じように、神の愛を感じ、神を愛するように造られている私たちは、神からの愛を感じ神を慕うことなしには、人間としての満足、充足、生きている感動はあり得ないのです。

 そのようにして人間が神の愛を感じて、神を賛美しながら幸せに生きることが、神の栄光を現すことなのです。


U. 私たちが救われた目的  イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったのは、私たちが造られた目的通りに生きることができるためです。神は私たちが神の愛を感じて、幸せに生きるようにと望んで、私たちを悪魔の支配からご自分の支配へと、移してくださった、取り戻してくださったのです。たとえ自然は破壊され環境は悪化していても、それらさえも神は完全に作り変えて、新たにしてくださいます。

 そのために神は、ご自分のひとり子をさえ犠牲にしてくださいました。「そこに愛がある」のです。いま、キリストの十字架の愛に現された神の贖いの愛を体験した私たちは、ただ、神の愛の対象として造られたという以上の、痛みをものともしない神の愛、犠牲を乗り越えた神の愛を知ったのです。私たちはそれほどまでに愛されているのです。

 ですから私たちには、なおさら幸せに生きる使命があるのです。造ってくださった神のために、贖いだしてくださった神のために、不幸に生きてはならないのです。幸せに生きることこそ、私たちに与えられているいき方、生きる目的なのです。ただ、それは自分中心で、他人を省みないような幸せの追求であってはなりません。神は、人間が互いに愛し合い、睦みあって生きることを喜んでくださるのです。

 人間が神に造られた目的通りに、十字架のみ業で贖い出された目的通りに、幸せに生きることが神の栄光を現すことなのです。


V. 私たちが遣わされた目的  ところが聖書は、この世で生きる限り、私たちには悩みや苦しみ、痛みや悲しみがついて回ることを教えています。幸せになるように造られ、幸せになるように贖われた私たちが、どうして、これ以上苦しみ続けなければならないのでしょう。

 それは、私たちがキリストの大使として、この世に遣わせられているからです。あがなわれた私たちの国籍は、今や、天にあります。ところがその天から、私たちは悪魔の支配するこの世に、使命を与えられて改めて送り返されているのです。重大な目的を与えられて遣わされているのです。その使命その目的は、キリストが遣わされた使命、キリストが人となってくださった目的と同じです。キリストはおっしゃいました。「父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす」

 キリストは、罪のために命を失った人々に新しい命を与えようと、父なる神から遣わされました。私たちクリスチャンは、キリストの使命を引き継いでいます。命を失った人々にキリストによる永遠の命をもたらす働きが、与えられているのです。身にあまる光栄に満ちた使命です。私たちはその働きによって、神の栄光を現すのです。

 さらにキリストはその働きを遂行するために、まず、神と等しくあった姿を捨てて、人々と同じ姿になり、人々と共に住み、共に人生の辛苦を味わってくださいました。私たちもまたキリストと同じように、天に国籍を持ちながらこの世の中で苦しみながら生きています。それはさらに多くの人々に、キリストの救いを伝えるためなのです。

 私たちの苦しみには意義があります。無意味に無駄に苦しんでいるのではありません。その苦しみを通して、私たちは苦しんでいる人たちに福音を語るのです。私たちの苦しみは神の栄光のため、人々の救いのためであり、キリストと共に苦しむ苦しみです。(ピリピ1:29)








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2013年10月24日

心に書かれた律法 

 
ローマ2:14〜15  

私たちの教会はプロテスタントに所属します。プロテスタント教会の旗印は、聖書に立脚した信仰と生活です。これは、教会の権威、強いては教皇の権威を主張して、そのときと場合によって自分たちに都合よく、信仰のあり方や教会のあり方を変えてきた、カトリックの信仰に対する反動、あるいは抗議として生まれてきたものです。

 私たちは、教会や教皇の言うことではなく、永遠に変わることがない神の言葉である聖書に信頼して、信仰を維持しています。聖書のないところに、本物のクリスチャン信仰は、ありえないのです。ですから、私たちは聖書を読み学ぶことを大切にしなければなりません。

 
T. もうひとつの律法  

 ところが、聖書を重要視するプロテスタント教会が、あまり大切にしてこなかった、というか、あまり考えてみたことがない、もうひとつの「聖書」があります。聖書という言葉は使われていませんが、使徒パウロがローマ人への手紙において、私たちの心に記されている「律法」と呼んでいるものです。パウロの教えによると、異邦人は律法を与えられていませんが、自分自身が自分に対する律法になっているということです。律法の要求が、異邦人の心にも記されていると語られています。

 この異邦人という言葉には日本人も含まれます。そしてここで言われている律法とは、狭い意味ではモーセの律法と呼ばれる、旧約聖書のはじめの五つの書物ですが、広い意味では旧約聖書全体、さらには旧新約聖書全体に適用できるものです。

 使徒パウロは聖霊の導き受けて、日本人を含む異邦人の心には、私たちがふつう律法と読んでいるものとは、別の律法が記されていると語ったのです。もう少し、聖書を調べると、この心に記されている律法とは、異邦人だけに与えられたというものではなく、ユダヤ人をも含むすべての人類に与えられている、普遍的なものであることが分かります。

 つまりこれは、すべての人間は神の姿に似せて造られているために、本能として、神の聖さに似た聖さ、神の正しさに似た正しさ、神の愛に似た愛など、神の美しい性質が映し与えられていて、人間の堕落にもかかわらず、それがまだ機能し続けているという意味なのです。人間は先祖アダムとエバの罪のために、神の性質をそのままには発揮できなくなってしまいました。そして、汚れた思いをもって神から離れた社会を作り、自分勝手に生き始めました。自分勝手と思いながら、その実、悪魔の力に屈して、憎しみ、ねたみ、争い、戦いながら生きるようになってしまいました。すべての人間は悪魔の支配の中に生まれ、生まれながら、罪の中に生きてきたのです。

 だからといって、神に似せて造られた人間の本能が、完全に破壊されてしまったのでも消失してしまったのでもありません。むしろ、すべての人間の中にしっかりと残っているのです。

 その本能は、正義を求め、愛を追求し、神を礼拝するというような、きわめて原則的なもの、きわめて基本的な人間の性質です。これらは、どのように人種が異なり、文化が異なり、環境が異なっても、あらゆる人の中に見られるからです。その本能が、一人ひとりの生まれ育った環境で具体的に形成されると、「良心」というものになります。使徒パウロも「良心」という言葉を、説明こそしていませんが、心に書かれた律法と関連付けて用いています。

 神に似せて造られた人間の美しい本能は、それぞれの文化や環境によって、異なった形に形成されます。集団生活を営んできた日本人の間では、集団生活を大切にする人間関係が生まれ、集団生活の価値を最も大切にする文化が生まれました。その中で生まれ育った日本人は、集団生活を壊すようなことをすると「良心」が痛むのです。ところが集団生活よりも、一人ひとりの自由と能力を大切にする文化では、自分の自由と能力を拘束してまで、周囲の人を思いやることにはかえって良心が疼くのです。

 ですから、良心は文化によってまた環境によって異なります。しかし良心の基礎となる人間の美しい本姓は、すべての人間に共通してあるのです。それが、異邦人の心の中に書かれている「律法」なのです。日本人も当然、この律法を持っています。しかも、多くの民族よりもかなり明確に、あるいは色濃く、この神の姿である律法をとどめています。

 日本人は不思議な民族です。たとえば日本人は、ローマ人への手紙一章に記されているような、偶像礼拝の罪を犯していません。日本人の精神的土壌、あるいは宗教感情では、偶像礼拝はないのです。偶像礼拝は仏教がもたらしたもので、本来の日本人の信仰である神道には、原則的に存在しないのです。日本人は目に見えない神の永遠の栄光の姿を、目に見えないままに畏れ敬ってきました。木や石を刻んで人間や獣や鳥や這うものの像を作り、これを拝むようなことはしてこなかったのです。それが、日本人の高い宗教意識と高い倫理観につながっているのです。(ローマ1:18〜32)

 この、心の中に記された律法については、新約聖書もここ以外には記していません。新約聖書は、律法を持っているユダヤ人や、すでにユダヤ人の文化を受け入れていた、当時の異邦人クリスチャンに向けて書かれているために、異邦人のことに関して言葉を多くする必要がなかったわけです。西欧のプロテスタント・キリスト教にも、この心に記されている律法についての考察は少なく、その神学もありません。彼らは「キリスト教文化」の中に生まれ、聖書を保持していたために、その必要を感じなかったのです。
 ところが私たち日本人はまったくの異邦人であり、異邦の文化に生きています。基本的に日本人は聖書を知らないのです。ですから今、この異邦人の心にも記されている律法について、聖書の教えに照らし合わせながら考察を深め、神学を築いていかなければなりません。


U. 律法では救われることができない 

 使徒パウロは、律法を守ることによっては、人間が救われることはないと幾度も強調しています。人間を救うのは、キリストの十字架のあがないをもって救いを準備してくださった、神の愛です。これは聖書にだけ明らかにされていることです。したがって、異邦人の心の中にも書き記されている律法によって、異邦人が救われることはありえないのです。律法は神の要求される正しい生き方を教える一方で、罪を示し、人を裁くためにあるものです。積極的に捕らえれば、人に罪の自覚を与え、救いに導く「養育係」としての役割を果たすのです。

 聖書を知らない異邦人が、聖書の教えを知らずして救われることはありえません。とはいえ、すべての異邦人が罪のために神の刑罰を受けて地獄に落とされる、永遠の火の中に投げ込まれると教えるのも、正しくはありません。すべての人間は、それぞれの行いによって裁かれるというのが聖書の教えです。十把ひとからげに消えない火で焼かれるというのは、どこかのウルトラ右翼のキリスト教団体が言うことであって、聖書の教えではないのです。聖書はすべての人がそれぞれの行いによって裁かれると教えています。その場合、聖書を持っていない人たちは、自分の知らない聖書の教えによって裁かれるのではなく、自分の心に記されている律法によって裁かれるというのです。

 またクリスチャンの罪は、キリストの十字架の死によってすでに裁かれ、罰せられていますので、再び裁かれることもありません。クリスチャンもまた行いによって裁かれるのですが、それは、永遠のみ国においてどのようなご褒美が与えられるかが決められる、まったく次元の異なる裁きであって、命か滅びかの裁きでも、どのような滅びに入れられるかが決められる裁きでもありません。

 クリスチャンではない人々の中にも、立派な人たちがたくさんいます。並みの牧師など、逆立ちしても追いつけないほど、気高い生き方をした日本人がそこここにいます。ところが彼らがどれほど高貴な生き方をしても、絶対に聖い神のみ前では、汚れて腐敗しきったものに過ぎないのです。彼らが救われることはありません。だからこそ、私たちは福音を宣べ伝えるのです。ただし、一所懸命に正しく生きようとした人が、大罪人と同じように、消えない火の池で永遠に苦しめられることもないということです。


V. 聖書の役割を果たしている心の律法 

 私たちは聖書に立脚するプロテスタントのクリスチャンです。でも、果たしてどれだけ聖書を読み、どれほど学んでいることでしょう。はなはだ怪しいものです。あるいはさまざまな条件のために、聖書をまったく読むことができないクリスチャンもいます。このようなクリスチャンたちは、どのようにして、神に喜ばれる生活をすることができるのでしょう。

 聖書によらなければ、何が神に喜ばれることが分からないのならば、私たちはもっともっと一所懸命に聖書を教えなければなりません。でも、どこのプロテスタント教会も、どこの牧師でも、それほど真剣に聖書を教えてはいません。それなのに、クリスチャンとしてなんとか成長もしています。それは、意識していようといまいと、心に書かれた律法とそれを具体化した良心に教えられているからです。さらにその上に、聖霊の導きと助けがあるのですから、なおさらです。

 クリスチャンになると、聖霊がその人の内に住み、新しい命に生かし、より神に喜ばれる人になれるように、内側から働いてくださいます。神に似せて創造された人間の心にある本能的な部分に、聖霊は新しい命と力を注いで下さって、つまり、「死んでいたものを甦らせて」、新たに生きることができるようにしてくださるのです。そういうわけで、文字で書かれた聖書をちっとも読まない「劣等生クリスチャンで」も、心から神に喜ばれる生活をしようと、祈りながら努力するならば、かなりの期待ができるのです。

 また、たとえクリスチャンではなくても、自分の美しい本能の部分を大切にし、良心に従った生き方をしようとするならば、結構、高尚な人生を送ることができるのです。日本人の場合は、えこひいきかもしれませんが、特にそのように感じます。日本人は、高度に倫理的なのです。それは偶像礼拝をしていないために、神が日本人を「欲望のままにひきわたし」ておられないのか、手心を加えておられるのかと、思わざるを得ません。(ローマ1:24)


W. 神のご計画を知るには不充分な、心に記された律法  

 心に記された律法はすばらしものです。私たちはこの事実を通して、もっと積極的に日本人のすばらしさを認め、それを用いて福音を伝えて行く手づるにしたいものです。

 とはいえ、この心に記された律法はきわめて基礎的な、また原則的なものであって、神のすばらしさを知り、神の人間に対するご計画を知るには不充分です。特に罪に陥った人間を救う神の愛、その愛の遂行としてのキリストの十字架と贖い、人間の救いと永遠の命などを知るためには、まったく何の助けにもなりません。それらのことが教えられているのは、心に記された律法ではなく、文字で記された律法、聖書であり、聖書だけなのです。

 だからこそ、聖書は読まれ学ばれなければなりません。聖書を読まないクリスチャンは、神のご計画について知ることができません。聖書を学ばないクリスチャンは、自分がどれほど神に愛され、大切にされているのかも、理解できません。永遠の命と限りない喜びの日々の約束にも、心が及びません。
 私たちクリスチャンが、ただ、心に記されている律法だけを頼りに生きていくのは、足元を照らすほのかなか弱い光を持つだけで、道筋を照らし、行く方向を示す明るい光を持たないことと同じです。道に迷い、とんでもないところに行ってしまう可能性が非常に高いのです。

 今の世の中が悪魔の支配の下にありながら、堕落しきらずにいることを、私たちは積極的に評価しましょう。クリスチャンではない人々のほうが多い世界なのに、かなりの秩序が保たれ、正義が行われ、愛が人々の心を和らげている事実を、喜んで認めましょう。人間は神に似せて造られているからです。神に似ている人間の本能が、すべての人間の心に記された律法となっているからです。

 それと同時に、この心に記された律法だけでは不充分であることも、しっかりと認識しましょう。神に似た本能があったとしても、それが文化や環境によってずいぶんと異なった良心や倫理観になって、時にはとんでもない混乱となり、戦いや争いを生み出しているのです。

 私たちは聖書の重要性をもっとしっかりと理解しましょう。この書物がなければ、人は救いを知らず、行くべきところも知らないままに、永遠の滅びに落ちてしまうのです。でも私たちはこの本によって知っています。私たちには、もはや死もなく、悲しみも、痛みも、涙もない、新しい世界に入れられて、神の臨在のもと、至福の永遠をすごすことになっているのです。

 心の中に律法を持っている人も、この約束は知らないのです。これは、なんの望みも持てないで生きている多くの人々にとって、すばらしいニュースです。喜びと確信をもって教えてあげましょう。





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2013年10月19日

私たちが頼る神



 人間はだれでも神を信じています。たしかに日本人の中には、神なんて居ないという人たちもたくさんいます。でも本当は、誰か、神と呼ぶのがふさわしいかどうかは別にして、誰か、大きな存在者、優しく、恵み深く、気高く、幽玄な誰かの存在を感じながら生きています。神は居ないと言ったりするのは、神という言葉が、あまりにも低級な神々を意味することが多いからです。多くの日本人は、八百万の神々の実在を信じません。たとえそのような神々がいたとしても、信頼することも敬うこともありません日本人が心に感じ、「ありがたいなぁ」と思っているのは、美しい日本の自然の中に隠れておられて、私たちを生かし養っていてくださる、大きなお方だからです。


T. 私たちを造ってくださった神  

その「自然の中に隠れておられる方」を、私たちクリスチャンは天と地をお造りになった方として崇め、とりあえず、ほかに良い言葉がないために、「神」とお呼びしているのです。ほかの神々と混同しないように、天地の創造者と呼んだほうが良いと言う人たちもいるほどです。

 この方は天地をお造りになっただけではなく、人間をも造ってくださいました。しかも、この方の優しい愛の対象として、この方に似た性質を与えられて、幸せに生きるように造られたのです。人間が生まれながら、正しさ、優しさ、公平さなどの美しい性質を持って互いに愛し合うのは、この方の姿を映し与えられたからです。人間は、自分を造ってくださった方の性質を、生まれながらの性質、本能として持っているために、このお方を崇め、賛美し、崇拝し、お慕いしながら生きるのが、本来の生き方なのです。だから、言葉ではどんなに神の存在を否定しても、神々よりももっと大きく気高く強く優しいお方を、本能的に心の奥深くで感じるわけです。その創造者が、人間が生きていくために必要なすべてのものを備えていてくださることを感じて、ひそかに、感謝をささげているのです。


U. 私たちの救いの道を備えてくださった神  

ところが今の人間の中にある創造者に似せて造られた姿は、ひどく壊れて捻じ曲がっています。罪を犯して創造者を裏切り、そのみ許を離れて、悪魔と呼ばれる者の支配に陥ってしまったからです。それで人間は、憎んだり争ったり、欲望の虜になったりしながら、創造者の意図に反して、不幸な生き方をする羽目になったわけです。人間が、一方では善を慕い正義を求めながら、他方では悪の道に走り、他人を傷つけながら、惨めに生きているのはそのためなのです。

 また本来、天地の創造者の愛の対象として造られ、この方の愛を感じて幸せを満喫できるようにされている私たちが、この方から離れて生きることになると、たとえどのような生き方をしようとも、人間としての幸せを感じられなくなっているのです。 

創造者である神は、そのような人間を哀れみ、ご自分の許に戻って人間としての生き方ができるように、「道」を準備してくださいました。それが、イエス・キリストによる救いです。キリストは罪を犯してしまった人間の、罪の刑罰を身代わりに背負って、十字架で死に、人間が罪の刑罰を受けなくても済むようにしてくださいました。それで罪深い私たちが、罪を持ったそのままの姿で、聖く気高い天地の創造者の許に帰ることができるようになったのです。天地の創造者は絶対に聖い方ですが、キリストの身代わりの死の故に、汚れた罪人である私たちを赦し、迎え入れることができるのです。

 私たちをご自分の愛と恵みと優しさの対象としてお造りになったお方は、私たちを暗闇のなかから取り戻して、再びご自分の愛の対象として引き寄せ、多くの恵みを持って取り囲んでくださるのです。


V. 私たちの信頼を喜んで、救ってくださる神  

私たちは創造者である神の独り子、キリストが私たちの救い主になってくださったことを知っています。キリストこそすべての人々の救い主であり、このお方以外に救いはありません。

ところが、私たちはこのキリストを知らなくても、このキリストを信じなくても救われるのです。神のみ許に行くことができ、神の愛の対象として受け入れてもらえるのです。私たちがキリストを知らなくても、天地の創造者、天の父が、キリストと十字架の働きをご存知なのです。私たちは自分の知識や悔い改めによって救われるではなく、天地の創造者の愛と哀れみ、恵みと慈しみによって救われるのです。
  
確かに、キリストを信じる人は救われます。キリストが自分の罪のために死んでくださったと感謝して、キリストに信頼する者は救われます。しかしまた、キリストを知らず、キリストを信じることもなく、罪が何であるかも知らなくても、キリストの十字架の贖いのゆえに、私たちは、神のみ許に行くことができるのです。

聖書は、「アブラハムは神を信じた。神はそれを義と認められた」と語っています。アブラハムはキリストを信じたのではなく、キリストをこの世に送り、十字架に架けられた、天地の創造者であるお方を信じたのです。天地の創造者である神は、キリストの十字架のゆえに、キリストを知らないアブラハムの信仰を受け入れ、義としてくださったのです。


W. キリストを知らない日本人をお救い下さる神 

 日本人はキリストを知りません。十字架も、贖いも、罪も、悔い改めも知りません。そのために、急にキリストの名前を持ち出しては、話がややこしくなるだけで分かってもらえず、受け入れてももらえません。

 ところが日本人は、天地の創造者に似せて造られた人間として、良くは分からないままであっても、目に見えない尊い方、大きな方、恵み深い方を心に感じながら、長い年月を生きてきたのです。ですから、そのお方こそ私たちが天地の創造者とお呼びする方であるとお話し、もう少しだけ分かってもらえれば良いのです。

 日本人も、理屈よりは感覚で生きています。天地の救い主の存在や性質を理屈で説明するよりも、心に感じている本能に訴え、私たちの優しさや正しさや美しさは、この方に似せて造られたものだと、お話してあげるのです。私たちは外国の神を紹介するのではなく、日本人が昔から感じ、良くはわからないままにも感謝をささげ、祀ってきた神を、もう少しはっきりと知り、自分のうちに残っている本能をもっと働かせて、この方に信頼して生きるようにお話しすればいいのです。幸せに生きるようにと自分を造ってくださった方に信頼し、感謝を持って暮らせばいいのです。そうすれば、天地の創造者は、昔アブラハムを義として受け入れてくださったように、今生きている日本人も、義として受け入れ、大きな祝福で取り囲んでくださるのです。

 
X. 日本人の罪を赦してくださる神 

 日本人の罪は、律法(旧約聖書)を与えられたユダヤ人の罪とは少しばかり違います。日本人は、自分たちを造り、必要なものをすべて備えてくださった方を、心の深いところで感じてきました。でも、よく分からないために充分に感謝をすることもなく、捧げるべき礼拝も怠ってきました。それが日本人の罪です。多くの恵みをいただきながら、それを当然として、与えてくださったお方をないがしろにし、無視し、忘れてしまい、このお方が意図された生き方をしてこなかった罪です。一言で言うと、日本人は、造り主である神に大きな不義理を重ねてきたのです。

 日本人がこのことに気付き、素直にお詫びをし、これからは、造られたものとして、お造り下さった方を崇め、感謝し、信頼しながら生きていきますと祈るならば、天地の創造者である神は、日本人を赦し、日本人のうちにある神の姿をさらにはっきりとさせ、ご自分との交わりの中に入れて、新たな命を与え、永遠に生きるものとしてくださるのです。

 神との交わりを取り戻すために大切なのは、天地創造の神についての深い知識や、キリストとその働きについての高度な理解ではありません。神は計り知れなく深く高い方、大きく複雑な方です。小さく有限な人間の頭で把握できるようなお方ではありません。それなのに、あたかも人間の頭脳が無限であるかのように、神を知り、キリストを理解することが重要であるように教えた、西欧周りのキリスト教が間違っているのです。

 神についての知識も、おいおいと深まってきます。キリストについての理解も、だんだんはっきりしてきます。しかしまず、この神に信頼することが大切なのです。知らなくても、分からなくても信頼はできます。私たちはいつもそのようにやってきました。子供の頃、父や母を頭で理解することはありませんでした。信頼して体験を積んで、さらに信頼を深めたのです。結婚をしたときも、相手のことをことごとく調べつくし、完全に理解して結婚したのではありません。分からないけれども信頼したのです。それが結婚です。結婚できる人は、天地創造の神も信じることができる人です。









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2013年10月11日

福音を福音として聞いてもらえるように


                                2013年10月10日
                                 西九州伝道所
                                  佐々木正明
missionofg@hb.tp1.jp

言うまでもないことですが、私たち日本人は、聖書の世界から見ると異邦人です。聖書は、直接的にはユダヤ人(イスラエル人)に対して書かれています。新約聖書のある部分は、異邦人も含めた当時のクリスチャンたちを対象に書かれていますが、それらの異邦人はかなりユダヤの文化に同化した人々で、クリスチャンになる前からユダヤ人の神を崇め、旧約聖書、つまり、律法になじんでいました。現代の日本人のような完全な異邦人は、聖書の読者としては想定されていないのです。ですから、私たち日本人が聖書を読んで、その本質的なところを理解することは、至難の業なのです。聖書を持っていない異邦人に、聖書さえ与えれば何とかなると、単純に考えるのはとんでもない間違いです。

 一方、多くのクリスチャン、特に西欧のクリスチャンたちが、自分は異邦人であるという自覚を持っているというのは、むしろ稀なことです。あたかも自分たちに対して書かれているかのような感覚で、聖書を読んでしまいます。そのために、異邦人に対する神の取り扱いについては、ほとんど無頓着になっています。たとえ、自分たちは異邦人であると知っていても、自分たちは血筋においては異邦人であっても、信仰においてはアブラハムを父とする、霊的なイスラエル人であるという神学をもって、納得してしまっています。

 神を知らない民族、神がご自分を現してくださらなかった民族、聖書が与えられなかった民族についての神の取り扱いなどに、ほとんど興味が及ばないのも無理はありません。しかし私たち日本人は、イスラエル人のような神の自己顕現を拝することはありませんでした。神の救いも体験していません。聖書も与えられていません。霊的なイスラエルにもなっていません。

 イスラエル民族は神の救いのご計画を教えられ、救い主を与えられ、救いに至る道を教えられていますが、日本人は何も知らないのです。このような日本人、あるいは世界中に非常に多く存在している、日本人のような神を知らない民族に対して、またその中の一人ひとりに対して、神はどのようなご計画をお持ちなのでしょうか。

 ユダヤ人から始まった福音宣教の原理によれば、福音は全世界に宣べ伝えられ、全世界の人々が天地創造の神の前で膝をかがめることになるのですが、福音を聞く機会がなかった人たちはどうなるのでしょう。福音を聞いても理解できなかった人たちはどうなるのでしょう。音として福音を聞いたとしても、その内容が理解できない形でしか、聞くことができなかった人たちはどうなるのでしょう。チャバカノ語(スペイン語化したフィリピンの部族語)の福音を聞いても、日本人にはわかりません。高等教育を受けた人が使う専門用語と、哲学的思考で語られた福音は、同じ日本語であっても無教育の八っつぁん熊さんには理解できません。

 使徒パウロは異邦人への使徒として、異邦人の神学の基盤を敷いた人物です。とはいえ、パウロが接触した異邦人は、現在の日本人のような、まるっきりの異邦人ではありませんでした。確かに彼は異邦人の地に入り、異邦人に福音をもたらす働きをしています。しかし彼自身が直接、まったくの異邦人に福音を語ることはごく稀でした。彼がやっていた方法は、大都市にあるユダヤ人たちの会堂に入って、そこに来ていたユダヤ化した異邦人たちに福音を語ることでした。そこで信仰をもった異邦人を通して、結果として、より広い異邦人世界に福音をもたらすことになっていたのです。

 言い変えると、パウロは異邦人の神学の基礎はすえましたが、その上に建物を建てるまでには至っていないのです。その建物を建て上げるのは、私たちのように、完全な異邦人世界から天地創造の神を信じるようになったクリスチャンです。自分たちは異邦人であるという自覚の上に立った、クリスチャンたちの、まだ救われていない同胞への一途な愛が、それを成し遂げさせるのです。世界中の大部分の人間は異邦人ですが、まだキリスト教の力が弱い日本でこそ、この異邦人のための神学が構築されるべきだと感じますし、日本人は性格的に、そのようなことができる民族だと思うのです。


T. 神に似せて造られた人間本来の姿をとどめている日本人 (創1:27)

 人間は神ご自身によって、神ご自身に似せて造られました。人間が神を礼拝し、神の栄光を現し、神との交わりを楽しみ、幸せに生きるように、神の愛と慈しみの対象として造られたのです。人間は神に似た霊的な存在として造られ、本能的に神を感じるように造られているのです。

 人間は一人の人の罪のために、罪の世界、悪魔の支配の下に陥れられましたが、それによって神に似せて造られた性質を、完全に失ってしまったのではありません。神に似せて作られた麗しい姿がことごとく破壊され尽くしたのでもありません。確かにある部分は失われ、ある部分は壊れ、捻じ曲げられてしまったのですが、まだまだ、神に似せて造られたもともとの姿をたくさん留めているのです。

 ただ、罪によって神との交わりを絶たれた人間は、命を失い、永遠の滅びを運命付けられてしまいました。神の栄光を受けるに足りないものとなってしまったのです。人間の内に残されている神に似た姿では、神に近づくこともできないし、運命付けられた滅びから免れることもできないために、神の救いを必要としているのです。

 間違ってはならないのは、神の救いを必要としていることが、神の姿をまったく失ってしまったということではないという点です。神の姿に似た美しいものをたくさん所持しているのです。だからこそ、神の救いを必要としている罪人の中にも、ほとんどのクリスチャンには逆立ちしてもできないような、立派な行いをする人たちがたくさんいるのです。クリスチャンと呼ばれる人々より、よほど優れた、正しく、愛に満ちた生涯を送っている人たちも少なくないのです。


U. 日本人を裁くのは聖書ではなく日本人 (ローマ2:12〜16) 

 たとえ神に似せて造られたとはいえ、日本人もアダムの子孫です。永遠の滅びに定められているものです。神に似ているということをもって、その滅びから逃れることはできません。

 ところが日本人を裁くのは、欧米で構築されたキリスト教の教えでも、聖書の教えでも、旧約の律法でもありません。日本人を裁くのは、日本人なのです。日本人一人ひとりの心に書かれている律法です。(ローマ2:14,15) 聖書がはっきりとそのように教えているのです。

 欧米型キリスト教と、それに彩られた日本のキリスト教の大部分は、日本人の宗教を見て偶像礼拝だと断定して糾弾し、神の裁きを語ります。でも、偶像礼拝の罪はイスラエル人に対して語られたものであって、つまり、神の自己顕現と律法を与えられている人々に対しての規定であって、律法を与えられていない民族を拘束するものではありません。旧約聖書を読んでも、イスラエル民族に属さないものが、偶像礼拝のために神の叱責と裁きの対象になっていることはないのです。

 日本人には神に似せて造られた善い性質が、本能として残っています。それは世界中の民族にも言えることですが、日本人には特に顕著です。その善い性質が、日本という文化の中で日本人の良心として、具体的に形作られています。日本人はその本能と良心によって自分を制御し、拘束し、導き、さらに互いを裁きあっています。日本人の中に残されている神に似せて造られた本能は、かなり良く機能しています。

 もう40年ほども前のことで、資料も正確に思い出せないのですが、イギリスの調査会社が、日本人は65パーセントがクリスチャンだという発表をしたことがあります。たしかドイツ人は60パーセントくらいで、アメリカ人は40パーセントほどでした。これに対し、多くの人が「とんでもない、日本人の中にはクリスチャンは1パーセントもいない」と、声を上げました。すると、「日本人の中にクリスチャンが何パーセントいるかの問題ではなく、日本人、あるいは日本の国民の生活、考え方、倫理道徳などすべてを見て、その中に聖書の教えがどれほど定着しているかということなのだ」という答えが戻ってきたのです。律法を持っていない日本人、聖書を知らない日本人のほうが、長い間キリスト教国として聖書を読み、神学を構築してきた大概の民族よりも、聖書の教えに合致した考え方をもち、聖書の教えに調和する生活をしていたのです。

 日本人は、日本人の心に書かれている律法によって裁かれるのであって、聖書の律法によるのではありません。もちろん、欧米人が建てたキリスト教神学や倫理によってでもありません。日本人は互いに研鑽しあって、より良い文化を築き上げるのです。


V. 日本人の本能による神礼拝 (ローマ1:19)

 神に似せて造られた姿を、どういうわけかより良くとどめている日本人は、古から本能的に、栄光の神の見えない永遠の性質を、そのまま認める宗教心を持ち続けてきました。途中から仏教の影響で、だいぶ崩れたところがありますが、いまだに日本人の精神的基盤は仏教にではなく、古来の宗教意識の表現である神道にあります。その神道の大きな特徴のひとつが、偶像を持たないということです。

「ご神体」という言葉があって、あたかも偶像があるかのように聞こえますが、ご神体が偶像として拝まれるわけではありません。たとえば神宮(伊勢神宮の正式な名)に祀られている天照大神のご神体は鏡ですが、鏡が神として拝まれるのではないのです。むしろ天照大神には実体がないのです。つまり姿形がないのです。その実態のない、大きく、奥深く、哀れみに富み、ありがたい神は、万物に宿っておられるという信仰を象徴しているのが鏡なのです。確かに鏡にも神は宿っておられるのです。多くの小さな神社では、米粒がご神体であったり、白い紙であったりしています。だれもそのような物体を拝みはしません。それが象徴している、目に見えない、体で触れることも、言葉で説明することもできない幽玄な存在を、拝んでいるのです。

 日本人は、アダムの罪のゆえに命を失い悪魔の力の下に下ったとはいえ、パウロがローマ書の一章で論じている、人間の愚かな偶像礼拝の罪をあまり犯していないのです。日本人は、被造物を通してご自分について知りうる事柄、すなわち、神の見えない性質、栄光の力と神性を示された神を認め、それを人や獣や鳥や這うものの像に似せて刻むことも、拝むこともしていないのです。

 しばらく前のことですが、かつてアフリカで宣教師をしておられた日本人牧師と、このことについて話し合う機会がありました。その牧師は、アフリカの人々の多くも、宣教師たちによって偶像礼拝者だと決め付けられ、責められていますが、実はそうではないのだ。それは宣教師たちの早とちりだと、説明してくださいました。筆者はアフリカの人々のことは知りませんが、宣教師の早とちりは、異邦人の宗教を見たとき起こしがちな過ちです。最初の印象が、多分、違和感であるためでしょう。

 ともあれ日本人は、神が被造物を通してご自分を明らかにされたことを、しっかりと受け止めて理解し、偶像礼拝の罪をあまり犯していないのです。そのために、神は日本人を、ほかの偶像礼拝者たちと同じように、心の欲望のままに任せられはしなかったのかもしれません。(ローマ1:24) それが、罪の世界で悪魔の支配下に生活しながらも、日本人は比較的高い倫理観を維持し、神の祝福を楽しんで来ることができた理由の一つでしょう。


W. 天地創造の神を紹介する手がかり (使徒17:27)

 日本人の本能的な神観を表現している神道は、非難されたり叱責されたり揶揄されたりするべきものではなく、それを通して天地創造の神を正しく教える、大切な手がかりとすべきです。神道の中に誤りがないというのでも、不足がないというのでもありません。しかし何事においても正しい理解というものは、それに似ているけれども足りない理解、あるいは似ているけれども誤りのある理解を通して、得ることができるものなのです。神道の中の優れた部分、秀でた部分、正しい神理解の部分を大いに賞賛し、それを天地創造の神の姿に似せて造られた人間の、本能的神知識の残留として積極的に認めたらよいのです。

 私たちクリスチャンが信じている神は、ザビエルによって日本人に紹介された神ではありません。明治初期の宣教師たちのスーツケースに入れて、運び込まれたものでもありません。古(いにしえ)から、日本人が心の中に感じ、あがめ、祀り、感謝をささげてきた、懐かしい神なのです。

 ただし、現代の多くの日本人は神という存在を認めません。70〜80パーセントの日本人は、「神なんていない」と言ってはばかりません。そこが日本人の神意識の複雑なところです。日本人が神なんていないというときの神は、いわゆる八百万の神々に象徴される、神話化された神々です。あるいは、ご利益信仰の対象とされる神々です。これらの神々は、単に人間より強い力、不思議な力を持つと考えられた存在に過ぎません。人間が尊び、崇め、礼拝する存在としては、いささか下等で、品位に欠け、力不足なのです。

 たとえば沖縄の南部に、俗にちんちん洞と言われる鍾乳洞がり、男根の形をした巨大な鍾乳石が天井から垂れています。近隣の人々は、昔からこの鍾乳石を繁殖力の象徴として拝んできました。この石自体を拝んできたのか、あるいはその石の中に存在を現している力に頼んでいるのか、外面だけでは定かではありません。そこで、実際に拝みに来ていた子宝に恵まれたい女性たちに聞くと、石自体を拝むのではなく、その中に潜んでおられる繁殖力を持つ存在に、お願いしているのだということでした。ただ、それはあくまでも、そういう力持つと言われているから、お願いするのであって、それを尊敬し、崇め、神として仕えるというのとは、まったく意味が違うようでした。

 神なんていないという多くの日本人は、このような神々を、自然界で最高の存在である人間が尊び崇め、礼拝するべき存在としては認められないと言っているのです。しかしその同じ日本人が、自分の心の奥底にある宗教心、何者かを礼拝し、崇め、尊び、感謝する心を大切にし、たとえ誰が見ていなくても、誰も知らなくても、自分の行動と心を知っておられる方を静かに感じ、その方の存在を頼りに、良心的な生き方をしようと心がけているのです。この、何者かわからない尊いお方を、なんと呼んだら良いのか分からないけれど、「神」という下等な呼び方では呼びたくないために、「神なんていない」ということになるのでしょう。

 日本人の精神的土壌である神道では、この日本人の本能的神意識を大切にしますが、ひとたび、その神意識を順序だてて組織的に説明しようとすると、とたんに行き詰ってしまいます。それで、いささか下劣な神話や民話になってしまうのです。それは人間の想像力をはるかに超えた無限の存在を、有限の人間の能力と言葉で表現しようとする無理が、そうさせてしまうのです。それで神道では、キリスト教がやるような神についてこまごまと説明するようなことはしないのです。日本人にとって神は知的な説明、学問の対象ではなく、尊敬と畏敬と感謝と賛美の対象であり、理解するものではなく感じるものなのです。

 ただ、そのような崇高な日本人の宗教意識、本能の狭間に、形あるもの、見えるものを拝みたいという低俗な欲求が入り込み、八百万の神々になってしまうわけです。万物の創造者である神は、すべてのものを超越し、すべてのものを貫き、すべてのものの内におられ、すべてのものを内に納めておられる唯一のお方です。この崇高なお方の概念から、ちょっとだけずれると、ねずみの中に潜んでおられる、ねずみの神になってしまい、八百万の神々のお出ましとなるのです。

 私たちはこのような神道的な感覚を通して、天地創造の神を紹介することができます。神ならざる神として紹介ができるのです。神という言葉では表現できない尊いお方、天地万物をお造りになった方を示すことができるのです。昔、旧約聖書が書かれ始めたとき、天地の創造者はご自分をなんと呼び、どのように、何も知らないイスラエルの民衆にご自分を紹介すべきか、大いに苦心されたようです。当時の人間が用いていた言葉では、絶対に言い表すことができない崇高かつ幽玄なご自分を、当時の限られた言葉で紹介しなければならなかったからです。結局、まったく不充分ではあったけれど、当時の人々が礼拝対象のひとつとして用いていた、エローヒムという言葉をお選びになったのですが、すぐに、この言葉に新しい説明を加え、その定義を変えなければなりませんでした。そのために用いられたのが、天地創造の物語なのです。日本人クリスチャンが、天地を創造されたお方を「神」という意味不足、内容不足の言葉で表現しなければならず、いろいろと苦労しているのと同じ問題があったわけです。

 アブラハムは、最初、天地の創造者である神についての、ほとんど何も理解していなかったと思われます。そのアブラハムと彼の子孫に対し、神は非常に忍耐深く長い時間をかけて、ご自分の姿を示し、導いてくださいました。異邦人の国日本で、天地創造の神を紹介する私たちも、相当な年月と努力が必要であることを、覚悟しなければなりません。


X. 律法無しに滅びる日本人  (ローマ2:12)

 日本人は律法無しに生きています。律法を持っている国の人々より、結構うまく生きていますし、穏やかな社会を作っています。だからといって、日本人がそれで救われることはありません。律法を持たない日本人は、律法無しに滅びるのです。ただ、律法によって裁かれるのではないということです。律法を持っているものは、律法によって裁かれますが、律法を持たない私たちの同胞は、心に書かれた律法によって裁かれるのです。(ローマ2:14〜15) つまり、神に似せて造られたという本姓、本能がもたらす人間性によって裁かれるのです。

 神に似せて造られた人間の本性は、それを色濃く残しているかどうかは別として、本能となって、あらゆる文化に住む人々に共通して存在するものです。その本能が特定の文化、状況、環境の中で具体的な形を取って人々の心を捉えるのが、良心であると言えるでしょう。だから、この良心が人の心に書き記される律法について証をするのです。日本人はこの良心を鋭くしているのです。

 その日本人に対し、聖書の教えを物差としてはならないのです。むしろ、日本人の本能にある気高さ、やさしさ、あるいは美しさと、出所を同じとするより優れた指針として聖書を語るべきです。日本人の倫理や道徳が、聖書の教える倫理や道徳よりも劣る場合でも、それで日本の倫理道徳を責めたり非難したりし冷笑したりしてはなりません。むしろ、より明確な教えとして聖書を提示すればいいのです。

 旧約聖書の預言者気取りで、日本の社会悪を責めるのは愚かしいことです。預言者の働きはイスラエルの罪を責め、イスラエルに関わりのある民族の邪悪を糾弾することであって、イスラエルとはなんの関わりもない、はるか東の国に住む人々の悪を責め立てることではありません。日本人の規律は聖書から生まれたのではなく、日本人の本能、善を求め、公平を求め、正義を追い、慈しみを追求する、人間の本性、すなわち天地の創造者に似せて造られた姿から、派生したものです。当然、聖書の明確な教えから見ると、劣るところ、足りないところがたくさんあるはずです。それでも、日本人はかなりよい性格を持ち、相当優れた社会を形成してきました。聖書を持つ西欧の国々に勝るとも劣りません。
 
 日本人に必要なことは、聖書によって裁かれることではなく、聖書の教えによって救いを見出すことです。日本人にまず必要なのは、聖書を知ることであり、律法を持っていたユダヤ人のように、律法に記されている罪を悔い改めることではありません。天地の創造者としてご自分を表してくださったお方を知り、そのお方を崇め、そのお方に感謝し、そのお方を称えて生きることです。そのお方の愛と慈しみと力に信頼して生活することです。そのお方の大きな恵みに浴して来ながら、充分な感謝をささげてこなかったことを詫びることです。日本人は、さまざまなところで目に見えない大きなお方に感謝を捧げて来たとはいえ、決して充分な感謝ではありませんでした。日本人は恩を感じていながら恩に報いる心を持たず、感謝する気持ちもあまり強くはしていなかったのです。いわば、不義理を続けてきたのです。

 誰にどのように感謝をしたら良いのか、分からなかったという言い訳もできますが、やはり、長い間不義理を重ねて来たことには違いありません。これをお詫びするのです。そして、これからははっきりとこのお方を意識し、このお方に感謝をささげ、賛美をささげるのです。そうするならば、このお方は私たちの不義理を赦し、さらに多くの失敗や間違いや犯罪を赦して、私たちを受け入れてくださり、私たちが本来味わうべき神との交わりの喜びを回復してくださり、再び生き返らせて、永遠の命を与えてくださるのです。

 私たちがキリストを信じて罪を悔い改めて、神に受け入れられるのではありません。それはユダヤ的な表現であり、異邦人への福音がまだ完全には築き上げられていないときの表現であり、西欧キリスト教的な表現です。私たちはアブラハムのように神を信じて義とされるのです。アブラハムは、キリストのキの字も知らないまま、十字架の救いについても聞いたことがないのに、神を信じて義とされました。アブラハムが知らなくても、神がご存知だったのです。私たちの周辺の異邦人もアブラハムと同じように、キリストを知らなくても、キリストが十字架の上で成し遂げてくださった贖いの働きのゆえに、天地の創造者である神を信じて救われるのです。

 
Y. 理解してもらうのではなく、知ってもらう

 福音を福音として聞いてもらうと言うと、すぐに頭で理解してもらうことを想定します。確かにある程度の理解は絶対に必要です。ところが、神はちっぽけな人間の有限な頭で理解できるほど、小さなお方ではありません。また神は、物理や科学の学びの対象ではなく、人格(神格)をお持ちになって、喜び、悲しみ、怒り、慈しみ、痛み、いとおしむお方です。つまり、学びや探求の対象ではなく、お付き合いの相手、信頼の相手なのです。

 幼稚園の先生に3歳児をあずけるとき、先生がいつどこで生まれ、どんな教育と訓練を受け、どんな資格を持ち、どんな賞罰の対象になったかなどということを、くどくどと子供に説明することはありません。ただ、「いつでもこの先生がついているからね。困ったときはこの先生にお願いするのよ。とっても優しい先生だから、心配しないで何でもお話しするのよ」と、信頼すべきであることしっかりと教えます。

 私たちが神を信じるというとき、信仰を持つのではなく、信頼するのです。信頼は付き合いによって生まれます。信頼するごとに応えられて、信頼の度合いを増して行きます。そして幼稚園児が先生を好きになるように、神が大好きになります。慕い、敬い、愛するようになります。

 神について語るとき大切なのは、理屈で神を説明することではなく、たとえ理屈は分からなくても、神とお付き合いを始めるようにお勧めすることです。神に祈り、感謝し、賛美してお付き合いを始め、なんでもお願いして行くことです。神はそれをお喜びになって、いろいろな形でお応えくださいます。理解していなくても、分からなくても、信頼すれば大丈夫。だから福音なのです。3歳児が幼稚園の先生の手を握るように、神の手を握ればよいのです。その信頼が体験的な信仰となって積み重ねられ、その積み重ねられたものが聖書の教えによって確認されることによって、単なる体験的信仰ではなく、聖書の教えの裏づけを持つ信仰となるのです。


結び

 私たちが日本人に向けて語る福音は、日本人に理解され、日本人が福音として聞くことができるものであるべきです。私たちは今まで、日本人に福音と理解されるように、また福音として受け入れられるように、福音を語ってきたでしょうか。ユダヤ人に当てて書かれた聖書を、何の説明もなしに、直接語り、その厳しい道徳や倫理を押し付け、要求してきたのではないでしょうか。神に似せて造られた姿をたくさん残している日本人の、生きる姿を認めてこなかったのではないでしょうか。永遠の神の見えない栄光の姿を、人や獣や鳥や這うものの姿に似せて刻んだり、それらを拝んだりすることなく、見えないまま、触れられないままに残して、畏れ尊び、崇め、称えてきた日本人の宗教観を、理解しようともせずに、一方的に断罪し糾弾し続けてきたのではないでしょうか。 

 大きな反省を持って、福音を福音として聞くことができるように。また、頭で理解するのではなく、心で信頼してもらえるように語りたいものです。





posted by まさ at 06:58| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月05日

人間の内に残された神の姿



 踏み切りで倒れた老人を助け出した女性が、進行して来た電車にはねられて亡くなりました。痛ましい出来事ですが、多くの人たちに感動を与え、自分たちの人生を考え直させました。総理大臣をはじめ政府機関も、いろいろな賞をもって彼女の行為を称えています。

 それで思い出したのは、数年前にホームから落ちた日本人男性を助け出して、自らの命をささげた韓国人の青年のことです。韓国と日本の関係がギクシャクしている中での美しい行いに、多く日本人も心を打たれました。今回、遅ればせながら、この韓国人男性にも賞を贈るべきではないでしょうか。


T. 神の姿に似せて造られた人間  

 これらの出来事でわかるように、すべての人間には美しい心が宿っています。福音派の神学では、救いの必要性を訴えるために、人間の心の醜いほう、罪深いほうだけを強調し、人間に与えられている素晴らしい性質、神に似た性質に目をとめることはありませんでした。確かに人間は罪のために堕落し、神の認識さえ失いかけています。とはいえ、神様に似せて造られた人間の性質のすべてが失われたのでも、破壊されたのでもありませんし、神についての記憶のすべてをなくしてしまったのでもありません。自分を犠牲にして他人を助ける、神的な美しさが残っているのです。

 人間の神意識も、罪のために確かにあいまいになりました。その知識で救いに到達することはできませんし、正しい礼拝も困難なのは事実です。とはいえ、人間の神意識には多くの真実が含まれています。それらすべてを「偶像礼拝」の一言で退けてしまうのは愚かなことです。正しい神知識を与えられたイスラエル人が、いつまでも偶像礼拝をしていて、厳しく叱られているのは当然ですが、たとえば日本人のように、旧約聖書を読む機会もなかった人たちが、偶像礼拝者としてイスラエル人と同じように糾弾されるのは、神のみ心ではありません。むしろ、日本人の中に残っている神の姿に似た部分、神を正しく記憶している面を高く評価すべきです。

 クリスチャンが少ない日本という国が、世界でもっとも穏やかでそれなりの発展を遂げているのはなぜでしょう。より多くの日本人が、神に似せて作られた姿を色濃く留め、清く正しく良心に恥じない生活をしようとしているからです。たとえ誰にも知られず、だれにも見られていなくても、誰かがご存知で、誰かが見ていてくださっていると感じて、人を慈しんで平和に生きることを大切にしているのです。

 日本人の素晴らしさは、見えない神の栄光の姿を、見えないままに崇め、見える偶像を作ろうとしないことです。そのために、神の厳しい刑罰が緩和されているのです。(ロマ1:18〜32)ご神体と呼ばれるものでさえ、実体を持たない神が宿っているものという意味で、いわゆる偶像ではないのです。


U. 神に似た姿に訴える伝道  

 日本人の多くは神の存在は否定します。しかしその場合の神は八百万の神々、馬鹿馬鹿しい偶像の神々です。自分の心の奥深くで感じている目に見えないお方、自分を見ておられると感じているお方は否定しません。その存在を本能的に感じ、その感覚を大切にしているのです。

 私たちはその日本人の宗教的感性、宗教感覚を大切にし、それを通して天地の造り主であるお方について話し、このお方に感謝しこのお方を崇め、このお方のお喜びになる生き方をしようと、勧めればよいのです。日本人も多くの民族と同じように、感性を大切にします。理性的だというのも事実ですが、多くの日本人は理性よりも感性を最初に持ってきます。ですからこれまでのように、神がどうだ、キリストがああだ、十字架の意味はこうだ、罪は、購いはなどと、理詰めで話していては拒絶されてしまうのです。日本人も、心の底に大きな存在者を感じているのですから、その感覚を大切にして、それをもっと鋭く鮮明にしてあげるといいのです。

「あなたが心の奥深くで感じ、大切にあがめ、感謝をささげてきた、名前も姿も良くわからない方こそ、私たちが信頼しているお方で、私たちを造り、命を与え、あらゆる良いもので囲んで、生かし続けてくださったお方なのです」と、紹介し、「このお方に、生かされていることを感謝し祈りをささげましょう。感謝が少なすぎたことをお詫びしましょう」と、一緒に祈り、祈りを導いてあげればいいのです。たとえわずかでも、本当の神を感じながら、あまり感謝もせず正しく礼拝しようともしていなかったことが、最大の罪なのです。それをお詫びして、神との正しい関係にはいることが正しい悔い改めです。悔い改めの祈りをするとき、神は私たちを許し、受け入れ、さらに豊かな恵みで覆ってくださるのです。

 理屈で神を理解させることを後に回し、まず、神を感じるように、体験するように導くのが大切です。


V. 神の姿を回復する教育  

 クリスチャンの成長というのは、自分から失われていた神の姿に似た部分を、神の助けによって少しずつ取り戻すことです。聖書を学ぶことは非常に大切ですが、聖書がなくてもできることがあります。自分の心に残されていた良心に聞き、良心の基になっている本来の人間性、つまり神に似た性質に照らして物事を判断し、その判断に従うようにすることです。人間のうちに残されている、すばらしいもの、神の姿に似た部分を大切に用い、生かして行きましょう。

 とはいえ、人間の良心はしばしば環境によって支配され、絶対の基準にはなり得ません。残っている神に似た性質も一様ではありません。そのために、正義感、愛、哀れみなどに大きな差が生まれ、罪悪感にも多きな違いが生じるのです。だからこそ、私たちはしっかりと聖書を読み、学んで行かなければなりません。聖書こそが基準だからです。

 とはいえ、聖書を間違って読んでいたのでは、基準にはなりません。正しく読めるように、学びと訓練が必要です。さらに、聖書を正しく理解すれば良いというものでもありません。正しい行動、正しい生き方にならなければ、死んだ知識で終わってしまいます。聖書の正しい理解にしても、それに立って生きることにしても、聖霊の助けなしには決してできるものではありません。そこに、必死の祈りが必要となるのです。クリスチャンの成長は祈り、神への信頼にかかっているのです。

 神に信頼し、祈りによって力をいただき、神の姿を回復していく中で、クリスチャンは、本来の人間に与えられていた、神との交わりの素晴らしさ、最高の幸せを取り戻すのです。







posted by まさ at 10:37| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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